グレート・ギャツビー 第1章 日本語訳
F・スコット・フィッツジェラルドが1925年に発表した小説、『グレート・ギャツビー』の日本語訳です。note用に適宜改行を入れています。
Kindleでも販売中ですので、よろしくお願いします。
ならば金色の帽子をかぶればいい
それがあの娘をときめかせるなら
高く跳ぶこともできるなら
あの娘のために跳んでみせるがいい
あの娘がこう叫ぶまでやり続けるんだ
「すてき、金の帽子をかぶった、高く跳ねるお方。あなたをあたしのものにしなくっちゃ!」
――トマス・パーク・ダンヴィリエ
ふたたび、ゼルダに捧ぐ
僕がまだ若く、今よりもっと傷つきやすかった頃、父がある助言をしてくれた。以来ずっと、その言葉についてあれこれ考えてきた。
「誰かを批判したくなったときはな」と父は言った。「思い出してみるんだ。みんながみんな、お前みたいに恵まれた境遇にいるわけじゃないってことを」
父はそれしか言わなかったけれど、僕ら親子は多くを語らずとも人並み以上にわかり合える関係にあったから、この言葉にももっと深い意味が込められているのは理解できた。
そのことが今日に至るまで影響していて、僕は何事に対しても、判断を下すのを保留しがちなところがある。この癖のおかげで、一風変わった面白い人たちが心を開いてくるようになったが、退屈話が得意な連中の餌食になったのも一度や二度ではない。頭のおかしな人間というのは、まともな人間にこの性質が現れると、すかさずそれを見抜き、擦り寄ってくるわけだ。
そのため大学時代には、「お前って政治家みたいだな」とまわりから軽口を叩かれたこともあった。得体のしれない変人たちの秘めたる悩みを、僕が聞いてやっていたという理由でだ。
だが、そうして打ち明けられた話のほとんどは、こちらから聞かせてくれと頼んだものではない。秘密の暴露が今にも始まりそうな気配を、何かしらの明白な兆候から感じ取ると、僕はしばしば寝たふりをしたり、考え事をしているふりをしたり、からかうような態度を取ったりしてきた。青年の内面的な告白というものは――あるいは少なくとも、それを語るときに用いられる言葉は、たいていは借り物である上に、見え透いた隠しごとのため歪められているからだ。
判断を保留することは、無限の希望につながる問題でもある。父が偏見混じりにほのめかしたことを、僕も偏見混じりに言うわけだが、品位や良識に対する根本的な感覚は、生まれた時点で不平等に分け与えられているものだ。もしそのことを忘れたら、何か重要なものを見逃してしまうのではないかと、僕はいまだに懸念を抱かせられる。
さて、このように自らの寛容さを誇らしげに語ったあとで、それにも限度があることを認めなければならない。人の行いは、固い岩の上に築かれていることもあれば、ぬかるんだ湿地の上に築かれていることもあるだろうが、ある一線を越えたら、基盤がなんであろうと僕はどうでもよくなってしまう。
そんなわけで、昨年の秋に東部から帰ってきたときはうんざりした気持ちだった。いっそのこと世界が制服を身にまとって、一種の道徳的な気をつけの姿勢をとり、永久にそのままでいたらいいと思っていた。人の心の奥底を特権的な立場から垣間見てしまう、騒々しい旅行はもうたくさんだった。
ただしギャツビーだけは――この本の題名にもなっている彼だけは、僕の拒絶感から免れていた。ギャツビーは、僕が心から軽蔑するものすべてを体現するような存在だったにもかかわらず。
もし人格というものが、間断なく続けられた成功した演技のことならば、彼という人格には、何かひとを惹きつけてやまないものがあった。人生の可能性に対する高度に研ぎ澄まされた感受性を持っていて、まるで一万マイル先で起きた地震すら感知する、あの精密な機械の一種のようだった。
だがこの反応の鋭さは、「芸術家気質」という名でよく持て囃される、感じやすいだけの軟弱さとは無縁のものだ――それは希望を抱きつづける並はずれた才能であり、僕がほかの誰の中にも見いだしたことがなく、これから先も二度と目にすることがないであろう、夢想的な心構えだった。
そう、結局のところ、ギャツビーに問題はなかった。問題があったのは、ギャツビーを食い荒らしたものや、彼の夢の航跡に漂う汚れた塵のほうだ。そしてそのせいで僕は、一時的にではあるにせよ、彼以外の人の喜びも悲しみも、すぐに終わる程度の浅はかなものとしか思えなくなってしまったのだ。
* * *
僕の家は三代つづく裕福な一族として、中西部のこの街ではよく知られていた。キャラウェイ家はちょっとした氏族といったところで、当家にはバクルー公爵の血を引くという言い伝えも残っているが、家系の実質的な始祖といえるのは僕の祖父の兄にあたる人物だった。
彼は一八五一年にこの地に渡り、南北戦争のおりには代理人を行かせて徴兵を免れ、自分は金物の卸売業を始めた。その事業を、今では僕の父が引き継いでいるわけだ。
僕はこの大叔父に会う機会はなかったが、よく似ているということになっている。父の事務室に掛かっている、やけに男らしくきめた肖像画を引き合いに出して、周りがそう言うのだ。
僕がイェール大学を卒業したのは一九一五年で、父に遅れることちょうど四半世紀だ。それから少し経って、あの「世界大戦」という名で知られる、遅れ馳せのゲルマン民族大移動に参加した。この「反撃」をあまりにも楽しんでしまったので、帰国後は落ち着きがなくなっていた。世界の温かな中心であるはずの中西部が、今や宇宙の果てのように寂れて見えた。
