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【姉の無念死】【子の人権】あの日のこと

 すみれへ
 いつかあなたが、自分は母親に愛されていたのか、本当は何があったのかを知りたくなった時のために、この記録を残します。
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 ――私の姉は数年前、小学生の一人娘を残し、45歳で天国へ旅立ちました。
 姉は闘病中に子どもと引き離され、夫(子の父親)に対して面会交流の調停を申し立てましたが、調停は遅々として進まず、ようやく「母と子を会わせること」という審判が下った直後、力尽きて亡くなりました。母子が引き離されてから2年2カ月。「子が不幸と言うよりほかはない」とは、すみれの置かれた状況を客観的・総合的に判断した裁判官の言葉です。ありがたいと思う半面、やりきれなさも感じました。

 詳しい経緯は別記事に譲りますが、もし読んでいただけるのであれば・・・↓↓↓

【前編】姉がなぜ子どもと引き離され、どんな経緯で調停を申し立てたかの話はこちらから↓↓↓

 
【後編】裁判所が「母と子を会わせること」という審判を下したにも関わらず、面会交流が叶わないまま姉が亡くなった経緯はこちらから↓↓↓

 
 ――そして今日の記事では、姉が亡くなった、その日の出来事を記します。

 大切な人の死に目に会えなかった時、事情がわからない時、多くの人がこう尋ねると思います。最後はどんなふうでしたか? と。知ることが救いになることがあるからでしょう。姉の最後はこうでした。ちゃんと愛のある親と子を引き離すことの残酷さについて、それを伝える一助になればと願っています。

 誰にもこんな思いをしてほしくありません
 
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 ※文章の性質上、姉は皆川梨花子、妹である私は進藤沙世子という名前で書いています。姉の娘は「すみれ」です

※数字や名前は架空のものが混在していますが、ほぼ実話です

あの日のこと ―壮絶な闘いと穏やかな死―


  平成29年(2017年)9月下旬。
 その日は、吸い込まれるような秋晴れだった。その場所は、姉が最後に住んでいたS市の実家近くにある総合病院だった。
 「少しでもすみれの近くにいたい」と、病をおして一人暮らしをしていたM市。体がもたなくなってそこから実家へ戻ってきた姉は数日後に入院し、たったの入院3日目で息を引き取った。肺に溜まった水が増え、M市の病院でも何度か行ってきた応急処置的な水抜きも難しくなり、最後は呼吸も苦しくなって意識を失った。

 これは、入院1日目のやりとりだ。
【姉からLINE】先生が沙世子に話したいって。明日とか来れる?
【私からLINE】わかった。昼過ぎなら行けるけど先生の都合もあると思うから、指定の時間があるなら聞いてみて
【姉からLINE】なるはやがいいみたい

 「なるはやがいいみたい」以降、LINEは途絶える。私が送ったものにも既読がつかなくなった。

 その日の夕方過ぎ、看護師から携帯に電話があり「梨花子さん、意識が低下しています。先生からお話があるので、沙世子さん明日何時に来られますか?」と聞かれた。 

 「ご家族と話したい」と主治医に言われ、姉が名前を出したのは同居する両親ではなく私だったようだ。看護師に「明日できる限り早めに行きます」と伝えたが、私はもう、なんだかすべてが怖かった。覚悟なんてできてない。ただ看護師が「ご両親は病院にずっといらっしゃいます」と言ってくれたので、それだけは安心材料として受け取った。

「起き上がれない状態で会っても意味ないし」


 入院2日目。朝、夫と子ども達をおくりだした私はすぐに電車で隣町の病院へ。到着し、急いで病室へ向かうと、姉は酸素マスクをつけられ個室のベッドで横になっていた。
 息は、荒いというよりも深く一生懸命、全身の力を振り絞って呼吸している感じだ。けれど肺に水が溜まっているので酸素が体に入っていかない。苦しいのだろう。「お姉ちゃん沙世子だよ」と声をかけると、少しこちらを見てくれた気がした。手を握ることしかできない。両親は、そんな姉妹を見つめながらただ黙っていた。

