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自分を自分が信仰する、自分の使命に忠実にある、自然と共にある (矢追日聖 2024年6月号)

季節について

今日は5月の月次祭でございます。新緑の候が過ぎまして、もう全く若葉の季節になりました。今日もどんよりと暑うございまして、こういうような天候の頃が、これから伸びていく若葉を適切に生育する旬だと思います。毎年季節は同じように巡ってくるんですけれども、これを私たちが決まりきった出来事だと受け止めおれば、それまでなんです。

けれども、もし季節が狂ったとしたらどうなるだろう、と考える必要がまたあると思うんです。地球環境が今はこうして安定していますけれども、破壊される時が来るかもしれない。私たちはきっと明日もいつも通りだと信じきっているから安心して暮らせるんです。同じことが我々の人生に対しても言えると思うんです。

今日皆さんの手元に渡っております『すさのお』紙の2ページ目に、これからするような話をちょっと書いておきました。どうせ後で皆さん方と話し合いもすると思いますけれども、こんなことをなぜ書く気になったのか。

今まで3回か4回、ずっと対談が続いておるんで、今月は1回何か書いてほしいと編集の方から要望がありました。それでいつものようにペンを持った瞬間ひらめいたことを書かせてもらったんです。

かなり深い内容を書いたので、皆さん方には通じにくいかもしれません。というのは言葉の意味がわかるかどうかだけではなく、皆さんがそういうような心境になって生活できるかどうかということなんです。同じ内容を今まで皆さんの前でいろいろ話してはおりますが、「神ながら」という一つのものに絞ったことしか言ってないんです。「神ながら」と一言で済ませていますけれども、その一言の中をのぞいてみれば、広がりは無限大にあります。


比較しない(平等観)
結局いつも言いますように、我々人間が抱いている平等観というもの、これが宗教の根本だと思うんです。あなたたちは常に人と比較して、自分を低く見たり高く見たりする。「わしはあの人よりも偉いんや」とか、「私はあの人よりもあかん」 とか、日々の生活の中で、そんなことばかりしょっちゅう気にしておると思うんです。そういうような気持ちを持っておるあいだは、どれだけ大倭へ出てきて信仰されても、ちっとも効果がない。つまり、神の心に近付くことができない、ということなんです。


自分自身の使命に忠実にある、自分を信仰する、大倭教などない、各々の使命が各々にある
『すさのお』紙にも書きましたように、もう私もめったに100歳まで生きていかれない。仮に生きたとしても、あと残り40年。ただ飯食って糞こいて、これからも生きるんですけれども、それじゃこれからの私の生涯は別に何か変わったこともない。一年一年老化していく、飯を食うた回数が増える、しゃべることはいつも同じ「神ながら」 一つ。そりゃ今日死んだって40年先に死んだって、 私自身にしてみれば同じことなんです。

けれども、自分がこうして生かされておるあいだは、最大限自分の気持ちに逆らわず過ごさなけ
ればいけないという、神に対しての私自身の義務があるんです。今日ここで病気になってお迎えが来れば、私の生命はそこまでです。こうなれば一番気楽なんですが、今のところは今日明日にでもお迎えが来そうにないんです。

私が仮にこれから40年生きとったとすれば、まあ大倭へ集まって来る人の顔が変わるとか数が増えるとか、あるいは現在の大本宮の敷地がもうちよっと美しくなるとか、木が生えているところに家が建つとか、その程度の変化があるだけなんです。
 
私のやっているような事、あんたたちはもし自分がそうであったらというようなね、一応立場を変えて考えてみることもほんとに必要だと思う。

ただこうして30分間話を聞いて「はあ、今日は結構な話を聞かせてもろうた」て、それは涙をこぼして喜んでおられる方もありますけれども、私はいつ言うたって話は一つも変わっていないんです。もう30年ほど同じ話をしゃべっているんです。あと40年仮に生きさしてもらったら、また同じ話をしゃべるだけです。
 
これが私の命ですから、それでいいんですけれども、現在において何かの信仰を持たなければ自分は生きていくのに何や知らんけど心細いとか、 あるいは頼りないとか、人間にはそうした弱みが必ずある。信仰するとは信じる世界を持つことですから、非常に尊いんです。では一体何を信じているのかをね、あなたたちはよく考えたことがあるだろうか、と聞きとうなってくる。そこに私は本当の問題があると思う。

よく「私は不動さん信仰してます」とか、やれ 「観音さん信仰してます」とか口で言う人はありますよ。しかし、不動さんとか観音さんとかにただもたれてすがっているというだけであって、そ
んなものは信仰とは違うんですよ。

