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不思議話(3章) 初期の供養の経験~ある大放火事件~

不思議話、第15弾。
今回は、前回の「初めての供養の経験」に続いて。
それから三か月後の「別の事件における供養」について記します。

こちらも前回同様、お会いしたことのないご遺族がいらっしゃるご不幸に関する話であり、掲載するか迷ってきたものですが、時も経ち大切な話としてお聞きになるご遺族の方もおられる可能性もあるかと思い、また自分が経験した学びを世のために記しておくためにも、掲載することにしました。


初期の供養の経験~ある大放火事件~

2019年7月(23歳)。
それから三カ月後のことであった。
今度は修行先から、”夏のお盆の実習”のために帰された直後の頃。

あの大きい放火事件が起こった。

前回とは違い実家にいたためニュースで放火事件を見た私であったが、心は大いに痛めこそすれ、ご供養をというような心持ちは実のところ全く無かった。

供養を遠ざけていた(初期ごろのこと)

これにはいくらか理由がある。

(1)第一に、その頃の私はこれまで何度も説明してきたように疑い抜いている時期であって、まだ「そうした霊的な世界を、理解はおろか信じることも出来ていなかった」からである。
信じることができていないし、そうであることと連動して、そもそもそうした霊的なことについての理解が全くなく(仏教にも全然説かれていない)、であるからご供養の在り方なども全く知りすらもしなかった。お寺ではただお経を唱えるものであるが、そんなことはほとんどの場合意味を成していないことは分っていた。
「対処方法をはっきりわかるまでは、供養をしようにも供養できずに終わってしまい、かえって御霊に期待だけをかけてしまって、苦しみを生むのではないか」「そしてそれが自分にのしかかってくるような恐れ」を抱いており、避けていたのである。

(2)第二に、そもそもこれも何度も言ってきたように、仏教と供養事は少し別物であって、仏教と供養とは切り離していたからである。

現代では仏教と供養はもはやセットになっているが、これは全く歪んだ末のすがたであって、そうではない。簡単に言えば、亡者供養というものは宗教以前に成立するものであって、単にたましいというものがあって、その亡者が鎮まるようなことを試みるものである。

対して仏教や宗教というものは亡者生者関係なく、たましい自体が成長していくことを説き示すものであって、供養をするために存在するものではなくもっと広い目的のものである。

そこでこれが結び付いて、亡者供養において、たましいの成長に関することも同時に亡者にもたらそうというところから、仏教と供養が連結してあるものなのである。

さらにこれを俯瞰していえば、仏教・宗教は全てを語るものであるから、やはりこれも宗教の一部といってもよいのであるが、宗教と供養が同一とまで歪曲されている現代の宗教に対してこそ、わたしは問題を感じてきたものであるから、
「僧侶であるから供養する」とか「(形式的に)仏教で供養する」ということは最も遠ざけてきたのである。

そういうことからして、そもそもわたしは、それまでは供養を敢えて遠ざけていた。これは完全に遠ざけていたわけではなく、今はまだそれを分かる時期にないから一旦遠ざけているだけで、時期がくればむしろ積極的にそうした領域を理解しにかかり、実践しにかかろうというものではあった。
ただ、その時期はまだその初期段階で、疑い抜いている時期でもあったし理解もまだ出来ていないしということで、遠ざけていた状況であった。

ただでさえ、このように「供養というものは未だ遠くにおいていた」訳であるが、ましてや「震災や大きな事件」などの大きな事案についてのご供養など、その当時のわたしには「理解しようも実行しようもないとして、最も遠ざけていた」。

「天災や大きな事故などの死は特別ではない」
ここでもう一つ述べておきたい観点がある。
それは、「天災や大きな事故などの死は特別ではない」ということである。

私は天邪鬼なところもあるとは思うが、昔から「天災や大きな事故事件」などによって「多くの死傷者が出る事案」が特別視されること、或いはそれを特別視して取り扱いお悔みを述べる宗教者などが、好きではなかった。というよりも、真理から見てそれは歪んでいると理解してきた。

