大倭紫陽花邑のなりたち、宗教とは(矢追日聖・『おおやまと』平成2年1・2月号より)
お久しぶりです。
今回は、『おおやまと』(平成2年1・2月号)より。
大倭(紫陽花邑)のなりたち、宗教とは、といったことについて日聖法主が法話されているものを引用します。
大倭(紫陽花邑)のなりたち、宗教とは
先程は、うちではポンちゃんで通ってる杉本がいい話をしてくれまして。今日は講演会やなんてくすぐったいですね。昔の禊会のように徹夜でやろうという話も出とったんですが、それもしんどいしね。私も昭和55年(1980)にちょっとした脳血栓を患って入院した経験もございます。その頃はもう寝不足の連続で。けれどもそれが楽になりまして、一病息災と言う通り、今は年相応に健康でおります。
今日のテーマは「やすらぎのあじさい邑」ということらしいんですが。あじさい邑というのは昭和22年から始めたんです。現在おります、この地域が、実測で一万坪程かと思いますが、私の所有地になってまして、ちょうど南向きの谷あいで、 山も畑も水田もあって、生活するには良い所なんです。ここで所謂、「財布一つ、釜一つの生活、経済は一本、御飯食べるのも皆一緒」というような形においての集団生活を始めたんです。一番多い時で60人位いました。
普通でも「家族、親族で仲良ういく」というのはなかなか難しいことです。ここは赤の他人が集って、 それが経済一本で寝起きして飯喰って、争いが起って当たりまえなんです。独身の人もおるし、戦争未亡人で子供のおるような人もいるし、反対にやもめもおるし、子供だけもおるし、もう人間のいろんな種類が集ってました。
そんな複雑な人間関係で、別にえらいケンカもしないで、毎日仲良う暮らしていける社会というのは、もう”理想社会”やと思うんです。
そういうようなことをやってみたいというのは私の終戦時の気持でした。戦争というのは国と国の争いです。小さくは個人と個人のケンカですが、大きくなると戦争ということになるんです。 そんな風に争う心の無いような人間作りと言うのが、終戦後の社会に於て一番必要じゃないかと思ったんです。
それについては、又、いろいろ原因がございます。子供が生まれるのでも、男と女の気の動きが先ずあって、肉体の接触があって、結局実って子供ができる。心が先に動いて形が後になるんです。 ものごとが形の上で一つ現われてくる場合は何でも、その前というものが必ずあるんです。
そこで一つ大事になるのは、自分の生まれた家の血筋というか血統というか血縁という一つの筋と、それから生まれた場所、所謂、地縁というのか、その土地の縁だと思うんです。この血縁と地縁の二つが、どこかでかみ合って、その人間一人の人生が、そこで出発すると、私は思うんです。
出自・先祖・血縁地縁/神武東征時のこと(長曽根彦)
で、今日は、私があじさい邑の出発をお話しする場ですから、私のことについて申し上げるんですが、私はここからちょっと西の方にある「藤ノ木」という古い村で生まれたんです。農村でね。今でも富雄といってますが、鳥見とか登美とか書いて昔からそういう地名の谷筋です。徳川時代は鳥見庄中村になってます。登美の中心ということですね。万葉集にも登美の小川とか出てきます。
最近は古代文化に興味を持ってる人が増えてるようですが、私の生まれた藤ノ木という所は、世間の人はあまり知らないかもしれません。
日本の古代史については、1300年位前の奈良朝に編纂された「古事記」「日本書紀」という正史があります。結局、そこに書かれておることから探り当てていかんと分らないんです。それ以前になると、語り部という一つの役職が有ったらしくて、口から口へと伝えていったんですね。
その両方の本の神武天皇のところで登美が出てきます。この辺りは長曽根彦の一族の本拠であったんです。そこへ九州の日向の辺におった一族が移動して来て、戦争になった。で、結局は九州の方の神武天皇なんかの一族が、大和で政権を持つことになったわけです。その時、長曽根彦、これは個人の名称じゃございません、総称なんです。
