スコット・フィッツジェラルド 『若き日の成功』(Early Success) 日本語訳

 以下の文章はスコット・フィッツジェラルドのエッセイ、
Early Success』の全訳です。フィッツジェラルドのよく知られたエッセイとしては、時代順でいうと最後のものになります。

 デビュー作『楽園のこちら側』がベストセラー入りし、一躍時代の寵児となった頃のことを、ユーモラスに、率直に綴っています。そのとき彼は若干23歳でした。早い時期に訪れた成功が自己認識をどう歪めるのか、きわめて鋭い洞察がなされています。
 個人的に、フィッツジェラルドのエッセイの中ではこれが一番好きです。『崩壊』でみせた自己憐憫がここにはありません。ある種ふっきれた清々しさがあります。

 初出は『American Cavalcade』誌の1937年10月号ですが、誌面のスペースの都合上、編集部の判断で本文が1割ほどカットされました。カット部分のつながりが滑らかになるよう、センテンスを削除したり書き換えたりといった編集がされています。
 フィッツジェラルドは誌面を読んでこのことを知り、自分の記事が「俗悪化(VULGARIZED)」されてしまったと憤慨しました。
 エドマンド・ウィルソンが『Crack-Up』を編集した際に使用したテキストも、やはり雑誌版でした。初めて完全版が掲載されたのは1973年、文学研究の専門誌です。

 このエッセイは邦訳が3種類出ていますが、いずれもカット版です。

 今回の訳出にはカット前の完全なテキストを使用しました。


 17年前のちょうど今月、仕事を辞めた。言い方を変えるなら、会社を退職した。せいせいした。『路面電車ストリート・レイルウェイ広告会社』がどうなろうと知ったことか。私は利益を手にして退職したのではない。負債を抱えて退職したのだ。負債とはつまり、借金と、絶望と、破談になった婚約である。そうして私は「長編小説を仕上げる」という大義名分のもと、セントポールの実家にこそこそと帰ったのだった。

 あの小説は、戦争末期に訓練キャンプで書き始めたもので、私にとっては切り札だった。ニューヨークで就職したときにいったん脇に置いたが、そのみじめな春のあいだじゅう、靴の中に敷いたボール紙と同じくらいその存在をつねに意識していた。
 私の置かれた状況はまるで「キツネとガチョウと豆袋」の川渡り問題だ。小説を書き上げるために仕事をやめれば、恋人を失うことになるのだから。

 だから心底嫌っている仕事でもしがみついて頑張った。そうしたらあらゆる自信――プリンストンで培った自信も、軍歴の中で「最悪の副官」として身につけた鼻持ちならない自信も、徐々に消えていった。
 見捨てられ、忘れられたような気持ちで、いくつもの場所から足早に立ち去った。
双眼鏡を預けた質屋から――
戦前の古びたスーツ着ているときに出くわした裕福な友人たちから――
なけなしの5セント硬貨でチップを払ったレストランから――
戦争帰りの仲間のために席を空けておく、忙しくて明るいオフィスから――
 手持ちの金は小銭だけ。合わせて1ドルになるだろうか? いや、ちょっとだけ足りない。あの切手2枚が明暗を分けた。所持金が1ドルを下回るとすべてが違って見えてくる。人の顔も違って見えるし、食べ物の見方さえ変わってしまう。

 初めて短編が採用されたときも、さほどの感慨はなかった。ダッチ・マウントと私は、車両広告のキャッチコピーを考えるオフィスで向かい合って座っていた。すると私たち二人に、同じ便の郵便が、同じ雑誌からの採用通知を届けに来た。その雑誌は、今はなき『スマート・セット』誌だった。

「僕の小切手は30ドルだったけど、君のはいくらだった?」

「35ドル」

 だが本当にがっくりきたのは別のことだった。採用されたその作品は、2年前の大学時代に書いたものだったのだ。その後に書いた10本以上の新作には、編集者からの私信ひとつ来なかった。22歳にして才能はもう下り坂なのか? そんな不吉な考えが頭をよぎった。
 その30ドルは、マゼンタ色の羽団扇はうちわを買うために使ってしまった。それは、アラバマにいる恋人への贈り物になった。

