不思議話(3章) 偶然では片付かない縁「伝授している相手同士が…」
不思議話、第17弾。
今回は、「ご縁系統」です。
皆さんは「遠くで知り合ったはずの人のその知り合いが、実は近くの知り合いだった」といったような経験をしたことはあるでしょうか。
ときどき、そうした体験をしておられる方をお見かけします。
これは一般に「世間は狭い」という言葉になっていたりします。
今回はそうしたタイプの一話ですが、その「とびきり可能性があまりに低いケース」を紹介します。
一般に経験する「世間は狭い」という言葉ではさすがに追い付かないような、縁の不思議を感じる話です。
偶然では片付かない縁「伝授している相手同士が…」
わたしは「諸宗教・科学の統合的理論を著すために、幼児から生きてきた」ということは何度も説明してきた。
それを単に外野から言うのではなく、「自分が僧侶になって、僧侶の側からこれを説こう」とするものであり、その道は実に茨の道であって、厳しい厳しい道であり「極めて孤独」な半生であった。
理論を伝えたIさん
「仲間など一人として見つからず歩んできた」道であったが、僧侶となってすぐに「初めて同士を得る」ということがあった。
この厳しく孤独な道において、胸張り裂けんばかりの喜び。その人は加行を共に過ごした、尼僧さんであある(Iさん)。
年齢は、私の3つ下ほど、佐賀出身の人であった。
普段「理論」の話は同年代の僧侶仲間にすることなどほとんどないのであるが、たまたまその人に話したところ”同士”であることが発覚。
Iさんは格闘するものの答えを得られることはなく非常に悶々とされていたのであるが、私は大歓喜して「それまでに編んできた理論をお話する」運びとなった。
そうしてIさんには、理論の基本的な概要について全てをお話することができ、私にとってかけがえのない同士となった。
知人僧侶とBさん
それからしばらくして。
全く話は変わるようであるが、恵子さんの縁で「占い師をしている40代の年の離れた僧侶」と親しくなるということがあった。
仲間がおらず心が折れかけていた時期でもあって、少しでも伝わる方がいることに安どして随分と親しくなり、たびたびその方のお宅へ泊っているほど近しい間柄になっていた。
そんな関係も、しばらくした頃。
彼に「占いを教えている若い女性(Bさん)」がいて、京都に来られるということでお会いすることになった。
物好きな人だなと思いながら、仏教のことについてご質問されるのでこれに深夜までお答えした。
聞くと、4つ下ほど、福岡出身の人で高校は佐賀の学校に通っていたなどと自己紹介されていた。
ふいに”Iさん”の顔が浮かぶが、年齢も1つ違いか、場所も近いようで同一ではないし、もし同じ県内であったとしても知り合いなどということは「可能性としてはほとんどない」であろうと思い、頭から流れていった。
わたしには「仏教のことなどを発信しているグループLINE」があったので、そちらにご招待して、また翌日お話することになった。
翌日…
翌日、彼女と顔を合わせるなり、「昨晩招待いただいた中に、知り合いらしき人がいるのですが…」と仰る。
(まさかIさんか…?)と思いつつ、どちらかと言えばかえって他の人の方が可能性がある感じがしたのでそのまま聞いていると、「Iさんが恐らくそうなのですが…」と仰る。
「ええ!なんと!」
「やはり県が近いから何か接点お有りでしたか」と聞くと、本人も相当に驚きながら「いえ…、同じ高校で三年間同じクラスでした」という。
驚きしかない。
出身の県は厳密には異なる。年齢も一つ違うかと思っていたら同じであった。
仮に地域が近く同年齢であったとしても、クラブの交流か何かで繋がる程度がせいぜいあり得る範囲かと思っていたら、「同じ学校はおろか、三年間同じクラスだった」と来た。
しかもここが九州であれば、その世間の狭さは考え得る範囲かと思いもするが、今ここは京都である。

しかも面白いことは、「私がIさんに理論を伝えていて」、「その僧侶がBさんに彼の理論を伝えていて」、「その人同士が高校時代に繋がっている」ということである。
これはつまり、私とその僧侶が出会う以前から、その二人はそもそも繋がっていたところで、恵子さんの縁で私とその年も離れ宗派も異なる僧侶が何の因縁か繋がったということである。
これはやはり偶然で片づけられる範囲を超えているものと思う。
このことから分かることは「縁というものは確かにある」ということである。
もっと言えば「あらゆるものは全て巧妙に仕組み込まれて」いて起こっている。
結婚の縁なども予め全て決定しているものなのである。離婚するのもそうである。
そのように見るとき、一切に諦めがついて、ちょうど既に完成している映画を楽しんで見るような心地で、世界という映画を前に進んでいくことが出来るものである。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
皆さんも”世間は狭いな”と感じることが一度くらいはあったりすると思いますが、ここまで極端な事例もあるということです。
普通の事例では偶然として処理されることが多いように思いますが、このような極端な事例を見るとき「その必然性」を”知る人は知ることができる”と思います。
他の執筆も含めて、こうしたことが知られれば、「世界は神業で仕組まれているものであって闇ではない」ことに目覚められる機会になりますし、或いは「人間ごときの意思の外の力によって仕組まれている」ことが分かれな社会の様々な執着が解けていくようなことにもなると思いますので、そうなることを願うものです。
縁は必然です。
偶然はない。
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