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「神仏のシナリオ」(その1)~何故神仏がいて、戦争や天災が起こるか~

今回は、「神仏(親)のシナリオ」ということを記します。
今回は、その1になります。
全体の目次はこちら。


はじめに

宗教というと、現代では受け入れられづらいものとなっている。
その原因は色々とあるのであるが、その最たる一つとして「宗教における矛盾感」のようなものが強いと思われる。

宗教というものが単に「目に見えない領域のことが多いから」というだけでは、ここまで受け入れられづらいものにはなっていないものと思う。「目に見えない」などという以上に、「その提示していることがそれ自体で矛盾している内容があったり」、「現代の人智と矛盾するところがあったり」、「色々と矛盾や矛盾らしきものがある」と考えられるために受け入れられなくなってきているものと確信するのである。

そこで、どんな矛盾や矛盾らしきもの(以降、ひとまとめに矛盾と呼ぶ)があるかといえば、
そのよく聞く代表格にこのようなものがあるだろうと思う。
・神仏などがいるならば、何故不幸が起こるのか。
・神仏などがいるならば、何故天災があるのか。
・神仏などがいるならば、何故もっと簡単に救いがないのか。
・神仏などがいるならば、何故戦争が起こるのか。もっといえば何故宗教戦争が起こるのか。など

深く考えたこともない人もいるかもしれないが、まさにこうしたことが疑問で信じがたいといったことになっている人も、結構いると思うのである。

簡潔な回答

そこで、いきなり簡潔に回答をいえば、
「この世界は親(神=仏)の創造したものであり、親(神=仏)のシナリオによって進行しているものである」ということが、そもそもの真相である。これが今回の記事の内容であり、いつかはっきり理解される日が来ることを願っていることである。

そこでこれを解説していく。 

1.【そもそも】この世界は親の創造したもの

(…もっといえば中=理の発露)

この話を説明するためには、そもそも「世界は親(神=仏)という存在が創造したものである」という真相を示さなくてはならない。

「”創造主”のようなものがいて、”世界を創造”して”この世界が存在する”」ということであるが、このようなことは極めて宗教的なことであり、現代ではなかなか受け入れられないと感じる人が多くなっていることは、重々に承知である。
ところがその一方で、素直に(?)そう思っている人もまた一定数いるか、実はそれなりにいることもまた面白いのであるが。

このことは、散々古くから宗教として説かれてきたことである。
今さら私が改めて、新しく語るようなことではない。信じているか否かに関わらず、その言っていること自体は、どんな者にでも理解できるだけの文字通りの意味である。

そんなことは「信じられない」という現代人の一部の気持ちも分るし、「信じられる」一部の人の気持ちも分るし、「人間のわたしとしては両方に感覚を共にすることができる」。
そこで、わたしは「単に事実を(知れるものならばであるが)知りたい」と願い続け、「自分の感情や利害などの一切介在させないところ」で、ただ事実を知りたいというだけの思いから”純に探求してきた”ものである。

そこで、人間の持ち合わせる頭脳・理知的な方面としては、そのどちらの感覚も分かってきたつもりであり、わたし個人としてはどちらに偏るというようなことは限りなく廃して、色々探求していきたものである。
そこで、「創造主がいるということが事実とする側に立って」色々と探求したり、反対に「創造主がいないということを事実と想定する側から」色々と探求しようとしてみたり、本当にいろいろと探求してきたものである。

そうした探求の果てに、至った、しかももはや”確信”として至った(物理的実証も与えられながら…)結論が「世界は親(神=仏)という存在が創造したものである」ということである。
(※物理的実証についてはこちらの記事など↓)


