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信じるって、「いつか学校に行けると思うこと」じゃなかった

疲れ果てた私。

の隣で、

娘は元気に踊っていた。


学校に行かなくなって数週間。

私は毎日、
どうしたら学校に戻れるんだろう。
このままで大丈夫なんだろうか。
そんなことばかり考えていた。


でも娘は違った。


テレビを見る。
踊る。笑う。
好きなことには夢中になる。
友達とも遊ぶ。
習い事には行く。


学校には行っていない。

でも、

めちゃくちゃ元気だった。


その姿を見ながら、
私はずっと違和感を感じていた。


専門家はこういうとき、言う。

「今は "休憩" の時期。
無理に動かそうとしないでください。

エネルギーが回復したら、
また動き出しますから。」

もちろん、それも一つの見方だと思う。


でも私は、
どこかしっくりこなかった。


なぜなら、
娘を見ていても
「エネルギー切れ」
には見えなかったから。


専門科のその言葉は、
どこかで

"本来は学校に行くのが正常で、
一時的にそこから離脱してる状態"

を前提にしたような言い方で、
それが私にはしっくりこなかったんだと思う。


もちろん私自身もはじめは

「学校に行けない」=「力がない」

そう思っていた。


だから不安だった。
だから心配だった。
だから何とかしようとしていた。


でもある日、
娘が楽しそうに踊る姿を見ながら思った。


本当にそうなんだろうか?


学校には行かない。
でも、
踊る。
笑う。
遊ぶ。
夢中になる。
友達とも遊ぶ。
習い事にも行く。


・・・



じゃあ、
この子のどこに力がないんだろう?


娘は、
私が思っていた以上に
ちゃんと自分を生きている。


嫌なものは嫌と言う。
安心できる場所で笑う。
好きなことに夢中になる。


その力は、
学校に行かなくなったからといって
消えてはいなかったことに気付いた。


この子にはちゃーんと
自分の人生を自分で切り開いていく力がある。

自分を守る力だってあるんだ。



そんな信頼ベースの視点に立ったとき、

娘が、
「学校に行けてない子」ではなく
「ただ学校に行ってないだけ」
になったのだ。


私たち大人は、
「学校に行っているかどうか」で
その子の力を測ろうとしているのかもしれない。


信じるって、
「いつか学校に行けると思うこと」
じゃなかった。


「今のままでも大丈夫」
と腹の底から思えること。


私はずっと、
娘を信じられていなかったんだと思う。


ずっと、
学校に行けない娘」を見ていた。


でも本当は違った。


学校に行かないことを選んでいる娘
を見ていたんだ。


そこには、
私が心配していたような
「力のない子」はいなかった


踊って。
笑って。

自分の「好き」を生きている娘がいた。


学校に行っているかどうかと、
その子の力は別の話なんやな。


そう思った時、
次女のことも重なった。


幼稚園の頃から、
私は何度も思っていた。


「なんで幼稚園でできることが、
家ではできないんだろう?」って。


片付けも。
支度も。
家では全然やらない。
言うこともきかない。


でも今はこう思う。


私はずっと、
学校での姿を基準にしていたんやなって。


私たちはつい、
「学校でできることを家でもできるように」
を目指してしまう。


でも本当は逆なのかもしれない。


家で見せている姿を、
その子らしさとして見てあげること。


学校でちゃんとしているなら、
家までちゃんとしなくていい。


学校で空気を読んでいるなら、
家では読まなくていい。


学校で使った力を、
家でまで使わなくていい。



学校に行かない娘を見ながら、
私はずっと
「何ができないんだろう」
を探していた。


でも、
本当に見るべきだったのは
この子には何があるんだろう
の方だったのかもしれない。


力はある。
ただ今は、そこに使っていないだけ。


そして、
その力を一番よく知っているのは、
案外、先生でも専門家でもなく、
毎日一緒に暮らしている私たちなんじゃないか。



それを教えてくれるのは、
今日も朝ごはんも食べずに遊び、
登校ギリギリになって焦りだし、
私に怒られている(笑)
娘たちだった。


ちなみにこの話は、

前回のnote
『学校に行ってないのは娘なのに、疲れ果てたのは私だった』
の続きでもあります。


まだ読んでいない方は、
こちらからどうぞ👇


子どもの行き渋りや不登校をきっかけに、
私自身が見てきたこと、
気づいたことを書いています。


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