見出し画像

世界の言語に見る、多様な『わたし』|『わたし』とは何か─縁起の視座から問い直す あとがき

関係の前にある『わたし』と、関係の中で変わる『わたし』

ここまで、日本語における多様な『わたし』の言葉をたどってきました。

英語では、自分を指す基本の言葉は I です。フランス語では je です。アラビア語では أنا / anā、ペルシャ語では من / man が「私」にあたります。もちろん、文脈や言い回しによって違いはありますが、一人称そのものは比較的はっきりと一語に集約されています。

一方、日本語には、「私」「僕」「俺」「わし」「うち」「自分」など、さまざまな一人称があります。しかもそれらは、同じ一つの『わたし』を別の名前で呼んでいるだけではありません。相手との関係、年齢、立場、親しさ、敬意、その場の状況によって、『わたし』の現れ方そのものが変わってくると受け止めているのです。

仏教文化圏との重なり

実は、このような多様な一人称のあり方は、日本語だけに限られているわけではありません。

漢語、朝鮮語、ベトナム語、タイ語、ラオス語、カンボジア語、ミャンマー語など、東アジアや東南アジアの言語にも、関係や場に応じて、『わたし』を指し示す言葉を変える言語が多く見られます。また、太平洋諸島の言語にも、「私たち」を、聞き手を含むか含まないかによって言い分けるものがあります。

言語は、家族制度、社会構造、敬語体系、歴史、地域文化など、さまざまな要素によって成り立っています。

ですから、こうした特徴を、ただちに仏教の影響であると言うことはできません。

それでもなお興味深いのは、こうした多様な一人称を持つ言語が、仏教を受け入れてきた東アジア・東南アジアの地域と少なからず重なっていることです。

もちろん、同じ仏教文化圏でも、すべての地域に同じ特徴が見られるわけではありません。スリランカのシンハラ語やモンゴル語などでは、一人称そのものは比較的限られています。
チベット語も、古典語や仏教語の層では複数の『わたし』の表現を持っていますが、日本語や東南アジア諸語のように、日常の場面ごとに多様な一人称を使い分ける言語とは、少し性格が異なります。

ただ、場や関係の中で『わたし』が現れるという感覚を、すでに言語の中に持っていた地域だからこそ、縁起や無我という見え方を、単なる思想としてではなく、生活の感覚を通して受け止める余地があったのではないか。そう考えることはできるように思います。

言葉を通して身に馴染んでいく『わたし』

英語やフランス語、アラビア語やペルシャ語のように、一人称が比較的明確に立つ言語では、まず一つの主体としての『わたし』が立ちます。
ですから、その主体が世界や他者と関係する、という見え方が強くなりやすいのかもしれません。
そのため、場に応じて多様な『わたし』が現れているという縁起や無我の見え方は、生活の感覚として腑に落ちにくい面もあるでしょう。

それに対して、多様な一人称を持つ言語では、「私はいつも同じ一つの私である」というよりも、「その時、その場、その関係の中で、『わたし』はさまざまな姿として現れる」という縁起や無我の見え方が、言葉の上でも自然に受け止めやすかったのかもしれません。
つまり、こうした言語には、言語の側にすでにあった多様な『わたし』の感覚と、仏教の縁起の視座とが、どこかで響き合っていたのではないか、ということです。

その意味で言うと、多様な『わたし』を語りうる言語を使って生きていることは、単に多くの一人称を使い分けているということではありません。
その時、その場、その関係の中で、『わたし』はさまざまな姿として現れている。その感覚を、日々の言葉の中で、自ずと身に受け止めていることでもあるのではないでしょうか。

もちろん仏教の縁起や無我は、教えとして学ばれるものです。けれども同時に、そうした多様な一人称を持つ言語を生きることで、縁起の視座が、知らず知らずのうちに身に馴染んでいく。

『わたし』は縁起して『わたし』と成っている

私たちは、そのような言葉を話しながらも、そこにどのような『わたし』の感覚が含まれているのかには、案外気づかずにいるのかもしれません。

だからこそ、あらためて言葉を見つめ直すことには意味があります。
私たちが何気なく使っている多様な一人称の中には、固定された一つの『わたし』ではなく、

『わたし』は縁起して『わたし』と成っている

という縁の中でそのつど多様な『わたし』と成っているという感覚が、すでに息づいているのではないでしょうか。

『わたし』とは何か─縁起の視座から問い直す 了


◀ 前の記事はこちら
自分と、なっているから。|『わたし』とは何か─縁起の視座から問い直す 結び

#創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

いいなと思ったら応援しよう!

縁起の視座|杉本虚道(臨済宗僧侶) 記事を読んでくださり、ありがとうございます。いただいたサポートは、これからも仏教・禅・縁起の視座を、日々の言葉として届けていくために大切に使わせていただきます。