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第31回 毎月短歌 【自選部門】 遠藤雄介選

こんにちは。遠藤雄介です。

2月はテーマ詠部門がお休みだったので、先月同様自選部門を担当させていただきました。自選部門は歌の幅が広く、テーマ詠ともまた違って毎回楽しいですね。

今回は全422首でした。歌集一冊分以上の短歌の洪水を浴び、かつそれが自選というのだからこんなに贅沢な話はありません。

さてそれでは、今月も張り切っていきましょ~。


一席
わたくしの煌びやかなる衝動を常設展示するクロゼット

作者:まさけ

しばしば乱れとして扱われる「衝動」が、この歌ではまるで宝飾のごとく尊ばれています。

扉の向こうに並ぶのはただの衣服ではなく、ある瞬間に胸のなかで閃いた「欲しい」という光の名残です。その残光を隠すのでも抑えるのでもなく、丁寧にハンガーへ掛け、永く見つめ続ける、そんな姿が浮かび上がります。「煌びやかなる」というやや過剰な光の言葉には、誇らしさと同時にすこしの自嘲的な笑みも含まれているようです。

「常設展示するクロゼット」という比喩は、日常の片隅にある小さな空間を内面の美術館へと変える魔法のようです。一般的に衝動買いは後悔と共にあり、クロゼットを開けるたびに負の感情が湧く方が自然ですが、この表現によりそれは反転し、

【クロゼットの扉を開けることは、過去の自分が放ったきらめきを、そっと見に行くことなのだ】

と捉え直させてくれます。それらを “展示” として扱う作者のまなざしは、静かな誇りと自意識の輝きを讃えています。それは浪費ではなく、ひそやかな自己肯定の儀式と言えるのではないか、と。

この歌は、心の深部に秘められた欲望や感性を羞じることなく展示するという宣言でもあります。クロゼットはそのための聖域であり、内なる世界を祝福する小さな祭壇のように我々の前に立ち続けているのです。

短歌を詠んでいると、ひとつの歌が視界を完全に更新するということをしばしば経験をします。
この歌がまさにそうで、クロゼットを見るたびにきっとこの歌を思い出し、勇気を貰えそうです。


二席
未来でも真珠は宝石だといいな僕らの骨もカルシウムだよ

作者:花星沙夜

「真珠」と「骨」という二つのカルシウム的存在を対置しながら、価値の歴史性と物質の普遍性を照射した歌です。

真珠の歴史を見ると、その価値は不変ではありませんでした。御木本幸吉が1893年に世界初の養殖真珠を成功させ、真珠の希少性と「宝石」の定義を大きく変動させた事実を踏まえると「未来でも真珠は宝石だといいな」という願いは、価値の不確定性を知る現代人にまず論理的に響きます。

下句の「僕らの骨もカルシウムだよ」は、科学的な事実の提示によって歌の温度を適度に下げ、価値(宝石)と言明事実(物質)を並置しています。真珠も骨もカルシウム化合物でありながら、一方は文化的価値を帯び、他方は生物学的基盤に留まる、その落差がむしろ価値の脆さと美しさを強調します。いつか僕らも真珠になれるのかもしれない、そんな予感と共に。

物質自体の希少性ではなく「ただ美しい」だけのものが宝石として扱われていること。そしてそれがずっと続いてほしいと願うこと。
それはつまり【美そのものへの賛歌】なのではないでしょうか。

平明ながら、人類の文化史と科学を静かに接続する美しい一首です。


三席
わたくしを見上げるきみの喉にあるリンゴをアダムから奪いたい

作者:てと

喉仏を「Adam’s Apple(アダムのリンゴ)」として捉える英語圏の文化を踏まえ、喉の小さな隆起をひとつの象徴へと高めている点が印象的です。

「わたくしを見上げるきみ」はまだ幼く、しかしその喉にはすでにアダムのリンゴ、すなわち成長の徴・男性性の萌芽が宿り始めている。その変化を前にした主体の感情は単なる愛情でも不安でもない、親が子に抱く複雑なまなざしとして描かれます。

「アダムから奪いたい」という表現が、喉仏の象徴性を反転させます。
キリスト教における “アダムのリンゴ” は、禁断の果実を食べた原罪の記憶を背負っており、神の園を追われた人間の【子どもであり続けることはできない】という宿命を帯びています。主体がそれを「奪いたい」というのは、子が原罪=成長の必然(≒生老病死)から解放されてほしいという願いです。

喉仏を男性性の象徴と捉えるとまた違う見方もできます。無垢な我が子が成長し、男性という競争社会に放り込まれ、或いはトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)を備えていく、そんな未来への不安です。主体はその喉に宿る「リンゴ」を掬い上げるように見つめますが、そこには幼さの残る横顔を永く抱き締めていたいという優しさと、成長を受け止める覚悟のあいだで揺れる柔らかな抵抗があります。

