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クラクションは霧の中で 7話

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(睦月三十五歳 朔三十歳 零二十五歳)

 彼女はいつだって一番前の真ん中の席で、ピンと姿勢を正して教習所の学科講義を受けていた。そんな風に真面目に講習を受けているような人間は彼女の他にいなかったのでなんとなく興味がわいて、ある日の講義で彼女の斜め後ろ、つまり二列目の席に座ってみた。
 その日は安全の確認と合図、という単元の日でモスグリーンのワンピースを着た彼女は「霧の中や見晴らしの悪いカーブでは自分の存在を対向車に知らせるために警笛を鳴らす。」という記述の部分にひどく熱心に何度も何度も線を引いていた。その背中にはなんだか鬼気迫るものがあって、僕は思わず目を背けて机の上に開いた教習本に視線をおとした。警笛は霧の中で鳴らす。警笛、つまりクラクションというのはそのためにあったのか、と驚く一方で深く納得してもいた。町中で攻撃的に鳴らされるクラクション、あの異常なまでの大音量はもともとは自分の存在を遠くの人に知らせるためのものだった。あんな風に自分の苛立ちと怒りを表明するために鳴らすような機能が最初からつけられるわけがない、ということが腑に落ちるとともになんだか安心してしまったのだ。
「ねえ。」
 授業後に思わず彼女に声をかけたのは、そんな小さな感動を共有したような気持ちになっていたからかもしれない。
「この後、お茶でもどうかな。」
 彼女は私?ときょとんとした顔をした。初めてちゃんと見る彼女の顔は小さくて白くて、陶器人形のように美しかった。
「月が特別きれいってわけでもないのに?」
「え?」
「なんでもないわ。」
 そして彼女はフッとゆるんだ笑みをこぼした。
「昔をちょっと思い出しただけ。いいわ、行きましょう。」
 人生で初めての、下手くそなナンパだった。

「朔ちゃん今何段階?」
 教習所で彼女の姿を見かけて声をかけると彼女はふくれっ面で
「まだ一段階よ。」
 と言った。その表情がかわいくて、僕は声を出して笑う。だいぶ幼く見える彼女が僕より十コも年上だということが明らかになり、最初は朔さん、と呼んでいたのだがあまりに呼びづらく、それを見かねた彼女が
「朔ちゃん、でいいわ。みんなそう呼ぶから。」
 と言うのでお言葉に甘えて朔ちゃん、と呼んでいる。朔ちゃんは独身で、お兄さんと二人暮らし、翻訳の仕事をしているが、海外には行ったことがないらしい。
「海外なんかいかなくても言語を獲得することなんて出来るわよ。」
 というのが彼女の言い分であった。
「S字クランクがね、うまくいかないの。」
 言語の獲得はやすやすと出来てもハンドル捌きはちっとも上達しない彼女が苦々しい顔でパックのコーヒー牛乳を吸うのを僕は楽しい気持ちで見つめる。最初はもちろん下心がなかったといえば嘘になるが(そして今も決してゼロとは言えないのだが)、今はなんだか彼女が危なっかしい姉のように思えて、彼女の一挙手一投足を見守っているだけで楽しい気持ちになった。
「あんなのコツをつかんじゃえばすぐに出来るようになるよ。」
「ディーラーからうちまで、あんな細くて曲がりくねった道なんてないもの。」
 だから別に出来なくてもいいのに。そう言う彼女の言葉に僕は笑う。
「ディーラーから家って。一度納車したらもう家から出さないつもりなの?」
「そうよ。」
 彼女の返事は大真面目で、それをシュールな冗談として言っているのか、あるいは心からそう思っているのか、分からなかった。彼女はたまに、そういうことをそういう風に言った。
「いずれにせよ、早くしないと僕だけ先に卒業しちゃうよ。」
 僕が言うと彼女はあら、と首をかしげた。
「いいじゃないの。さっさと先に卒業してしまいなさいよ。」
 彼女が笑った。僕も笑った。今度のは、軽口だと分かった。
「それより昼飯食いに行こうよ。おなかぺこぺこ。」
 僕がそう言うと彼女は自然に椅子から立ち上がった。
「モスバーガーでいい?」
「いいよ。」
 彼女はハンバーガーショップに行くのが好きだ。自分はハンバーガーを食べずにホットドッグを食べるのに何故か僕と一緒だとハンバーガーショップに度々行きたがった。どうしてハンバーガーショップなのか。以前、その理由を聞くと彼女は答えた。
「経験上、男の人がハンバーガーを食べるのを見るのは気持ちのよいものだと分かっているからよ。」
 彼女は僕がハンバーガーにかぶりつく時、眩しいものを見るような顔でいつも僕のことを見た。その表情はなんだか幸せそうではあったがどこか遠くの違うものを見ているようでもあって、僕は彼女のその表情に気づかないふりをすることに決めていた。