自分の心の中に、また自分の一生を通じての人生の中に、自分のものとして自分の中にかっちりとつかまえておるものが信じられるもんなんです。自分自身から離れたものの中に信じられるものが、あなたたちにあるのかないのか。私にはありません。私が本当に信じるものは、もう自分以外にないんですよ。自分の生命というもの、自分がこの世に生まれさしてもらった命というもの、それを信じる以外私には何もないんです。自分の命を信ずればこそ、命に対して自分が忠実であればいい。それで皆さん方の前でこうした話もするわけです。

大倭教という宗教については私の眼中にないんです。言い換えれば「矢追日聖」も「大倭教」も、呼び方の相違だけであって別名みたいなものですから、私自身がこの場所で新しい宗教を開いたというようなものは何もありません。あなたたちと同じように、私は一つの宗派の教祖となる宿命で生まれてきたんじゃないんです。

けれども、役目というか命というか、私はただこういう類いの行いをしなきゃならない。だから自分は自分なりに当たり前の事を実行しているだけであって、別に大した事でも何でもない。私が捉えた「神ながら」というものを、しょっちゅうこうしてしゃべっているに過ぎないんですよ。

これくらいアホくさい話はないんですが、自分の命に対して自分が忠実に生きさしてもらおうと 、こうしなければいけないんです。私の人間感情からすると、わからん事をなんぼ言うて相手にわからせようったって無理なんだから、こんなアホな事は言わない方がましだと、私の潜在意識はそう叫びます。でもこれが自分の持って生まれた自分の役目というものだから、飽きもせず、うたてがり(=いとわしく思い)もせず、今日まで話し続けてきているんです。

あなたたちにもまた、あなたたち自身の命があるはずです。それが何なのかちょっとわかりにくいでしょうけれど、現在の皆さんの家庭、あるいは生活環境の中に、持って生まれた自分の命を見い出すのが一番近道ではなかろうかと思うんですね。生活とかけ離れた命というものは一切ないんです。
 
仮に魚で生まれておれば、水の中で泳ぎ生活する。あるいはまたセンチ虫 (=ウジ虫)であれば、 お便所の中の大便小便の中で毎日上になったり下になったりしながらグジャグジャと生活しておる。そこがもしきれいな水の中だったら、センチ虫はすぐ死んでしまうんです。

結局、自分が置かれておる今の環境、今の状況が自分に与えられた命の大半を占めている。それを踏まえて自分なりにいろいろ考えたらいい。また大倭へこうして出てくることも、あなたたちの命の一部分であろうと思うんです。

同じ一つの故郷、いわゆる大宇宙という神の世界からここへ分かれて来た生命体というものは、 あなたたちの肉体にも私の肉体にも宿っている。 あるいは犬や猫にも宿っている。この生命体の質というものは何に宿っていても全然変わらないんです。大和で降る雨も大阪で降る雨も恐らく根源は同じはずです。だから私の中に入っておる生命体も、あなたたちの中に入っておる生命体も、宗教的に言えば霊魂ですが、同じ種類、同じ質のものなんですね。

けれどもそこに一人一人の個人差がある。質は同じであっても、形は変化する。また働きにおいても、それぞれ別々の種類がある。例えば同じ電気を流しても、モーターの中へ流れ込んだ電気はプロペラを回す。電灯の明かりに変化する場合もある。あるいはまた熱を生じさせる場合もある。現代の文化生活の中で、あなたたちの使っておられるいろいろな電気製品に流れる電気はどれも一緒です。けれども、力を生み出したり、光や熱になったり、いろいろな種類の働きが生まれてくる。

天地自然の大いなる宇宙の大霊という同じものが私の肉体に通じた場合、またあなたたちの肉体に通じた場合、その人その人ごとに働きが変わってくる。それがみんな一人一人個人差があるということなんです。

体力一つとっても、十貫目持つ人、二十貫提げる人、五十貫提げる人、いろいろ相違がある。また人間の心の持ち方、知能、これもみんな違う。 この個人差というものは天地自然が作ったものです。人間一人にはその人だけが持っておる、神から与えられた特徴が必ずあるはずなんです。それをまず自覚しなきゃいけない。


現在の宗教と称するものは全て宗教から反している、団体が宗教に反する、ただ仲良くする

現在の宗教と称するものは、ほとんどが神の道とか人間の道の根本的な教えに逆らっているんです。『すさのお』にも書いておきましたけれども、 宗教団体というようなものができる、これが宗教を根本から破壊させていく一つの動き方です。言い換えれば、宗教団体が発展すればするほど、宗教の質は低下する事をよく知ってほしい。

