クラクションは霧の中で 3話
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(睦月二十六歳 朔二十一歳 零十六歳)
深夜一時、乳白色のお風呂の中でバルセロナを飛び立つ前の飛行機からメッセージを受信した。それ自体がもう嘘みたいな出来事なのだけれど、それ以上に彼の綴ったラブストーリーの奇想天外さといったら事実は小説より奇なりを体現していて、その誠実で静謐な文面を何度も何度も繰り返し読んだ。私たちの奔放な叔父は世界のどこに行っても変わらず奔放で、自由と恋の人らしかった。
「僕、叔父さんについて行こうと思うんだ。」
零が唐突にそう言ったのは去年の夏の終わり、真夜中のダイニングでのことだった。私たちは向かい合ってチェスをしながら睦月の作るクレームブリュレが焼きあがるのを待っていて、手早く調理を終えてオーブンにココット皿を入れた睦月はエプロンをつけたまま私たちのゲームをぼんやりと見守っていた。
「え。」
ダイニングは甘い香りでいっぱいに満ちていた。私のかすかな声がもれるより速く、零は私のポーンを奪っている。
「来月から世界を旅してまわるんだって。」
それに、僕もついて行こうと思うんだ。零がそう言った時、なんとも間の抜けたタイミングでオーブンがティロッティレッティラッティレッと二回、繰り返し鳴った。睦月が黙って立ち上がり、鍋つかみをはめながら台所に行く。オーブンから熱があふれ出すブーンという低い音がする。
「それはきっと、とても大変だろうけど楽しい旅になるだろうね。」
台所からお盆を持って戻ってきた睦月は私と零の前にお皿をしいたココット皿と小さなスプーンを置きながらいつもと変わらない、やさしい声でそう言った。零はうん、と小さくうなずいてからいただきます、と手を合わせてスプーンを持った。睦月は「熱いから気をつけて。」と言いながら自分の分をテーブルに置いて私の隣に座る。私は、目の前に大好きなクレームブリュレ(それも真夜中の!真夜中に焼くお菓子というのはいつだって愉快で幸福なものだ)があるというのに、ちっとも嬉しくなかった。零がいなくなってしまう。それもいつまでか、無事に帰ってくるかも分からないということは叔父の人柄からして明らかだ。そのことが私をひどく動揺させていた。
当の叔父は、といえばこの家の一階の和室で大の字になって平和な顔ですやすやと眠っていることだろう。一度眠ったら、なかなか起きない人なのだ。
彼がこの家にやってきたのは私が十五歳の時のことだ。彼は私と零の家庭教師としてこの家にやってきた。久しぶりに会った叔父の肩までだらしなく伸ばした黒髪にオーバーサイズの白いティーシャツと短パンという格好、そして口の中で飴玉をコロコロと転がす姿は当時の私にはなかなか、衝撃的だった。私たちの父親はいつも三つ揃えのスーツで出勤して休日もきちんとした格好(最もラフでポロシャツにチノパン、Tシャツを着ているところなど見たことがなかった)をしていたので大人の男性というのは常にそういう恰好をするものだと思っていたし、飴玉というのは幼い子供が舐めるものだと私たちは教えられていた。大人は、飴玉なんて舐めないと思っていたのだ。
「叔父さんは……大学を卒業したのよね?」
「んー、まあ、卒業、はしているね。うん。」
「じゃあ、大人ってことよね?」
初めて勉強を見てもらった時、思わず尋ねた私の言葉に叔父は一瞬きょとんとしてから声を上げて笑った。
「ふはは……大人……まあ、そうだね、大人だ。ちょっと、だめな方のね。」
「だめなの?」
「そう。でも、心配はいらない。」
僕、頭はいいんだ。自信満々にそう言う叔父に当初抱いていた不安はすぐに消えた。実際、全くもってその通りだったからだ。
「どうして博士課程を辞めてしまったの?」
こんなにも聡明な人が中退してしまうなんて大学とは一体どんなところなのか、ある日私は不思議に思って聞いた。叔父は二十六で大学の博士課程を中退してからしばらくフラフラとしていたところをこの家に連れてこられたらしい。私の質問に彼は口の中で飴玉をコロ、と転がしながら少し考えてから言った。
「例えば……共有結合を身体接触だとすると、ただ黙って一緒にいるのが分子間力、言葉を交わすのが金属結合である、と言えそうじゃないか。」
つまり、言葉は電子なんだよ。全ての人の営みは、自然の摂理に帰着できるんだ。
「僕は、もっとそういうことを考えていたかったんだ。」
叔父の〝そういうこと〟の話は面白く、私は大好きだったがこんなにも興味深い彼の論文を教授は受け取ってくれなかったらしい。
