短篇小説【沈黙の世界で、犬は吠えるだろう】中編
私が小山内と最後に会ったのは年が明けた1987年の事であった。
漸く体調が回復し退院したという報せを受けて、根岸にあった小山内のアパートを私が尋ねたのは早咲きの梅がちらほらと蕾を開くそんな季節であった。
良く晴れた日で、雲一つない青空が広がる二階角部屋の窓枠に腰掛けてメンソールの煙を気持ち良く吹かしていた私を、煙草を止めたばかりの小山内が恨めしそうに眺めていたのをよく覚えている。
私は新宿にあった小さな出版社に就職が決まっていて、既に使い走りの様な仕事を始めていた時期でもあった。
小山内は仲間内でも飛び抜けて優秀な成績であったにも関わらず、将来の展望には一切の興味を示さず、その頃はニコンを常に首からぶら提げて辺り構わずシャッターを切って回っていた。
通信社に人脈があるらしく、卒業後はフリーで記事を書くと詰まらなそうに言っていた。
その後世界中の紛争地域を飛び回り志半ばで若い命を散らす運命にあった小山内には、どこか自分の短命を予感していた様な節が今思えばあった気がする。
しかしそれも人が重きを置く様な事柄を悉く軽視し、反対に人から打ち捨てられた様な物にいつまでも執着する天邪鬼な性格だった小山内の事を、私が必要以上に敏感に感じていただけの話なのかも知れないが。
その日女物の綿入れを肩から引っ掛けて、熱心にヴァレリーの詩集を読んでいた相変わらず痩せぎすで酷い猫背の小山内を、私は不思議とどこか遠い存在の様に感じていたのだった。
「人が弱っている所にお前がこんな土産を持ってくるものだから、お陰で年明けからずっとこうして俺も本の虫だ」
私はそんな小山内の変わらぬ憎まれ口に安心した。
「この作家の文学などという幻想に安寧しない所が気に入った。その源流たるゲーテにも同じ様に感じ入る所がある」
そしてこの男が自分以上の文才を持ち合わせている事も認めない訳にはいかなかった。
時に文科の新歓コンパなどで、居酒屋の品書きの裏に即興で殴り付けた詩や論文が舌鋒鋭く核心に迫る様な所には、他を圧倒する凄まじさがあった。
私はそれに対し既に嫉妬を通り越した畏敬の念すら持っていた様に思う。
小山内という男にはそんな底の知れない所が確かにあったのだった。
「これ、お前が撮ったやつか?」
座卓に無造作に散らばった白黒のプリントを拾い上げて私がそう尋ねると、小山内はちらとそれを一瞥したきり快気祝いに私が持ってきたオールドをちびりと舐め続けていた。
その仕草には何かを言い淀む時の小山内の癖が見て取れた。
「これ、綾子さんだな。湯島天神か。去年の正月の時の写真か?」
その中から晴着を着た綾子の写真を一枚私が拾い上げると、小山内は矢庭にグラスの中の琥珀色を一気に喉に流し込んだ。
「おい、お前病み上がりなんだから養生しろよ。こんなもの持ってきた俺が綾子さんに怒られちまうだろ」
私は慌てて畳の上のだるま瓶を取り上げた。
「お前それ貰ってくれないか?」
呟く様に小山内がそう言った。
私はその一言でふざけた気分がどこかに飛んでいってしまった様に感じた。どうしてかは分からないが、その時の私は何も聞き返さずとも小山内の言葉の真意が読めた気がした。
「あ?どうして俺がお前の撮った写真なんか貰わなきゃならないんだよ。これそんなに価値が出るのか?」
それだから私はそのままふざけた振りをして切り抜けようと思ったのだった。
「写真じゃない。綾子を貰ってくれないかって俺は言ってるんだ」
どこからか季節外れの風鈴の音がした。
小山内はいつもの、落ち窪んだ目元から真っ直ぐに私の目を睨め付けていた。
「綾子さんは物じゃない。本人の意思というものがある」
私も声低く、負けじと小山内の目を睨め付けた。
「あいつにその気が無ければ、俺もこんな事は頼まん」
そう言って小山内が座卓に勢いよく叩き付けたグラスが、畳を転がって私の足元で弧を描いた。