現在は宗教法人法があり、宗教団体というものが日本だけでもたくさん作られています。けれども、信仰する一つの宗教に対して、そういうような信仰する人間の集まり、グループ、団体が大きくなればなるほど、宗教の中身が伴わなくなっていく。

えらい簡単な言い方しましたけれども、これを端的に受け取って理解できる人はあまりいないと思うんです。頭では理解できたとしても、それが自分の本質、心の中から本当に感じ取れる人がどれだけおるだろうかと考えた時、いつも情けない気持ちになるんです。

一つの宗教団体というものは、特定の目的を定め、組織力をもって信仰する人たちを団体の中へ取り込んでしまう。宗教を、決められた枠とか教義とか、そんなもんで括るべきじゃありません。

宗教とは人間一人一人が心の中においてつかむものであって、幸せのために信仰すると言っても、 このあいだも話し合うたように、人によって幸せは違うんです。幸せが違えば信仰も違ってくるんですから、信仰を一色に塗り潰した一つの団体の中へ自分が入った場合、神の法則に反することになる。

組織のある団体に新参で入った者は一番下っ端ですね。その上に役員さんがおる。そのまた上には偉いさんがおる。頂上にはいわゆる教祖と称するような大きな権威者がおる。このいわゆる組織にというものは信仰と関係のない、ただの形に過ぎない。それを宗教だとか、やれ信仰だとか、自ら進んで持ち上げて「あー教祖さん来はった、ありがたい。目開いたら目潰れる」といった信仰をする者も、そう言われて喜んでおる者も、どうかと思う。これはもう宗教として言うと、一番忌むべき問題なんです。

団体に取り込まれると、まず物事の序列とか優越感・劣等感を気にする。また、自分の入っておる団体が唯一絶対の宗教で「それ以外の宗教はみんな悪いんや」「助けてやるためにうちの宗教に入れよう」とか考える。うちの宗教とかどこそこの宗教とか、持ち物じゃないんですよ。天地自然の一つの法則、宇宙の仕組み「神ながら」というものは、誰一人所有していない。所有者はいないんですよ。

我々人間が自然の中において、一番後に形作られているんです。その人間がですよ、我々を作ってくれた宇宙の根本の仕組みを捉えて、「それはうちの御本尊や」とか、「これはうちの教え」とか偉そうに言う。宗教というのは人間一人一人の心の中に生きておったらいいんです。

「大倭教にはどんな教えがある??」って聞く人もおります。まあ仕方がないから「これはこんなんやどんなんや」と私がアホになって説明していますけれども、私の本心では「あほんだら!」って言いたくなるんですよ。大倭教っていう教えがあったら不思議なんです。ないのがホンマなんです。そこんとこね、皆よくかみ分けてほしい。

けれども今の社会一般の人は、そういういびつな信仰を宗教だと思っておるから、大倭へ来て 「大倭の神さんは何神さんですか?」「大倭教の教えは何ですか?」と、くだらんアホなこと聞くんですね。宗教を、「神ながら」をわかっていないんです。

けれども、そんな人の守りするのがまた私の命ですから、アホくさいなんて思わんと、まあ「神ながら」がどうやとか説明しているんですがね。 お守りしているんですよ。こんなものは救いでも何でもないんです。

大倭へ来る人たちはね、やはり私とこうした個人的な人間関係を結ぶような深い縁の持ち主だと私は信じているんです。そんな人であれば、大倭教の教えがどうであるか聞こうとするよりも、まずお互いに人間性と人間性を、心と心を触れ合おうとしてほしい。


自然と共にある道(人間だけではない)、宗教教派などない

私ら空気は吸わしてもらっているし、土から出てくる水、天から降ってくる雨、結局こういうような恵みがあればこそ、私自身の肉体が現在生かされている。自分が生きていくために必要な一番身近な物、私はこれが一番大事やと思うんです。 だから私は水に対しても農作物に対しても、喜び、 感謝の念というか、自然と共にありたい、共に行こうという気持ちが湧く。それがいわゆる「神ながら」の道にも通じることにもなるんです。

ややもすれば、今私がこう話している時に、ここへ集まっておる人間だけが私の話を聞いておると皆思っているかもしれません。けれども、私の目の前には池(※拝殿前の鏡池)があり、その水には睡蓮がある。 あそこにはツツジがある、桜がある。 ここに座っている人間一人と、この鏡池の上に浮かんでおる睡蓮の葉一つと、どちらも同じ存在です。

だから私はこにおる人だけに物言うてるのやなしに、いつも池の水の上を見ながら睡蓮の葉にも話しかけておる。こちらの桜にもです。水の中にも、土の中にも、木の中にも、人間に宿っているのと同じ生命体が等しく宿っているんです。