「大学ってのもつまらなそうなところね。」
私が言うと叔父は困った顔で笑った。
「それは、自分で行って、見て、決めた方がいいよ。」
学問以外に面白いことも、わりとあるしね。そう言って彼は黄色のあわ玉を一つ、私にくれた。レモン味かと思って受け取ったそれは、口に入れてみると予想に反してパイン味だった。
「ごめんね朔ちゃん。」
顔を上げると零が上目がちに私の顔を見ていた。私が、その表情に弱いことを彼はよくよく知っているのだ。知っていて、わざとそういうことをする。弟のそういう自意識のバランス感覚が、私はとっても好きだ。
「何を謝ることがあるの。」
私はクレームブリュレにスプーンを入れながらなるべく平静を装って言った。あたたかく夢のように甘い半固形物が香りとともに舌の上でとろける。夢みたいに甘くて、幸せなのに、私は今にも泣き出してしまいそうだった。
「行きたいなら、行けばいいじゃない。」
本当は、知っていたのだ。零がこの家から離れたがっていることを。だからこそ叔父も連れ出そうとしたのだということも。
「ただ、」
僕はいつか、レミングたちが迎えに来るのを待っているんだ。零はいつかそう言っていた。彼にとってはそんなことを言ったことさえ忘れてしまうような些細なことだったかもしれない。それでも私は、たしかに覚えている。レミング。ツンドラに住むげっ歯類。町のどこかでひっそりと集まり、海に飛び込んで集団自殺をする生き物。
「毎日メールをちょうだい。」
あと、手紙もね。そう言うと零はもちろん、と言って笑った。そこでようやく私も笑った。微笑みをそっと浮かべながら、私の小さな弟はレミングを待つのを辞めたのだと思った。彼は自分で、レミングを探しに行くのだ。
メールを何度も読み返していたら湯舟のお湯はすっかり冷めてしまっていた。それと同時に身体も冷えて、私はくしゅん、と小さくくしゃみをする。自分の身体のまわりにまとわりつく白い液体がだんだん牛乳みたいに見えてきて、私は風呂から上がりやわらかなバスタオルで身体を拭いた。清潔なコットンのパジャマを着て、白湯を片手に部屋に戻る。スマホをチェックすると短大時代の女友達からランチの誘いが来ていた。
私にはいわゆる「女友達」というやつが少ない。それはもしかしたら「女友達」の定義にもよるのかもしれないが、少なくとも、こうやって卒業後もせっせとお洒落なカフェに一緒に行って素敵なお料理の写真を撮ったり、それをSNSに上げたり、恋の話をあーでもないこーでもないとアイスコーヒーが溶けた氷でうすくなるまでしたり、するような女友達は。
誘いは明日(つまり今日)と急なものだったが私はもちろんオーケー、と返事をした。女友達というのは気まぐれ、あるいは薄情、あるいは残酷なものだ。
隣の部屋からはカタカタとパソコンのキーボードを打つ音がかすかに聞こえていた。睦月もまだ起きているらしい。睦月は未だにノートパソコンではなく古いデスクトップを使っているのでそのキータッチはクラシカルな音がする。クラシカルで、慎ましく、やさしい音だ。しばらくその音に耳をすませながら椅子に座って白湯を飲んでいたが(私は睦月にしか出せないその音が好きなのだ)、ひんやりとした晩秋の夜風が窓からするりと入りこんでくるのを見かねてやがて私は椅子から立ち上がり窓辺に立った。窓から入ってくる彼らに分かっているのよ、と示すみたいに。向かいの家はとっくに明かりを落として、寝静まった町には遠くの街灯のあかりがぼんやりと一つ見えているだけだった。その明かりを少しの間眺めてから窓を半分閉めて、再びスマホをチェックする。女友達からの返事はなかった。もう寝てしまったのだろう。
私はベッドに入り電気を消した。おそらく細かなことは明日の朝、流れるように決まるだろう。ゆっくりと沈んでゆく意識の中でカタ、カタという規則正しい音が遠くで心地よく鳴っていた。
自分の笑い声で目が覚めた。それはお腹の底からこみ上げてくるような大げさなものではなく、小さなワタボコりをフッととばすような、やわらかで微かな、少しくすぐったいような、笑みだった。
目が覚めた時、それがどんな夢だったのか、どうして笑ったのか、あるいはその夢から醒めた時少し悲しい気持ちになったのはなぜなのか。私は何一つ、覚えていなかった。
「この人のこと好きじゃないんだなって気付いた時の絶望ったらないわ。」
そう言いながらキッシュの欠片を口に運ぶ女友達はサラサラとした明るい茶色の髪をあごの下できっちりと切りそろえたボブへアにしていて花柄のブラウスにライトブルーのジージャンを合わせ、細かいプリーツの入った白のミニスカートから形のいい脚を惜しげもなく出していた。