その中の一番権力のあった人は、私が霊的に感じるところでは、九州の現在の天皇家の一族と政権交代した時に自決しています。大和で長曽根彦の筋やと言われておるのに物部一族というのがありますが、他でも全国方々に残っておる神まつりのあと、つまり神社やとか言い伝えを見ますと、たくさんの長曽根一族が、逃げて行ってそこで根を下ろしてるんやなと思えるものがあります。

例えば、最近、私は青森の方へ行きました。「東日流外三郡史」というのが、石田家という家の天井裏に先祖代々の言い伝えで隠してあったんですね、それが発見されまして、そこに登美の長曽根彦の一族が、青森まで行っている事が、書いてあったというんです。私もびっくりしました。そこに十三湖(現在は”じゅうさんこ”)というのがあるんですが、これも十三(”とみ”であった可能性)です。その湖のそばには長曽根彦をお祀りしてある神社があったりして、私もなんとなしに懐しい思いで、おまいりしてきました。その時のことは、前に「おおやまと」(平成1年1月号)にも書きましたが。出雲の方にも一部分行ってるし、 千葉県から東京都、茨城県、あの辺りにも”とみ神社(鳥見神社)”というのがあちこちとあるんで、おもしろい。
といって現在の我々には直接何も関係はないですよ。無いですけれども、さっきも言った通り、 物事というのは一つの原因があって、その結果が出てくるんやから、原因を知るということは大事やと思うんです。
私はね、長曽根一族が大和を放棄して行った時に、人間のことやから大変な恨みつらみが有ったと思うんです。恨みつらみを持って死んでいる。霊の世界において恨みつらみがあれば、表の人間社会にも色々なトラブルが起こってくるんです。皆さん個人で考えてみたかて、例えば嫁と姑でも、心の中に恨みとか何かがあったら、表の家庭の中は円満に行かないと思うんです。心は目に見えませんけれども、形は心と直結しているんで、心が先に平和にならなければ、形の世界は平和にならない。
私は、まあ、そういうような所で生まれておるんで、「長曽根一族の気」というものを体に受けているんです。その恨みつらみを何とか慰霊しなきゃいけない、鎮めなきゃいけない、それでもって世の中を平和にしなけりゃいけない、皆仲良うしなけりゃいけない、というものが、私の血の中にこびりついとるんです。それが先ず、大倭あじさい邑が、ここでできてきた一つの大きな原因であるということです。
戦前、少年・青年期
私は兵隊には行ってないんです。体が弱くて、 兵役免除でした。あの当時の日本の社会では、国賊の部類に入っとったんです。長曽根彦と同じようなこと言われるんやなと、その時は思いました。 で、昭和15年から18年頃は東京におりまして、八紘会というのを主宰してました。そこで話しをした時でも、長曽根彦のことを口に出すと、特高と私らは言うてましたが思想犯を扱こうてるような刑事が、すぐに「弁士注意!」と言うんですよ。 要するに長曽根彦というたら国賊ですから、日本の歴史の中では抹殺されておったんです。
結局は昭和20年8月15日に、終戦ということになってしまいました。それで、私が、大倭神宮でお参りしている時に、お前の仕事はこれから始まる。そのために、ここまで命を持って来たんや、と、まあ、これは、私は自分でも精神分裂症とちがうかと疑ってみたこともあるんやけど、霊界から言うて来るというのか、そういうことを感じたんですね。
最近は、世間でも心霊現象やとか霊界やとかいうことが流行ってるみたいですね。本なんかもたくさん出てるし、又、 テレビでもようやってます。そんなものに刺激されて若い者は踊ってるんやと思うんですけれども、こんなことが聞こえて来るとか、あるいは、こんなものが見えますとか言うような女の子がね、ここへも来ます。そんな子を世間はちょっとおだてすぎるし、かぶれている人もたくさんおると思うんですが、事実そんな事は、有ります。私の16、7歳の頃に、 それがあったんです。いろんなことが聞こえてきますし、ぽっと見えます。