そこで僕は東部へ行って証券業を学ぶことに決めた。知り合いは誰も彼もが証券業界に進んでいたので、ありふれた独身男があとひとり入り込むくらいの隙間はあるだろうと思ったわけだ。
叔父たち叔母たちは、まるで僕を入学させる進学校を選ぶような調子で話し合っていたが、最後にはおそろしく深刻そうな渋い顔つきで「そりゃあ……うん」と同意した。父は一年間の仕送りを約束してくれた。それからいくつか遅れはあったものの、一九二二年の春、僕は東部に移住した。永久に――そう、自分では思っていた。
利便性から考えればニューヨークで部屋を借りるのが一番だった。でも季節は暖かく、広々とした芝生や親しげな木々のある土地を離れたばかりだったので、会社の若い同僚が「通勤圏にある町で一緒に家を借りないか」と言ってきたとき、それはいい考えだと思えた。
物件は彼が見つけてきた。風雨にさらされてくたびれた、安っぽい木造家屋で、家賃は月八十ドル。ところが土壇場になって彼はワシントンへの転勤を命じられてしまい、僕はひとりでその郊外に赴くことになった。
犬を飼った――少なくとも逃げられるまでの数日間は飼っていた。それから古い車を買った。フィンランド系の家政婦も雇った。彼女はベッドを整え、朝食を作り、電気コンロの前に立つときはフィンランド語の格言か何かをぶつぶつ呟いていた。
一日か二日はさみしい思いをした。だがある朝、男に路上で呼び止められた。僕よりあとに越してきた男だった。
「ウェスト・エッグ村にはどう行けばいいんでしょうか?」男は困り果てた様子で尋ねた。
僕は道を教えてやった。そして歩き出したときには、もうさみしくはなかった。僕は案内人だった。開拓者だ。元からの居住者も同じだ。この男は何気ないひと言で、ここ一帯の市民権を付与してくれたのだ。
そして陽の光に照らされ、木々の葉が(まるで映画の早回しのように)勢いよく芽吹くのを見て、夏とともに人生がまた始まるのだと、僕はいつものように確信した。
まず、読むべき本がたくさんあり、若々しい自然の息吹からもらった健やかさも十分にあった。僕は本を十冊ほど買い込んだ。銀行業務、信用取引、投資証券などに関する本だ。赤色と金色の背表紙が、造幣局から出てきたばかりの新しい硬貨のように僕の書棚に並んだ。ミダス王とモルガンとマエケナスしか知らない、光り輝く秘密を解き明かしてくれそうだった。
それに加えて、ほかにもたくさんの本を読んでやろうという高い志を持っていた。大学生の頃はどちらかといえば文学青年だったので(ある年には『イェール大学新聞』で、真面目ぶった言わずもがなの論説を執筆していた)そういった文学的関心を日常生活にまた取り入れて、あらゆる専門家の中でも最も専門性に乏しい存在、「教養のある人」にもう一度なろうとしていた。
これをただの警句と取らないでほしい――結局のところ人生は、ただ一つの窓から眺めたほうがはるかにうまく見える。
北米大陸でもとりわけ風変わりな地域の一角に家を借りることになったのは、まったくの偶然だった。
それはニューヨークから真東に伸びる、細長くて騒々しい島にある。自然の珍しい景観が数多くある中でも、異様な二つの地形がとくに目を引いた。ニューヨークから三十キロメートルほどのところにある、一対の巨大な卵のような半島がそれだ。
両者は姿形はそっくりでありながら、社交的な距離をとるように、小さな入り江によって隔てられ、西半球の中でも最も飼いならされた海域――すなわちロングアイランド湾という、納屋の湿った庭に向かって突き出ている。両方とも完全な楕円形というわけではなく、コロンブスの卵のように陸地と接するほうの端が平らにつぶれていた。
しかしこの外形的な相似性は、上空を飛ぶカモメにしてみればさぞかし紛らわしかったことだろう。翼のない者にとっては、形と大きさ以外のあらゆる点において、この二つがまるで似ていないことのほうが注目に値するわけだが。

僕は西の卵に住んでいた。二つの卵のうちの、ええと、より「洗練されていない」ほうだが、両者間の奇妙かつ不穏な違いを言い表すには、これはあまりに表面的すぎるレッテルだろう。
僕の家は卵のちょうど先端にあった。湾までの距離がわずか四、五十メートルという場所だ。そしてその両隣では、二つの巨大な建物が僕の家をはさんで押しつぶすように建っていた。どちらも、一シーズンにつき一万二千ドルから一万五千ドルで貸し出されるような地所だ。
とくに右側の屋敷は、どんな基準から見ても圧倒的としか言いようがないほど巨大な代物だった。ノルマンディーの市庁舎か何かの精巧な模造品のようだ。片側には塔がそびえ立ち、その外壁をツタが這っているが、まだ葉が生え始めたばかりで、壁面の新品の輝きを覆いつくせてはいない。ほかには大理石づくりのプールがあり、五万坪以上の芝生と庭園が広がる。
これがギャツビーの邸宅だった。いや、この時点ではまだ彼と面識はなかったから、そういう名前の紳士が住む邸宅というべきか。
僕の家は目障りなものだったが、あまりに小さすぎて見逃されていたのだろう。おかげで僕は、海辺の景色と、隣家の芝生の一部が見える眺望、それに億万長者とお近づきになったような慰めを得られたわけだ。これだけのものが付いていて、ご利用料金は月額たったの八十ドル。
