短篇小説【沈黙の世界で、犬は吠えるだろう】前編
寒々しい白一色のパソコン画面に文字入力カーソルが虚しく点滅していた。
それは私に次なる一文字を執拗に催促し続け、不快な焦燥感を煽っていた。
肺にメンソールの煙をたっぷりと吸入し、私はその点滅の間隙から何かしらの光明が漏れ出てこないかとじっと見つめていた。
とても静かな夜だった。
何年も前から季節に関係無くぶら提げられたままの、硝子の風鈴がベランダの物干竿から微かな音色を届けていた。
石油ストーブを焚いて厚手の上着を引っ掛けていても寒さを感じる季節だというのに、条件反射の様に風鈴の音色は私に茹だる暑さの夏を思い出させた。
特に連載の〆切りが間近に迫るこんな夜には、決まって私の頭には遥か四十年も昔のある夏の日が浮かび上がってくるのであった。
1986年。
本当に遥か昔の事だ。
当時の私は極貧の大学生で、早稲田の風呂無しアパートの二階で日々悶々と潤沢な余暇時間を持て余していた。
学生運動も既に遠い過去の話で、文科生だった私は辻褄を合わせる様に誰に読ませるでもない小説を大学ノートに書き散らしていた。
その年の四月にはチェルノブイリで大きな事故があり、何となく閉塞感が蓋をしている様な時代も手伝って、私は柄にも無い様な啓蒙的な駄文でノートを汚し、安酒を煽っては飽きもせず朝まで友人達と戯れる日々を送っていた。
そして稀に田舎から出てきたばかりの無垢な一回生などを誑し込み、不体裁な性欲を発散した上で、自分が無頼漢にでもなったかの様な気分で以って己を慰む様な最低の男であったのだ。
その当時の同級に小山内という名の医者の一人息子がいた。
栃木で大きな病院をやっているという家の出にも関わらず、文科に入ってくる様な多分に擦れた性格の男であった。
当時皆が我先にと手にしていた村上春樹の中国行きのスロウ・ボートを敢えて酷評する事で、一家言ある男という様な評価を仲間内から得ていた。
私にはそんな小山内の浅薄な性質を軽蔑する様な所があったのだが、他人と不要な衝突を起こす気概もまた無く、何となく暇つぶしの馴れ合いで交際が続いていたのであった。
その小山内がある日私の住むアパートを出し抜けに訪ねてきた。
それは容赦の無い陽光でアスファルトも溶けてしまいそうな灼熱の夏の日であった。
今も目を閉じれば瞼の裏を眩しく照らす太陽の光を感じる。
気が遠くなる様な時間を経ているにも関わらず、あの頃の記憶は私にとって昨日の晩飯よりも鮮明だった。
当時私の部屋の隣には年増の風俗嬢が住んでいて、彼女の部屋のベランダには一年中硝子の風鈴が風に揺れていた。
私は日がなその音色を聞きながらノートに向かっていたので、どうしてもあの頼りない涼やかな音色を聞くとあの夏のあのアパートの情景を思い出してしまうのだ。
メンソールの煙をゆっくりと吐き出しながら、私は半ば自棄の気持ちでこの原稿を今書いている。
とうにアイデアの泉も干上がってしまった様な初老の二流作家にとって、遠い記憶はまるで小説の様なものなのだ。
そう書いてみてふとこんな事を以前にもどこかで聞いた事があった様な気がしてきた。
あれはどこで聞いたのか、或いは何で見たものだったか。
今、私の1986年が白一色のパソコン画面を徐々に幾何学的に埋めようとしていた。
*
小山内は鬱陶しい程に髪を長く伸ばした痩せぎすの男だった。
常に顔色悪く酷い猫背で、落ち窪んだ目元から社会を斜めに睨め付け、口を開けば何もかもを否定しなければ気の済まない様な、極控え目に言っても気持ちの良い人間では無かった。
あの年、チャレンジャー号が打ち上げから七十三秒後に空中爆発を起こせばアメリカの宇宙開発技術の未熟さを論い、アルゼンチンのサッカー選手が手でゴールを決めればそれを徹底的に糾弾し、若い女性アイドルがビルの屋上から投身自殺すれば下品な推測でこれをまたすかさず揶揄した。
しかし小山内という男は他の誰よりも声が大きく頭の回転が速かった。
そういった人間はいつの時代も往々にして輪の中心にのさばるものだ。