「俺はあいつを可哀相な人間だと思った事は一度も無い。寧ろ羨ましく思っている。あいつは沈黙の世界で必死に吠え続ける犬なんだ」
この言葉の意味は理解する事が出来なかった。
それは今もって変わらずに私の中で燻り続ける火種の様なものであった。
沈黙の世界とは一体何なのか。
綾子の生きる音の無い世界の事であるならば、それは静寂の世界であるとか無音であると言った表現の方が正確な筈で、しかし小山内が敢えてそう言ったのであればそこには何か特別な意味がある様な気がした。
私は急にオールドの酔いが回ってきた様で、頭に浮かんだ言葉の切れ端を巧く組する事が出来なくて苛立った。
小山内もそれ以上何も言葉を付け加える事無く、結局その日が小山内との最後になってしまった。
そうしてあの言葉の真意を問い質す事も永遠に叶わなくなってしまったのであった。
今も私の書架のヴァレリー詩集にはあの白黒写真が挟まったままの筈だ。
あれから一度もページを捲っていない。
そんな忘れ去られた詩の世界は、もしかしたらあの日小山内が言った沈黙の世界に近いのかも知れない。
何故だかそんな気がした。
*
私の慣れぬ探偵の日々は又もや袋小路へと行き着いてしまった。
長井亮一から得た例の松戸の住所に当時の面影は一切無く、洒脱な高層マンションが江戸川から吹く冷たい風の一切を受け止める様にしてそびえ建っているだけであった。
これで小山内綾子への手掛かりは底を付いてしまったと私は感じた。
余りにも事を起こす機を逸し過ぎていたのだ。
その日の帰り掛け、気紛れに興を得た私は嘗て小山内が暮らした入谷から根岸の界隈をあても無くぶらぶらと散策する事にした。
上野台の高低を足裏に感じながら、墓地や古寺の間をくねる路地を抜け、寒風に思わず身震いする私が漸く当を付けたあの昭和のボロアパートがあったと思しき場所には、矢張り六階建ての堅牢な集合住宅が隣と肩を寄せ合う様にして建っていた。
時が一切を変えてしまったのだと頷くのは詮無い事といえ、微塵の面影も残っていない街の姿に私は改めて溜息を吐いてしまった。
私が日々原稿に垂らすインク染みにも、経年の余波はきっと躊躇などしてくれないであろう。
風鈴の音色が焚き付けた行く末の知れぬこの物語にも、幾ばくかの読者は確かに存在し、見切り連載は既に始まってしまってもいたので、私はどう落とし前を付けたものかと路地に立ち尽くしたまま暫し思索に耽ていた。
その足元に呑気な一匹の黒猫がじゃれてきた。
孤独な探偵にはお誂え向きな相棒だと私は一人ほくそ笑み、その後昔よく通った喫茶店の窓際の席に陣取り飽きもせずに通りを行き交う人々をじっと眺めた。
何か人智を越えた力によって、私の目の前をあの日のままの小山内綾子が行き過ぎないものかと想像しているうちに、頼んだカフェオレはすっかりと冷めてしまっていた。
しかしそれから僅か数日の後に、正にその人智を越えた天啓が私の元に降り注いだのであった。
それは雑誌の編集部に届いた一通の匿名メール、小山内綾子の消息を知るという人物からの便りであった。
彼は嘗て綾子が在籍していた劇団で作家をしていたという事であった。
私の連載中の小説では小山内綾子という名前は当然変えてあるのだが、1986年、本郷の小劇場、三島由紀夫の十日の菊という部分は事実そのままであった。
だからそこまで特定されれば関係者には当然察しが付く。
私は直ぐに連絡の謝意と共に詳細を求める返信をした。
首の皮一枚で四十年の年月が繫がったと思った。
私はそれからの数日間を書架の蔵書を含めた身の回りの断捨離に費やした。次第に歯抜けていく書架の並びを一人眺めては、メールの返信を心待ちにする日々だった。
ベランダの既に土ごと捨ててしまった空の鉢植えの上に、微かな風に揺られた風鈴が相変わらず頼りない音色を散らしていた。
私は夏用のサンダルでベランダに出て、遠くに見える新宿の夜景を眺めながらメンソールの煙を風に吹き上げた。