それで、「お前は、宗教で一生行かなけりゃいけないんだ」、とそんなようなこと言って来るんですよ。私はどっちかと言うと理屈っぽい頭なんです、元来が。学校では考古学をやっとったんです。一つの物を持って来なければものを言えない、 想像は許されないという学問なんです。 徹底した唯物史観です。だから、私にそんなん聞こえてきたり、あるいは見えたりするとね、ああ俺は精神分裂おこしてるんとちがうかと、いつも自己批判しとったんです。
私は、その頃は宗教も大嫌いやったんです。坊さん神主さんを見ておったら、 結局、金もうけ目的が多いんです。それなら商売人と同じだと。ところがそんなこと言うて来るんで、いやらしいなあと思っていたんやけど、まあなるようになるだろうと思ってね。
それが今は皆さんにこんなややこしい神秘的な話をせんなんようになってるんやけれども、これは宿命やと思うんです。だから自分の理性と宿命というものは一致しないんですね。
終戦と宗教人としてのはじまり
終戦の時に、私はちょうど34歳でした。「これから私の仕事が始まるんだ」、と言われたわけですが、何をしていいのか分らないんです。すると又、霊界から、「大阪の焼野原へ立ってしゃべって来い」と、こう言われるんです。で、心斎橋の通りとか千日前やとか、上六の商店街とか、あんな所に立って、所謂、辻説法というか街頭布教みたいなことをしたんです。終戦後の日本人としてどういう心の持ち方をしたらいいかというような話をしましてね。
それは結局、私自身が宗教的な人間になる一つの修行の意味だったんですね。滝に打たれたり、 毎日、お経を読んだりするような修行やなしに。 ここでお前を頼って来る人は、全部受け入れよと言われました。一切、利害を抜きにして、来る者はどんな人も受け入れよと、その代わり又、どんな大事な人でも、去って行ったら追うな、と。
それが大倭あじさい邑の出発なんです。家の無いような人もたくさんいる頃ですから、私の話聞いていて、一緒に行きたいという人も出てきます。そんな人を自分の家へ連れて帰ったんです。
それから、この山の中へ移って生活を始めたのが昭和22年の10月30日なんです。何にも無い所に皆寄って、ここらに生えている松の木の皮をむいて柱に立てて、茅刈って屋根を葺いて、そんなところで裸一貫からの出発です。
その中で私は宗教人としての本当の修行ができました。世の中でやっぱり一番苦労するのはお金のことなんです。大勢の人が来る、金を提げて来るような者はいない、けどなんとかして飯は喰わんなんし、皆一緒に仲良う生活せんなん。これをやり遂げたら、自分に宗教人としての資格が有るんやなということを自分で悟ったわけなんです。
初めて質札も見ましたし、虱(シラミ)の味も覚えました。 物を盗む者もおります。今で言う非行少年というようなのが5、6人固まって入って来たことがあります。子供だけでも20人以上おったんやから学校にも行ってるしお金もいるんで、皆で夜なべして小豆でも選り分けて金に換えるつもりをするとしますやろ。それがあくる日の朝になると無くなってるんです。夜中にちゃんと山のとこへ出しておいて、朝、先生、今日は遊びに行かしてほしいねんと言う。ああ、行って来たらええやないか、 お金は?と言うと、いやもういらへんねんと言う。小豆をぜんざい屋あたりに売ってちゃんと金をこしらえて遊んで、夕方になったら、涼しい顔でただいまと帰って来る。

そんな時に、私はじいっと自分に、俺、腹立ってるやろうかな、と考えた。普通やったら腹立ちますよ。けども私はその時に反省したんです。やっぱり自分らは欲心があるし、金を作らんなんという目的があるし、そんなものがあって腹が立つんやな、と。けれども若い者が、そのままどこかへ逃げるんじゃなくして、又、夕方、今日はおもしろかったと言って帰って来るんやからネ、その顔を見た時に、「ああ、この子の今日一日の楽しみになってんな」と思ったらね、腹が立たなくなってん。