 恋人のいない友人たちや、現実志向の女の子と将来の約束をしている友人たちは、長期戦を見据えて辛抱強く踏ん張っていた。だが私は違った。私が恋をしていた女性は、いわば「旋風」だった。私はその風を捕まえられるくらい大きな網を、頭の中からこしらえなければならないのだ。
 なのにその頭の中ときたら、小銭がぽろぽろとこぼれ落ちる音でいっぱいだった。チャリン、チャリンとひっきりなしに鳴りつづける、貧者のオルゴールといったところか。そんな状態でうまくできるはずもく、だから彼女に振られたとき、実家に帰って長編を書き上げた。すると突然、すべてが一変した。
 この記事は、あの成功という名の荒々しい風と、それが運んでくる甘美な霧について書いたものである。それは短くもかけがえのない時間だ。なぜなら、数週間か数ヶ月が経って霧が晴れると、人は気づくからだ。最高の瞬間はもう過ぎ去っているのだと。

 それが始まったのは1919年の秋、私が空っぽのバケツ同然だった頃だ。夏のあいだ書き続けたせいで頭はすっかり馬鹿になり、『ノーザン・パシフィック鉄道』の工場で車両の屋根を修理する仕事に就いていた。
 ある日、郵便配達人がわが家のベルを鳴らした。私はその日のうちに仕事を辞め、通りを走り回り、車を止めては友人や知人にその知らせを伝えて回った。「僕の小説、『楽園のこちら側』の出版が決まったんだ」と。
 その週は、郵便配達人が何度も何度もベルを鳴らし、私は忌々しい小口の借金をすべて返済し、スーツを新調した。毎朝目を覚ますとそこは、言葉にできないくらいの全能感と期待に満ちた世界だった。だがそんな時間も、ある訪問者によって終わりが告げられた。

 最初、その訪問者は名前だけを残していった。誰かから聞いたところによると、それは近隣の街で新聞を発行している大物出版人の名前だという。私の輝かしい運命を聞きつけ、私の思考の余剰分をコラムとして提供してほしいと依頼しに来た――そう考えるのが最も自然だ。
 ある日父が、いつものように社会のはみ出し者に向ける表情を浮かべながら、屋根裏部屋に上がってきた。

「A氏が階下したに来てるぞ」

「ちょうどよかった、その人は新聞社のオーナーなんだ」

「ふーむ」と父は曖昧に言った。

 2分もしないうちに、私もA氏が何者なのかわからなくなってしまった。そこに立っていたのは、私の名もなきファンの第1号。しかも私の作品を読んでさえいない男だった。新聞社のオーナーどころか「厄介者の専業者フルタイマー」とでもいうべき存在で、脇目も振らぬひたむきさと集中力をもって、人をぞっとさせる職務に打ち込んでいるような男だった。目つきも、舌の動きも、滑るような手つきも、小刻みに動く足も、すべてがねっとりしていた。
 男は妙になれなれしい態度で、不気味に興奮しながらぺちゃくちゃしゃべり続けた。自分は詩を書いているのだと言ったが、この男が言うと、書くという行為そのものが、どこか恥ずかしくて卑猥なことのように感じられるのだった。
 私はそれから何年ものあいだ、ファンだという人間が自宅に押しかけてくるたびに、その男のような人物ではないかと身構えるようになってしまった。私の無条件の幸福感は、この一件でぐらついた。

 アマチュアからプロへの変化が起こっていた。それは、人生のあらゆる局面が「仕事」というひとつの模様へと縫い合わされていくようなもので、ひとつの仕事の終わりが、自動的につぎの仕事の始まりになる。
 有望そうなのに1年で消える作家というのは、思考と感情のすべてを、「劇的ドラマティックに考え、劇的ドラマティックに感じる」という作業に従属させることができなかった人間だ。贅沢好きも政治屋も、編集者も理想家も、快楽主義者も人たらしも、機知に富んだ人も怠け者も、彼らはその必要性から逃れる術を見つけてしまう。結果として、タイプライターのリボンが乾いたまま仕事にとりかかることになるわけだ。
 その6月、私はまだアマチュアだった。しかし10月、南部の墓地の石碑のあいだをある女性と歩いていたときには、すでにプロになっていた。そして、彼女が感じたり語ったりすることに私は魅了されながらも、それを物語として書き留めなければという焦りが、その魅了をも抑えていた。それはのちに『氷の宮殿』という短編になった。
 同様の例がほかにもある。セントポールでのクリスマス週間のある夜、私は2つのダンスパーティーの誘いを断って家にこもり、短編を執筆していた。その晩のうちに3人の友人から電話があり、私がどれだけめったにない珍事を見逃したかを教えてくれた。
 界隈でよく知られたある男がラクダに扮装し、後ろ半分をタクシー運転手にやらせて、間違ったパーティーに闖入したというのだ。その場に居合わせなかったことに愕然とした私は、翌日1日かけてその逸話の断片をかき集めようとした。

