先祖供養、本当の宗教、相互扶助・仲良くする (矢追日聖氏 2004年7月号)
矢追日聖法主の執筆を広めていくシリーズ。
以下、2004年7月号より引用します。
重要度の高い内容です。
2004年7月号(1962年7月23日法話)
暑い時でございますので楽にして下さい。というたかて狭いので足を伸ばすわけにもいきませんが、気持だけでも楽に、別にお寺さんみたいに説教するのとちがいます、皆と一緒に遊ぶというのが目的でございます。
東光大祭(お盆の祖霊祭)について
東光大祭は大倭では夏のお祭ということになりますが、この日を設定したのは終戦直後、もう昔のことでございます。
お月さんがちょうど東の春日山から出てくる、そして太陽が西の生駒山に沈んでいくという、そういう時間帯で、まだ暗くもなっておりませんでした。そんな時に、東の方から七色の虹のような非常に美しい光が、サーチライトのように放射状に出ておったんです。色の濃いのが四本、その副えのようなちょっと薄いのが四本で、合わせて八本出ているわけです。それはもう実に見事なものでした。
なかなか現われるものじゃないんですけど、これは自然現象で、皆の目で見られる一つの現象なんです。今どきのようにカメラを提げてるんだったら記録にとっておいたんですけれどもね。
それが妙な自然現象だなという程度でとどまるんだったら何でもなかったんですが…。
昭和21年、旧暦の7月15日でした。
その頃はもう世の中ドサクサで、私も百姓をしておりまして、今の鏡池の下の田んぼの畦で牛の草を刈っておったんです。
その時ね、背後から頭が、何か吸引されるみたいにバーッと引っぱり上げられる感じがするんです。おかしな感じだなとは思ったけれど、早く片付けて家に帰りたいと――その時はまだ、ここに住まいしてません。庄山の実家におりました― 気が急いておるので、ナニクソとうつむいてやってました。けど、そんなことを三、四回繰り返すんでね、もう力を抜いたら、ふっと頭を東に向けられたんですね。
何とまあ不思議な、これを見よということやなと、ぼーっと見ておったんです。そうしたら、虚空からボワーンと大きなホールで響くような感じで声が聞こえて来るんですよ。ということはね、実は念の力、心だけが来るんですけれども、人間には脳があって、それがコンピューターみたいなものですから、脳に入って言葉に変化させるんですね。そして私は日本人ですから日本の言葉で、「レイメイハ オトズレタリ・・・・」と、そんなのが、一回で文章みたいにさーっ出てくるんやなしに、何回か同じことを繰り返し、繰り返しして。結局、自分の頭で考えて整理すると、「黎明は訪れたり 東方の光 大法は立てり 大倭太加天腹」という結論なんです。最後にまとまると、そういうような言葉になる、そんな響きなんです。
それでまあ、この場所を根拠地として、私の宗教的な仕事を出発して活動せよということなんだなと思ったんです。
宗教者として立つことに大分抵抗した
大体ね、日本の宗教とか宗教団体では、病気が治るとか、災難から護ってもらうとか、大難を小難にしてもらうとか、言うてみたら人間の勝手な欲のために、神さんや仏さんの力を借りるという信仰が多かったんです。自分が幸せになるように、 神仏を祀って拝むというような指導を宗教家がしておったんですね。
だから、私は宗教の仕事といえば、嫌だったんです。そういう形の宗教に対しては極力、否定したんです。
例えばお葬式の時でも、うちは何々宗ということで、本当に信仰を持っているのかどうか分かりませんが、とにかく皆、どこかの宗教団体に入っています。これは日本の仏教なんです。インドでお釈迦さんが生きてはった時には、死んだ人に対しお経を唱えるとか回向供養したら浮かばれるというようなことは、一言も説いておられないんです。お経自体、お釈迦さんが亡くなって何百年もたってから出来ているものですからね。
宗教は時代環境に即応して開示される