「そうねえ。」
私は彼女の言葉に相槌を打ちながらキッシュをナイフで切って口に運ぶ。今日のランチは華やかなサラダとキッシュロレーヌに小さなバゲットのサンドイッチが添えられたワンプレートと、小さなココット皿のパンプティングだった。
「あれって何でなのかしらね。最初はこの人だ!と思うのに、ある日、フッと気持ちが消えてしまうの。」
こんなんじゃ安心して結婚できないわ。いつ消えちゃうか、分からないんだもの。彼女はそう言ってストローからアイスコーヒーを吸い上げた。
私はそうねぇ、とまた相槌を打ちながらそれは最初の「この人だ!」がそもそも見当違いなのではないかと思ったけれど、言わなかった。私はこの女友達の「ねえ、今の人見た目チャラチャラしてて派手そうなのに傘かしげしてくれたね……!」だけで好きになってしまう惚れっぽさと派手な見た目(今は外しているが、待ち合わせた時には黄色のカンカン帽をかぶっていた)のわりに「傘かしげ」などという古風な単語を使うところをとても気に入っている。
「朔は最近どうなの?」
「どうって何が?」
「恋愛関係に決まってるじゃない!」
じれったそうに言いながら目を輝かせる彼女を素直にかわいいな、と思う。もしかしたら、私と彼女が付き合ったらうまくいくんじゃないかしら。一瞬そんなことを考えたところでいや、とすぐに思い直す。私と彼女の関係は「女友達」以外、有り得ないのだ。
「二カ月くらい前……夏に別れたわ。」
私がそう言うと彼女は「エッ」と言って文字通り目を丸くした。
「何それ聞いてない。」
「言ってないもの。」
私がわざと素気なく言うと、彼女は「そんなぁ……」と言いながら首を横に傾げ、器用に眉毛も垂らして見せた。私はその様子を見てクスクスと笑う。
「どうして別れたの?」
「うーん……」
私はアイスコーヒーの氷をストローでかき混ぜながら適切な言葉を探した。
「もういいかなって、思ったの。」
「飽きたってこと?」
「それに近いかなあ。」
「それ以外に何があるのよ。」
「最初から、面白くは、なかったというか……」
歯切れの悪い私の返事に彼女はなぁに、それ。と言って笑った。
「じゃあなんで付き合ったのよ。」
「名前が素敵だったから。」
私がそう言うと彼女はあら、とまた目を輝かせた。
「それはなかなか、ロマンチックで素敵。」
私は彼女の、こういうところが好きなのだ。
銀座のアンテナショップで買い物をしていくという彼女と別れ、有楽町駅から京浜東北線に乗った。平日の夕方、帰宅ラッシュ前の下り電車はすいていてゆったりと座ることが出来た。
トン、という小さな衝撃の後、電車は静かに加速していく。私はそのブルーのシートに腰かけながら、つい今しがた女友達に言われたことを思い出していた。
「そうは言っても、睦月さんも零くんもいつかは結婚して家を出ていくんでしょう?」
恋人はいらない、零と睦月がいるから寂しくない。そんなことを言った時のことだった。
睦月が、あの家からいなくなるなんて考えたことがなかった。もちろん零に関しても同じように考えていた。彼が叔父についていくと言うまでは。しかしそれでも、零だって今みたいに家を空けることがあっても、いつかはあの家に帰ってくるものだと当たり前に思っていた。それが、普通なのだと。
彼女に言っていないことがもう一つ、あった。
「もういいかなって思ったの。」
そう思ったのは、本当は私ではない。
ある日、睦月がふいに言ったのだ。
「もう、いいんじゃない?」
それを聞いて私は、なるほど、たしかに、もう、いいかもしれない、と思ったのだった。そしてそれは実際、その通りだった。
電車の窓の外を見ると線路際のフェンスごしに手を振っている子供の姿が目に入った。一瞬のはずの邂逅がやけに長く感じられて、私は彼らに手を振り返す。零が小さい時も電車を見に行ってはああやって手を振っていたものだが、あの頃は電車の中の誰も自分たちに気づいていないと思っていた。もしかしたら私みたいに手を振り返した人がいたのかもしれない。遠ざかっていく彼らに、あなたたちが手を振った電車の中に小さく手を振り返した人がいたのよ、と伝える術が永遠にないのだということが、なんだかひどく寂しかった。
睦月はともかく、零が結婚して家を出ていくことはないだろうと私が思っている根拠はちゃんとある。彼が旅に出ると言い出す、少し前のことだ。
「僕分かった。」
買い物を終え、スーパーの前につながれた犬と並んで座っていた零に声をかけると彼はこちらを見上げてそう言った。
「何が?」