「まあとにかく、その場にいた人間にとっては最高に面白かったんだけどね」

「いや、どこでタクシー運転手を調達したのかはわからないな」

「あいつをよく知ってる人間じゃなきゃ、あの可笑しさは伝わらないよ」
 
 その言葉に私はがっかりしながらも、こう言った。
「やれやれ、正確な事実なんてもうどうでもいい。君らの話より10倍は可笑しい話を書いてやる」私はその話を22時間ぶっ通しで書いた。ただひたすら「可笑しい話」だと聞かされたので、ひたすら可笑しい話に仕立てたわけだ。こうして生まれた『ラクダの背中』は『サタデー・イブニング・ポスト』誌に掲載され、今でもユーモア小説アンソロジーにたびたび取り上げられる。

 冬が終わると、すっかり書き尽くした時期に入り、心地よい虚脱感を感じていた。それでしばらく休みを取っていたのだが、そのあいだにアメリカという国の新しい像が、徐々に目の前で形をとり始めた。
 1919年の先の見通せなさは終わっていた。これから何が起こるのか、ほとんど疑いの余地はなかった。アメリカは歴史上もっとも盛大で、もっとも派手派手しい浮かれ騒ぎへと突き進んでおり、そこには語るべき物語が山ほどあった。
 黄金の好景気の空気が国中に満ちていた――そのあふれんばかりの気前の良さも、その途方もない腐敗ぶりも、そして禁酒法のもとで古きアメリカが悶え苦しみながら死にゆく様も、すべての予感が漂っていた。
 私の頭に浮かぶ物語にはいずれも災厄の気配があった――長編に登場する愛すべき若者たちは破滅し、短編に出てくるダイヤモンドの鉱山は吹き飛び、億万長者たちはトマス・ハーディの農民たちと同じように、美しくも呪われていた。現実の世界ではまだそうしたことは起こっていなかったが、それでも私には確信があった。生きるということは、私のすぐ下の世代が思っているような、お気楽で無責任なものではないと。

 私がそんな見晴らしのいい地点にいたのも、そこがちょうど2つの世代を分かつ境界線上だったからだ。私はその場所に、やや自意識過剰気味に座っていた。
 初めて作品に大きな反響があったとき(髪型をショートにした少女の短編に、何百通もの手紙が来た)それが自分のもとに寄せられるというのは、どこか滑稽なことに思えた。
 だが一方で、内気な人間にとっては、自分以外の誰かにふたたびなれるのは悪くなかった。なにしろかつて「中尉様」であったのと同じように、今度は「作家先生」になれるのだ。もちろん、かつて軍人になりきれなかったのと同様に、当時はまだ作家にはなりきれていなかったが、仮面の裏を見抜けた者は誰もいなかったようだ。
 たった3日の間にすべてが起きた――私は結婚し、印刷機は(映画の中で新聞の号外を刷る場面さながらに)『楽園のこちら側』をガンガン刷りまくった。

 その出版とともに、私の精神は躁鬱病的な狂気に陥った。憤怒と至福が1時間おきに交互にやってきた。多くの人がこの小説を「まがい物フェイク」だと考えたが、たぶんその通りだったのだろう。また「嘘っぱち」だと考えた人もたくさんいたが、それは違った。
 私は朦朧とした意識のままインタビューに応じ、自分がどれだけ偉大な作家であり、いかにしてその高みに到達したかを語った。
 私の動向を追っていたヘイウッド・ブルーンというジャーナリストは、その発言をそっくり引用し、「ずいぶんと自惚れた若者のようだ」とコメントを添えた。おかげでそれからの数日間、私は誰にとっても付き合いにくい人間だったに違いない。私は彼をランチに誘い、いかにも親切そうな口調で「あなたが何も成し遂げないまま人生を無駄にしてしまったのはじつに不憫だ」と言ってやった。
 ちなみに、彼はちょうど30歳になったばかりだった。そしてその頃、私はある一文を書いていたのだが、それについてはいまだに忘れさせてくれない人たちがいるのである――「彼女は27歳。かつての輝きは色あせてはいたが、それでもなお美しい女性だった」

