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不思議話(0章序) 不思議話シリーズをはじめます

皆さんは、不思議な体験をしたことはあるだろうか。
或いはそのようなことを認識しているであろうか。

現代は、物質的なことが全てのような認識が主流となり、「神秘的なこと」は置き去りにされ、あるいは排他されることが多くなっている。

わたしも現代に生まれ、現代人と共にこれに疑いを随分に向けてきた。
詳しくはこちらにも記したとおりである。

疑と信の格闘

疑と信との狭間で、格闘を重ねてきた

ところが、わたしは幼少期から不思議な経験もあって、宗教的なことを真実としてはじめから確信してしまっているものでもあり、その自己矛盾の狭間で大分格闘を重ねてきたものでもある。
疑いが主である半面、また同時にどうしてもそうした神秘的なものや目に見えぬものについて確信も主としてあり、悪魔と天使のようにこの二つの感覚がほとんど等しく拮抗し、闘ってきた。

そして僅かに、確信の方が勝っており、ついにこれが勝ったものである。
その道程はとてつもなく長く、悶々としたものであった。

二つの方面
これが勝つには二つの方面があった。
片方は、理屈の方面。片方は実証の方面である。
・理屈の方面
わたしは現代に生まれた理知性に主を置くものであるので、そうした神秘的なことについて理屈がついていなくてはこれを盲目的に受け入れられるような性ではなかった。そこで、理屈の方面から説明がつくことを探求し、ついに一定の理屈を知って、理屈の方面から信じてもよいかと思ったものである。
・実証の方面
しかし、理屈だけでは机上の空論である可能性がある。物理学ですら、理論が通っただけでは何の真実性も保証しない。実証の方面が伴って、はじめて真実と認定しうる。これと同じく、理屈が一定に達しただけで盲目的に信じるような現代人のわたしではない。ところが、ある時期から、不思議体験を(しかも意図的に)示されることが続く出来事があり、実証の方面を伴って、ついに信じるに至ったものである。

実証として不思議体験をつらつらと
そこで、わたしが実証として経験した不思議体験を、人に話せる範囲には限られてしまうのであるが、つらつらと記していこうとするシリーズである。

この唯物主義傾向で懐疑心の強い時代にあって、宗教的なことを真実として見直していくきっかけになれば幸いである。また、そうしたことを信じたい気持ちがありながら、どうしても疑いが晴れずしんどいという方にも光として届けば幸いである。


はじめに

不思議なことというのが昔からある。
狐に化かされた、九死に一生を得た、あまりに偶然の出会い、神仏の声が聞こえる…など。

今の人の多くはこうしたものについて、迷信や勘違いのものと思っている。科学が発展し、確実な智が発達したことや、人類の能力が上がったこと、そのなかでそうした不思議なものが勘違いとわかった事例も積まれたことなどが理由であるだろう。

かくいう私も、そうしたものをあまり信じられないで相当に疑うタイプであってきたが、また一方では後述するがどうしても疑いきれない理由もあって、その両面によって25歳頃までは過ごしていた。
しかし、僧侶となった25歳頃からは自分本人があまりに不可思議な体験を積むことになり、信じるというよりも、目の前の普通の景色と同じであるという状態にまで至ってしまった。

こうなってしまうと、むしろ「そうした不思議なことは事実である」ということであって、であるならば「事実を人類が疑うばかりか否定して生きてしまうならば、ものごと/世の中が上手く進むわけがなかろう (―それこそ医学の事実を迷信に曇らされて見ることができなければ、正しい医学も発展せず、目の前の病気も悪化したりしていたように―)」と認識するようになり、人々に伝えていこうと思うようになったのである。

無理に信じることを強制しようというものではなく、紹介と解釈である。
とはいえ、結果的に事実であることを知っている以上は、広く理解が広がった方がよいであろうとも思っており、その一縁となろうと記すものである。


◉読み進めるための重要なこと―なぜ疑わしい/怪しい/非合理に見えるのか―

その前に。
ここで最もやっかいなのは、
むしろ、そうした不思議を「無闇に妄信する」人達である。

神秘的なものとして紹介されるもの或いはその説明といったものは、世に沢山出回っている。しかし、どうしても疑わしいと感じるのが一般的な反応ではないかと思うのである。実際、わたしもそのように感じてきた。