お釈迦さんの生まれたのはインドというよりネパールなんですが、とにかく険しい、暑さ寒さの厳しい、食うものも乏しいような所です。人間が本当に苦労している姿を見て、釈迦というような聖者が出たんです。つまり、その生活環境の現実から出ているんですね。もしお釈迦さんが、日本のような四季の変化のある、農耕を中心としたこんな豊かな国に生まれたとしたら、平々凡々な人だったと思います(※1)。
人物というのは、土地の環境とか時代、そういうものが出すんですよ。あなた達とお釈迦さんとでも、人間にはそう変わりはないんです。キリストでも、生まれついた時代、そしてその時代の社会的背景や色々なことがあって有名になっていますけれど、その時代にそういう生き方をしたから立派な方だと言えるんですが、人間としての能力という面からいくと、今の時代でもそのぐらいの人はたくさんおると思います。
要は一つの自分の考え、信念の問題なんですね。
本当の宗教、現在の宗教はひっくり返っている(建物はいらない等)
私に神さんが教えてくれることは、日本の既成宗教のような形に対して、もう全然ひっくり返っているんですね。
本当の宗教というのは、自分のためとか他人のためとか、そんなものではない、自分も他人も一つになった気持で、皆が幸せになるようにという道なんです。それを自分も実践して皆をリードし指導教化していくのが本来の宗教家の姿なんです。
それは生きている人間の世界のことですから、 着物を着るのと同じで、形のものはやっぱり必要ですし、最低のものはあってもいいんですよ。けれどもね、大きなお堂伽藍は必要ないと言われます。立派な殿堂を建てて、中に木仏金仏のような偶像を並べて、それに手を合わせてお賽銭や物を供える、その代わり、やれ商売で儲けさせて下さいとか、あなた達もよく考えてごらん、それでは信仰が欲との交換条件なんです(笑)。
人間は自分に都合のよいような勝手気ままなことを願ってますが、神さんの心は、そういうものじゃないんです。まず一番先に皆さんに教えておきたいことがそれです。
この拝殿は、大倭教が始まって七年目に出来たんです。掘っ建て小屋でね、柱は埋めてあったんですが腐ったので切ってコンクリートの礎石を入れたり、屋根は杉皮をスレートの瓦に変えたり、 台風でゆがんだら直したりしていますが、もう三十三年経ってます。これが大後教の金堂なんです。 世間のお寺などに行きますと、ご本尊の入っている所やから、大金をかけて立派なお堂を拵えているのが当たり前なんです。
ところが私の神さんは、屋根があるだけマシやないか、まだこれでよいとおっしゃいます。世間の宗教とは全然ちがうけれども、これは神さんの本心なんです(※平成元年五月、新拝殿竣工)。
一つの現象として日が沈む時にちょうど月が出て、そしてお月さんの方から光が出てるんです。 だから私の仕事は、日が当たらない、いわゆる社会の谷間にいて苦しんでいるような人達を対象にしていく、そういうような行き方をせよということなんですね。
これを記念したお祭りが東光大祭です。
お盆の先祖供養について
歪んでしまっている盆供養
それがたまたま旧暦7月15日、仏教のお盆の日です。関東方面では新暦でお盆をやります。関西では新暦でも一カ月遅れの8月13日から15日にお盆の行事をやります。商売の盛んな土地柄だから、勘定次第で自由にものを考える。百姓は八月大名と言うんです。田んぼも一番手間がいらない。水さえ見に行って草刈りしていたらいい。 農閑期で都合がいいんやわね。あと16、17日は盆の数入りで嫁に行った者は孫を連れて実家に帰って来るしね。
色々あって死んだ人は忙しい話ですワ(笑)。 これも死んだ人を人間が思うように振り回すという考え方やわね。
盆になったら地獄の蓋が開くのか、先祖さんが帰ってくるのか、まあ知らんけれども、地獄やの極楽やの、あなた達は疑うこともいらないし信じることもいらないんですよ。疑うにしても信じるにしても、証拠のない話やからね。よう坊さんが、 針の山やとか釜で炊かれるとか鬼に金棒でどつかれるとか地獄の話をしはるけど、これは精神的教育上の物語やなと思ってもらったらいいんです。