私の質問に零は答えない。彼はただ無表情で立ち上がり、私の手から買い物袋をひょいと取り上げると黙ったまま歩き出した。仕方がないので私も黙ってついていく。
「さっきさ、朔ちゃんが来る前に小さな女の子とお母さんの親子がやって来て、小さな女の子が俺の隣にいた犬を叩いたんだよ。」
零は犬が好きだ。一緒に買い物に行っても店先に犬が繋がれていると「ここで待ってる。」と言ってその隣を動かない。その日は大きなゴールデンレトリバーが駐輪場のポールに繋がれているのを見つけて、そそくさとその隣に腰かけていた。
「母親はあわてて俺に謝ってからその女の子に『勝手にわんちゃん触っちゃだめでしょ!』って叱ったんだけどさ。犬はさわっちゃいけないんじゃなくて、叩いちゃいけないんだろ。」
夕方の商店街を歩きながら、私は零が何を言おうとしているのか分からなくて、ただ「そうね」とつまらない相槌を打った。
そのつまらない相槌の後、しばらく二人の間に沈黙を赤らんだ空気が埋めた。零の持つスーパーの袋だけが、ガサ、ガサと規則的に音をたてていた。
「俺、男も女も好きにならないんだ。」
「え、私のことも?」
弟の突然の告白に、私は動揺してとんちんかんな質問を返してしまった。零は私の言葉に笑いながら、
「そういうことじゃ、ないんだよ。」
と言った。
「朔ちゃんのことは好きだよ。もちろん。」
「なら、いいんだけど……」
「うん。」
そしてまた少し黙ってから零は言った。
「睦月くんには、言わないで。」
「……分かった。」
私も少し黙ってから答えた。男も女も好きにならないという私の弟。それを十歳上の兄に知られたくない私の弟。いつもと変わらない商店街の逆光になった西日の中で、私の小さな弟はあっという間に私を追い抜いたその背をやや丸めて歩く。片手に買い物袋を持ち、片手をジーンズのポケットに入れて。その姿がいつもよりひどく小さく見えた。
家に帰ってポストをのぞくと、零からのエアメールが届いていた。毎日のメールに加えて、一、二週間に一回はこうして手紙をくれる筆まめな弟なのだ(私がお願いしたからなのだけど)。
部屋に駆け込んで、はやる気持ちで封を切る。そこには零の細長く繊細な文字で、バルセロナの人々のことや叔父さんの奔放さに困っていること、といった近況の後に、こう綴られていた。
「最後に、最悪な夢を見たので朔ちゃんにだけ伝えるね。メールで送ってネット上に残すのも嫌なくらい、本当最悪な夢。父さんにファックされる夢なんだ。顔も覚えてないのに父親だって分かるんだよ。嫌で嫌でたまらないのに、それでも夢の中の僕はどこかで安心しているんだ。ああ。これで自分が普通じゃないことに分かりやすい理由ができたなって。
こんなこと、朔ちゃんにしか話せない。本当は、この手紙も読んだら破って捨てて欲しいくらいなんだ(まあそう言っても朔ちゃんはしないだろうけど)。ごめんね、朔ちゃん。大好きだよ。睦月くんにも、よろしく。お正月には一度帰ると思います。」
私はいつものメール以上に、何度も何度もその手紙を注意深く読み返してからようやく椅子に座り、ふーと長く深いため息をついた。なんてことだろう。
零が父親に犯されたのは、夢ではないのだ。彼が五歳の時、「それ」は起きた。
その時私はリビングで本を読んでいた。あまりに静かだったから私がいることに気付かなかったのかもしれない。とにかく私はその場に居合わせ、小さな弟を守らねばと必死で、気付いたら台所の包丁を手に持っていた。その後、誰が最初にそれを見つけ、どのように処理したのかは分からない。父の身体はきれいさっぱり消え去り、「失踪した」ということになっていた。
私なのだ。十一年前、父親を殺したのは。当時の零は幼く、あまりにショッキングな出来事のせいでその事件のことはまるで覚えていないようだった。しかしその記憶は深い深いところに眠っている。そして今、深い深いところにあるはずの記憶が夢として再び姿を現わそうとしている。
私は思わず身震いをした。零が家を出て行ったのは、この家にこびりつく嫌な気配を察したからだと思った。家を出れば逃げ切れると思っていた。あの、忌まわしい記憶から。もし零がそれに追いつかれてしまったら彼はきっと自分のせいだと責めるだろう。私の弟は、とてもやさしいから。
十歳の時、父親がいなくなった。十五歳の時、叔父がやってきた。叔父がやってきたのは、母がいなくなったからだ。どこに行ったのか、誰にも分からなかった。そして二十歳の時、叔父と弟が家を出ていった。
今、この広い家には私と睦月しかいない。気づけば我が家は私と睦月の、二人ぽっちになってしまった。
四話→
