クラクションは霧の中で 6話
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(睦月)
十一月の最終日の夜、僕はシュトーレンを焼いていた。本来ならばラム酒でドライフルーツを漬け込んだものをパン生地に練り込むのだが、零がラム酒の匂いを嫌がるので赤ワインで煮込むことにした。夜のキッチンに広がるワインとフルーツの甘い香りに包まれながら、僕は自分の心がとても正しいポジションにあるのが分かった。
ドライフルーツの赤ワイン煮(そんなものがあるのか定かでないが)が出来上がる頃、中種の発酵がちょうど終わった。ベースとなる生地にその中種を加えて混ぜ、こねる。このこねる、という作業をする時、僕は必ずその一押し一押しに全身全霊をささげるつもりでそれを行った。手の腹から生地に力が加わっていくのを身体全体で感じる。一回一回、一度も手を抜かずに丁寧に生地の形を変えていく。そうすることが生地を素晴らしいものにすると僕は信じていた。お菓子やパンを作るとき、すべての手順においてそれは一緒
で、きっと今まで作ってきたものたちには僕の欠片が入っていたに違いない。
こね終わったところで生地に先ほどのワインで煮たナッツとドライフルーツを混ぜ込み、手早く生地を伸ばして二つ折りにしてもう一度、発酵させる。そのまま一八〇度で四十五分。パンが焼ける匂いの中で本を読みながら、僕は早く明日が来ないかな、と思っている。バターをぬって白い粉砂糖をたっぷりかけたシュトーレンを妹と弟が目を輝かせて見つめるのを想像する。クリスマスイヴまで、少しずつスライスして食べながらクリスマスを待つんだよ。と僕は教えてあげる。零は最初、その練り込まれたドライフルーツに警戒するかもしれないから、しっかりとかたまったその生地をスライスしてその香りをかがせてやって、ほら、ラム酒の匂いなんてしないだろ?と笑ってやるのだ。
あるいは、と僕は想像する。もしかしたら今にもこの匂いにつられて二人が起きてくるかもしれない。彼らは焼きたてを僕にせがむだろう。特に朔ちゃんは、夜中の甘い物が大好きだ。僕はバターを刷毛で塗って、粉砂糖をふりながら「仕方ないなあ」と言ってまだやわいその生地をそっと切り、二つに分けて二人の口に放ってやるのだ。二人はきっと口の周りに粉砂糖をつけながら食べるだろう。朔ちゃんも零も、口が小さいから。
それはきっと、素敵な夜だ。はやく、はやく……そんなことを思いながら椅子に座ってオーブンにもたれていたら、オーブンの低い音とあたたかな温度で僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
僕は教室でみんなの前に立っている。男子は学ラン、女子はセーラー服を全員が全員、折り目正しく着ていて、男女が市松模様に並んで座っている。僕は学級委員で、秋にやる学園祭の実行委員を決めなければいけなかった。
「睦月くんがいいと思う。」
女子の一人が言った。僕はその女子の名前が分からない。しかし名前が分からないのは、その子だけではない。
「じゃあ私もやろうかな。」
そう言ってしずしずと手を挙げた女子の名前も、
「睦月がやるのが一番、クラスがまとまるよな。」
と言う男子の名前も、その後彼らが一斉にがやがやと喧しく話しだす言葉の意味も、僕には分からないのだった。
一体どうして、こんなことになったのだろう。どうして僕は朔ちゃんや、零みたいに自由じゃなくて、こんなところにいるのだろう。どうしてこんなにもたくさんの人の中にいながら、ひどく独りぼっちな気分なのだろう。
「じゃあ睦月くん、お願い出来るかしら。」
僕のことを慣れ慣れしく下の名前で呼ぶ、その若い女性教諭の名前も分からなかった。
「僕でよければ、もちろん。」
薄っぺらい笑顔を浮かべながら、自分の声をやけに遠くに感じた。早く家に帰って朔ちゃんと零に会いたい、と思った。