先祖さんが極楽に行って蓮の台に座ってるんやったら何で回向供養をせんなんのやろ。何か食べたいとか欲しいと思えばパッと出てくるし、ちょっと音楽を聞きたいなと思えば聞こえてくる、極楽というのはそういう所らしい。それが汚い自分とこの仏壇に帰ってきて、やれお盆や、やれ何やと年がら年中、お供えしてお経唱えて回向供養するということは、これ先祖さんを地獄に放り込んでるんとちがうか(笑)。もし地獄極楽があるんやったら、私は地獄の鬼になりたいと言うねん。 金棒で餓鬼をどついとったら、その方が面白いで(笑)。
今度はまたお墓にもお参りに行く。その度に坊さんを呼んでお経をあげてもらったら、お布施を包まんならん。先祖さんが、ええダシになっているみたいやわな(笑)。
それは昔からの習慣上やっているだけのことで、本来の意味から離れてしまっているんです。
正しい先祖供養
今日は、大倭でも祖霊祭として、斎庭の土の上で、今、ちゃんとお供養してきました。私の言うお供養は、ただ物を供えたりお経を唱えたりして、 それで浮かばれていない先祖さんを浮かばせるとか、そういうのとは違うんです。
皆さんが塔婆に書いている先祖さん一人一人を、念で呼び出す、ということは「今日は大倭のお祭りやから遊びに来て下さい」と、こちらで招待しているわけなんです。何も仏さんやとか、そんなものじゃないんです。
皆さんは肉体を持っている人間、死後の世界におる先祖さんやとか皆さんの関係者は肉体を持たない人間で、同じ人間同士です。肉体を持つか、 持たないかだけの相違なんです。死んでいても生きていても同じことなんです。
「まつり」というのは、『まつろう」ということなんです。『まつろう」というのは、まとわりついていくことですね。何かの目的とか目標を一つの芯にして、それに大勢の人がまつろうて、色んなことやることをお祭りと言うんです。
例えば呉服祭りやとか、神さんとは関係ないけ大売出しを目的にやってますわね。たくさん売れるし安く買えるしで、売り手も買い手も両方が喜ぶ、これが祭りの意味なんです。
神輿は日本のお祭りの代表的な形ですわね。神社の御霊を神輿に遷して四方から担いで、御霊を中心にして前後左右に押しているんです。四方八方から皆がまつろうておるわけですね。押している方向はマチマチやけれども、神輿はちゃんと上に乗っています。
結局、それが日本の姿なんですよ。日本の宗教の原型です。時間がきたら、最後は何かおさまるところへおさまる。例えば、こっちで右翼思想の人がいて押す、またこっちには左翼思想の人がいて押す、保守も革新も、よってたかってあっちへ押しこっちへ押し、真中で芯を担っている人はどっちつかずのようにフラフラしとる(笑)。しかフワフワしているうちに、あるべきところに落ち着く、これが日本の国です。
そのようにね、大倭のお祭りやから、先祖さん、いわゆる霊界人も我々現界人も一堂に集まって、ここで楽しく遊ぼうやないか、共に喜ぼうやないかというのが今日の一つの目的なんです。
というのはね、現界人同士はお互いにものが言い合えるけれども、肉体がなくなって霊界に入ってしまうと、何かの縁のつながりがなければ、霊界人同士で話したり、仲良うしたりも喧嘩したりもできないんです。ほんまに孤立しているんです。最近、人間社会にも似たような場所が出来てきてますよ。四角い建物に大勢の人が暮らしておって隣り同士でもものを言わないとか、お互いのことを全然知らないとかね。それはやっぱり、あまりええことないなあと私は思ってますが。
私は斎庭で、皆さんの先祖さん一人一人に対して「お出でなさい」と呼ぶだけなんです。回向なんか全然していません。難儀なことに、霊界人はお呼びがなかったら来られないんですね。だから今日のお祭りは霊界人が一番喜んでおります。
集まった霊界人同士が、ここでは話もできるし心やすうなれます。生きている時に、例えば癌で精神的な悩みを持っていたとか、足の悪いことで苦しんでいた人は、肉体はなくなっても霊界で心がその悩みや苦しみを持ったままなんです。それが、ここには色々な種類の霊界人が来ていますから、中には病気を治す能力者もいます。長年苦しんでおったのが治るわけです。学問がなくて劣等感を持って死んだ人であっても、色々と教えてもらって、死んだ世界で安心感を持てるんです。