どうしても、疑わしい、怪しい、非合理に見える。そこで信じられない、疑いの目を一番に向けることになる。

そこで自身もそのように感じてきたものなのであるが、自分自身が経験するようになって、かえって「なぜそうしたものが、疑わしい、怪しい、非合理に見えるのか」ということが分ったところがあるのである。反対にいえば、それらの理由に対して、正しい回答を得たということでもある。

そこで分かったことを端的に言えば、「無闇に妄信する」人たちがいて、その人たちのものが出回ることで真実性が薄れてしまっているということが、大きな原因となっているのであろうということである。そこで反対に、その原因を分析し取り出すことで原因がはっきりし、またこれに相対することを説明することで真実性が感じられる可能性もあろうと思うのである。

そこで本編に入る前に、これを先に示しておくことで、読者の疑念を少しでも緩和できればと思い、まず記す。このポイントを押さえておくと、不思議なことが真正面から理解しやすくなるのではないかと信じる。

以下の、大きく三つの理由を示す。
(目次)
1.勘違い、誇張、創作、神格化が実際に多い
2.単純ではなく複雑怪奇(ゆえに一見矛盾となる)
3.ピンキリで色んな程度のものが存在する

1.勘違い、誇張、創作、神格化が実際に多い

第一に、わたしは僧侶となって自分自身がそうしたことを本当に体験していくなかでよくわかったが、

①「世の中に溢れている、或いは歴史的に語られてきた不思議なこと」の大半は、現代人の多くが考えるように本当にただの勘違いや、あるいは誇張・神格化、あるいは創作である。

私もかつては神秘的なことを大変に疑ってきたが、これは単にそうしたものが今言うように「勘違い・誇張・神格化・創作」の類であったために、直感が正しく機能してくれて”NO”と言っていただけなのだ。そして同様に、現代人の多くがこれを切ってしまうのはむしろそれで正しいからなのである。

これが「むしろ無闇に妄信する人たち」が、かえって不思議な事実が人に伝わることを阻害しているという第一の例である。アイドル自身は悪くなくても、そのファンたちのふるまいがよくなければ、外の人が嫌気をさしてしまうようなことがあるが、それと同じである。

2.単純ではなく複雑怪奇(ゆえに一見矛盾となる)

第二に、②そうした領域のものは、一例を挙げれば善をすれば善い報いがすぐにあったりするような簡単なものでは一切なく、複雑怪奇であるということ。それ故に正しく解釈することが甚だ難しいし、的確でないような短絡的な理解を付すならば、それでは間違っていて非合理なものになってしまうために、現代人が切り捨てるようなものになるということである。

わたし自身が経験していくなかで、今なおよく実感することであるが、「こうした出来事はそれほど単純なものではない」。
むしろ現代人のように、合理的に眺める目をよく養っていた方が正しい理解に近付くことが出来るであろうというほど、実に複雑怪奇なケースが多々ある。

こう言ってしまうと、複雑なものばかりという、それはそれで偏った印象を残しかねないので、方便を抜いて正確なことを言えば、「特別なことではなく、普通の事実と変わりないが故にこそ、単純なものもあれば、複雑なものもある。その仕組みとしても、基礎には単純な仕組みがあったりもして、それらが複雑に絡み合って出来ている。単純なものも通底しているし、複雑にも結ばれているし、その両面が真実という、普段の事実と変わらない当たり前のこと」だということである。

例えば「善いことをすれば(不思議な力として)善い報いを受ける」といったことは、現代人にはあまり受け入れられなかろうと思う。「努力をすれば必ず結果がある」ということが、単純な原理としては正しいが、それほど単純なものではないことと似ているなといつも思う。

その反対に「悪い報いがあるならば、それは悪い行いであったからだ」ということにもなるが、例えば「危険運転による事故で、被害にあい死んでしまった」というときに、この原理を持ち出されたら現代人の多くは受け入れないであろう。

これは、そうした不思議な領域のことは、それほど単純ではなく複雑怪奇であるということが事実であるというだけのことであって、それが事実ではないということではないのである。