人を意のままに動かしてしまう様な所は或いは政治の世界などでは大成したのかも知れないが、人望が薄く敵も多かった小山内には傍で見ていても危い気にさせられる事の方が常であった。
その日の小山内は何時にも増して眼光鋭く、地方三流紙の社説の様な偏った持論を一方的に捲し立てた後で、唐突に面白くなさそうに一枚のビラを私に手渡してきた。
それはどうやら演劇か何かの宣伝チラシの様であった。
「お前どうせ暇だろう。これやるから観てこいよ」
そう言って小山内は尻のポケットからくしゃくしゃになったチケットも渡してきた。
何か魂胆があって担ぐつもりなのかと警戒する私に向かって、小山内は如何にも詰まらなそうに言い淀みながら更にこう続けた。
「妹がお前に観に来て欲しいと言って俺にこれを押し付けてきたんだ。ほら、覚えてるだろう?正月に神保町で会った俺の妹」
私は勿論覚えていた。
三が日で賑わう神田神保町を古本の初売り目当てでぶらぶらしていた折に、偶然女連れの小山内と行き会ったのだった。
小山内は柄にも無い和装姿に髪を撫で付け、和装姿の艶やかな女を連れ初詣の帰りらしかった。
正月早々嫌な奴の顔を見たと私は即座にその場を辞そうと思ったのだったが、小山内がどうしてもと酒に誘ってきた。
気は進まなかったのだが、馳走するからという誘い文句に苦学生の身の私はつい乗せられ、気が付けば日暮れまで燗酒を煽ってしまった。
更にその勢いで岩波ホールで檀一雄の「火宅の人」が映画になっているというので三人でそれを観て、その後にも上野の居酒屋ですっかり出来上がるまで飲んでしまったのだった。
その時殆ど一言も言葉を発さなかった小山内の妹が、幼い頃の大病の所為で聴力を失ってしまっているのだと知ったのは、それから少し後になってからの事であった。
あの日僅かばかりの酒で頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いていた小山内の妹を私ははっきりと覚えていた。
「お前、あの時三島の小説をえらく褒めてただろう。あれを聞いて妹がこの芝居を観せてやりたいって言って聞かないんだよ。時代錯誤にも程があるがな、十日の菊を演るそうだ」
その時私は小山内の言葉に違和感を持った。
耳の聞こえない筈の小山内の妹があの日の私の言葉を聞いてという点に、そして言葉を発する事が出来ない筈の彼女が演劇の舞台に立つという事にも合点がいかなかったのだ。
「ああ見えて強情な女だからな。お前が行かなければ俺が何をされるか分かったもんじゃないんだ。いいか、必ず行けよ」
小山内はそう念推して早々に帰っていってしまった。
私はじっとりと汗で張り付いた肌着の中に団扇で懸命に風を入れながら、手中に残された演劇のチラシの中央で丸枠に囲われた小山内の妹のかしこまった顔の写真を暫く眺めていた。
*
この原稿を書き始めて暫くして、漸く思い出した私は書架から一冊の古びた文庫を引っ張り出してきた。
二つの西洋梨が皿に転がる表紙の、青の差し色が目に眩しい村上春樹の中国行きのスロウ・ボートだ。
記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ていると書いてあったのは、この本に収録されている午後の最後の芝生という作品の一節であった。
この本を四十年前に酷評したあの小山内はもうこの世にはいない。
1986年は私にとって取るに足らない退屈な一年に過ぎなかったが、あの屁理屈が服を着て歩いていた様な痩せぎすの青年は、その後僅か五年足らずの内にアフリカの辺境の地で命を落とす運命にあったのだった。
フリーの記者をしていた小山内はルワンダ内戦の取材中に、あっけなく銃弾に倒れ散ってしまった。
その当時の私は丁度短編小説がとある出版社の新人賞に引っ掛かり、文壇の末席に加わろうとしていた様なタイミングであった。
大学を出てからは殆ど音信不通状態だった小山内の身に起きた悲劇に対して、私は今を以ってしても全く言葉が無い。