大後に縁故のある者だけですけれどね。皆さんが塔婆に書いておられるだけやなしに、私の知っている範囲の人は皆、呼んであげてるんです。そこへ生きている関係者も来てまつろうています。それがお祭りの雰囲気なんです。
それとまた、霊界というのは土と非常に関係があります。電気もそうやと思いますが。だから斎庭で私はできるだけ姿勢を低い所に、まあ円座は敷いてますけれど、土の上にじかに座って、今言ったような霊的交流をするんです。
人間の時間では、これから夕方までの短い時間ですが、霊界というのは時間のない所なんです。 それはもう千年も万年も楽しんだような気持になるんですね。そうすれば、今まで苦しんでいたのが、喜びを持つように変わるんです。そこにこのお祭りの意味というものがあります。
霊障害・病気治しについて、それは宗教ではない
大倭へ出てきて先祖さんが喜べば、それでまた肉体的な条件で苦しんでいた子孫の人が治ったとかいうこともあると思います。
皆さん方もね、大倭でなくても、どこかで拝んでもらって病気が治ったという例をご存知やと思います。私自身もそういう経験をたくさん持ってます。けれども、これはね、拝んだから治った、神さんが出て来て助けたとか、そんなんじゃないんですよ。
治った人もやがてまた死にますし、一時的な話であって永遠に治ったわけじゃないんです。心霊治療と言ったらいいんかね。私個人がそういう能力を持っているわけです。人によって治せる能力のある人、ない人があるんです。このお経を唱えたら治ると言うんやったら、誰でもそのお経を唱えたらいいわけです。しかしおそらく治らんでしょう。治すような人であれば、お経みたいなもの唱えなくても治しますよ。
私から言わせれば、それは一つの心霊治療なんです。私も生命体(※霊体のこと)を蝕んでいる病気をたくさん扱ってきました。肉体を持っている場合であれば肉体に病気が出ます。肉体がなかったらその霊魂が患っています。それを私の霊的な能力でもって治療するわけです。生命体の中でだんだんと治ってくると、肉体の方も自然に良くなってくるということもあり得ることなんです。
けれどもね、肉体の限界が過ぎていて、どんなことをしてもダメという場合は、なんぼ心霊治療しても死んでいきます。肉体には肉体としての限界がありますからね。
まあ、もし私が死んだら、大分、病気の霊界人に対して治療してやらなあかんなあと思っています。けれど今は生きて肉体をはめてますから、極力、私はそれをやりません。
宗教というものを表に出して、やれ病気治しますとか、そやから大倭の神さんはありがたいというような方法で人を集めたとしたら、もう私の命はありません。直ぐに霊界人が迎えに来て、心臓がコトッと止まりますわ。世間の人のことは知りませんが、私は、それだけの監督をされています。 霊界の肉体を持たない仲間がたくさんおって、その人達の監督の下に、私は現界において命のある間、仕事をしているんです。
私も、しばらくしますと七十二歳になりますからね、もう先は短いです。けど、あっちの方が里なんです。こっちへ仮に出てきているので、あと十年先か二十年先かそれは分かりませんが、本家へ帰らないといけません。それまで、ということは生きている間は、できるだけ霊界人に添うような生き方をしなければいけないと思っています。
宗教の本質は心から仲良くすること
宗教という言葉を使いましたが、これは社会福祉という言葉におき換えてもいいんです。行政や制度で言う社会福祉とちがって、もっと広い意味で、日本だけでなく世界中の人間一人一人全部が、平和になるように努力するということなんです。
そんなもの一億年先かもわかりませんよ。我々の望むような平和な世界というのは、そう簡単に実現しません。そんな時代はめったに来るものじゃありませんけれど、できるだけ努力しないといけないんです。