 発売前、ぼんやりとした気分で、版元の『スクリブナー社』の人たちに「2万部以上は望まないよ」と言ったことがある。彼らの笑い声が収まったあとで、「デビュー作なら5000部も売れれば上出来だよ」と相場を教えられた。たしか発売から1週間で2万部を突破したのだが、私はあまりにも大真面目になっていたから、それが可笑しな話だとすら思わなかった。
 毎朝、頭がぼーっとしたまま『トリビューン』紙を広げ、F・P・Aが『楽園~』のスペルミスをまた見つけていないかを確認した。彼は最初に30個の誤字リストを載せ、彼のコラムの熱心な投稿者たちがさらに100個も送りつけた。なんてこった、正しいスペリングまで求められるのか? 私がそんなに大物なら、なんで校正者はスペルチェックくらいしてくれなかったんだ?

 雲の上にいるような数週間も、1週間後にプリンストン大学が『楽園~』に批判の矛先を向けたことで唐突に終わった。ただし、それをしてきたのは現役学生たちではなく、教員や卒業生といったお堅い連中だ。ヒッベン学長からは慇懃無礼な非難めいた手紙が届き、さらに部屋いっぱいの同級生たちが、突然私を糾弾し始めた。
 私たちはハーヴェイ・ファイアストンの所有するロビンエッグ・ブルー色の車に乗り込み、人目を引く派手なパーティーに興じていたのだが、その最中、私は喧嘩を止めようとして不運にも目のまわりに青あざを作ってしまった。
 この一件が乱痴気騒ぎみたいに誇張化され、現役学生たちが理事会に掛け合ってくれたものの、私は所属する社交クラブへの2ヶ月間の出禁処分を受けた。『卒業生週報』は私の本を公然と批判したし、私のことを褒めてくれたのはガウス学部長くらいだった。
 あの一連のやり方に見られる、ごまかしと偽善はつくづく腹立たしいもので、それから7年間プリンストンには行かなかった。
 その後、ある雑誌からプリンストンについて記事を書いてほしいと依頼があった。それで書き始めてみると、自分があの場所を本当に愛していることに気づかされた。あの1週間の出来事など、人生全体の収支からすれば、ほんの小さな1項目にすぎなかったのだ。だが1920年のあの瞬間には、私の成功から喜びの大半を消し去ってしまった。

 しかし、自分はもうプロになっていた。古い世界を押しのけないかぎり、新しい世界を提示することなど到底不可能だったのだ。
 筆者はしだいに、賞賛と批判の両方から身を守るための硬さを身につけていった。大衆は見当違いの理由で作品を好きになることがあまりにも多いし、むしろ嫌いになってくれたほうが名誉であるような人に好かれてしまうことも多い。まともなキャリアは大衆の評価の上に築かれたためしはなく、そのため筆者は前例のないことでも恐れずに突き進むことを学んだ。
 収入を計算してみると、1919年には執筆全体で800ドルだったのが、1920年には18000ドルになっていた。短編の原稿料、映画化権、書籍によるものだ。私の短編1本の原稿料も、30ドルから1000ドルに跳ね上がっていた。これは好況時代の後期の原稿料に比べればたいした額ではないが、当時の私にとってそれがどれほど大きく感じられたかは、いくら強調しても足りないほどだ。

 夢は早くに実現してしまった。そしてその実現には、ある種の恩恵と同時に、ある種の重荷がついてきた。早すぎる成功が人に与えるものは、意志の力ではなくむしろその対極にあるもの、つまり運命というものに対するほとんど神秘的な観念である。最悪の場合、それはナポレオン的な妄想となる。
 若くして成功した者は、自分が意志を発揮しているのは、運命の星が輝いているからだと思い込む。30になって頭角を現した者は、意志と運命がそれぞれどれだけ寄与したかについて、バランスのとれた理解を持つようになるが、40でようやくそこに到達した者は、往々にして意志だけを強調しがちだ。こうしたことは、自分の職能が危機に見舞われたときに明らかになる。
 私の父が手にした成功は、人生のかなり遅い時期に訪れ、しかもわずかな期間で終わってしまった。それでも父が自分の失敗をおのれの無能さ以外のせいにするのは、一度も聞いたことがない。だが、そうすることもできたはずだ。一度は恐慌に巻き込まれ、また一度は、年配者をビジネスの場から一掃しようとする、時代の潮流に呑み込まれたのだから。
 それに引き換え私は、長年にわたる個人的な災難をなんとか切り抜けてきたにもかかわらず、ほんの小さな打撃を受けただけで、やる気を一時的に挫かれてしまった。2年間ものあいだ、苦々しい落胆の中でふてくされ、その確信があまりに強かったものだから、まるで鉄道事故で片足を失ったみたいに、ためらいもなく誰にでも話したり、書き散らしたりした。