入り江をはさんだ向こう側では、「洗練された」東の卵の、白き宮殿のごとき邸宅が海辺に沿っていくつも建ち並び、きらめきを放っていた。
そしてこのひと夏の物語は、トム・ブキャナン夫妻と夕食をともにするために、あちら側へ車で向かった夕方に本当にはじまることになる。
デイジーは僕のまたいとこの娘で、トムと僕とは大学時代からの知り合いだった。戦争が終わった直後、シカゴで彼らと二日間をともに過ごしたことがある。
夫のトムは、さまざまな身体的な才能の中でも、とりわけフットボールではイェール大学史に残るパワフルなエンドとして活躍した。一応は全米中の有名人だったといえるだろう。
二十一歳の若さにして、あまりにも狭く突出した卓越性に達してしまい、そのせいで以後の人生のすべてに下り坂という印象がつきまとう、よくいる男の一人だった。
実家はケタ外れの大金持ちで、大学時代でさえ彼の金遣いの荒さはよく非難の的になったものだが、シカゴから東部に移住してきたときのそのやり方は、思わず息をのむようなものだった。例えばポロで乗る仔馬を、レイク・フォレストの厩舎からまとめて引き連れてくるといった具合だ。僕と同じ世代で、そんな金の使い方ができるほど裕福な男がいるということが、うまく実感できなかった。
なぜこの夫妻が東部に来たのかは、僕も知らない。二人はとくにこれといった理由もなくフランスで一年間を過ごし、そのあとはポロをする金持ちが集まるような場所ならどこへでも、あちこち落ち着きなくさまよっていた。
「引っ越しはこれで最後」とデイジーは電話ごしに言っていたが、僕は信用していなかった。デイジーの胸の内はわからないにせよ、トムのほうはこれからもずっと、各地をさまよい続けるのではないかと僕は感じていた。彼がどこか切なげに追い求めていたものは、もう二度と取り戻せないフットボールの試合の、あの劇的な興奮だったはずだろうから。
そんなこんなで、ある暖かくて風の強い夕刻、僕はイースト・エッグへ車を走らせた。知っているようで実はほとんど知らない、二人の古い友人に会うために。
彼らの家は思っていた以上に手の込んだ造りで、陽気な赤と白によって彩られたジョージアン・コロニアル様式の大邸宅が、入り江を見下ろす場所に建っていた。
芝生は海岸から始まり、玄関ドアに向かって四百メートルほど続く。途中には日時計やレンガ造りの歩道、燃えるように色づいた花壇などがあり、芝はそれらを軽々と飛び越え、ようやく家の前までたどり着くと、勢いそのままに鮮やかなツタに姿を変え、家の壁面をのぼっていく。
家の正面は、一列に並んだフランス窓によって区切られていた。窓は今、光を反射して金色に輝き、暖かくて風のある午後の空気に向かって開け放たれている。
そして玄関ポーチでは、乗馬服を着たトム・ブキャナンが脚を広げて立っていた。
彼はイェール大学の頃とは変わっていた。今ではがっしりとした体格の、麦わら色の髪をした三十男になり、口元はやや堅く、態度はいかにも偉そうだった。
キランと光る二つの傲慢な目が顔の印象を支配していて、そのせいで攻撃的で前のめりになっているような雰囲気をつねに漂わせていた。乗馬服の女々しい洒落た装いも、その肉体の圧倒的な力強さを覆い隠すことはできない。
ぴかぴかのブーツははちきれんばかりに膨れあがり、靴紐の最上段はぴんと張りつめている。
薄手のジャケットの下で肩が動くたびに、大きな筋肉の塊がうねるのが見える。梃子のように強大な力を操れる肉体――残忍な肉体だ。
話し声はしゃがれた太い中音域で、彼の気難し屋の印象をさらに強めていた。その声には、たとえ気に入った相手に対してであっても、父が子に言い聞かせるような見下した響きがあり、そうしたところから、大学時代には彼を心底嫌っている男たちもいた。
「俺の言うことが絶対だなんて思わないでくれよ。いくら俺がお前より強くて、男らしいからって」そう言わんばかりなのだ。
僕は四年生のときに彼と同じ社交クラブに所属していた。決して親しい間柄ではなかったけれど、彼は僕を認めているのではないか、僕に好かれたいのではないかという印象がずっとあった。彼流のとげとげしい反抗的な態度の中にも、何かしら切実なものが感じられたからだ。
僕らは日当たりの良い玄関ポーチですこし立ち話をした。
「どうだ、まあまあの家だろ」と言った彼の目がぱっぱっと落ち着きなく動いた。
彼は僕の腕をつかんでふり向かせ、幅広い平らな手を、前方の眺めに沿ってゆっくりと動かした。
その手の動きの中には、一段低いところに造られたイタリア風の庭園、ツンとした香りを放つ六百坪のバラ園、岸から少し離れたところで潮の流れにぶつかりながら浮かんでいる、鼻先の短いモーターボートが含まれていた。
「もとは石油王ドゥメインの家だったんだ」そう言ってまた僕の向きを変えた。丁重に、だが唐突に。「さあ、中に入ろう」
僕らは天井の高い玄関ホールを抜けて、明るいバラ色の空間に入った。その部屋は両端のフランス窓によって、かろうじて家の内部につなぎとめられているかのようだった。
窓は半ば開かれ、外の青々とした芝生を背景に、窓枠が白く輝いている。芝生はまるで、家の中に少しだけ入り込んでいるように見える。
風が部屋を吹き抜けると、片方のカーテンが内に、もう片方が外にと、淡い旗のようにはためき、砂糖衣をかけたウェディングケーキを思わせる天井まで巻き上げられる。そして風は、ワイン色の絨毯を波立たせ、海面を風が渡るときのような、ゆらめく影をそこに落とした。