平和という言葉も解釈がむつかしいと思いますが、世界の民族が皆、仲良うするということですね。まあ、一人一人能力は違うし、ものの考え方はちがうし、 そんなところを統一はできません。反対者を殺すとか武力で弾圧するとか、ある程度は力で統一できるかもしれませんが、心からでなく命が惜しいから言うことを聞くという意味の平和ですから、それではいけないと思うんです。
地球上には気候や風土の厳しい場所も色々ありますが、日本のような結構な環境の国に生まれ、原爆も落とされているんやからそれをお陰さんにして、こういうような国が一番先にほんまの平和国家になっていかなければいけませんよ。
人間一人一人がみんな仲良うなること。言葉は非常に簡単ですが、宗教の根本はこれだと思うんです。みんな違った条件で生活しておって、皆が違う個性を持っています。それが寄り集まって、仲良うしていこういう時に、 人間対人間の考え方だけではできないと思いますね。
やっぱり隣りでカラーテレビを買えば、うちも買いたい。隣りの子がピアノを習って、うちの子も習いたいと言えば、親としては習わしてやりたいということになる。そうすると、金がほしいということで人と競争もせんなん。世間体を気にしてええかっこしたい。あるいは人からいろんなことを言われるのはいやや。やはり名誉もほしい。
そういうように一人一人が皆、違う考え方を持っていながら、仲良うというのはむつかしい話や。 お互いを認め合うということが大事なんだけれども、それには自分というものを鍛えなくてはいけないんです。訓練することと、やっぱりある程度の知識も必要だと思います。
集まって話し合うということも一つの方法です。それで自分を訓練して、あの人とはこの線でこの人とはまたそれなりの線で仲良うやっていけるとか、これは皆できるはずです。
所帯が別々になっておっても、相互扶助で助け合ったり協力していくということも、お互いの心の持ち方でできることやと思います。
大倭紫陽花邑という実践の姿から学んでほしい
ちょうど今日は、大倭を軸としたお祭りで寄って来ていますから、一つ財布で大勢の人が生活している大倭紫陽花邑というのはどういうところか、そんなことを一つ研究してほしい。経典やとかを読んで頭に残るだけのようなものでは、薄っぺらなんですよ。身につきません。
それよりも、他人が寄り集まって生活しておるのに、別にそう大した喧嘩もせず何で仲良うやっていけるのか、そんなところに疑問を持ってもらわなきゃいけないんです。一生懸命に働いている者もおるし、遊んでいる者もおりますわ。今日は東光大祭ですから、うちの者は総動員でやってくれていますけれど、普段の月次祭であれば、バラバラです。まあ、私一人が神さんを拝んでいたら、傍の者は必要ないねんけどな。ここは神さんのお膝元やから、お祭りにはみんな揃ってお参りして手を合わせていると世間の人は思うやろけどね。ところが、 月次祭に来ているうちの家族いうたら数えるほどや。時間を費やして電車賃を払って来てはる人もおれば、肝心の足元では、その時間にキャッチボーその時間にキャッチボールして遊んでる者もいます(笑)。
私はこの神さんを信仰していますと言っても喧嘩してばかりいる家庭はよくあります。そんなところをよく考えてほしいと思います。何も理屈はいりません。この大倭の集団の生活を見てもらって、それを実行に移すようなとらえ方をしてもらったら、大倭教としての宗教の教化指導は必要ありません。みんなが仲良うにさえしてもらったらそれでいいんですからね。
なんぼ知識があっても、どれだけ世間に顔が良くても、一番身近な人達が仲悪かったら、人生は不幸やと思う。自分が幸せになりたかったら、自分の周囲におるみんなも幸せでなければいけないと思うんです。
ここには福祉施設が三つあります。もうどこかに行かなくてもよい、ここで死ぬまで生活できるという重度施設ばかりです。大体240人ほどに対して、職員が100人ぐらいですかね。私はそこの社会福祉法人の理事長や施設長をしておりますので、今日も午前中は施設に行っておりました。 よその施設から研修にみえた人達に、大倭の話をしたり一緒にご飯を食べたりしたんです。食べる時には、食べる時なりの雑談がありますからね。