 結局、彼女が仮免でもたついているうちに僕はさっさと先に卒業することになった。
「また会える?」
 僕が聞くと彼女は悲しそうに首を横に振った。
「ごめんなさい、あなたが悪いんじゃなくて、その、これは私の問題として、もうあなたとは会えないの。」
「なんで?」
 彼女はしばらく俯いて黙っていたが、しばらくしてぽつりと今にも消えそうな声で言った。
「弟に似ているの。」
 あなたが。彼女はそんなことがひどく重い罪であるかのように苦々しく言った。
「でもあなたは口が大きくて、そこが違うからハンバーガー屋に行ったの。何度も行ったの。」
 彼女は言い訳のようにそう言ったが、僕には彼女の言わんとすることの意味が分からなくて、ひどく寂しくなった。それはきっと、僕が見ないようにしてきた彼女の表情の意味と重大な関連があるのだ。
「別にいいよ。弟だと思ってくれていても。」
「だめなの。」
 彼女はくちびるを噛んで、また首を横に振った。ぶんぶんと音が鳴りそうなくらい、激しく振った。
「私の弟は、一人だけだから。」
 だから、だめなの。僕にはそうやって小さくなった彼女がなんだか痛々しく見えて、これでお別れなんてあんまりだと思った。いつものように美しく姿勢をのばし、優雅に微笑む彼女が見たかった。
「じゃあさ、」
 だからいっそのこと怒ってくれ、と思ったのだ。そんなに申し訳なさそうにするぐらいだったら、いっそのこと怒って、僕のことなんて嫌いになって、勇ましい顔で僕を傷つけてくれ。
「最後に一回だけ、寝てくれない?」
 平手打ちを食らってもいいと思った。むしろそうして欲しいと思った。誇り高い顔で彼女に手を下して欲しかった。そうしなければ、彼女とうまくお別れできないと思った。
 しかし彼女は少し黙りこむと、意を決した顔を上げて言った。
「いいわ。」
「え。」
 動揺したのは、僕だった。
「それで、さよならしましょ。」
 きっぱりとそう言う彼女はいつもの凜とした表情で、僕はやっぱり美しいな、と思った。

 僕らは教習所のすぐ目の前にあるホテルに入った。一見すれば品のいい普通のホテルで、冬になると表の木々がイルミネーションで輝く、休憩できるホテル。
 彼女が先にシャワーを浴びて、続けて僕もシャワーを浴びた。シャワーから出るとバスローブを着た彼女がベッドで大の字になって待っていて、その色気のなさに笑いつつも彼女がこちらを見て微笑むと、きちんと興奮した。バスローブの下から出てきた彼女の身体は華奢で、薄っぺらくて、丁寧に丁寧に扱わないと壊れてしまいそうだった。しかし決してかたくはなく、つやつやと白くしなやかだった。一つ一つ丁寧に、順序を確かめるように僕たちは事に及んだ。その全てが素晴らしかった。彼女を抱きしめているようで、彼女に包まれているようだった。そんなことは、初めてだった。
 事が済むと、僕らは手をつないでぴたりと身体をくっつけて眠った。彼女を後ろから抱きしめるようにしてその髪の匂いを嗅ぎながら、ここが、この部屋のこのベッドの中が、世界で一番安全な場所だと思った。そして本当は、最初からただこれだけが欲しかったのだと分かった。