泣いている母の背中を、叔父が慰めるようにさすっている。そうだ、昨日、父がいなくなったのだ。煙草を買ってくる、と言ってフラッと家を出て行ったきり、彼は戻ってこなかった。事故か事件に巻き込まれたのか。最初はもちろんその線を疑ったが、昨日報告のあった事故の中にそれらしい人間はおらず、よく見てみれば引き出しからパスポートが消えていた。どうやら最初から、父はどこか遠くへ行くことを決めていたようだった。僕たちの知らない、誰かと。僕たちを、置いて。
僕たちは父親に捨てられたのだ。
隣には朔ちゃんがいて、その隣には零がいて、真ん中に座る朔ちゃんが僕と零の手をぎゅっと握っていた。零はまだ五歳で、この状況を正確に理解できているとは到底思えなかったが、何かを感じ取ったのか静かに泣いていた。とても五歳の子供とは思えない、静かな静かな、泣き方だった。
朔ちゃんは泣いていなかった。ただ唇をぎゅっと噛みしめ、どこか一点をにらみつけているようだった。
僕は、悲しくなかった。悲しみよりも、父への憎悪が勝っていた。僕の大切な妹と弟に、こんな表情をさせる父が憎くて憎くて、たまらなかった。
僕は二人を抱き寄せ、まとめてぎゅっと抱きしめた。まだ小さな妹と弟。世界で一番大切な二人。この二人を僕が守らなければいけない。そう強く思った。
波打ち際に白いワンピースを着た朔ちゃんが立っていた。僕はそれをパラソルの下に寝そべって眺めている。彼女は色素の薄い髪を風になびかせて、夏の日差しを透過してしまいそうなほどに白い足で海面を蹴って歩いていた。僕はその景色があまりに美しく思えて、それが世界の全てのように感じた。
「睦月ー。」
振り返った彼女が僕の名前を呼ぶ。僕はこのうえなく幸せな気持ちでいっぱいになりながら彼女に手を振る。彼女が砂浜に足をとられながら、それでも懸命に走って、パラソルの下に戻ってくる。リクライニングチェアに寝そべっていた僕の上から覆いかぶさるようにして彼女はパラソルの下に入ってきた。僕は「重いよ」なんて軽口をたたきながら、彼女がずっとそこにいてくれたらいいな、と思っている。
「ねえ、零は?」
無邪気な顔でそう言う彼女に僕は何故だか無性に苛立った。何かひどいことを言ってやりたいような、そんな最低で最悪の気分だった。
「なんでそうやっていつも零のことばかり言うの。」
感情を抑えきれず、僕の声はトゲトゲとしていた。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて。」
そう言って朔ちゃんはピタリと頬を僕の胸にあてた。僕の心臓の音をその耳で確かめているようだった。
「睦月がいれば、それでいいの。本当よ。」
自分の叫び声で目が覚めた。背中は汗でびっしょりで、心臓がまだバクバクとうるさく鳴っていた。どんな夢を見たのか分からない。ただ、ひどく嫌な夢を見たということだけ覚えている。隣を見ると、朔はまだスヤスヤと眠っていた。彼女は一度眠ると、なかなか起きないのだ。僕は彼女を起こさなかったことにホッとしながら、その顔にかかった髪をよけてやる。
「とってもきれいだ。」
その顔があまりにきれいで、僕は口に出して言ってしまう。朔は目覚めない。
僕はそっとベッドを抜け出し、シャツを着替えるとまたそっとベッドに戻った。今度はその振動で彼女が薄く目を開けたが、んー、とも、むー、ともつかない声を出しながら寝ぼけた顔で僕の腕の中に入ってくると、また静かな寝息をたて始めた。腕の中に確かに彼女の存在がある。そのことが心をまあるく落ち着けていくのが分かった。
僕の弱さと、彼女への思いが無関係でありますように。そんなことを祈りながら僕は再び眠りに落ちる。
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