私が長く勤めたあの小さな出版社は、まだあのビル群の狭間でひっそりと世に脆弱な文学を垂れ流している筈だった。
その微かな燈火も遂に潰えるそんな時分には、私の文学などは既に忘却の彼方であろう。
それでも何とかこの物語だけは語り終えたいと強く思った。
そして東京に少し早い春一番が吹き荒れた週末になって漸く、小山内綾子が三年前の冬まで岩手の介護施設で働いていたという情報を含めた返信メールが届いたのであった。
件の元劇団作家はその後の綾子の消息は分からないと書いていた。
ここ十年の間に実際に顔を合わせたのも一回切りで、長井良一の情報とも一致する彼女の二人の子供はそれぞれに独立して海外と九州に住んでいるとの事であった。
つまり小山内綾子は今は独り身でどこかの街に暮らしているという事だ。
私よりも幾つか年少であるとは言え、既に中年となった小山内綾子を頭に思い浮かべると何だか途端にリアリティが失われてしまう。
私の中では今でもあの強い眼差しを持った、少女のままの彼女が口元を抑えて微笑んでいる。
たとえそれを老作家の未練がましい妄想だと揶揄されようとも、記憶とは土台そういうものだと思う。
手前勝手な虚飾は世の常であり、時代錯誤の三文小説にはお誂え向きなロマンチシズムだとも言える。
私は早速岩手の介護施設に電話を掛け、事情を掻い摘んで小山内綾子の消息を尋ねた。
そして運よく当時共に働いていたという女性から、去年の暮れに届いた年賀状の差出人住所を何とか聞き出すに至ったのだった。
そして老境の新米探偵は、早速その夜旅支度を始めたのであった。
*
駒込の病院以来、私はたったの一度きりであったが小山内綾子と偶然出会っていた。
それは至極意外な場所での事であった。
その日私は厚い雲の垂れ込んだ梅雨空の赤坂草月ホールに、東京の夏音楽祭と銘打たれたピアノのコンサートの為にきていた。
出版社の上役から都合で行けなくなったというコンサートのチケットを譲り受け、私は特にクラシック音楽に興味は無かったのだが、何かの話の種になるかも知れないという様な軽い気持ちで出掛けてきたのであった。
その日の演奏はロシア出身のヴァレリー・アファナシエフというピアニストによるシューベルトのピアノソナタ二十一番変ロ長調がハイライトであった。
そしてそこで私は綾子と鉢合わせた。
私は小山内が根岸のアパートでポール・ヴァレリーの詩集を読んでいた事を思い出し、その夜のピアニストの名が偶然にも同じヴァレリーである事との意味深長な偶然に何か天啓めいたものを感じていた。
そして耳の聞こえぬ筈の綾子が荘厳な調べに目を細め耳を傾けている。
そんな現実離れした情景に私は心を打たれてしまっていた。
人との会話ではその口元を読んで殆どを理解出来ると言っていたが、壇上のピアニストの指の動きからその音楽を理解出来るとは到底考えられない。
しかし私の二列前方に座わっていた綾子の横顔には、流麗な調べに対する恍惚とした表情が溢れていた。
やがて演奏が終りはち切れんばかりの喝采が響き渡る中、私は素早くロビーに飛び出しホールから出てくる群衆の中から黒いドレスを身に付けた綾子を目ざとく見つけ出した。
驚かせない様に至って慎重に、私は右手を大きく振りながら彼女の視界に入る様にゆっくりと近付いていった。
人の波に揉まれ見え隠れする彼女の顔に、やがて喜びの感情がゆっくりと満ちていくのが遠くからでも分かった。
私は小山内のアパートから持ち帰っていたあの白黒写真を密かに何度も見返していた。
その写真には本郷の小さな舞台の上で十日の菊を演じる為に老けメイクを施した彼女の顔にも見られた、そして神田神保町から上野の繁華街まで酔っ払いに付き合ってくれた時の彼女の顔にもあった、親しみやすく得難い気品を湛えたあの柔らかい笑顔が確かに刻まれていたのだった。