人の死に理屈など必要無いのかも知れないが、あの小山内が身を挺してまで私達に伝えたかった筈の何かを、同じ文筆を生業とする人間でありながら言葉に紡げない己の不甲斐なさに私はいつまでも挫けたままであった。
或いはこの一篇の小説が、私に何かしらの言葉を与えてくれるかも知れない。
そんな淡い期待をどこか秘めたまま、静かな夜に響くのは微かな風鈴の音色とパソコンのキーを叩く心許ない音だけであった。
*
あの本郷の小さな劇場に、私が足を運んだのは結局好奇心からであったに違いない。
聾唖者がどんな劇を演じるのか、何か話の種になるかも知れないという邪な気持ちも少なからずあった様に思う。
しかし小山内の事は嫌いであったが、その妹のどこか超然とした佇まいに私は興味を惹かれてもいたのであった。
百人程で既にほぼ満席の劇場の、熱気に満ちた雰囲気を私は今でもまるで昨日の事の様に思い出す事が出来る。
曲がりなりにも文科の学生として新劇の類にもある程度の知識はあったものの、実際に生の舞台を観劇する事は初めての経験であった。
しかも驚いた事にその日の劇の出演者は皆が聾唖者であるという。
そして俄か信じ難い事であったが、結果としてその劇は大成功の内に幕を閉じたのであった。
ヒロインの菊を演じた小山内の妹をはじめ、何人かの出演者は言葉を発する事が出来た。
幾分聴き取り難い箇所があったとしても、全ての台詞が舞台背景に映画の字幕の様に投射されるので物語の理解に何ら問題は無かった。
私はてっきり手話かパントマイムの様な技法に依るのかと勝手に想像していたので、開口一番に小山内の妹演じる菊の長台詞を聴いた瞬間には鳥肌が立つ思いだった。
そして劇が進むに従って益々、演者達の一挙手一投足には尋常ならざる熱がこもってきて、その迫力に私はすっかり圧倒されてしまったのだった。
確かにバブル景気の黎明期に、三島由紀夫の二・二六事件を題材とした戯曲は少し時代錯誤であったかも知れないが、硬派な文学作品を見事に身体表現に昇華したあの舞台には、私にとって未体験の芸術の根源の様なものが確かに感じられたのであった。
そして私はその時小山内の妹が演じたヒロインの菊に、幼少時代に父親に連れられ故郷の映画館で観た、成瀬己喜男の浮雲での高峰秀子を重ねていた。
それ程までにその劇は私に感銘を与えた。
私は何だかそのまま早稲田のアパートにすごすごと一人帰る気にもなれず、劇場の向かいの喫茶室で煙草を吹かしながら楽屋口から小山内の妹が出てこないかと待ち続けた。
しかし結局その日は待てど暮らせど彼女は姿を見せず、仕舞いには突然の激しい夕立に辺りが騒然となり、私は熱くなってしまった頭を幾分か冷やす為に敢えてずぶ濡れになりながら春日通りを丸の内線の駅に向かい走ったのだった。
*
書架に三島由紀夫の戯曲全集を見付けた。
私はメンソールに再び火を点け、ぱらぱらとそれを捲った。
そして十日の菊の長台詞を声に出して読んでみた。
窓が結露する様な真冬の家内が俄かに熱気に包まれた様な錯覚に陥った。
四十年もの年月を越えて彼女の熱演が蘇る。
小説というのは記憶と似ているというのは本当だと私は思った。
あの頃の自分には焦りや不安もどこか他人事であった。
実地も根拠も無い脆弱な自信だけが、まるで茶碗の底に残った米粒の様にしつこく私の胸にこびり付いて離れなかった。
結局ぬるま湯に肩まで浸かったまま、何だかんだと管を巻いて大人になった様な顔をしていた私の、かりそめのプライドを躊躇なく剝ぎ取ってくれたのがあの日の彼女の菊の演技だったのだ。
その事を自分で認められる様になるまでに余りにも多くの時間が掛かり過ぎてしまった。
私は三十代の半ばで幾つかの文学賞を獲り、斜陽の文壇にしがみ付く様にして何とかここまで糊口を凌いできた。
しかし私のこれまでの著作の悉くに、あの本郷の小さな劇場で感じた様な高揚を再現する事は出来なかった。
彼等は互いの台詞を聞く事も出来ず、ただ身体の躍動だけで役の真意を観客に伝えた。
静寂の世界で、圧倒的な孤独に耐えながら自分には聞こえぬ不明瞭な音を口から発するというのは一体どんな気持ちなのだろうか。
