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自分と、なっているから。|『わたし』とは何か─縁起の視座から問い直す 結び

この連載は、小林一茶のこの句から始まりました。

思ふまじ 見まじとすれど わが家かな

思うまい、見まい。そう思っても、なお気にかかるものがある。そんな「わが家」の姿に、『わたし』という問いを重ねてみたいと思ったのです。

「わが家」は、ただ一軒の建物としてあるのではありません。その土地があり、家があり、人があり、季節があり、匂いがあり、記憶があり、暮らしの手触りがあります。離れていた時間もあれば、帰りたいという思いもあります。そうしたものが重なり合う中で、「わが家」は、その時々の「わが家」として立ち現れてきます。

言い換えれば、「わが家」という確固とした建物があるわけではなく、さまざまな縁の中で、「わが家と、なっている」のではないでしょうか。
『わたし』もまた、それに似ているように思います。

「自分はない」のではない

仏教というと、「自分はない」「私はない」といった言葉で語られることがあります。

たしかに、仏教は、固定された『わたし』を深く問い直す教えです。

私たちは、どこかに変わらない本当の『わたし』があるように思いがちです。その『わたし』を探そうとし、その『わたし』を守ろうとし、その『わたし』をつかもうとします。

けれども、この連載で考えたかったのは、そんな『わたし』がないことを確かめることではありませんでした。

「わたしはない」のではありません。

ただ、本当に、あらかじめどこかに確固とした『わたし』があるのでしょうか。そのことを、一緒に考えてみたかったのです。

その手がかりとして、仏教の縁起の視座から、『わたし』を指し示す言葉を問い直してみました。

縁起とは、ものごとは、さまざまなものごとが関わり、重なり合わさって成っていると説く、生成の原理であり、仏教の根本思想です。

この視座に立てば、私たちは、さまざまな縁の中で、いまここに、『わたし』となっているのです。

「私」は、公と私のあいだに立ち現れる『わたし』を示していました。
「我」は、仏教において深く問い直される、握りしめられた『わたし』を示していました。
「吾」は、語る者としての『わたし』を感じさせる言葉でした。
「己」は、省みられ、顧みられる『わたし』として現れてきました。
「身」は、抽象的な自己ではなく、身をもって現れている『わたし』を示していました。
「分」は、ただ分けられた部分ではなく、その時その場における本分としての『わたし』を示していました。
「自」は、自らと自ずからという二つの方向から、『わたし』を指し示していました。
そして「自己」は、深められるものから背負わされる『わたし』として重くなってきました。
最後に見た「自分」は、現代の私たちにとってもっとも身近な『わたし』の言葉であり、同時に、そこには確固たる『わたし』、集約される『わたし』の響きもありました。

こうして見てくると、どの言葉も、『わたし』の一面を照らしています。
決して『わたし』は、ないのではありません。

一語では言い尽くせない

ただ、どれか一つの言葉だけが、縁起的な『わたし』を指し示しているわけではない、ということです。

「私」と言えば、「私」としての『わたし』だけに見えてしまいます。
「我」と言えば、「我」としての『わたし』だけに見えてしまいます。
「自分」と言えば、「自分」としての『わたし』だけに見えてしまいます。

どれか一つを取り出して、「これこそが縁起的な『わたし』です」と言ってしまえば、その瞬間に、『わたし』は確固たるものになってしまいます。

縁が変われば、見え方も変わります。
場が変われば、現れ方も変わります。
関わりが変われば、『わたし』のありようも変わってきます。

だからこそ、縁起的な『わたし』を指し示すのにふさわしい語が、どこかに一語だけあるというよりも、むしろ、多様な『わたし』を指し示すことのできる日本語のあり方そのものに、縁起的な『わたし』を表す可能性があったのではないでしょうか。

日本語には、実に『わたし』を表す言葉がたくさんあります。私、僕、俺、わし、うち、それがし、拙者。地域によっても、時代によっても、年齢によっても、性別によっても、立場によっても、相手との関係によっても、敬意によっても、さまざまな言葉が用いられ、今もなお新しい『わたし』を表す言葉が生まれています。

あるいは、日本語では、『わたし』を言わないこともあります。
「私は行きます」と言わずに、「行きます」と言う。「私はそう思います」と言わずに、「そう思います」と言う。
言葉として前に出てこなくても、場の流れ、相手との関係、話している身の置かれ方の中で、『わたし』はちゃんと現れています。

こういった多彩な表現は、同じ一つの『わたし』を別の名前で呼んでいるだけではありません。

その場その場で、『わたし』の違った姿を表現しているのです。

その時、その場、その関係の中で、『わたし』の現れ方が変わる。日本語の多様な一人称には、そのような縁起の事実を、生活の中で自然に受け止める感覚や表現が息づいている。そう言えるのではないでしょうか。

そう考えるならば、日本語の多様な『わたし』の表現方法そのものが、縁起的な『わたし』を指し示していたと言えるのではないでしょうか。

「自分」に集まる時代に

けれども現代では、その多様な『わたし』が、「自分」という一語に集まりつつあるようにも見えます。

自分で決める。自分らしく生きる。自分を大切にする。自分探し。

どれも、私たちにとって自然な言葉です。
「自分」は、いまを生きる私たちにとって、とても使いやすい言葉です。強すぎず、硬すぎず、けれども確かに『わたし』を指し示すことができます。

ただ、その使いやすさの中で、見えにくくなる『わたし』もあるのかもしれません。

場によって変わる『わたし』。
相手によって変わる『わたし』。
言葉にしたり、言葉にしなかったりしながら現れる『わたし』。

そうした感受や機微が、「自分」という一語に集約してしまうことで、私たちの感性から、少しずつ薄れていってしまうこともあるのではないでしょうか。

だからこそ、最後にもう一度、「自分」という言葉を、縁起の視座から受け止め直してみたいのです。

自分と、なっているから。

縁起の視座に立てば、「自分はない」ということでは決してありません。
自分は、たしかにあります。

けれども、それは、どこかに確固とした『わたし』がある、ということではありません。

さまざまな縁が重なり合い、場が開かれ、身がそこに置かれ、その時その場で応じている。その姿に、「自ずからの本分」としての『わたし』と成っているのです。

だから、「自分」とは、探し出すものではありません。
また、握りしめるものでもありません。
ましてや、他と比べたり、誰かに認めてもらったりして、ようやく確かになるものでもありません。

いま、こうして、縁の中で、自分と、なっているから。

そのように受け止める時、「自分」という言葉は、確固とした『わたし』や、集約される『わたし』を指し示す言葉ではなくなります。
むしろ、縁起して『わたし』と成っていることを、日々の中で思い出させてくれる言葉になるのではないでしょうか。

思ふまじ 見まじとすれど わが家かな

思うまいとしても、見まいとしても、なお立ち現れてくるものがある。『わたし』もまた、そのようなものなのかもしれません。

『わたし』があるのではない。『わたし』がないのでもない。
さまざまな縁の中で、いま、このように、『わたし』と、なっているから。


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縁起の視座|杉本虚道(臨済宗僧侶) 記事を読んでくださり、ありがとうございます。いただいたサポートは、これからも仏教・禅・縁起の視座を、日々の言葉として届けていくために大切に使わせていただきます。