 やがて看護師に呼ばれ、主治医からの説明を受けに別室へ。「沙世子だけでいい」と姉はLINEに書いていたが、そういうわけにもいかない。死の床にあってもまだ両親(特に父親)を許していない姉だった。らしいと言えば、らしい。

 「今晩・・・という可能性もありますし、このまま数日間という可能性もある」という話を、主治医はしてくれたと思う。
 「もし危篤状態になった場合、延命措置はしますか?」と聞かれると、父が静かに「必要ありません」と答えた。そうだろうなと私も思う。

 もともと本人も言っていたのだ。「すみれに会えた時、私がベッドで、もう起き上がれない状態なら意味ないし。一緒にご飯を食べて、一緒にゲームしたりして、笑って、抱きしめたいから。そのために調停やってる」

 だからわかってはいたけれど、医療面からも実感がやってきて、もう間に合わないのだと、ただ悟った。

 すみれ今頃どうしてるかな。小学4年生だし、ふつうに学校で授業を受けているだろう。これから給食かもしれない。たぶん、ママが危篤だということも知らされていないはずだ。パパには・・・姉の夫の秀樹さんには昨晩、父が電話で現状だけを淡々と伝えたらしい。夫は、わかりました、とだけ言ったという。

余命ゼロになってから半年過ぎていた

 
 説明が終わり、「何かご質問はありますか」と主治医が言ったので、私は「あのう・・・余命宣告の時はたいへんお世話になりました」とお礼を言った。
 実は姉は、通常ではありえない形――そしてまったく予期していなかった形で余命宣告を受け、そのことで主治医や看護師に相当な手間をかけていたのだ(このことは、またいつか書こうと思う)。

 主治医は一瞬、ちょっと驚いたように目を見開いたが、すぐに何のことかわかったらしく「いいえ、私は患者さんの味方ですから」と静かに言った。

 それで私は泣いてしまった。

 姉は何から何まで規格外の患者だったことだろう。余命宣告の直後に「引っ越します」と宣言し、M市の病院とこの病院とで姉のために連携をとることになったり、その他いろいろ逸話を残したと、担当看護師から後になって聞いたりもした。

 病室に戻った両親と私は、姉の様子を見守る以外、なすすべがなかった。コーヒーを買って飲んでみたりもしたが、ほかに見つからない。お見舞いとか看病とか、そんなレベルをとっくに越えている状況だったのだ。

 けれど冷静になって考えれば、実際には余命ゼロとなってから半年近くが経っていた。
 「長くて3カ月」という余命宣告が平成29年1月。
 すぐに準備をして2週間後に姉はすみれの住むM市へと旅立ち、家庭裁判所とウィークリーマンションと病院を行き来する生活を8カ月。
 主張が全面的に認められて、裁判所が「母親の病状を考えてもすぐに面会交流を」という審判を下してくれたにも関わらず、相手方が即時抗告をしたことがわかって絶望した姉を、心配した従兄が実家へ連れて帰ってきてくれたのが9月中旬。
 そして数日後に入院。そして今日。

自ら育てた子以上に心を揺さぶる相手はいない


 ――今日これからどうしよう、と私は思った。
 いずれにしてもいったん帰らなければならない。やることがたくさんある。連絡しなければいけない人も。
 姉の手を握り、「また来るね」と声をかけ、病室をあとにした。たぶん冷たい妹だ。

 姉は私にもっといて欲しかっただろうか。いや、それほどでもないだろう。だって私はすみれじゃないから。姉は私に言うはずだ、あなたはやるべきことをやって、と。

 姉はこの2年間、私に対して情緒的なことよりも実務的なことを求めた。心配するくらいなら、私のことを記録してほしい、記憶してほしい、と言ったのだ。それに私自身、同じ親として自分が育てた子ども以上に感情を揺さぶる相手はいないと感じていた。

 だから私が今ここで涙ながらに姉の手を握っても、すみれに会えない以上、姉はそのくらいで喜んだりしない。「あなたはあなたの子どもを育てなさい」と姉はよく言っていた。

 ――この時、病室を後にしたことは後悔していない。けれど、この選択が結果的に姉を直接看取れなかったことに繋がった。
 いてあげればよかったのかと今でも思うことがあるけれど、考えたって仕方ない。