 朝、彼女の泣き声で目が覚めた。
「どうしたの。」
 彼女は答えなかった。よく見ると、ベッドのサイドテーブルに置いてあったホテルのメモ台を胸に抱きしめている。
「なんでもないの。」
 彼女はメモを一枚破ると、呆然とベッドに腰掛ける僕の目の前でさっさと服を身に着け始めた。チェックのロングスカートに足を通してサイドのファスナーをあげる。こんな時でも僕はその服の中にピタリと収まる彼女の身体の造形に惚れ惚れとしている。彼女は続けてやわらかなブラウスのボタンを一つ一つ留めてから、あ、と小さく声をもらした。順番が違う。スカートのファスナーをもう一度下ろしてブラウスの裾を入れ、再びピタリとそのスカートの中に彼女の細いウエストが収まった時、僕はようやく口を開いた。
「弟とセックスしたかったの?」
 その時、初めて彼女は僕の方を見た。恐ろしい表情をしていた。いつも穏やかな目が眼球の形が見て取れるほどに見開かれ、口元は震えている。目元に残っていた最後の一粒の涙が、ぽろ、と頬を伝って落ちた。後には続かなかった。
 彼女は何かひどく恐ろしく、あるいはおぞましいものに出会ったような顔をしていた。そしてそのおぞましいものというのは、間違いなく僕だった。これまでずっと、彼女は僕を見ていると思っていた。その先に誰かがいるとしても。それが勘違いだったということにその目を見てようやく気づいた。彼女ははなから僕など見ていなかったのだ。
「姉弟で恋をするなんて、おかしいよ。」
 気づいた時には僕はベッドに倒れていて目の前に彼女の顔があった。彼女の長い髪が降り注ぎ、細くて小さな手が僕の首をしめている。ぼた、と額に水滴が落ちた。あまりに大きな粒だったので雨粒かと思った。
「私たちは……おかしくない。」
 彼女の声は震えていた。陶器人形のような顔が大きくゆがんで涙が後から後からあふれた。
「私たちは、おかしくない!私たちはおかしくなんてない!」
 ぼたぼたと涙を流しながら彼女の声はどんどん大きくなっていった。身体じゅうから迸るエネルギーの限りに彼女は叫んだ。私たちは、これでいいのに。
 彼女はそのまま僕の胸に顔をうずめて嗚咽をもらした。セックスなんかよりよっぽどその吐息は熱かった。震える身体がどんどん小さくなって「朔ちゃん」に戻っていく。
 間もなくして彼女は上体を起こし、ぐいっと乱暴に涙を拭うと黙って部屋を出て行った。その後ろ姿がぴんと伸びて美しかったので、僕はもう呼び止めなかった。
 首をしめられても全く怖くなかった。僕の首に伸びた彼女の手はずっと震えていて、全く力が入っていなかった。それはただ、優しく包み込んでいるだけのようだった。
 結局最後に見た彼女の顔は、申し訳なさそうな顔でも、微笑んだ顔でもなく、泣いた顔になってしまった。ベッドに再びポスっと身を預けながら、ただそのことだけが残念だった。彼女のことが変わらず好きだ、と思った。

(補足資料)
  フロイトの夢分析に関する覚書

 抑圧の三段階について
 人は辛い記憶に対する抵抗として三段階の抑圧を有する。

・最も強い抑圧
 出来事の記憶をまるごと喪失。忘れているということすら、意識にのぼらない。

・中間の抑圧
 何かを忘れている、ということに気付きながら他の鮮烈な記憶を自ら形成することで辛い記憶を消そうとする遮蔽想起が起こる。

・弱い抑圧
 外傷となる記憶をそのまま記憶。PTSDとして症状に現れる。うっかり不愉快な本心を語りがちになるがどうして自分がそんなことをするのか理解できない。

 夢は自分の欲望の現れであり、その欲望を自らが受け止められるように二次加工が施される。夢を見ることによって抑圧は解放されている。


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