しかし、むしろ「無闇に妄信する人たち」などは、単純な原理だけで説明をし、それに基づいた短絡的な解釈を示す/示すところが見受けられる。それゆえに、こうした神秘的なことを説明する界隈に溢れている多くの説明などが、全く単なる非合理な説明となってしまい、事実をかえって遠ざけてきたということであると、今の私は理解できるのである。

これが混乱を生んでいる第二の代表的な理由である。

3.ピンキリで色んな程度のものが存在する

第三に、③そうしたものは特別なことではないが故にこそ、ピンキリだということである。

わたし自身が体験するようになってわかったのは、「こうした不思議なこと/目に見えない領域のことは別に普通のことと変わらない」ことであるということである。
であるからこそ、実はピンキリで色んな程度のものが存在するということなのである。

不思議なこととなると途端に「すごいこと」に変換されてしまって、なんでもかんでも不思議なこと=特別なこと/すごいこと、となってしまいやすい。
しかし、単に目に見えない、物質的に感知しがたいというだけのことであって、それ自体は普通のことなのである。

音感がある≠音楽的センスがある

不思議なことは別に普通のことであって、ピンキリに存在するのである。
例えば「音感があることと、音楽的技量と音楽的理解の高低の程度とは全く別問題」である。音感がない人からすれば、目の前で絶対音感を見せられれば、全て驚きであり、音楽的に特別な階層にあるのだと錯覚してしまうであろう。
しかし実際には音感というものは、持って生まれたものや環境などの何かしらの縁で身についたものであって、視力がたまたま高い程度のことに過ぎなかったりして、音楽的理解の高さとはまた全く別物だったりするのである。視力がいいことと、ものごとを理解する力とは関係がないようなものである。
また、音楽的テクニックとも、音楽的理解の高さは別物である。特別ギターを高速で弾くことが出来たとして、作曲能力の高さとは全く関係がないように。

自分で曲を作ることができない人からすれば、曲を作ることができること自体が特別に見えてしまうが、その曲の構成力などにも実は階層があるように=不思議な出来事自体にも階層があり、それを感じる能力=俗に霊感などと呼ばれるものも階層があるのである。
目の前に不思議なことが起こったからといって、それは「すごいこと」とは全く別であってそこにも階層があるし、それを感じられる能力などは単なる音感のようなもので縁によって顕れているだけの能力であり、その能力と理解能力や人間としての質とは全く別物である。

霊感はただの感性≠霊的高さや理解度(→かき乱される)

霊感がある人にはかえって、霊的にはあまり高くない(六道十界の階層上の一応の区切りにおいて)人が多かったりするのが実情である。これは、霊感というものはどちらかといえば原始的な感性であり、理性があると(それが真理と外れていればであるが)かえって覆われやすい性質があるからである。
そうなると、「そうした人の理解の及ぶものや、心の程度に応じたものが見える」のであって、「理解の外にあることは見えなかったりする」ものである。
そしてまた、その人の理解の程度で解釈して説明するので、全く理の通っていない短絡的な話ばかりが出回ってしまうというケースが多いのが実際のすがたなのである。それが矛盾感の原因になってしまっている。

わたしは、自分自身が実際にその世界に少しながら触れるようになって、まずこのことに気が付いて、その矛盾感の原因がわかって安心したものである。

不思議な領域なことは感知されづらいが故に不思議なことなのであるが、過度に特別視されているだけで、そこには普段のものと同じように階層があって、あまり高くない水準の理解など出回ることが場をかき乱していて、わからなくなってしまっているだけだということがよくわかった。
少しでも氷解する方がいれば喜ばしい。

これが混乱を生んでいる第三の代表的な理由である。

まとめ

以上、「そうしたものが、疑わしい、怪しい、非合理に見える理由」について代表的なものを先に光の下に照らしておいた。これが解消すれば、反対に真実性を感じうるものが出てくるであろうと思うのである。
1.勘違い、誇張、創作、神格化をしっかり精査して廃する。
2.単純ではなく複雑怪奇であることをしっかり説明する。
3.ピンキリで色んな程度のものが存在することを明示し、それぞれに分解して示す。ということである。

不思議話シリーズは、以上のことを注意して示すものである。
(序おわる)

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圓寂が、社会の精神性に寄与することを願って、さまざま深い思慮を発信し、活動することを楽しみにしながら…

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