なぜ、飛鳥に大和政権が誕生したのか、の不思議
私たちは奈良の飛鳥に「大和政権」が誕生したのを知っています。
しかし、どうして飛鳥に、だったのかを考えることはあまりありません。
実際、どの日本古代史を扱っている書物にも、その理由を見つける事は出来ません。まるでそれは「詮索不要」の既定事実とされているようです。
しかし、私には不思議なのです。
素朴に「なんで、こんな辺ぴな奈良の片田舎に誕生したんやろか?」と。
事実、奈良は、今でこそインバウンドで外国人観光客もおとづれますが、それでも基本、京都からは一日観光で奈良公園、東大寺などの付近を訪れるケースが多く、
奈良盆地南部の飛鳥まで足を伸ばす人は少ないのです。
日本列島を俯瞰した場合、現在の奈良県は、紀伊半島の真ん中で、四方を他府県に囲まれた内陸県です。
その紀伊半島自体も、日本列島の体幹から外れた、
言わば「お尻」のような位置にあり、
現在でも特に新幹線や高速道路などの、
日本列島の主要幹線ルートから外される「盲腸」のような存在なのです。
私の母親は奈良県で生まれ育ち、私も生まれた場所なので、子供の頃よく訪れました。郷土愛もあり贔屓はしたいのです。
しかし贔屓目に見ても、奈良県には地政学的に富や権力を集めることができる優れた特徴が、特に見当たらないのです。
権力を掌握するにはシンプルに、財力と腕力(軍事力)が必要だと思うのですが、
もしかして古代には、飛鳥はそれらを手に入れるのに適した優位性のある場所だったのでしょうか?
奈良の地形は、大和盆地以外に平地もほとんどなく、周辺は山地に囲まれているため、農耕の面で特に経済的優位性があるわけではありません。
ただし、古代より水銀の原料や赤い塗料として使われた朱沙は取れました。
では朱沙などを含む交易に適していたのでしょうか?
確かに交易は古今東西、富を生みます。
また、私の記事「大阪市は古代、8割が海だった」にあるように、古代には生駒山麓付近まで水面があり、舟運が利用できました。
しかしそれも海上交易の優位性を確立するほどのものではありません。
むしろ、舟運では瀬戸内海交易の中心に位置する吉備の方がより優位です。
また、文明招来と言う面では、大陸に近い、北九州の博多が優位です。
さらに、「千年の都」であり、日本列島の「へそ」に位置する京都ならば、東西交通の通過点で陸上交易に最適であったと考えられます。
そして「千年の都」は「二千年の都」になっていたかもしれません。
やはり、普通に考えて、奈良に突き抜けた経済的優位性は認められません。
ところが事実は、辺ぴで中途半端な場所、飛鳥が都だったのです。
ところで飛鳥に大和政権が出来たのはいつ頃だったのでしょうか?
諸説ある様ですが、一つは、古事記に則り西暦紀元前660年説です。
論拠は古事記の中の「神武東征」にあります。
『神武天皇の和風諡号は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)と言い、火遠理命(山幸彦)の孫で4人兄弟の末っ子です。
彼は神武東征を長男五瀬命(いつせ)と共に行います。
彼らは九州日向の高千穂の宮を出発、宇沙により、竺紫(ちくし)の岡田宮に一年滞留します。
この行程は陸行だと考えられますが、その後岡田宮から水行で瀬戸内海を東進した様です。
その後、阿岐(あき)の国多祁理(たけり)宮に七年逗留し、さらに吉備の高嶋宮に八年留まります。
ここまでは16年かけた、比較的のんびりとした行程で、戦さもなく平和的な東征でした。
ここから様子は徐々に変わっていき、戦さが中心の東征になっていきます。

速吸門(はやすひなと)[明石海峡]から浪速の渡(なみはやのわたり)[上町台地の北端]に至り、その後当時の「河内湖」に入ります。
そしてその東端、生駒山麓の白肩(しらかた)の津に至り、初めての戦さが行われます。
敵は登美の豪族ナガスネビコで、この戦いで五瀬命が敵の矢を受け致命傷を負います。
五瀬命は「日の神の子として日に向かって進軍するのは良くない、日を背にする様に南から攻めよう」と指示、軍は紀伊半島を南下、熊野に上陸します。しかしそこで五瀬命は絶命し、あとは伊波礼毘古命が指揮を取ります。
様々な敵と戦いながらも最後は八咫烏の導きにより、ようやく大和畝傍に達し、この場所を「美(うま)しところ」と言って、白檮原の宮で神倭伊波礼毘古命は天下を治める詔(みことのり)を発し、神武天皇として即位しました。
そしてこの地に留まり、ここより東には進みませんでした。
理由は「良いところだ」という以外書かれていません。
伊波礼毘古命の最終目的地は大和の畝傍だったのです。
その詔を発したのは西暦紀元前660年、旧暦の元日でした。
時代的には弥生時代中期です。
それを新暦に置き換えた2月11日は、戦前は「紀元節」、
戦後は「建国記念の日(祝日)」となりました。
すなわち、日本では今も公式には、今年「皇紀2685年」なのです。
この説は戦前、国家によって持て囃され、
1940年(昭和15年)が紀元2600年に当たるとして大々的に記念行事が行われました。
因みに「零戦」のゼロは、この戦闘機が正式に採用されたのが昭和15年だったからでした。

しかしこの「神武東征説」はあまりにも荒唐無稽ということで、現在は無視されています。
話はそれますが、神武天皇は「九州男児」だったのです。
現在有力とされていますのが、大和政権は古墳との関わりがあると言うことで、初の前方後円墳とされている箸墓古墳築造時前後、
すなわち、3世紀中頃とする説が有力と見られています。
その時期はちょうど「魏志倭人伝」と同時期にあたり、そしてそれが原因で、「邪馬台国大和説・北九州説論争」が起こったのかもしれません。
仮に邪馬台国大和説を採ったとしましても、「魏志倭人伝」からは、
女王卑弥呼の治める飛鳥の邪馬台国が、
当時の日本列島を掌握した強大国家には、見えないのです。
私の勉強不足かもしれませんが・・・。
いずれにしても、大和政権は「なんで、こんな辺ぴな奈良の片田舎を選らんだんやろか?」の疑問は消えません。