つい世間の多くの人はそうした「多くの死傷者が出た事案」を特別に扱うのであるが、それが事件であろうが事故であろうが天災であろうが、「人はそのようなところでなくても世界中で日本中で日々同様に亡くなっているものであって」、命というものは全く平等なのである。たまたま目立った事案が目についているが、知らないところで不条理なことに苦しめられて自死している方なども日々沢山いるし、色んな苦難は常に世にひしめいている。

そんな中で目立った事案があるものであって、これらは全く平等であって、目立った事案が特別などということがあってはならないのである。これが事実である。

ところがそんな中で、目立った事案は特別扱いされて、多くの人々が弔意を表したりする。これは本当はおかしな話なのである。知らないところで苦難にあっている人と、無自覚に差別が生じていることに人々は中々気付かない。

一般の方はともかく、まして「広く人々の苦難に向き合うべき宗教者」はこのことを勘違いしてはならない。ところが、世の多くの僧侶などは、目立った事案を特別扱いして、そこに弔意を表したり、自己満足に過ぎない供養ごっこをしたりすることがあるのである。
(もし苦難のある者に対して供養をする心があるならば、目立った事象を特別に切り出すことなど徹底的に避けて、すべての事案を想起してすべての御霊に平等に供養を日々捧げるべきである。)

このように“目立った事象”による死者にだけ供養するというのは「単なるパフォーマンス」に過ぎなかったり、また「ある種の差別」のような感じがして気が進まず、敢えて避けてきたという事情もあったのであった。


大放火事件について猛烈に心が動く

そんな中で起きたこの事件に対しても全く同様の心地であった。

ところが、なぜか猛烈に「供養せよ」と何かが訴えかけてくる。
こうなると先日のバス停での出来事と同様に、身体は勝手にそれを行おうとし始める。別に完全に操り人形のように動いている訳ではないのだが、結果的には操り人形のようなものである。「する」ということが決まっているのである。

わたしは一般家庭出身であって、お寺暮らしではない。ゆえに、供養を行うとすれば単なる一般的な家の自室ということになり、特に何の施設もないフローリングの部屋である。

こんなところで何をどうせよというのかと思いながら、致し方なく「机を置き」、「香炉を置き」、「灯をつけて」、「読経」を始めることにした。
わたしがこうしたことに関わるようになった初期のことであって、そもそも疑いの心が非常に強いし、具体的に霊界がどうなっているかということもほとんど理解していないし、供養とはどのようなものかも全く心得ていない状態であった。
(ただ3カ月前にふと経験した、凄惨な事故現場での経験が心のどこかにあったくらいであった。)

水を撒く

読経をはじめてかなりすぐに。
「止めて!火は使わないで!」と訴えかけてくるものがある。

「そうか、火災で亡くなられているのだから、火をつけて供養することは好ましくないものなのか…」と妄想か真実か全くわからないながら、勝手に湧き起ってきたものであるからそれはそれとしてとりあえず素直に受け止めて、代わりに「水をコップ一杯に入れ」てきて、それを供えて読経を続ける。一つ一つ意味をよく念じてお伝えしながら進行していく。

すると今度は、「部屋中に撒いて!」というような感じを受けた。

ここで断っておくが、そもそも「香を焚いたり、灯をつけたり」して通常供養するかと思うが、これは「経典にそう書いてあるから」であって、私の体感として何の意味があるのかははっきりとはわかっていない。
意味として何となく理解するものはありはするのであるが、では実際に人間相手の供養として、それらがどれほど意味があるのかは体感としては正直未だによくわかってはいない。

対して、水はむしろ体感としてわかるものがあった。
「部屋中に撒いて!」というのは、”そのような心地を見たい”というような意味であり、それによって御霊の心地が涼しくなり、”水によって火が消し止められるようなイメージができるからそうして欲しい”と念じてくるものであったのだろうと解釈した。