そうすると、やっぱり大倭の33年間の流れの伝統というものが、何かしらん、雰囲気として自然に出ているらしいんですね。職員は大倭の外から来ている人が大半ですが、行政に基づいている施設ですから、直接、大倭がどうこうと吹き込んだりはしておりませんけどね。
結構やなあと思うんです。だから宗教的な布教とか活動とかしなくても、人間一人一人が幸せになるようなものの考え方で、また協力の仕方で、みんな仲良うにさえいけたら、それでいいんです。それが大倭の宗教の主旨なんです。それを皆さん、よく理解して下さい。
本当の宗教、法主は霊界人に厳しく監督されて歩んでいる
揺すぶったら動くような、貧弱な建物の下にはおりますが、こういうような内容を持った宗教人は、そうあちこちにはおらないと思います。これは自慢してるようですけれども、私には目に見えない人達の監督が付いていますからね。
今の時代、世間の人は一にも法律、二にも法律と、法律にさえ引っかからなかったら、人を泣かそうがどうしようが案外、悪いことをやっていると思いません。私は法律は知りませんが、私のことは霊界人が監督しております。
今日までいやというくらい、私がこの世に生まれてきたお役目というものを、体験を通して教えてくれていますので、自分とすれば間違いなく現在まで来ているつもりなんです。
宗教も色々あって有名な宗教家もたくさんおられますが、その人達はまたそのお役目やと思います。私は私のお役目です。だから、私のような、 同じお役目の宗教家はいらっしゃらないだろうと、これは自慢やないんです。けれども私くらい厳しく監督されている者は、そうそうはないやろなと思うんです。
霊界人は、えらい金を掛けてここに大殿堂を建てたり立派なご本尊を作っても、人間一人も救うことはできないと言うんです。だから、そんなことに金を使えば、私の場合、罰が当たります。
今も、やっぱり立って話さなくてはしょうがないんですが、高い所から皆さんに先生面してものを言う気持じゃないんです。せっかく遠くから来てもらってるんやから、今日は霊界人と一緒に遊ぶという東光大祭の意味をちょっとでも、心の栄養として持ち帰ってもらいたいと思うんですね。 私も皆さんと共に遊ぶというつもりでものを言うております。
教えているんじゃないし教化しているんじゃありません。私と皆さんと対々同士なんだから、私は何にも偉くないんです。私はこういうような役目を持っているというだけで、人間とすれば皆、平等なんです。
この人が偉い、この人がアカンというようなものを神さんは作っておりません。けれども色々の種類の人間があってこそ、世の中の調和というものができるんです。花でも桜の花もあれば菊の花もあるんです。季節によって、また寒い所、暑い所によって種類がたくさんあります。花一つとってみても多色彩に自然界はできております。
神ながら、仲良くいく
ここの宗教は、神ながらの宗教、ということは自然界に流れている摂理を、人間的に受け取っていく道と心得ることなんです。あるいは宇宙の大法といってもいい、それを人生を歩んでいく一つの方法としていけば、神ながらの道ということなんです。
神ながらの道と言うと、軍国主義かと思う人もあるかもしれません。しかし、神ながらということは自然の流れということ、例えば地球が回ったり春夏秋冬があったりするような、自然を動かしている大きな法則ということですね。そこから――大きな自然界の中の人間なんですから―――人間として行くべき道を汲み取っていくというのが神ながらの道なんです。
戦争なんか全然無関係なんですよ。日本の過去において為政者が戦争に結びつけるようなもっていき方をした場合もあったというだけで、昔も今も、神ながらの道には変わりはございません。