部屋の中で完全に静止している物体は、ひとつの大きなソファだけだった。その上には二人の若い女性が、係留された気球の上に乗っているかのように浮かんでいた。
二人とも白い服を着ていて、そのドレスはひらひらと波打っている。まるで家のまわりを少しだけ飛んだあと、風に吹かれてつい先ほど戻ってきたばかりという感じだ。
僕はしばらくそこに立ちつくし、カーテンがばたばたする音や、壁に掛かった絵画がきしむ音を聞いていたらしい。トム・ブキャナンが奥の窓をバタンと閉める音が響くと、風は死に絶え、カーテンも絨毯も、そして二人の若い女性もふわふわと降りてきた。
二人のうち、より若いほうの女性は、僕の知らない人だった。
彼女はソファの片端に身体をいっぱいに伸ばして横たわったまま、身動きひとつせずにいた。あごを少し上げているが、何か今にも落ちそうなものがあごの上に乗っていて、バランスをとっているかのようだ。
僕を横目に見ていたとしてもおかしくないが、彼女はそんな気配はまったく見せなかった――むしろ意表を突かれたのはこちらのほうで、お邪魔しました、とボソボソ声で謝りそうになったほどだった。
もう一人の女性、デイジーは起き上がろうとするそぶりを見せた。すこし身体を起こし、律儀でしょ、と言わんばかりの表情になったが結局起き上がらず、「ふふっ」と笑っただけだった。場違いな、でも魅力的な笑い声だった。僕もつられて笑ってしまい、そのまま部屋の奥に進んだ。
「幸せすぎて、ま、麻痺しちゃったみたい」
上手いことを言ったみたいに、また笑った。そして僕の片手を握り、顔を下から覗き込んできた。こんなにも会いたかったのは世界中であなただけ、とでも言うように。これが彼女のやり方だった。
デイジーは、バランスを取っているあの女の子はベイカーという名字なのだと、むにゃむにゃしたしゃべり方で教えてくれた(デイジーがこんなふうにむにゃむにゃとしゃべるのは、相手の顔を自分のほうに引き寄せるためだと、どこかで耳にしたことがある。たとえそうであっても、そのために彼女のしゃべり方の魅力は少しも損なわれないのだから、論点のおかしな批判だ)。
それはともかくとして、ミス・ベイカーの唇がかすかに動いた。彼女は僕にむかって、ほとんど気づけないほど小さく会釈をしたが、すぐにまた頭を後ろに反らせた。どうやらあご先でバランスをとっていた物体がわずかにぐらつき、びくっとなったらしい。
僕はまたしても謝罪めいた言葉が口から出そうになった。完璧に自立した存在を目の当たりにすると、僕はほとんど何に対してでも、圧倒され敬服してしまうのだ。
僕がデイジーのほうにふり返ると、彼女はぞくぞくする低い声で、僕にいくつか質問をし始めた。
それは、まるで一つひとつの言葉が二度と奏でられることのないメロディであるかのように、聴く者の耳が音程の上がり下がりを追いかけてしまう声だった。
彼女の顔は悲しげでありながらも美しく、そこには輝かしい要素――明るい瞳とツヤのある情熱的な口元がある。
しかしその声には、かつて彼女に想いを寄せたことのある男たちにとって、忘れがたい興奮が宿っていた――抗いようのない歌声。「ねえ聞いて」というささやき。つい先ほどまで彼女が楽しげで胸躍ることをしていたという気配、そして次なる一時間も楽しげで胸躍ることが待っているという予感。
僕は東部に移住する旅の途中、シカゴに一日立ち寄ったと彼女に話した。そこで十人以上の人たちから「デイジーによろしく」と言われたのだ、と。
「みんな、わたしがいなくて寂しがってたの?」と彼女は飛び上がらんばかりにうれしがった。
「町じゅうが沈み込んでいるみたいだったよ。車はどれも、左の後輪を黒く塗って葬式の花輪がわりにしているし、北の海岸では夜どおし嘆きの声が響き渡っていたね」
「まあ、なんてすてきなの! トム、帰りましょう。明日にでも!」それから脈絡もなく話題を変えた。「うちの子、見ていってよ」
「ぜひとも」
「もう眠ってるんだけどね。女の子で、もう三歳。会ったことあったかしら?」
「いや、まだ」
「あら、それじゃ絶対に見ていきなさいよ。あの子は――」
それまで部屋を落ち着きなくうろうろしていたトム・ブキャナンが、ふと立ち止まって僕の肩に手を置いた。
「今、仕事は何やってるんだ? ニック」
「債券の仕事だよ」
「どこの会社だ?」
僕は社名を教えた。
「聞いたこともないな」と彼は切り捨てるように言った。
これにはむっとした。
「そのうち耳にするさ」と僕はそっけなく言った。「東部にいればね」
「やれやれ、東部にいるよ。君が心配することじゃない」とトムは言い、デイジーをちらっと見てから視線をこちらに戻した。僕からさらに何か言われるのではと、身構えているような感じだった。「ほかの所なんて住めるかよ」
このとき、ミス・ベイカーが「そりゃそうでしょ」と突然口にしたので、僕はどきっとした。僕がこの部屋に入ってから、彼女が初めて発したひと言だった。どうやら本人も思わず言ってしまったらしく、あくびをひとつすると、切れ目のないてきぱきとした動作で立ち上がった。
「身体が固まっちゃった」と彼女は不満そうに言った。「物心ついてからずっとあのソファに横になってたみたい」
「わたしのせいにしないでよ」デイジーが言い返した。「ニューヨークに行こうって、お昼からずっと誘ってたんだから」
「わたしはけっこう」ちょうど食料品室から運ばれてきた四杯のカクテルを見ながら、ミス・ベイカーは言った。「追い込みの時期なので」