幾百もの登場人物の心情を言語化してきた筈の私にとっても、それは想像の範疇を遥かに越えるものだった。
枯れた泉であるならば雨を乞うしか無いのかも知れない。
私は埃を被った卒業名簿を書架の奥底から救い出し、先ずは小山内の実家の電話番号を調べる所から始めたのであった。
*
私が次に小山内の妹と会ったのは単位に問題の無い同級達は大学に殆ど姿を見せなくなってきていた初冬に差し掛かる様なそんな時節の事であった。
例によって暇を持て余していた私の元へ、小山内が肺を病んで駒込の病院に入院したとの報せが唐突に届いた。
平生から間断なく煙草を継ぎ火する様な男だったので、中々病状は改善せずに一時は信州の療養所に転院する様な話が持ち上がる程の大事であった。
私は正直余り気乗りはしなかったのだったが、一度位は見舞おうという気に漸くなって暮れの忙しい中に手土産の岩波文庫を適当に数冊見繕って病室のドアをノックしたのだった。
そしてそこで郷里の栃木から兄の世話の為に上京してきていた彼女と鉢合わせたのだ。
薄く紅を引き、長い髪を後ろに纏めた洋装の彼女は以前よりも随分と大人っぽく私の目に映った。
そして平素の小山内の軽口に私が何かしらの応酬をすると、傍で彼女は口元を抑え小さく笑っていた。
どうやら二人の話す口元を読む事で、会話の内容の殆どを理解出来るという事であった。
私は寝台に半身を起こして次第に言説に熱が入る様子の小山内を尻目に、花瓶の水を替えたり着替えの服を畳んだりと甲斐甲斐しく立ち働く彼女の様子を自然と目で追っていた。
「綾子、こいつは文学なんぞにかぶれていやがるが存外ロマンチストな野郎なんだ。この前のハレー彗星の時なんか一晩中夜空を眺めていた所為で首を酷く痛めたらしいんだぞ」
いつになく上機嫌に小山内がそんな戯言を吐けば、彼女も大きな声を上げて笑う。
私もつい調子に乗って、二回生の時分に小山内が酔っ払って大学のキャンパスにある池に半裸で飛び込み大きな錦鯉を手掴みで捉まえた話を得意げに披露すると、目を丸くして驚いていた。
暫くそんな風に他愛の無い話で笑っていたのであったが、小山内は少し興奮したのか俄か咳き込み始め、それが中々止まずにやがて激しい発作となってしまった。
苦しそうに身を折る兄の背を懸命にさする彼女の姿を見て、私は不謹慎にもその可憐さに見惚れてしまっていた。
自然とあの舞台で演じられた強く美しいヒロインの菊を重ねてもいた。
そんな彼女を普段見慣れた同年代の女学生達などと比べると、その表情や所作にはどこか威厳と品格が備わっている様に見え、それが私には得難き尊さに感じられたのであった。
暫くして漸く落ち着いた小山内は少し眠ると言い力無く目を閉じた。
それを心配そうに見詰める彼女の横顔に、きっと私はあの時既に恋慕を抱いていたに違いない。
しかし今ならそれも素直に認められようが、当時の私は概してひねた男であったので、彼女が聾唖者であるという事に詰まらない拘りを持って自分の気持ちに歯止めを掛けようとしていたのであった。
そうして私が寝台の傍らで手持ち無沙汰に岩波文庫をぱらぱらと捲ったりしていると、すぐ後ろの方から大きく息をすうと吸い込む音が出し抜けに聞こえてきた。
振り向くと彼女は大粒の涙をぽろぽろと頬に這わせ、赤くなった鼻をひくつかせながら私の顔をただじっと見詰めていた。
私は動揺してしまった。
何と言っていいのか全く分からずに、ただ茫然と阿保の様に彼女の顔を見詰め返していた。
四十年も前のほんの数分間の出来事が、まるで昨日の事の様に思い出される。
その時の病室の薬品臭い匂い、薄暗い蛍光灯のちらつき、外の大通りを行き交う自動車の騒音、そして彼女の密やかな息遣い。
全て手に取る様に思い出される。
私はその後の人生で何度もこの時の事を頭に反芻してきた。
あの時彼女に掛けてやるべきだった言葉を探し続けてきた。
そして今、私はそれを書く為に作家になったのだと漸く思い当たった。
白一色のパソコン画面に言葉の雨を降らせ、文字入力カーソルが点滅する暇も無い位にキーを叩き続ける。