みんなに伝える役割の辛さ


 電車で1時間かけ、隣町であるA市の自宅へ戻る。
 このとき私の2人の娘は、小学2年生と幼稚園の年少組。帰るのを待つ間、姉の面会交流調停を担当してもらっていた弁護士、神崎先生の事務所へ電話を入れた。
 弁護士は不在だったが、姉が書類のやりとり等でお世話になっていた事務員の野原さんに、姉が危篤状態だと伝える。もう自分で何かをできる状況にないから、調停もストップしてほしいこと、支払いの残金があれば知らせて欲しいことも話した。

 野原さんは驚いた様子だったが「弁護士に伝えて、またお電話します」とのこと。
 そしてその後、姉の親友である佐恵さんにも電話を入れた。佐恵さんは、姉を心配して何度も飛行機に乗りM市に通ってくれた人だ。「私今日、病院に行って梨花子をいっぱい励ましてくるからね」と言ってくれた。

 ――息をつく。あとは何をすればよいのだろう。

 午後3時を過ぎ、子ども達が帰ってくると、私は急に途方に暮れた。
 「大好きな梨花子伯母ちゃんのこと、どう伝えたらいいだろう」と胸が痛くなったが、その気持ちをいったん隅に追いやり、気力を振り絞ってお知らせのプリントを見たり、宿題をみたり、いつも通りのことをする。夫にも、姉の容態についてLINEを入れた。私の友人数人にも、現状を伝えておく。

 私がまだ冷静でいられたのは、姉のそばには両親がいる、ということが大きかった。

 姉は、「私とすみれが引き離される時、父母が味方してくれなかった」ことを(特に父に対して)ずっと怒っている。けれど母とは、なんだかんだ言いながらも最後まで普通に会話していたし、一緒に料理もしていた。
 母がそばにいることは、ベッドの上の姉も理解していることだろう(父の本音は数日後、葬儀の席で聞くことになる)。

 ――思えば両親も、病室でそれほど取り乱した様子はなかった。

「思いのほか穏やかな死」に安堵しているんだ


 私と両親は、これから姉が、娘が死にゆくことに対して、泣き叫んだり、立ち上がることもできないほど落胆したりはしていなかった。他人が見たら、何かが欠落した家族だと思われたことだろう。
 
 それはこの1年がそういう感情を全部そぎ落としてしまうほどに大変だったこと、3年前に病気が見つかってから覚悟してきたことが大きいからだったが、それだけではない。

 「思いのほか穏やかな死を迎えられそうだ」ということに、安堵しているのだった。

 皆川梨花子は病気で亡くなる。いわば覚悟の病死だ。故郷の街で、私達家族に見守られ、信頼を寄せている病院スタッフから真摯なケアを受けて、ベッドの上で。

 どんなに痛くても苦しくても、最後まで鬱状態にもならず、錯乱もしなかった。ギリギリまで一人暮らしをしていた部屋で孤独死や変死に至ることもなく、私達の手の届かないM市の病院で最後を迎えることもなかった――母が何より心配していたことだ。

頑張って生き抜いた1人の女性として

 
 母は、何があっても最後は自分が看取ろうと考えていた。病気の姉がフラフラ歩いてM市で事故に遭わないか、孤独と恐怖から死を選んだりしないかも心配していた(自殺だけはない、と私は断言していた。姉は最後まで生き抜く人だから)。

 「私がお姉さんの立場だったら、夫のこと許せない。絶対に何か復讐してから死んでいく」と、子どもを持つ何人かの友人に言われたが、姉はどんなに夫を恨んでも、曲がったことはしなかった。調停が姉の正義だったし、時間はかかったが結果も出せた。ただ肉体がもたなかっただけだ。

 ――だから、天国に行けるだろう。
 頑張って生き抜いた一人の女性として、人生を終えることができる。私達の誰も特別な信仰は持っていないが、なぜかそんな考えが少なからず救いになっていた。