私としては感覚は本当に「両方ともが100%ある」ような奇妙な状態であって、そちらに傾いていたということは限りなくないものと思っている。

一旦、「創造主などいない」という立場の感覚から言えば、「いや、いるわけがないであろう。あまりに現代の理知的な方面からいって理屈に無理があるように思われる。」といった感じであることはよく分かる。
・例えば、では「その創造主がいる前はどうなっているのか」ということが不自然に思われる。
・あるいは「創造主がいるならば、なぜこのような不幸がいろいろとあるか」「なぜ宗教に種類があり、これほどの相違があるか」といったことも不自然に思われる。
・或いは不完全性原理や不確定性原理を持ち出して、全知全能など有り得ないといった観点から矛盾感を言う者もあるかと思う。

そこで、わたしは一体何によって「これを事実として確信していく」ことが出来たかというと、まず半分では「理屈の方面」がそれなりに納得行くところまで通ったこと、もう半分では神秘的な経験を色々として(もっといえば物理的な実証まで生じて)「実証の方面」が起こってきて、その両面がわたしが確信できる程度に揃ったために、納得がいったからである。
※メタ的なことを言うと、この理屈の中には「何故人々がそうしたことを信じられなくなっているか」、「何故わたしも信じられなかったか」ということまで含まれている。

そして、その理屈の方面においては、自分の探求ももちろん多分に含まれるが、実は土台は”別の宗教家”によっている。
それが”山崎弁栄師(僧侶)”と”矢追日聖師(古神道)”である。

その理屈というものが非常に面白く、おそらく初めて聞く者には全く想像の及ばないようなものである。
私は現代人でもあるから「現代の理知的方面」から、この「よく聞く創造主説」に対しては相当に無理を感じるのであるが、この両師の説明は実に奥深く、理屈として可能性を感じるものであったのである。

簡単に例を挙げると、
1.創造主の前にそもそも霊性・物質以前の「中」のような状態があり、それが霊性の世界と物質の世界に分離するところから始まるのだと説明する。
しかもその根源的な理としては、世界というものは男女・親子・陽子電子など陽陰二元的なものが遍満しており、それらはしかも中性のものから始まる「中から陽陰と呼ぶべき正反対の二元が生まれ、それが複雑に組み合わさって成立している」といったことが働いており、これがその霊性の世界と物質の世界とそれ以前の中と呼ぶべき根源の根源的な理として働いているのだと説明している。
今これを読む読者が、これを少し可能性を感じるかどうかは分からないが、わたしはこの内容を両師の文章に見たときに、直観的に腑に落ちてしまう何かがあった。

2.そしてもう一つ重要な両師共に記していることが、
「この世界は親が作り出した場であり、われわれは子であり、宗教というものはその子育てであり、時期に応じて順次開示するものである」といったことである。

「宗教」というものは一般的に「人類の有史初期にすでに」初めからあって、もっと言えばそこにこそ真実性が見いだされもしたりして、「すでに語られたものが全てである」と基本的に見なされていると言えると思っている。
そこでわたしも、この両師がいくら理屈が通りそうなことを言っていたとして「であれば何故釈迦やキリスト等の絶対者と扱われているような者の段階でそう言っておかなかったのか」「後から誰かがそれ以上のことを言うことは不自然ではないか」といった懐疑心があったのであるが、両師はこれすらも内包して理屈を記してくれているのである。そこで、ひとまずこの不自然さは既に解消されていて、その所説に目を通すことが出来たのである。

といったような感じで、
わたし自身半分では「創造主がいる」という説に理知的な方面からは相当に無理を感じていたものが、この両師の所説から「創造主がいる」という説に理屈が通る気配を感じて、そこから探求していったものである。

といっても、両師の所説に全ての回答があったわけではない。
というのも、まず弁栄師は明治大正期の人物で、さすがに知識が現代とは異なるから、弁栄師の説明がどれほど理屈に通じていても、現代ではその理屈では足りないというような状況になっていたからである。
また日聖師も昭和期の人物で、私の生まれる前には亡くなっていた人物であるから同様であるし、面白いことに日聖師は「私は説明の使命ではないから、また後から誰か説明して=行間を埋めてくれる」といったようなことを記していて、行間が大いにある状況を自分で記しているのである。