その時はまさに今なのだ。
*
漸く探し当てた栃木の小山内の実家の電話番号は不通で、病院も二十年以上も昔に閉鎖されている事が分かった。
同期生で辛うじて連絡の付く旧友にも声を掛けたが、何せ当の小山内本人が既に鬼籍に入る事もあって、その家族の近況を知る者など当然いなかった。
私は当面の仕事に一定の区切りを付け、唯一手掛かりになりそうな縁故に縋るべく、これも三十年近く昔の話になるが小山内の葬儀委員長を務めたとある通信社の元代表という人物と連絡を付けて会う手筈を整えていた。
私は当時小山内の葬儀に参列する事は出来なかったのだったが、参列した同期生の話ではこの葬儀委員長を務めた長井亮一という人物は小山内とは家族ぐるみの深い仲であったという。
彼の住む調布の駅で待ち合わせをし、私達は程なくして駅近くの喫茶店で膝を付き合わせる事となったのであった。
長井は八十手前の年齢とは思えない程に若々しく見えた。
肌艶も良く足腰も丈夫そうで、事の他快活に言葉を発した。
そして有難い事に当時の事も細部に至るまで実に明瞭に記憶してくれていた。
「小山内君の事件は本当に残念な事でした」
長井はそう言うと深い溜息と共に一枚の古びた写真を懐から取り出した。
「これは小山内君の下宿先に遊びに行かせて貰った時に撮った写真です。これが小山内君でこの帽子を被った隣の女性が彼の妹の綾子さんです」
そこには確かに私の知っているあの二人の姿が残されていた。
はにかんだ様なぎこちない笑顔が如何にも小山内特有のポーズのそれで、私は思わずにやりと一人笑みを浮かべた。
還暦過ぎの現在の我が身と、写真の中で永遠に年を取らずに世を斜に構えた表情を浮かべる小山内との格差に筋違いの妬みすら感じる。
今となって思い返せば当たり前の事であるが、あの頃の私達は至って若く、徹底的に未熟で、そしてどこまでも不確かな存在であったのだ。
「実は今日はこの綾子さんについてお尋ねしたくてお呼び立てさせて頂いたのです。私も数回程度お会いした事はあるのですが、疎遠になって久しく近況を知っていそうな方を探しておりまして」
私がそう言うと、長井はまた一つ大きな溜息を吐き、眼鏡の奥の小さな眼を更に細めて消え入りそうな言葉を細々と紡いだ。
そこに先程までの快活さは微塵も無かった。
「ええ、綾子さんですね。私も最後にお会いしたのはもう二十年位前になります。小山内君の七回忌の時には松戸の方に嫁いで御子さんを育てられていると仰っていたのです。それからは時節の便りを送り合うという程度のお付き合いになってしまっていたのですが、私が勤めを退職して隠居生活を始めた折に突然家にお越しになりまして。御子さんを二人ばかり連れてですな、何でも栃木のお父様がお亡くなりになってその葬儀の帰り掛けだとかで・・」
彼女に夫と子があるという事実に私は少なからずの動揺を感じた。
それは至極当然の事であると頭では分かっていても、記憶の中の彼女とどうしても結びつかなかったのだ。
「その時には下のお嬢さんも確か小学生位になっていました。しかし何でも松戸の家とは結局離縁されたとかで。その時は確か小岩の方の貸家に住んでおられると仰っていました。まぁ、あの妹さんも、その・・聾の方ですからなぁ・・。中々ご苦労されたみたいで。栃木の方にも頼れる様な親戚は無かったとかで・・・私も詳しく伺った訳ではないのですが、まぁどうも錦糸町の界隈のそういった店でもって女給の様な仕事をなさっていたそうですなぁ」
長井の口からはそれ以上の彼女の近況は聞けそうにもなかった。
私は得た情報を鑑みて、もしこれより先に進むのであれば手掛かりは彼女が嘗て嫁いでいたという松戸の家しかないと算段を付けた。
幸い長井は年賀状の宛名でその家の住所を知っていた。
私は1986年のあの日から、止まってしまったままだった時間が少しずつ前進している事に高揚していた。
そして私を今こうして動かすものの正体を、自分でもよく理解しないままに道標としている事に不思議な充実感を得ているのであった。
~中編へ続く~