トムは酒を断られるとは思っていなかったらしく、意外そうな顔をした。
「あっそう!」と言って、残りの一滴を飲むような勢いでグラスを傾け、中身を飲み干した。「そんなんでよくやっていけるな」
いったい何を「やっている」人なのだろうかと思いながら、僕はミス・ベイカーを見た。
彼女を眺めるのは心地よかった。ほっそりした、胸の小さな女の子だ。背筋をしゃんと伸ばしているが、士官候補生の少年のように肩を後ろに反らしているので、その姿勢がより強調されている。
彼女のほうも、灰色の細い目で僕を見返している。こちらに積極的な興味があるというよりは、礼儀として同じ程度のお返しをしているという感じだ。顔は青白く、魅力的ではあるがどこか不満げ――ふと、どこかで見たことがあるような気がした。あるいは写真か何かで。
「ウェスト・エッグに住んでるんですね」と彼女は小馬鹿にするように言った。「あそこに知り合いがいるんです」
「僕はまだ一人も――」
「ギャツビーのことは知ってるでしょ」
「ギャツビーですって?」とデイジーが食いつくように聞いてきた。「どのギャツビーのこと?」
それは僕のお隣さんだ、と答える前に夕食の知らせがきた。トム・ブキャナンは引き締まった腕を問答無用で僕の脇の下に押し込み、まるでチェッカーのコマを別のマス目に動かすみたいに、部屋の外へ連れ出した。
二人の若い女性は腰に手をあてながら、しなやかに気だるげに、僕とトムに先んじて歩き、夕日に望むバラ色のバルコニーに出た。
テーブルには四本のロウソクが立ててあり、弱まりつつある風に吹かれて火がゆらゆらと揺れていた。
「もう、どうしてロウソクなんか」とデイジーは眉をひそめ、指で火をつまんで消した。「あと二週間で、一年でいちばん日が長い日がくるでしょ」彼女は晴れやかな顔で僕たちを見回した。
「一年でいちばん日が長い日を待ってるのに、見逃してしまうなんてことない? わたしはそうなの。一年でいちばん日が長い日が来るのを待ちわびているのに、いつも見逃してしまうの」
「何か計画しなきゃね」とミス・ベイカーはあくびをしながら言い、ベッドに入るような気楽さでテーブルの椅子に座った。
「いいよ」デイジーは言った。「何を計画しようか?」彼女は困った様子でこちらを向いた。「こういうときって、何を計画するものなの?」
僕が返事をする間もなく、彼女は驚愕の表情で、自分の小指に目を留めた。
「ほら見て!」と彼女はみんなに訴えかけるように言った。「けがしちゃってる」
全員がそこに注目した。小指の付け根が青黒くなっていた。
「あなたのせいよ、トム」と彼女は責め立てた。「わざとじゃなかったのはわかってるけどね、あなたのせいなの。これも野獣みたいな男と結婚した報いね。うすらでかい、筋肉の見本みたいな――」
「『うすらでかい』はやめてくれ」トムは不機嫌そうに言った。「冗談のつもりでもな」
「うすらでかい」デイジーがなおも言った。
ときにはデイジーとミス・ベイカーの声が被ることもあった。それは騒がしくなく、からかい交じりの脈絡のない会話だったが、決して単なる雑談ではなかった。それは二人の白いドレスや、一切の欲望が欠如した無機質な目と同じように、クールで冷ややかだった。
彼女たちはそこにいて、トムと僕を許容し、もてなしたりもてなされたりするために、ただ形式的に愛想よくする努力をしていただけだった。
まもなく夕食が終わり、もう少ししたらこの夜の会も終わり、何事もなかったように忘れ去られるのが、彼女たちにはわかっていた。それは西部とはまるで違う。西部では夜の会は、段階から次の段階へと急ぎ足で進み、終わりに向かう。期待を抱いてはつねに裏切られたり、あるいは夜会の時間そのものに神経質な不安を感じたりしながら。
「君と話していると、自分が文明人じゃない気がしてくるよ、デイジー」僕は二杯目の赤ワインを飲みながら正直に言った。コルク臭いがなかなか味わい深いワインだった。「農作物とか、そういう話でもいいかな?」
とくに意味もなく言ったひとことが、思いもよらない取り上げられ方をすることになった。
「文明は崩壊に向かっているぞ」とトムが急に感情的な声を出した。「このところ、世の中というものにすっかり悲観的になってしまったよ。ゴッダードが書いた『有色帝国の台頭』は読んだか?」
「ああ、いや」彼の語気に少しひるみながら僕は答えた。
「そうか、すばらしい本だよ。みんな読むべきだ。要するにこういうことだ。俺たちが気をつけていないと、白人種はそのうち――そのうち、完全に沈没してしまうというんだ。これは科学的な根拠があって、ちゃんと証明もされてるんだよ」
「トムったら最近はとっても深いことを考えるようになっててね」デイジーは悲しげな顔を作って言った。「長ったらしい単語がでてくる深遠な本を読んでるの。ほらなんだっけ、このあいだ読んでくれたのに載ってた、あの用語――」
「いや、この手の本はぜんぶ科学的なんだよ」トムは苛立たしげにデイジーをちらっと見て言い張った。「この著者はすべてを解明したんだ。支配的な人種である俺たちがしっかりしてないと、ほかの人種に支配されてしまう」
「俺たちはやつらを叩きのめさなくちゃならん」とデイジーが燃えさかる太陽に向かって激しくウィンクしながらささやいた。