そこで両師の所説は、わたしが可能性を感じるには足りたが、(最新の現代における)説明としては行間が沢山あり、自分で埋める必要があったのである。そこで、この両師の理屈を「仮説として採用」して「その行間を埋める」ということを基本として探求して、その理屈が一定水準納得のいくものに至ったものである。
そこに加えて、「神秘的な経験や物理的な記録といった実証の方面」が起こってきたので、「理屈と実証の両面が揃った」ために、確信に至っているという状況である。

こういうことまで含めて、再度記すと。
そもそも「世界は親(神=仏)という存在が創造したものである」。
…そしてそれは、”これまでに言われてきたような創造主説”のさらに一歩奥まで説明が加わって成されたような、”現代に順次開示されなおしたような創造主説”であるということである。


両師所説の創造主説

ではその最新開示の創造主説とはどのようなものか。
それは、これまでにもいくらか執筆したので、こちらに譲ることとする。

これらは、「一旦わかりやすく簡単な範囲で雑に説明した」ものであり、実は「さらに深く潜った理論からの説明が最も厳密なもの」としてある。これは、また執筆するので、そこまで求められる方はそのときまで待たれたい。

要約すれば

世界は中のような状態が根源にある。
そこに陽的・陰的な気があって、対称性の破れから均衡が破れ、陽陰が展開する。
そこで陽的な性質の界というものの正体が心霊界(霊性界=こころ・情報の世界)であり、陰的な性質の界というものが物質界として生まれる。
物質界に中心・本体である恒星と子のような惑星が生まれるように、霊性界に親・中心である霊(たましい)と子のたましいが生まれる。
この親霊がいわゆる創造主であり、子のたましいが我々である。

親霊には「二つの顔(立場)」があり、(A)片面では仏、(B)片面では神としての姿・立場をもつ。
この「親霊」は、「子育て」をする。たましいを受精卵のようなたましいから育てていく。一定大きくなったら直接教えたりするようになる、これが「生命が人類まで進化して宗教が発生した」ということである。

そこで宗教は”子育ての教え”であり、(親霊が喩えば一夫多妻の大親のような存在として)「家庭に応じて教えが相違したりもする」ようにして、「民族・各地に応じてその教えは相違したり」もする。
これが宗教や語られる神の存在が、色々とある理由である。実は一つでありながら、方便で相違する部分を有しているだけのことである。
(※そこで、たましいは輪廻転生を塾に通うように繰り返して成長し、成長しきるとついに自分が親となる。これを成仏という。親になる(仏=神になる)と、自分の世界を創造する、仏教では成仏するとそれぞれの国土=三千大千世界を建設すると説かれる。これを永遠に繰り返している。)
要約おわる

大体このようなことである。

これでも「厳密な議論」はすっ飛ばして、”雑な喩え”で進めているものであるので、厳密なことは理論で詰めて説明されるから許されたいが、いかがであろうか。
(※例えば、恒星と惑星の喩えは雑なところもある。親が場を作るといっても、なぜ霊性界と物質界の両界があるかなどは、恒星と惑星の喩えでは説明しきられないであろう。など議論はもっと緻密でなくてはならない)

”従来の創造主説”よりは、理屈の可能性を感じてもらえたら御の字である。
これに「実証の方面」がある(…「不思議話シリーズ」を読まれたい)から、わたしは「これをはっきりと言える」ものである。

弁栄師と日聖師はもはや直接霊感で見ている
(1)弁栄師
ちなみに、弁栄師は苛烈な修行の中で、この「創造主である仏を実際に神通力で見ている」。詳細はこちらの記事を読まれたい。

これを信じるに足るのは、弁栄師の「圧倒的な智慧」「足跡」「神秘的現象」などがあるからである。ご存知ない方からすれば、「仏が実際に見えるなど…」と敬遠してしまうかもしれないが、その書籍を読んだり、足跡を知ったり、神秘現象(明治大正期という最近のことであり、岡潔のような稀代の数学者が弟子として書き残していたりすることから信じるに足る)の数々を読めば、さすがに”幻覚”などと単に一蹴してしまうようなことにはならないものと思われる。