戦後、私は神ながらの道を標榜しております。 これによって皆、仲良くいこうやと。偉い人もなければアカン人もない、花でも違っておるように、 一人一人、能力において、趣味において、あるいは体力において相違がある者ばかりが集まっているんです。皆、寄せてきてはじめて調和がとれるんです。花が全部、牡丹だったら、もう牡丹を見ただけでいやになりますよ。生け花でも色々と取り合わせて、美というものができるんです。
人間でも、色々な種類の、色々な考えのどんな人もおって、それで力を合わせないといけません。 俺はこんな能力者や、だから偉いんやと一人だけ頭を上げたらだめなんです。何も自分個人が偉いんではない、自然の摂理が一人一人に持たせた能力なんです。これは神さんからもらった能力やから、社会のみんなが幸せになるように使わなければいけない義務があるんです。
これは法律ではありません。けれどもその義務を怠たったら、例えば病気になるとか、早いとここの世から姿を消されるとか、それが神さんの心、宇宙の一つの摂理なんです。だから有能な人であればあるほど、その能力を社会のみんなが幸せになるように使わなければいけないんです。
例えば金儲けの能力者が金儲けすることはいいんです。しかし儲かった金を一人占めしておったら、必ず金のために不幸になったり命を放ったりしますよ。自分は金が儲かるような能力に生まれさせてもらったんやから、また世間には金儲けのできない宿命で生まれている人もたくさんおるんやから、そちらの方へ流してやるという、そういうようなものの考え方ですね。
そうすれば、みんなが何かの形で協力することができて仲良うなるんじゃないかと、これは私の考えですが、戦後33年間、私一人の小さな範囲内で実行してきました。世間に広くはできません、私の能力のちっぽけな、ほんまに小さな問題だけれども、今日まで自分は実行してきたと断言できるんです。
世間から見れば何でもない、微々たる話やけど、 自分としては精一杯なんです。あと何年生きさせてもらうのか分かりませんけど、これからもみんなと仲良うにいきたいんです。
皆さんを、私は信者とは思っていません。大倭には信者というのはおりません。みんな協力して仲良うして、みんなが幸せになっていく同じ仲間だ、同志だと思っています。だから皆さん方も、 お参りしようとか、やれ神さんがありがたいやとか、そんなくだらないことを考えないで、遊びに行こうという気持で大倭にお出で下さい。
また自分で判断がつかないから、ちょっと相談して知恵を借りようとか、そんな身近な人間関係によってお出でになったら結構やなと思います。 どんなささいなことでも、それが自分自身の悩みになっている場合には、どしどし私に話して下さい。私のできる範囲において対応させてもらい処理させてもらいたいと思います。
踊り=心が満足する
今日は夕方から、みんなが栄えていくという意味の弥栄おどりもございます。「おどり」は『おたり・おたる」という言葉から来ています。「お」 は”心”、「どり」は”足る”、つまり”心が満足する”ということなんです。丁寧にものを言おうとすると、「お」をつけますね。例えばお供えとか言う。あれは、”心をつける・心から」ということなんです。
だから「おどり」は、心から満ち足りて、それを手や足で表わす形ですね。心の喜びの表現ということなんです。そういう意味でね、弥栄おどりというのを、今日の東光大祭の直会(※神事が終わった後、神酒・神饌をおろしていただく酒宴、 広辞苑より)として催しております。それぞれ事情もありますから、帰らなければならない人は帰って頂いたらよろしいし、残れる方は残って、現界人も霊界人も共に踊って楽しんでもらったらよいと思います。
帰った人のご先祖さんもね、今日はゆっくり遅くまで遊んでいらっしゃいますから、その点は一つご安心下さい(笑)。私は、また相手になって遊ばして頂きます。
最後に、暑い折ですから、皆さんどうぞお体に気を付けて下さい。
(柏手合掌)
※1:日聖法主は過去世が釈迦本人であるための謙遜と感じる
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