「カリフォルニアにでも移住してみたら――」とミス・ベイカーが言いかけたが、トムが大げさに座り直してさえぎった。〔訳注 当時のカリフォルニアは進歩的な地域として知られていた〕
「その学説によれば、俺たちはみんな北方人種なんだ。俺もそうだし、君も、君も、それから――」彼はほんのわずかにためらったあと、軽くうなずいてデイジーもその中に含めた。すると彼女はまた僕にウィンクした。「――そうして俺たちは、文明を形づくるすべてのものを産み出してきたわけだ。科学とか芸術とか、そういう一切合切を。わかるだろ?」
ひたむきに語るその姿には、いくらか哀れみを誘うものがあった。独りよがりなところは昔よりもひどくなっていたのに、それすらも今の彼にとっては不十分かのようだ。
トムがそこまで言い終えたのとほとんど同時に、邸内で電話が鳴り、執事がバルコニーを離れた。デイジーは一瞬の中断を逃さず、こちらに身を乗り出してきた。
「とある家の秘密を教えてあげる」彼女は楽しそうにささやいた。「うちの執事の鼻のことよ。ねえ聞きたい? 執事の鼻のこと」
「そのために今夜わざわざ来たんだからね」
「あの男は前から執事をしてたわけじゃないの。ニューヨークのあるお屋敷で銀食器を磨く仕事をしていてね。その家には二百人分の銀食器があったものだから、朝から晩まで磨きつづけないといけなかった。そうしたらついに研磨剤で鼻がやられて――」
「事態は悪化の一途をたどった」ミス・ベイカーが先回りした。
「そう。事態は悪化の一途をたどって、ついにその仕事をやめないといけなくなったわけ」
ほんのひととき、落ちかかる夕陽が、彼女の輝く顔をロマンティックに照らした。僕は彼女の声に引き寄せられ、息もできずに聞き入っていた――やがて輝きは消えていき、光の筋の一つひとつが、名残惜しそうに彼女のもとを離れていった。まるで夕暮れ時に楽しい通りを去っていく子どもたちのように。
執事が戻ってきてトムになにやら耳打ちした。するとトムは顔をしかめ、椅子を押しやって、ひと言もなしに邸内へ入っていった。トムの不在がデイジーの中の何かを活気づけたのか、彼女はまた身を乗り出した。その声は輝き、歌うように弾んでいた。
「ニック、あなたと食卓を囲めて、ほんとにうれしいの。あなたを見てると、えっと――そう、バラを思い出してくる。完璧なバラ。そうじゃない?」と彼女はミス・ベイカーのほうを向いて同意をもとめた。「完璧なバラでしょ?」
これは嘘だ。僕はバラになんかちっとも似ていやしない。デイジーはただその場の思いつきで言っただけだ。それでも彼女からは、胸をふるわせる温もりがあふれ出ていた。あたかも彼女の心そのものが、あの息をのむようなぞくりとする言葉のひとつに隠れて、こちらに伝わって来ようとしているかのように。
すると突然、デイジーはナプキンをテーブルの上に投げ出し、「失礼」と言って邸内に入っていった。
ミス・ベイカーと僕は、意味ありげにならないようにちらりと視線を交わした。僕が何か言おうとすると、彼女はさっと姿勢を正し、警告するように「しっ!」と言った。
奥の部屋から不明瞭な話し声が聞こえてきた。感情的になるのを抑えようとするような声だ。するとそれを聞き取ろうとミス・ベイカーは、恥ずかしげもなく聞き耳を立てた。
話し声は、聞き取れそうで聞き取れず、いったん小さくなりつつも、また興奮気味に大きくなり、やがて完全に消えた。
「さっきのギャツビー氏なんですけど、じつは僕の隣に――」
「静かにして。どうなるか聞きたいの」
「何かあったの?」僕は無邪気なふりをして尋ねた。
「知らないっていうの?」ミス・ベイカーは心底驚いたように言った。「みんな知ってると思ってた」
「僕は知らないよ」
「つまり――」彼女は少しためらいを見せてから言った。「トムはニューヨークに女がいるの」
「女がいる?」僕はぽかんとして、同じことを言った。
ミス・ベイカーはうなずいた。
「せめて夕食の時間に電話をかけてこないくらいの慎みはあってもいいのに。そう思わない?」
その言葉の意味がうまくのみこめないまま、ドレスの衣擦れとブーツのきしむ音が聞こえ、トムとデイジーがテーブルに戻ってきた。
「ごめんね、しかたなかったの!」とデイジーは明るくぎこちない声で言った。
彼女は席に着くなりミス・ベイカーを探るようにちらりと見て、同じように僕を見てから話を続けた。「ちょっと外を見たら、とてもロマンチックだったわ。芝生に小鳥がいてね、ナイチンゲールだと思うんだけど、キュナードかホワイト・スター・ラインの船で海を渡ってきたのね。歌うみたいにさえずっていて――」彼女の声が歌うように響いた。「――ロマンチックでしょ? トム」
「じつにロマンチックだね」と彼は言って、取り繕うように僕のほうを向いた。「夕食後にまだ明るかったら、馬小屋にでも案内しようか」
邸内からまた電話がけたたましく鳴り響き、デイジーはトムに向かってきっぱりと首を横に振った。そして馬小屋の話題が、いやあらゆる話題が跡形もなく消え去った。
食卓で過ごした最後の五分間の、砕け散った断片の中から、僕が覚えていることといえば、ロウソクが意味もなくふたたび灯されたこと。それと、僕が一人ひとりを真正面から見ていたいと思いながらも同時に、誰の目も避けたいとはっきり意識していたことだ。
デイジーとトムが何を考えているのか、僕には見当もつかなかった。だが、強固な懐疑主義を身につけたかに見えるミス・ベイカーでさえ、あの三人目の客が発する甲高い金属音を、完全に頭から追い払うことはできなかったのではないか。ある種の人間にとっては興味をそそられる状況かもしれないが――僕の場合は、ただちに警察に来てほしいと本能的に思ったほどだった。