そこで、弁栄師はこの世界の親は「釈迦仏」(※2500年前の生身の釈迦は子育てのために現れただけの化身であり、本体はこの宇宙のはじまり以前から霊性界で親として在るという。これは法華経でも説かれることであり、そもそも大乗仏教では本来結構普通に認識されていた論である)であると言い、「霊性界の本体の釈迦仏から直接説法を受けて」、それを話したりもされている。
最先端の科学の書でも、ぱーっとめくってその内容を理解できたような人物であり、実際にその智慧を著した書籍を読めば、現代人でも一般人は知らないような”最先端の科学的内容”を説明している(そもそも大正期には量子論があるから、当時の最先端は普通に一般的現代人より遥かに進んでいることに注意)。そういう水準の話をしているものである。

(2)日聖師
日聖師もまた圧倒的な書籍内容、足跡、神秘現象を伴いながら発言しているものである。日聖師のことは、わたしからはどうにも説明できない。説明しがたいことが多いので許されたい。この日聖師も、「霊性界の釈迦仏」を当然のように見て、神の同体別相であり、親霊と述べている。

故に、理屈の方面だけで言っているのではない。
”リアルに、親霊として見える状態の者がいて、しかも相当な宗教者として存在して、そのように示している”ということである。

没後に理解され始めるとのこと…
面白いのは二者ともに、その生存中にはそれが人々に理解されることはないと語っており、弁栄師は没後100年後(2020年のこと)辺りから、日聖師もその没後(1996年)或いは1971年の法話で50年~100年後(2021年~2071年)辺りから、徐々にそれが理解されるようになってくるものであり、その前段階として示すために生まれてきたと話しているのである。
私が僧侶になったのが2021年である。両師の言うことが本当であれば、まさに今その期間に入り出していることになり、私のような訳の分からない人間がまた説明させられているといったところである…(妄想かも?)

話が逸れてしまったが、
まずそもそもの事実として、「世界は親(神=仏)という存在が創造したものである」ということを説示した。しかも、従来の創造主説に加えて順次開示したようなものとして。さらに両師のリアルな宗教体験を伴って。或いは私自身の神秘的な実証もあって。

先に説明したようなものとして「世界は親(神=仏)という存在が創造したもの」である。


2.神仏のシナリオ説

まずは、「親霊がこの世界を作った」ということは既に説明した。
そこで言えることが、
・その世界は親霊の作った空間であり、
・「親霊はそのシナリオを定めている」ということである。
=これを「(神仏の)シナリオ説」と呼ぶことにする。

この世界は親霊が作って存在する。
そこで、
・「親霊のシナリオがある」
・「シナリオに従って進行している」
ということである。

親が家庭を持ったとして、”無計画”ということはない。
親は”その後のシナリオ”を描いて、”それに基づいて家庭を進行する”ものである。

ちょうど、この世界もそのようになっているということである。
まずは、何もないところから作る。家をこしらえることから始める。
そのようにして「無の物質界に操作して」、「生命がいつか暮らせる場を創る」ことになる。
・「物質という材料を創り出し」、「天体という生活するための家を創る」。
・そこで「生命を創り」、それが「原始的段階から成長していく」。
・そして「人類まで到達する」。

こうしたことを「まず設計する場」が霊性界である。
”霊性界(こころの世界)”は、この物質界で喩えれば「情報の世界のようなもの」である。建物を建てるというとき、まずは”情報空間に設計図を作り”、そして”現実の物的空間にその設計図通りの実物を建設していく”ということをする。霊性界というのは、この設計図が情報としてあるその”情報空間のような領域”である。
そこで世界を創るといっても、「まずは霊性界で設計図として創る」。それが出来てから、物質界に実物としてこれを作っていくということになっている。そこで、先に見たような創造も、「まずは霊性界で設計図のようにして行われて、その後で物質的な現象・現実として行われる」。