 いずれにせよ、まともな精神状態ではなかった。「あの時は普通じゃなかった」というのは、たぶんこういうことを言うのだろう。なんであれこの3年はキツすぎた。許容範囲を超える事態が後から後からやってきて、両親も私も、自分が壊れないようにするだけでも精一杯だったのだ。

「8時50分だった」

 
 翌朝、5時に目覚めて携帯電話を見たが、特に誰からも着信はなかった。少し安堵し、いつも通り夫と子ども達を送り出した直後、8時頃に病院から電話があり、看護師が「早めに来ていただいたほうが・・・」と静かに言った。
 念のため、両親はどうしているか尋ねると、父は夜に一度帰宅したが、母が一晩中姉に付き添って、今も病室にいるとのことだった。

 すぐに準備をして、最寄り駅へと向かう。ホームで電車を待っていると、父の携帯から着信があった。ドキリとして、思わず時間を確認する。
 9時過ぎ。

 「もしもし」覚悟を決めて出ると、「沙世子かぁ」といつもの声がした。  
 「いまどこだ?」
 「うちの近くの駅のホーム。いまそっちに向かってる。お姉ちゃん、どうなの?」と聞くと、「・・・8時50分だった」と父が言った。
 「・・・わかった。10時半くらいに着くと思うから」と言って切る。

   まもなく電車が来たが、うまく実感がわかない。

 1時間後、実家の最寄り駅に到着。病院は駅から徒歩15分程度の場所なので、歩いていると、今度は神崎弁護士の事務所から着信があった。昨日、姉の容体を伝えた事務員の野原さんからだ。

 「お忙しいところすみません・・・昨日お問い合わせいただいた弁護料の件ですが、確認したところ、残っている金額はないとのことでした」
 事務的な内容ではあったが、こちらの心情を気遣ってくれているのが伝わってきた。
 もしかしたら支払いは少し残っていた可能性もあるが、配慮してくれたのかもしれない・・・そう思わせる温かさを感じた。

 そして妙な言い方だが、この電話はある意味絶妙なタイミングだった。
 私はこちらから電話をかけるには辛すぎる内容を報告した。

 「ありがとうございます。じつは先程連絡があって・・・姉が今朝、亡くなりました。8時50分でした。今病院に向かっています」
 泣くつもりはなかったが、最後は涙声になった。電車も淡々と乗ってきたのに、人と話していたら急に涙が落ちた。
 「えっ」とさすがに驚いたようだったが、それでも野原さんは「わかりました。弁護士にも伝えます」と静かに言ってくれた。

 ――深呼吸する。気持ちを整えながら歩き、病院に着いた。

本当によく頑張ったし、ものすごく立派

 
 正面玄関から病室までの廊下やエレベーターは昨日も歩いた道筋だが、昨日の私は入院患者の家族で、今日は遺族だな・・・とどうでもいいようなことを思いながら歩く。
 すれ違う白衣のスタッフに会釈をする気力が湧かなかったのは初めてだった。

 病室に着くと両親が待っていた。2人はもう泣いていなかった。

 私の顔を見ると、母がそっと、ベッドに横たわっている姉のほうを向いた。病院側の配慮で、「妹さんが到着されるまでこのままにしておきますね」と死後の処置を待っていてくれたらしい。まだ顔に白い布が被せられていないのがありがたかった。

 月並みだが、本当にまるで眠っているかのように、穏やかだった。

 母によると、昨日の夜には意識はほとんどなくなっていたらしい。苦しまないために看護師が点滴していたものはおそらくモルヒネの類で、その作用のせいかどうか、夜はずっと静かだったそうだ。

 薄れる意識のなかで、姉はすみれの夢を見ただろうか。
 母も簡易ベッドで少しだけ眠ったらしい。だから本当の意味で何時何分が「その時」だったのかはわからないが、朝になり、父が到着するのを待って、主治医が時計を確認し、「8時50分です」と伝えてくれたそうだ。