私は自分の胸がシューベルトの調べを聴いている時以上に高鳴っているのが分かった。
そうして人垣の僅かな間隙に私達二人は窮屈に向かい合い、その彼女の目には薄っすらと涙さえ浮かんでいるのが見え、私は何も考えずに彼女の両の掌をしかと握りそっと微笑んだ。
ただ会えた事の喜びだけに私は満たされていた。
それから私達はまるで事前に約束を交わしていたかのように赤坂の少し背伸びした高級レストランで食事を共にした。
幾ばくか自分の安月給が頭を掠めはしたが、私には微塵の後悔も無かった。食事中も彼女は私の仕事の話に熱心に耳を傾けてくれていた。
勿論実際には私の声は届いていないが、言わんとする事の全てを理解してくれている事がその表情で分かった。
そして彼女の方からも私に近況を伝えてくれた。
聾学校での細やかな出来事や、劇団の新しい公演に向けた稽古の模様、或いは通信社の仕事で海外に出ている兄から届いた便りなどにも触れていた。
それで私は小山内のあの日の言葉を一人思い出し手に汗を握ったのだった。妹の秘めた想いをウイスキーの酔いに託けて言い放ったあの時の小山内の心中を慮れば、そしてもしあの赤坂の夜にあと僅かばかりの勇気と決意が私にあったならばと考えると、長い時を経た今でも慚愧の念に堪えない思いであった。
あの時の私は余りにも未熟で、そして覚悟の無いただの若者であった。
その後食事を終えて彼女の宿泊するホテルまでタクシーで送り届けた別れ際、何度も振り返って丁寧にお辞儀を繰り返していた彼女の姿を、私はいつまでも忘れる事が出来なかったのであった。
*
東北新幹線は郡山を過ぎた辺りから車窓が白一色となった。
嘗て三十代の頃に取材旅行で一度だけ仙台を訪れて以来、私が関東平野を出て宇都宮より以北の地に足を踏み入れるのはこれが初めての事であった。
世界中を飛び回っていた小山内がこれを聞いたら何と言うだろうか。
私は平生公共の乗り物の中では眠る事が出来ない性分で、車窓を目で追うのにも少し飽きたので持参した岩波のヴァレリー詩集をぱらぱらと捲っていた。
二十世紀のフランスに於いてヨーロッパ知性の代表と称されたポール・ヴァレリー。
この著名な詩人が知性と感性との相剋の内に命を全うしたというならば、私の場合は記憶と小説の狭間で身動きの取れなくなったグレゴール・ザムザの様なものだと頭の中で戯言を捏ねる。
東京駅を出発してから約三時間、既にニコチンの離脱症状の限界を迎えていた私は漸く列車が新花巻に到着するというアナウンスを聞いてほっと胸を撫で下ろした。
北国の寒さは東京のそれとは種が違う様だと小さく独り言ちながら、タクシーで雪景色の北上川を越え市街地のビジネスホテルで取り敢えずチェックインを済ました。
昼飯には遅く、晩飯にはまだ少し早い中途半端な時刻でもあったが、私は空腹にも限界を感じていたので目抜き通り沿いの定食屋に入り瓶ビールと親子丼を注文した。
何の約束も無くここまできてしまった自分の突飛な行動に、呆れる反面どこか胸が高鳴る様な感情も入り混じっていた。
しかし四十年という気の遠くなるような時を経て、この街のどこかにいる筈の嘗ての想い人を尋ねるというまるでメロドラマの様なこの状況に、やや真面目に対峙する事に抵抗を感じる所も私にはあった。
今更彼女と会って何を話すのか。
私の年老いた姿は過ぎた日の記憶に泥を塗りはしないか。
私は招かれざる客なのではないか。
そんな余計な雑念が次から次へと心中に湧いてきて、私は思わずグラスに注いだビールを一気に飲み干し大きく息を一つ吐いた。
この期に及んで詰まらない体裁に拘る自分の不甲斐なさに辟易した。
定食屋の薄汚れた窓には大きな雪粒が斜めに吹き当っている。
とうに枯れ果てていた作家としての私の泉に、こうして細やかながらも確かな水脈を注いでくれたのが私達の1986年だった。
今この風に帆を立て、舳先を流れに向けなければ次の機会は二度と無い。