「よく聖書や神話で語られるような宇宙の創成」は、この「霊性界での設計図の創成について、古代人が現代人より遥かに敏感であった霊感によって、その時代の人類に合わせた説明の形で親霊から教えられたもの」が、その正体なのである。故に、あのような感じになっているのである。

現代人は”宇宙の創造”というと、いきなり”物質的な宇宙のはじまり”(ビッグバンなど)を想起して、「科学的に説明されるべき」であると考えがちであるが、”聖書や神話の表現している創造”とはそれ以前の「霊性界=設計図としての創造を説明したもの」なのであって、”お門違い”となっているのである。故に、この二つが親和しないという状況になってしまっている。
このことを知れば、そのズレは解消するであろう。

そこで”霊性界で、親霊は設計して、この世界が進行していく”のである。
これが「親霊(神=仏)のシナリオ」という言葉の正体である。
そしてそのように進行して、世界はあるのである。(弁栄師や日聖師もそのようなことをめいめいに説明している。)

このように「家庭」とひとまず雑に喩えて理解すれば、分かりやすくなるものと思う。

「親霊のシナリオ」によって、この家庭=世界が進行して在るのである。
「物質が生まれた」のも、「天体が生まれた」のも、「生命が生まれた」のも、「その進化の旅」も、「人類に至る」ということも、”全て親霊のシナリオのままに進行している”ものである。霊性界が私たちの本体であり、この世界は教育空間としてあって、こちらに輪廻転生という通塾を繰り返して成長している過渡にあるのが、われわれの状態なのである。”人間が、生命の終局”である。
「宗教」は”子育ての教えとして与えられたもの”であり、「幼い段階では特に方便が多く在り」「多様に説示されて色々と存在する」ものとなっているのである。

このように理解するとき、或いはこれが事実であるとき、今見たように「物質の発生から人類繁栄の現在までの一連の宇宙史」が、無機質・偶然的なものではなく、実に有機的で確定的なものとしてあるというイメージをすることも可能になってくるものとわたしは思う。
もし創造主などがいないとすれば、この「物質の発生から人類繁栄の現在までの一連の宇宙史」は無機質・偶然的なものとして、それはそれで奇跡のように見えるかもしれないが、創造主がいるということが事実であるとすれば、それはそれでまたそのように見えてくるものになっている、そうにしか見えてこないようなほどにそうとも見え得るということは少なくとも言えるであろうと思うのである。

そのように見たとき、この一連の宇宙史は「もはや霊的なもの」であって、「生命体が描いた」「ドラマ」のようなもので、「極めて有機的なもの」としてあることになるのである。

そこで、敢えて先の一連の宇宙史の説明では省いたが、「人類まで到達して以降の人類の歴史(それは過去だけではなく、今後の全未来まで)」もまた、まさにその「ドラマ」(シナリオ)そのものなのであるということである。
「宇宙史」は言わば”家づくりと子供がお腹の中にいる(動物のこと)段階”まで、”そこから先”が「人類史」としてあって、この「宇宙史+人類史」が、「親霊のシナリオ“のもとに”」進行しているのだということである。

これが「世界は親霊のシナリオで進行している」のひとまずの概要である。
「実際にそうなっている」と、わたしは”仲介伝言する兄弟のように”、同胞の生命みなに伝えるものである。