 「本当に、テレビのシーンと変わらなかったなぁ」と父が言った。
 私は姉の髪をさわった。
 よく頑張った。本当にここまで、よく頑張った。あなたは立派。
「お姉ちゃん、もう苦しまなくていいよ。あとのことは私に任せて」
 声に出してみると陳腐なセリフのようだった。

 姉は信じられないくらいよく頑張ったし、これ以上ないくらい苦しんだ。
 悲しみよりも疲れを感じた。約束したように、私は「あとのこと」をこれからたっぷりやらなくてはならない

 父がぽつりと言った。
 「梨花子のやつ、夕べトイレに自分で行こうとして起き上がろうとしたんだよ。看護師さんが『管がついてるのでそのままで大丈夫ですよ』って言ってるのによ、恥ずかしいと思ったんだろうな。梨花子らしいよな」

 ――もっとほかに言うべきことはないのかよこのオヤジとも思ったが、こんな言葉しか出てこなかったのだろう。嫌われ役を引き受けてきた父。なんだか悲しい生き物だと思った。

なかったことにされた愛


 しばらくして父が葬儀会社へ連絡すると、30分ほどで迎えの車が来て、私と両親は姉とともに病院を後にすることになった。

 裏口から姉を乗せたストレッチャーが出る時、お世話になった主治医と看護師が並んで、深く、深く頭を下げて見送ってくれた。
 「本当に、ありがとうございました」と言いたかったが、声にならない。声って、そもそも呼吸がちゃんとできていてお腹に多少力を入れて息をちゃんと流す元気がないと、出ないものなんだ、とまたどうでもいいことが頭に浮かんだ。

 葬儀会社に到着し、葬儀マネージャーという男性と簡単な打ち合わせをする。「小さな葬儀で構いません。いろいろ事情があるので」と伝えた。夫と子どもがいるのですが、来ないと思います――だけど葬儀は「皆川家」になりますよね・・・という内容について、明日以降この担当者とどっぷり話さなけばならない。うまく説明できるかな。

 いったん帰ることになり、「沙世子疲れたでしょう。近いけど駅までタクシー使ったら?」と母に提案されたが断った。

 ひたすら歩きたかった。

 気が付けば夕方になっていた。小学校と幼稚園、近所のママ友さんと夫には連絡したので、娘達のことはなんとかなっているだろう。

 ーー来るべき時がきたら、大切におくりだそうとずいぶん前から決めていた。葬儀も姉と約束した私の役割だ。

 駅に着くとすぐ電車が来た。平日の17時前なので空いていて、なんなく座る。
 ガタンゴトン・・・というなじみ深い振動は、何度も乗っているのに、ひどく久しぶりのような気がした。

 ――私が死んだら葬儀はいらない。遺骨を海にまいてほしい。

 というLINEがきた時、いやぁそれは無理だよと返した。お姉ちゃんはそれでいいかもしれないけど、こっちは寂しいんだから、ちゃんと普通の葬儀にするよ、大切におくりだすから、と書いたら「ありがとう」と返ってきたけれど・・・。
 やっぱり海のほうがいいのかな?

 ーーそんなことを考えながら窓の外を眺めていたが、突然「いや、どっちでもいいな」と思った。

 どっちでもいいんだそんなことは。
 姉の今生は終わった。
 生きてるうちにすみれに会えなかった。
 
 それでなんとなく、心のなかで整理しきれないモヤモヤは葬儀の形式についてじゃない、と思い至った。

 姉の死は確かに、母が心配していた事故死でも、自殺でも、孤独死でも、変死でもない。子どもと引き離されたが、憎い相手に復讐もせず、周囲が心配していたようなトラブルも起こさず、客観的には穏やかな旅立ちだった。

 ――でも、これは無念死だ。

 
 この2年間私は、なかったことにされたひとつの愛を見ていた。
 いや、もしかしたらそれは、ふたつだったのかもしれない。
 

花のような人でした


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涼原永美│子と本を繋げたい*ミステリ&映画好き 読んでくださりありがとうございます✨よろしければスキ、フォロー等を頂けるとさらに嬉しいです🌸チップを頂いた際には主に読書活動にあて、見聞を広げて良い記事に繋げたいと思います📚