この四十年で私は今最も彼女の傍にいる筈なのだ。
晩節を汚すと言う程何かを成し得た人生でも無い。
私は丼の中身を勢いに任せ掻っ込み、冷たいビールでそれを胃の腑へと流し込んだ。
*
最初に違和感を持ったのは腹部の張りだった。
新聞の書評などの〆切りに追われ寝不足が続いていた所為であろうと、特にその時は意に介さなかった。
それから暫くして少し体重が落ちた事に気が付いたのだが、それも酷暑が続く夏場であったので気に留める事も無かった。
そして銀杏の落ち葉で街路が黄色く敷き詰められる様な季節になって、胃痛と下痢が続いたのでこの時は流石に掛かり付けの病院で看て貰った。
しかし一通りの薬を処方され大人しくそれを服用していても一向に体調は改善しない。
そうやって漸く自分の身体に何か大事が起きている事に気が付いた私は、重い腰を上げて本郷の大学病院で精密検査を受けた。
そして大腸に癌が見付かったのだった。
ステージは既に4で直ぐに手術、入院と言われてしまった。
私はその時ある程度の覚悟をした。
既に雑誌の連載は始まっていたので残された時間でそれを仕上げられるかとまず思案した。
妙な話だが、恐怖や不安よりもゴールラインが見えた事で視界がはっきりとした心境だった。
私は医師とよく話し合って、僅かばかりの延命の為に自分の意識を壊す様な治療は受けない事に決めた。
そしてその日から周りの世界がそれまでとは違って見える様になった。
惜しむ気持ちが風景に未練を生んだのでは無く、ただそのものの持つ美しさに敏感になった。
一枚の落葉にも、暮れ際の空にも、歩道でうずくまるナメクジにさえも。
更に私はそれまで書けなかった様な文体も手に入れていた。
過分な修飾も、勿体つけた比喩も、先達の引用文などももっての外。
私は物書きとして世に出て以来凡そ初めて、日本語の本来的な美しさに触れられている様な気さえしていた。
連載の内容も大きく変化した。
当初予定していた戦後民主主義教育の荒波に吞み込まれる元軍人の教師を主人公とした歴史小説から、全く話を変えて自伝的な内容とした。
つまりは名前と場所を変えた私と小山内と小山内綾子との、1986年に始まる物語を遺作に選んだのであった。
主人公の初老作家は四十年前に恋慕を寄せた聾の女性を探す旅に出る。
若き青春の回想と現代を行き来しつつ、人生の意味と喜びに至るやや大仰なメロドラマ。
周囲は遂に才能の枯渇から自棄の私小説で見苦しく晩節を汚す駄作を上梓したと揶揄するかも知れない。
しかし今の私には他人の批評など露程も気に掛からない。
文学が誰が為にあるのかなどと考える様な必要も今はもう無い。
ただ最後に自分の言葉で今この瞬間の景色を書き残せる事が、震える程に有難かった。
私は数十年前に止めていた煙草も遠慮なく吸った。
酒も好きなだけ飲んだ。
私の両親は既に鬼籍に入り兄弟も無い。
婚歴は一度あるがそれも子の無い内に死別していた。
私は完璧な孤独であった。
しかしそれが今となっては潔い。
自宅は既に身の回りのもの以外の整理は済んでいた。
蔵書の残りは全て近くの市立図書館に寄贈し、僅かな財産は柄にも無く各慈善団体に振り分けて寄付する様に弁護士と万事手続きを終えている。
ありがちな皮肉だが、いつ死んでも良いという身分になって初めて、私は生きている実感を身体中で感じていたのだった。
私はホテルの窓から表通りの街灯が照らし出す降雪を先程からずっと飽きずに眺めていた。
音を消したテレビにはカーリングの試合の中継が映し出されている。
遠いヨーロッパの都市では冬季オリンピックが開かれているらしい。
それも先程初めて知った。
明日はいよいよ小山内綾子の住まいを訪ねてみようと思う。
手土産に何を持っていけばいいのか見当も付かない。
余りにも長い年月が掛かってしまった。
私の最初で最後の私小説はきっと大きな山場を迎える事になるだろう。
~後編へ続く~