3.「宗教に感じる矛盾・疑問点」に回答する

そこで、最初に列挙した「宗教に感じる矛盾」を一つ一つ説明していこう。今述べてきたことで、相当回答できるようになっている。

1.神仏などがいるならば、何故不幸が起こるのか。何故もっと簡単に救いがないのか。

まず「親霊がいるならば、何故不幸が起こるのか」「或いは何故もっと簡単に救いがないか」という抽象的な疑問に回答する。

われわれは「育てられている過程の子供」のような存在と思われたい。

子供が「大人になるまでには時間がかかる」。
そこでは成長させたいと思っても、「限界のペース」などがある。
そこで例えば、「簡単に成長する」などということは現実の子供の成長でもないものである。また反対に、急に成長する部分は成長したりすることもある。或いは子供たちには年齢があって、かなり成長している者もいれば、まだそこまでは無理な者もいる。このようなことになっていて、「簡単に成長できるというような道理はそもそもない」。
※ただ、よりよく在るという状態は年齢・成長段階関係なく、各年齢の中に一つの真ん中の道のようなものとしてあるように、たましいの年齢が低くても素直でその道の上にあって優等生のようなたましいの者がいたりもする。

次に、「辛いことは、別に起こりうる」。
親がいても、子供は失敗もするし、怪我をしたりもする。ときには大怪我だってすることも有り得る。それは、むしろ必然の道理として在る。生命は無から始まり、秩序の完成していない段階から、秩序の完成した状態に成長していくという進行が必然的に在ることになる。そこで、赤子がどれほど運動神経が良いものでも、こけたりしながら歩けるようになるように、成長は失敗を伴いながらするものである。
そこで、「失敗というものは、むしろ道理としてあり」、「親霊がいてもむしろ当然にあるもの」である。その中で、「素直に親に習えば、比較的失敗が少なくなる」といったようなことに過ぎない。
このように、親霊がいても、むしろ「道理として失敗は起こる」し、「そこで怪我をするようなこともある」。

そこで或る人は、「命を落とすような大事故があったりするのか」と懐疑するかもしれないが、むしろこここそが現代人が見落としている点の象徴である。
現代は、”安定性”を極めてきたが故に、”命の危機が随分と減り”、逆に命を落とすことが珍しいことになって「命が無くなることの大きさが昔の人類においてよりもかえって大きく」なっている。ところが、それは単に人類が成長して、安定性などを増したところから来る「錯覚」であり、命というものはそもそも絶対死なないようなものではなく、むしろ「当然に死ぬ可能性のある」ものということが”錯覚に誤魔化されてしまっている事実”なのである。
果てしない輪廻転生において、「そもそも一回の人生は、たかだか一回の通学のようなもの」である。「或る人生で、劇的な事故で死んでしまう」ということは、そのような広い視野から言うと「大怪我で学校を早退する」ようなものである。大きめの事由には違いないが、長い視点からすればそこまでのことではないのである。そこで、「そのような不幸くらい、親霊がいようが起こる」ということである。
大体このようなことである。

一方で、親霊は「親霊」として「しっかりと見守りもしてくれているし」、「与えてもくれているし」、「育ててくれてもいる」のである。「簡単に救いがないというのは、錯覚であり」、この人生の全てが見守り・与え・教育の中で、”しっかりと保全されている”ものである。
空気も与えられ、それなりの環境も与えられ、食物も育つ土壌を与えられ、人生自体が教育として与えられており、宗教があり、不幸なことも長い輪廻転生という中では起こりすぎはしないようにしてくれているのである。

しかも親霊というのは、人間水準の未完成の親のようなものではなく、「完成されきった親のような存在」である。”人間の親がいても子供が大病で命を落とすこともある”ように、”輪廻転生から消滅する”というようなことにはなっておらず、完全に保存されている。それは「輪廻転生まで含めた広い期間における事実」であるので、この一生程度の期間では感じ取りづらいことになっているだけのことである。
これが、真相である。

2.神仏などがいるならば、何故天災があるのか。

もう、この質問も想像がついてくるものと思う。
「親がいても、どれだけ頑丈な建物でも地震で揺れたりもする」。

これは親霊以前の”中時点から”備わっている「ものの道理」である。それは、「この世界は相対的に組み合わさって成立する」といったような道理である。その中で「秩序と、無秩序」というものがあり、「秩序が表に回った状態があっても、そこにも無秩序の力は機能している」。喩えば、男性もその遺伝子は男性由来と女性由来が二重螺旋として組み合わさって成立しており、男性が表に出ているようなものである。
宇宙は秩序のものとして成立しているが、そこに無秩序が裏に働いて、世界が存在している。そこで、秩序=安定性の中にも、無秩序=不安定の動きが出て来たりもするというようなことになっている。