言うまでもなく、馬のことは二度と話題にのぼらなかった。
トムとミス・ベイカーは、一、二メートルの薄明かりに隔てられ、ゆっくりと書斎へ戻っていった。まるで書斎には本物の遺体があって、そのお通夜に向かうような様子で。
僕はデイジーのあとに続き、にこやかに関心を示しつつ、少し耳が遠いふりもしながら、ひとつなぎになったベランダをぐるりと回って玄関ポーチまでやってきた。そのどんよりとした暗がりの中で、僕らは藤の長椅子に並んで腰を下ろした。
デイジーは顔を両手で覆った。まるで顔の輪郭の美しさをたしかめるように。そしてその目線は、しだいにビロードのような黄昏に向けられた。
彼女が激しい感情にとらわれているのが僕にはわかったので、少しでも気持ちを落ち着かせてやろうと思い、幼い娘さんについてあたりさわりのない質問をした。
「わたしたちって、お互いのことあまりよく知らないよね、ニック」と彼女はいきなり言い出した。「親戚といってもね。あなたは結婚式にも来てくれなかったし」
「まだ戦地に行ってたんだよ」
「そうだった」それから彼女は少しためらいを見せた。「このところずっとひどい目にあってきたの。おかげで、何に対してもひねくれた見方しかできなくなっちゃった」
たしかに、彼女にはそう感じるだけの理由があるようだった。僕は話のつづきを待ったが、彼女はそれ以上なにも言わないので、しばらくして僕は、娘さんの話題をおそるおそるくり返した。
「もういろいろできるんだろうね。口をきいたり、自分で食べたり、あとは――いろいろ」
「うん、まあね」彼女は上の空で答え、こちらを向いた。「ねえ、ニック。あの子が生まれたとき、わたしがなんて口走ったか、教えてあげる。聞きたい?」
「ぜひ聞きたいね」
「聞けばわかってもらえると思う。どうしてわたしがこう感じるようになったか――いろんなことに対して。それはあの子が生まれて一時間も経ってない頃のこと。トムは行方しれず。麻酔が切れて目が覚めたときは見捨てられたような気持ちだった。すぐ看護婦さんに男の子か女の子か聞いたの。女の子だってわかったら、顔を背けて泣いちゃった。『それでもいい』ってわたしは口走った。『女の子でよかった。おばかさんだったらいいな。女の子にとってこの世でいちばん幸せなのは、きれいで従順なおばかさんでいることだから』」
「もう世の中終わってるでしょ、ほんとに」と彼女は確信に満ちた口調でつづけた。
「みんなそう思ってる――進んだ人たちほどね。だってわたしは知ってるの。どこにでも行ったし、なんでも見たし、なんでも経験したもの」彼女の目が挑みかかるように、ぎろりと左右に動いた。その様子はどこかトムに似ていた。それから彼女は、ぞっとする嘲笑をしながら言った。「擦れちゃったなあ――ほんと、擦れっ枯らしもいいところ」
デイジーの声がふっと途切れ、こちらの注意も信頼も引きつけなくなった瞬間、僕は彼女の言葉に根本的な不誠実さを感じ取った。そうしてみると、この夕食会そのものが、僕からなんらかの共感を引き出すための策略だったかのように思えて、なんだか不安になってきた。
黙って様子を見ていると案の定、彼女はその美しい顔に完璧な薄笑いを浮かべて僕を見た――まるで彼女とトムがともに属する、高貴なる秘密の社交クラブの会員であることを誇示するかのように。
* * *
邸内では、深紅の部屋にぼんやりとした灯りがともっていた。そこではトムとミス・ベイカーが長いソファの両端に腰かけ、彼女は『サタデー・イブニング・ポスト』をトムに読み聞かせていた。つぶやくような抑揚のない言葉が、心地よい調べとなって流れていった。
ランプの光は、トムのブーツにまぶしく輝き、彼女の秋の葉を思わせる黄色い髪を鈍く照らした。彼女のほっそりとした腕の筋肉が軽やかに動いてページがめくられるたびに、紙面を光が走った。
僕らが部屋に入ると、ミス・ベイカーは片手を軽く上げて制した。もう少しだから静かにしていて、と。
「以下、次号につづく」と彼女は言って、雑誌をテーブルの上に放り投げた。
身体が自己主張を始めたみたいに、彼女は片膝を落ち着きなく動かし、それから立ち上がった。
「十時か」天井で時刻を確認したようにミス・ベイカーは言った。「じゃ、そろそろ。よい子は寝る時間だから」
「ジョーダンは明日、試合に出るの」とデイジーが言った。「ゴルフのね」
「ああ、あなたがジョーダン・ベイカーだったのか」
なぜ彼女の顔に見覚えがあったのか、ようやくわかった。その魅力的だが、人を見下したような表情は、新聞や雑誌のグラビア写真で何度も見かけていたのだ。それは、アッシュビルやホットスプリングス、パームビーチといった場所における、スポーツ生活を写したものだった。〔訳注 これら三つの都市はいずれも高級リゾート地で、ここでいう「スポーツ生活」とは金持ちや著名人が遊びでやる社交的なもの。ジョーダンが社交界の人間であることが示されている〕
ただ彼女に関しては、何か批判めいた嫌な噂を聞いた覚えもあったが、それがどんな内容だったかはとっくの昔に忘れていた。
「おやすみ」彼女は柔らかい口調で言った。「八時に起こしてね、お願い」
「ちゃんと起きるならね」
「起きるよ。おやすみなさい、キャラウェイさん。近いうちにまた」