 30歳で花開く人は、ちょうど夏に咲く花のようなものだ。だが、あまりに早く成功してしまった人にも、それなりの補償はある――人生とは夢想的ロマンティックなものであるという確信である。おかげでいい意味で若いままでいられる。
 愛と金という第1の目的を当然のように手に入れ、不安定な名声もその魅力を失ったとき、私はかなりの年月を無駄に費やして、永遠に続く海辺のカーニバルを探し求めた。だが正直なところ、その年月を後悔はしていない。
 1920年代半ばのある日、黄昏につつまれた断崖道路で車を走らせた。眼下の海には、フレンチ・リヴィエラ全体がきらめいていた。遥か前方にはモンテカルロの街が見えたが、季節はずれのため賭けに興じる大公たちの姿はすでになく、宿泊先のホテルにいたE・フィリップス・オッペンハイムは、バスローブ姿で暮らすただの働き者の太った男だった。
 それでも「モンテカルロ」という響きはどうしようもなく魅惑的で、私はその場に車を停め、中国人のように「ああ……ああ……」と声を漏らすしかなかった。
 私が見ていたのはモンテカルロではなかった。かつてボール紙を中敷にした靴でニューヨークの街を歩き回っていた、あの若者の心に戻っていたのだ。私はふたたび彼になっていた。ほんの一瞬だけ、彼の夢を分かち合うという幸運に恵まれたのだ。もはや自分には夢など残っていなかったこの私が。
 今でもときおり、そっと彼に忍び寄り、彼を驚かせることがある――ニューヨークの秋の朝に、あるいは隣の郡から犬の遠吠えが聞こえるほど静まり返った、カロライナの春の夜に。
 しかし、あのあまりにも短い時間のような、彼と私とがひとりの人間であった瞬間は、もう2度と訪れることはない。満たされた未来と、切なくも懐かしい過去が、ひとつの美しい瞬間の中で混ざり合っていたあのとき――人生がまさしく夢そのものだった、あのときのようには。


フィッツジェラルド年譜

  • 1896年09月 ミネソタ州セントポールに生まれる

  • 1913年09月 プリンストン大学に入学

  • 1917年10月 少尉として任官。プリンストン中退。

  • 1918年02月 ケンタッキー州テイラー駐屯地に配属。長編『Romantic Egotist』を書き始める。

  • 1918年06月 アラバマ州シェリダン駐屯地に移駐。中尉に昇進

  • 1918年07月 アラバマ州モントゴメリーのカントリークラブでゼルダ・セイヤーと知り合い、恋に落ちる

  • 1918年11月 終戦。最後まで内地勤務だった

  • 1919年02月 除隊。ゼルダと婚約。

  • 1919年03月 ニューヨークの『バロン・コリアー』社という広告会社に就職

  • 1919年06月 短編がはじめて雑誌に売れる。ゼルダから婚約を破棄される

  • 1919年07月 会社を退職。セントポールの実家に帰省。『Romantic Egotist』を翌月までかけて改稿し、『楽園のこちら側』と改題

  • 1919年09月 スクリブナー社、『楽園のこちら側』の出版を決定

  • 1919年11月 ゼルダとふたたび婚約

  • 1920年03月 『楽園のこちら側』発売。1週間後にゼルダと結婚。『楽園~』は1年間で5万部を売り上げ、一躍時代の寵児となる

  • 1925年04月 『グレート・ギャツビー』発売

  • 1937年07月 本エッセイを執筆。脚本家としてMGMと契約、ハリウッドに移住

  • 1940年12月 心臓発作で死去

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