ここで共同生活をやってる時に、そんなことを何度も繰り返したんです。だから腹も減るし、池のえびがにの皮をむいて喰ったこともあります、 喉が乾けば田の水も飲みました。とにかく最低生活まで落ち込みました。それではじめてネ、どんなことがあったとしても、それを全然、自分の悩み苦しみにしないで、人の教化指導に当たるのが宗教人やな、ということを、ここで、私は経験させてもらったんです。
大倭の原則、三つの柱
一、地下水の精神
二、心身の健康
三、相互の扶助
光明皇后の話、紫陽花と地下水
まあ気違いの言うことやと思って聞いてもらったらええと思うけど、昭和22年の、私がこの山に入った時に、光明皇后が出てきました。奈良の大仏さんを作らはった聖武天皇の皇后さんですね。隣のゴルフ場を作る時、ちょっとした仏さんや瓦も出て、お寺の跡であるような証拠物は出ておりますが、ここには須加宮寺というお寺があって、光明皇后の若い時分におられたような場所らしいんです。歴史には出ておりませんが。
光明皇后は、悲田院とか施薬院を作られて、日本の社会福祉の草分けやということになってます。 ここに出て来た時の光明皇后は、社会福祉の仕事をしていた頃の姿でした。高松塚の壁画のようなちょうど唐の時代の服装をしてるんです。死んだ人の姿というのは、生まれた時からずーっと細かく死ぬまでの姿があるんですね。一番必要な姿が出て来るんです。
①地下水の精神
それで光明皇后が”あじさい”の花を持ってるんです。観音さんとか蓮の花を持ってるのが普通やけどなあ、ふしぎやなあと思っていると、別に声として聞こえないけれども、私の心の中に、言葉として聞こえてくるんです。地下水のような心で仕事をしてほしい、と。
ここにある菊の花でも地下水でこんなにきれいに咲いたんやし、大きな杉、松の木でも地下水が無かったら枯れてしまいます。目に見えない土の下におるけれども、目に見えるところの全てを育てている、幸せになるようにしてゆく、これが福祉の心、と言われたんですね。名誉とか利害損得とかを考えずに、所謂、縁の下の舞というのか、 その行為は表に出て来るけれども、心は目立たないで人の幸せを祈り、行っていく、それが地下水の精神なんです。
それから今度はあじさいの花を出して、これの如くに、と言われたけれども、何のことかと思っていると、言葉として私の心の中に、「地下水の如く清く流れ、あじさいの如く美しく咲け」というのが響いてくるんです。ああ、地下水のような心で仕事をする、そうして、財布一つですからね、 経済は一本であって同じ一つ釜の飯を食べて、いわば根は一つと、そして上で個人個人があじさいの花の如くに丸く和やかな姿になれということやな、と思いましてね、それから大倭の「あじさい邑」という名前をつけたんです。それが理想の姿です。 来る者を拒まず去る者を追わずということを鉄則として、これがここの第一条件なんです。
②心身の健康
それから、病気になれば、はた(隣、そば)の者が困るんです。身体と心の両方が健康でなけりゃいけない。 ものの解釈一つでもひがみ心を持っていると周りと調和が欠けます。あるいは腹が立つとか争いたいとか、そんな人たちは心の病気なんです。「心身の健康」というのが二番目。
③相互の扶助
それから三番目は、「相互の扶助」なんです。お互いに助け合うということ。例えば私がこの着物を着てるのでも糸を作ってくれた人、織ってくれた人、染めてくれた人、商売をしてくれた人と、いろいろな人の手をくぐってるんです。お互いに有無相通じて自分の持ってるものを他人に与える、 お互いに自分の特徴や能力を出し合っていくということですね。その心が無かったら仲良ういかれないんです。
この三つが、大倭あじさい邑の原則です。これができたら、何もあじさい邑でなくても、 家庭、親類同志の中で、皆が仲良ういけるはずやと思います。
世界平和の運動、仲良くする