「もちろんそうなるよ」とデイジーが断言した。「っていうか、わたしがお見合いのセッティングしてあげようか。これからもちょくちょく遊びに来なさいよね、ニック。そうしたら、くっつけてあげるから。リネン室にうっかり一緒に閉じ込めるとか、ボートに一緒に乗せて海に放り出すとか、そんな感じで――」
「おやすみ」ミス・ベイカーが階段の上から呼びかけるように言った。「聞かなかったことにしておく」
「いい子なんだけどな」彼女が行ってからトムは言った。「あんなふうに国中あちこち遊び回るのを許してちゃいかんよ」
「誰が許さないべきなの?」とデイジーが冷ややかに尋ねた。
「家族が」
「あの子の家族は、千年も生きてるような叔母さんが一人いるだけよ。それにこれからはニックがあの子の面倒を見てくれるから大丈夫。そうでしょ? ニック。あの子、この夏は週末ごとにここへ遊びに来るからね。わが家の家庭環境が、あの子にとても良い影響を与えてくれると思うの」
デイジーとトムはしばらく黙ってにらみ合いをした。
「あの人はニューヨークのひと?」僕はあわてて質問した。
「生まれはルイビル。わたしたちの純白の少女時代は、あの場所で一緒に過ぎ去って行ったのね。わたしたちのうるわしい、真っ白な――」
「さっきベランダでニックといたときに、何か本音の話でもしてたのか?」といきなりトムが問い詰めてきた。
「そうだっけ?」と彼女はこちらを見た。「よく思い出せないけど、たしか北方人種について話してたんじゃなかったかな。うん、そうだった。自然とその話題になって、気がついたら――」
「なんでも鵜呑みにするのはやめとけよ、ニック」とトムは忠告めいたことを言った。
何も聞いていないと軽く受け流し、数分後、帰るために席を立った。二人は玄関まで見送りに来て、明るく照らされた四角い光の中に並んで立った。僕が車のエンジンをかけると、デイジーが「待って!」と強い口調で呼び止めた。
「大事なことを聞きそびれるところだった。西部で婚約したんですって?」
「そうそう」トムがからかい半分で同調した。「聞いたぞ、君が婚約したって」
「こいつは名誉毀損だな。貧乏すぎて、結婚なんて僕にはとても」
「でもたしかに聞いたのよ」とデイジーは食い下がった。まるで花がふたたび開くように生気を取り戻したので、僕は驚かされた。「同じことを言う人が三人もいたんだから、本当のはずでしょ」
もちろん二人が言っていることに心当たりはあったが、僕は婚約なんて、曖昧な約束すらしてはいなかった。ただ、ゴシップが結婚の公告さながらに流布したのは事実で、それも僕が東部にやって来た理由のひとつではあった。噂が立ったからといって幼なじみとの付き合いを断つのもおかしな話だし、かといって噂話に流されるまま結婚するつもりもなかった。
二人が関心をもってくれたことには少し心を動かされたし、そのおかげで、彼らは僕なんかとはかけ離れた金持ちなんだという感覚もいくらかは薄れた。それでもハンドルを握っているあいだ、僕の頭は混乱し、わずかに嫌悪感さえ覚えた。
デイジーがすべきことは幼子を抱えて家を飛び出すことだと僕には思えたが、彼女にそんなつもりはこれっぽっちもなさそうだ。
トムについて言えば、「ニューヨークに女がいる」ことよりも、本を読んで落ち込んでいることのほうがよほど意外だった。何かに突き動かされるようにカビの生えた思想の端っこをかじる様は、もはや強固な肉体からくる自惚れでは、その横暴な心を養いきれなくなったかのようだ。
街道沿いの酒場の屋根にも、道ばたの車修理店の正面にも、すでに深い夏の気配が訪れていた。車修理店の前では、新式の赤い給油機が、光の水たまりの中にぽつんと佇んでいる。
僕はウェスト・エッグのわが邸宅に着くと、車を雨よけの下に停め、庭に放置された芝生ローラーの上に腰を下ろし、しばらくそのまま座っていた。
すでに風は吹き去り、あとには騒がしく明るい夜が残されていた。木々の間からは羽音が響き、大地のふいごで生命の息吹をめいっぱい送り込まれたカエルは、オルガンの音のように途切れることなく鳴き声を上げ続けている。
猫のシルエットが月明かりの中をゆらゆらと横切っていくのが見えたので、僕はそちらに頭を向けた――そして、自分がひとりではないことに気づいた。ここから十五メートルほど離れたところ、隣の屋敷にある暗がりから、人影が現れたのだ。
その男は両手をポケットに入れて立ったまま、銀色の胡椒を散りばめたような星空を眺めていた。ゆったりとした身のこなしや、芝生の上にしっかりと足をつけた様子には、それがギャツビー氏本人だと感じさせるものがあった。この天空のどこからどこまでが自分の領域か、確かめるために出てきたのだろうか。
声をかけてみよう思った。ミス・ベイカーが夕食の直前に彼の名前を出していたので、話のきっかけとしてはそれで十分だ。でも声をかけなかった。
男が突然、ひとりでいることに満ち足りているような気配を見せたからだ――彼は暗い海に向かって、奇妙なやり方で両手をのばした。僕はかなり離れたところにいたが、それでも彼が身震いしているのがはっきりとわかった。
僕は思わず海のほうに目をやった――緑色の灯りが一つ、はるか遠くにごく小さく見えるだけだった。おそらくあのあたりにある桟橋の先端に付けられたものだろう。
ギャツビーのほうに視線を戻すと、すでにその姿は消えていた。不穏な闇のなか、僕はまたひとりになった。