喉仏というごく小さな身体の部位に原罪・成長・男性性という大きなテーマを重ねつつ過度に劇的にならず、むしろ私的な情感の密やかさを保っている点にこの歌の魅力があります。日常の一瞬を普遍的な象徴へとつなぎ、親と子の関係性に固有のほの暗い温かさを丁寧に掬い上げた作品です。


佳作
雨粒が夜をつたって着地するとき街灯は舞台照明

作者:natsuko

雨の降下運動を「夜をつたう」と表現したところに、まず視線の詩的な角度があります。夜そのものを垂直の通路として、雨粒が着地する。まるで雨の一粒一粒が劇的な演目の一場面であるかのように扱われています。

またそれを照らす街灯の光に舞台照明の比喩を与えることで、都市の夜景が突如として劇場へと転換されます。歩道や路面は舞台へと変わり、街を行き交う人々や車の動きまでが演劇の一部のようにも見えてきます。
歌の主役はいかにも雨であるようで、結句を「街灯は舞台照明」で締めているのも心憎い演出です。かっこいい。

一瞬の雨に光と焦点を当て、ドラマティックに描いた秀作です。

佳作
影だけを踏んで帰った通学路に満ちる光に溺れぬように

作者:宇井モナミ

「影を踏んで帰る」という遊びは誰しも経験があると思いますが、それを「光に溺れぬように」と説明された瞬間、心象風景が反転します。
即ち「集団に混ざらなかった・混ざれなかった」というささやかな孤独と「光ではなく影を選択していたのだ」という暗い能動性です。

大人の視点として読んでも面白いかもしれません。通学路をゆく子どもたちこそが光であり、その傍を歩く自分はかつて影に寄って歩いた子どもの続きとして【光の中心にはいない大人】として描かれているかたちです。

いずれの読みでも「影だけを踏む」という身ぶりには、世界と適度な距離を保ちながら歩いてきた主体の気質が表れ、歌全体に静かな輪郭を与えています。押しつけられる明るさに呑まれず、しかし孤独に沈み込むわけでもない、その揺らぎを捉えた作品といえます。

佳作
もうあとは忘れていくだけなんだろう電車の音のデクレッシェンド

作者:雪風みなと

電車が遠ざかるときの音の減衰を音楽用語で捉えることで、記憶が弱まっていく過程と聴覚的現象が重ねられ、説明に依らず感情が立ち上がります。

「デクレッシェンド」という語から、ただ小さくなるのではなく、段階的に静まっていく繊細な時間の流れを感じ取ることができます。忘却は一気に訪れるのではなく、気づかないうちに徐々に遠ざかってゆく、その不可逆の感覚が電車の響きに象徴されます。

「だけ」「だろう」「電車」「デクレッシェンド」と周期的なd音が入ることにより、電車の過ぎゆく音も想起させます。リズムも良い歌です。


また、その他で印象に残った短歌を入選として紹介します。

入選
背伸びして届かなかった吊り革が掴めるように離せぬように

作者:片辺かた

主体の成長の物語を感じさせつつ、吊り革へのイメージの変容を上手く捉えられている点がいいですね。

入選
息を吐いて泣いて歩こう俺たちは確かに海を這い出たはずだ

作者:玄田生

息を吐くことも、泣くことも、歩くことも、海の中ではできません。
海の中に居続けたら(進化しなかったら)感じなかったであろう落胆、悲嘆、そして再生。これらを力強く肯定する下の句が魅力です。

入選
泥中の田螺のようにひっそりと生きたい 水を浄化しながら

作者:白里りこ

隠遁を願いつつ、それでも「水を浄化しながら生きたい」という部分に強い共感を覚えました。ひとりで生きたいと願いつつ、一方で社会との関わりを欲してしまう人間の姿を、田螺を媒介に上手に織り込めています。

入選
ロッカーの置き傘ふいの雨を得てすわんと冬の空へ羽ばたく

作者:小野小乃々

「すわんと」がいいですね。
傘を開くときの音にSwan(白鳥)のイメージを重ねたユニークな表現と思います。埃を被った置き傘が雨に相対するときの喜びが伝わってきます。


今回こそは短めに書こうと思いつつ、書き出すと止まらなくなるのは悪い癖ですね。

意味を込めるばかりが短歌ではない、と諭されそうでもありますが、暫くはこのスタイルでいこうかなと思います。読み解いてもらったことで救われた自分の歌も沢山ありましたので、その恩返しとして。

それではまた来月お会いしましょう!

鈴虫と名付けられたる鈴よりも永く大地を奏で来しもの

遠藤雄介

2026.3.15
遠藤雄介

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