まあ人間には動物として本質的に喜怒哀楽というものがあります。それは生まれつき神さんが与えておるんやから腹立てても良いんやけど、腹立てることによってプラスは何にも無い、全部マイナスです。人類は結構なことに智恵というもの、 理性があるんですよ。理性でコントロールしていく能力もあるんです。腹立つことがある時には、 できるだけコントロールするように、何で自分は腹立つのかなと自己反省していくと、一時は腹立ったかて、又、鎮っていくと思います。それでもって「皆が仲良うしていくようにする」ということが一番大事やと思うんです。それも一つの信仰の世界、宗教の世界やと私は思います。
形の世界が平和に行くには、心の方が先ず問題なんです。だから、私は「文化行事」といってね、毎月一回ずつ大倭会の主催で2、30人と外に出て行きますが、これでもそうなんです。歴史上のいわれのある場所とかに行きますと、そこによく恨んで死んだ人の霊魂がおります。いろいろな恨みつらみがある。それが社会の裏に流れておったら現界のこの社会は決して平和にいかないんです。
現代でもいろいろな戦争に於て死んでる人がたくさんおります。靖国神社に祀られてはおりますけれども、何も自分の意志で戦争して人を殺しに行ったんじゃない。これは国家のために行ってるんで、そういうような人でも国に対して恨みつらみを持って死んでるような人もたくさんあると思います。やっぱり死ぬ時に天皇陛下万歳と言った人は少ないと思います。たいていお母ちゃんとかお父ちゃんとか身内の者のことを叫んで死んだと思うんですけれども。そういう人たちの心がまだ何万と地下に眠ってるんです。
ここに於て、本当の宗教が必要になってくるんです。「企業化したような金もうけの宗教」やなしに。 霊界の人たちは、我々、形のある人間との交流によって安らかになるんです。霊界同志ではどうにもならないものがあります。お互いに交流しあうことによって霊の世界の人たちもだんだんと安住していくんです。
だから私が大倭教として、このような仕事をしているというのは、世界平和の運動をしているんです。原水爆反対とか団体を組んでやっている、 あれも平和運動だと思いますが、私のは生きている人間だけを対象とした平和運動ではありません。
個人の人間で考えても肉体と心の両方が健康になってこそはじめて平和な人間になるんやけども、 心の方に優越感や劣等感のようなものを持ち合わせておると、なかなか平和になりにくいと思う。 それが社会ということになっても、形のある人間の世界がおだやかにならなければいけないという時に、形のない人間の世界、つまり霊界を浄化して行って、平和になってもらわないといけない。 そういうことに対して私は”宗教”という言葉を使ってるわけです。
だから身近に言えば、皆さん方のご先祖さんと子孫の者だけでも良いんです。先祖まつりをしっかりすると良いと思う。これはお経をようけあげたら先祖さんが喜こぶとか、そんなんじゃないですよ。死んだ人にも、生きてる人間と同じように喜怒哀楽がありますねん。だから霊の世界にも腹立てて怒ってる人もあるんですよ。何も神社にまつられてるから神さんになったというのとは違います。
坊さんは坊さんで一つのお役目を持ってるんやから、ああしてお経あげてもろたら、それも一つの形式で、よろしい。けれども死んだ人の本当に喜ぶのは、因縁の一番深い、というと”血のつながり”なんです、子孫の者が自分の先祖さんに対して、毎日、生きてる人にするようにお供え物をして、朝はおはようございます、寝る時にはおやすみなさいと、人間と人間の挨拶の形に於て交流することなんです。そうすると先祖さんの方は、心が鎮まっていく。
今、皆さん方の肉体のなかに何億の細胞があるかしれませんけれども、それが百年、千年昔の先祖さんと同じ細胞なんです。その細胞という肉体の物体一つ一つの中に、先祖さんの心が宿って生きているんです。そういうような深い深い因果関係、 つまり因縁を、子孫の者は持っているんです。