この拝殿の中に座っておる者は人間の姿をしておるけれども、睡蓮の葉のように水の中から出てきて浮いておる者、また木々のように葉があり幹がある姿を持った別の者もたくさんある。これみんな私たちの一番身近な仲間です。人間だけが人間の仲間と違うんです。

我々人間が自然に対して最も親しみを持ち、またあるいは自然との一体的な考え方をもし持たなければですよ、私たちは本当の精神的な喜びを恐らく得られないと思う。

人間が人間だけの世界でどないして幸せになり、喜びを持てるか。人間以外のいろんな動物であれ植物であれ、私たちの仲間であるという意識があればこそ、朝起きて外を見た時に「ああ今朝の桜の葉きれいや」とか、「睡蓮もうじき咲くやろ」とか、必ず呼びかける心境になるんです。

人間と草木が同じように生活し、やっぱり同じように太陽の恵みを受けたり同じ雨を受けておる。同じ条件によって人も草木もみんな生かされているんです。人間だけを切り離してこの世を人間だけの世界と捉えることは、神の心に根本から反することなんです。

自然と人間の結び付き、そしてお互いに交流し合うて幸せにやってゆくという「神ながら」の神の心、そのような心を捉えるのに、百万二百万の人間ばかりが集まって、何々教団だとか何々教だとかの、優越感や差別をもって喜びとするような人間の集いであったとすれば、そこに宗教はありません。絶対に神さんもなし、仏さんもなし。けしからんことなんです。

だから私はいつも「大倭教は団体でないんや、信者もいないんや」と言うんです。大倭という場を一つの軸として、集まってくる人たちが自分なりに、みんな幸せになる。これが本来の宗教だと思うんです。


法主の愚痴、時々愚痴をこぼすのも健康法

月次祭ですから、今日の話は私の愚痴ですけれども、これからぼちぼちこういう愚痴を私はあなたたちに言おうと思うんです。私の愚痴をあなたたちは人間の言葉として捉えているけれども、草も木もみんな聞いてくれとりますねん。あんたらだけと違うてたくさん相手がおるんで、そらかえって気色いいんですがね。

私も人間ですから、時々は愚痴こぼすのも一つの健康法です。自分が自分に愚痴言うとってもしょうないから、やっぱりこんな時に声出して言うわけです。

けれども、なんぼ愚痴こぼしたかて、私の行き方というものは決して変わりません。あなたたちがそう信じてくれたら、私がどんなこと言うても、 「また愚痴こぼしてはるな」程度に聞いてもらえばいい。けれどもこの愚痴はね、神様に代わってこぼす愚痴やから、同じ愚痴でも内容がちょっと違うんですよ。


自分を自分が信仰する、信じる間は疑う心がある

あなたたちも心の眼をパーッと広く開いて、本当の信仰とはどんなものか、神さんってあるのかないのか、どれがほんまの神さんやとか、まあ禊会でもやっていますけど、自分に問うて自分の心の中にあるほんまの御本尊をつかんでほしい。つかんだ暁には、「あれ?これは自分であった」と最後にわかる。自分を自分が信仰しなければ、信仰する対象がないはずなんです。

でも「神ながら」の御本尊は自分の心の中にあるとただ信じていればいいとか、そんな薄っぺらい信仰とは違うんです。「もう疑いようがない、これはあるんや」と信じ切る、そういうことです。 いわゆる一つの限界を越えた信じ方、仏教では色だとか空だとか言うけれども、その色・空を超越した空だと般若心経が教えてるような意味ですね。

例えて言えば、胃腸の働きなんか全然考えんで飯食ってる時のような心持ち。食うたら栄養になるんやし糞が出るんやけれども、そんなこといちいち考えながら飯食ってる人はいないですよ。それと同じ。信じるあいだは、まだ疑う心があるから信じるんです。

自分の御本尊というものを絶対神のつもりで自分の心の中にしっかりつかんでいるかどうか、まだあなたたちにははっきりわからんと思うけれども、これからは自己反省とか人間的向上を目的として、暇があれば時々大倭へ遊びに来てもらったら結構だと思います。


さいごに
明日は布留のお宮さんへ、すさのお会の文化行事で行く予定になっておりますので、私もできるだけお供さしてもらうつもりです。布留のお宮というのは石上神宮ですが、天理市の天理教教会本部のちょっと東側にあります。今我々がその場所へ行って、一人一人が過去の人たちの信仰の足形に何かを感じ取っていくこともまた、自分の信仰の何かプラスになると思います。明日は日曜ですので、できたら皆さんの参加を望みます。



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