「このような道理」は”親霊以前”に備わっており、それは「道理」として起こってくる。先程の、成長の過程「生命は無から始まり、秩序の完成していない段階から、秩序の完成した状態に成長していく」「成長の過程では失敗もある、むしろ失敗から始まる」ということも、実はこの道理と根本的には同じであり、この疑問は一点目と本質を共にしているということがさらに深層である。

このように「天災は起こる」ものである。
そこで、これに対して「秩序力として親霊は道理上可能な範囲で完全であり」、”天災によって子供の成長半ばで倒壊しうるような軟な家を建てている”などということはなく、この世界においていかに天災があろうとも”人類がたましいとして完全に成長する”までは、”親霊の見えざる手によって保全されている”ものである。


3.神仏などがいるならば、何故戦争が起こるのか。(もっといえば何故宗教戦争が起こるのか。)

そして次によく懐疑として挙がるのが「何故戦争が起こるか」といったことである。
これももはや回答に想像がつくかもしれない。

簡潔に回答すれば、戦争とは子供同士の喧嘩「兄弟喧嘩」である。
戦争とは「この一回の人生」で見たときには、命を終わらしてしまう絶対的に絶望的なものに見えるが、すでに説明した通り、「輪廻転生という長い視点」から言えば一回の命は一回の通学のようなものであり、まだまだ続くものである。
ある意味、輪廻転生というものがわからないから先程の天災でも絶対的な苦という認識になり救いもないのであって、輪廻転生ということが本当にわかる状態にあれば天災で命を落としても来世があるのだからある意味ではかなり救いがあるものと思うのである。

戦争とは、「一回の通学中における子供同士の大喧嘩で、大怪我を負って早退者も出るような大喧嘩」といったものだということである。
これも、「親霊がいても起こり得る」ことである。むしろ子育てであれば、”怪我をすることも学びの内”、”大喧嘩をすることも学びのうち”ということになるであろう。その「行き過ぎた大喧嘩」のようなものが、戦争である。故に、戦争は「親霊がいても、このように起こり得る」ことになっているものなのである。

では「宗教戦争」は何かといえば。
”家庭ごとに方便を多分に含みながら対機説法で教えられた親の言葉”を盾に、”異母兄弟で大喧嘩をする”ことである。しかもその実は、宗教戦争と言っているが、「人間の欲望からくる戦争動機を宗教的理由に結びつけて、それを建前として利用して戦争している」ものと思えば、「兄弟同士でその欲望を無自覚の動機としながら親の言葉を建前の盾として大喧嘩しているようなもの」というだけのことである。
無論、このようなことは許されることではなく、親霊はその都度見えざる手によって必要な分だけ止めに入っているのである。

「いじめられたら殴ってやればいい」と対機説法の方便で聞いた言葉を利用して、別用件で殴っていったり、「親の発言以上に過剰に受け取った言葉」を利用して、殴りかかったりして大喧嘩が始まったりしているようなケースもあるのだろうと、一つの親霊というものを確信した立場からは推察されるものである。

このようにして、これらの疑問に回答されるものである。

【次回予告】

いかがでしたでしょうか。
突然「創造親霊がいて世界を創造している」という壮大なテーマからはじまり、「親霊のシナリオのもとに進行している」ということをそこから導いて説示し、それによっていくつかの懐疑点について回答を付しました。

長くなるので、一旦ここで区切って”その2”に続きます。
”その2”では、さらに細かい点について。
・あらゆる人類史(戦争や国家、政治、文化など)がシナリオであること
・宗教の発生や歴史もシナリオであること
・釈迦やキリストの登場や各宗教史もシナリオということ
・宗教は順次開示されるもの「宗教順次開示説」
などを記したいと思います。


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