生きている人間皆が、そういうようにして霊界の人を助けて頂ければ、表の人間世界の方は、期せずして平和になっていくと思うんです。
宗教団体は要らない/現世利益ではなく成長を/人格霊
大倭教は一つの”宗教法人”ですけれども、私は何も信者になって頂きたいと思ってません。何万の信者ができても、その一人一人を全部救済することはできません。あべこべに”団体の自我、団体我”というのができて来て、大倭教は良い宗教で他の宗教は良くないというような差別観を教えたりするようになりやすいんでかえって困るんです。だから信者は一人もおりません。けれども一人一人が幸せになってくれることを私は望んでますから個人の相談は受けてます。そういう意味に於て、 私と人間関係を作っておられる方がたくさんおられます。その人たちが自分では信者やと思ってるかもしれませんが、私は認めてません。同じ仲間やという気持でおります。大倭会というのを作ってますが、これは宗教団体ではありません。心の有志の者だけが集まって、お互いに精神的に修養して仲良うしようやないかという意味なんです。
神さん仏さんを拝むということは、「自分が神さん仏さんのような心になりたい」というような気持であれば結構なんですが、日本人の信仰というのは、「個人の利益を求めるような欲信心」が多いんですね。病気を治してほしいとか幸せにしてほしいとか、まるで乞食に投げるみたいにお金を放り込んで拝んでも、神さんはめったにきいてくれませんよ。神さんと言ったってね、人格霊なんです。
過去に於て人間だったんです。例えば天神さんというのは菅原道真さんです。生きてる時はごはんも食べはったしクソもこいてはった。そんな人に合格さしてくれと頼んだかて、めったに合格さしてくれへんねん。自分の学力が無かったら落ちますよ。それよりね、太宰府まで流されて、ご苦労しましたねと慰めるように祈るのが、本当の信仰です。商売人はお稲荷さんをまつってます。これは畜生霊やねん。商売繁盛させて下さいと言っても、自分が人間できてなくて商売が下手やったら、めったにはやらしませんよ。
紫陽花邑はモデルケース
生きてる人間の一番苦痛とする悩みは「お金」、次には「病気」、それから「だんだん老化して行った時」の問題やと思うんです。私はここで乞食生活しておってね、それが体験できたわけなんです。
一番広く苦痛になってるのは「お金の問題」です。 その点は日本が経済大国になってしもた。ところでそれで果して日本全体が幸せにいけるかどうか。 うちのあじさい邑でも世間並みに、わりあい生活は豊かになってきました。そうすると精神的には欠けてくるように私はよく感じます。「ほんまに心から仲良うしようやないか」という気持でなく、「自分の思ってることを主張してゆく」そういうような心に変化してくるわけです。昔の貧乏世帯している時の方が、精神的には美しかったと思うんです。結局、人間というのは程々にしておかんとね。
「小さいけれど一つの幸せな社会」の模型を作りたいというのが私の終戦時の考えだったんです。 モデルケースですわね。社会全部にそうしようと思ってません。
だから、ゆりかごから墓場まで、生まれてから死ぬまで、お互い皆が、現界に於て幸せにいけるためのものを、邑の中に設置したいというのが当初の心でした。おかげさんで、「大倭安宿苑」という福祉の施設が、昭和31年から始まって、今では3種類の行政上の施設になってます。最後には昭和62年、あじさい邑の入口に、「大倭病院」もできました。こういうような形のものは、全部、 大倭教の宗教の心から出発してるんです。
今日はいろんなことをしゃべりましたが、まあどんな部分でもよい、たとえなんぼかでもええ、 あなた達の心の一つの糧になってくれたら、この講演会は成功やったと思うんです。
長らくありがとうございました。
コメント
以上、日聖氏からの引用でした。
現在、鋭意日聖氏の執筆物をデータ化中です。
縁あるところへ、加美のまにまに広がるのみ。
なもたかまのはら
南無妙法蓮華経