そこで言われるがままに、「部屋中に(フローリングで良かった)水を撒きながら」、読経等をしていった。

かなりの長時間、読経と念仏をした記憶がある。
初めは苦しんでおられる感じであったのが、供養と説明の功あってか、供養中にどんどん鎮まっていかれるの感じ取られ、「先日の事故の供養」と同様すっきりした心地をされていっているように感じられていた。

こんなに亡くなられた方は、案外すっきりされていくものなのであろうか、とやはり驚きは隠せないものであったが、とにかくそのようであった。
それがせめてもの気休めであった。

(もしかすると、「あの世はどうやら時間がこの世とは異なる」仕組みに感じられるので、そういう仕組みによってそのような様相つまり”今ではないことも今のこととして感じられている”というようなことが起きていた可能性も0ではない。)


次々と人が出てこられる

長時間している内に、あることが起こった。
心中の目の前に、色んな人がどんどん出てくる。
男の人、女の人、色んな年齢で、ばらばらに次から次へと出てこられた。
お顔ははっきり見えるほどではないのであるが、なぜかわかるとしか言いようがない。

そしてずらずら出てこられたあと、突然「17」という数字を見せて並ばれた。

直感で理解するところ「17人います」という意味であった。
当時のニュースの状況では、確かすでに30人以上の死亡が確認されているような状況で、「17」という数字は何なのかよく分からないものであった。私が妄想しているだけであろうと思い、その日はそれで終えた。

翌日も次々と人が出てこられる

再び翌日、ご供養をする。
昨日同様にして、長時間の供養を行っていた。

するとまた、心中の目の前にぞろぞろと亡くなられた方が出てこられた。

見ていると、昨日より少し長い。
新たに3人が追加で出てこられ、「よろしくお願いします」といったような感じで立っていらっしゃった。

そして「20」という数字を見せられた。
「20人います」ということである。

途端に直感が走る。
これは何か”私に縁がある人”の人数なのであろう。
例えば家の宗旨が浄土宗の方とか…、何か内容はわからないが出て来られた方は何かしら私に縁のある範囲の人であって、他の人は”私ではない縁”のところに出て行かれているということなのかもしれない、と直感が走った。

考えても埒があかないので、Twitter(現X)にひっそり投稿した。

これも先日の事故同様、ご遺族の方のお気持ちを考えるとなかなか話せず、とはいえ何かヒントがないかと思い、「気狂いかもしれませんが…」というような形で投稿しておいてみた。


DMからすぐにご連絡

するとすぐにDMがあった。
当時Twitterでよく交流しているTさんからであった。
この件かどうかも分からないが、開いてみる。

「鳥肌が立ちました。これは外には言わないでください(時効と思い記すものです)。わたしは葬儀業者で働いているのですが、実は当方でお預かりしているご遺体の数がツイート内容と同様で、前日は17名のご遺体を預かり、本日3名追加されて20名お預かりしています。有難うございます。」
といったDMであった。

これを理解するに、当時よくTさんとTwitterで交流していたのであるが、その縁をつたって私の所へ供養してほしいと出て来られ辿り着かれたものだったのだろう。

人の縁はまさに霊的なものであり、そこには電波や電線のように見えない霊的な繋がりが存在する。そこをつたって、供養してほしいところへ出てこられたものであると理解された。
それ故に、当時のわたしには有り得ず、急に供養の念が起こったのであろうことがわかった。

このDMによって、「自分の身に起きていたことが恐らく事実としてあったのであろう、であるならばご供養して良かった」と思ったものである。


後日にも

後日、このような縁であったことから、わざわざひっそり現場に赴いてご供養に伺った。念には念をと思ってのことである。

御霊方をあるお寺にお連れして、さらに供養を行った。
先日の事故と同様、案外と皆さん涼やかな心地であった。
このギャップが当時の私には心底理解が出来ないものであった。

どちらかと言えばその涼やかな心地と同時に、この現世を生きるご遺族の方はとてつもない苦しみを感じておられ、御霊方はそれを心配しているというような感覚であった。
(先日の事故のご供養と同じであった↓)

やはり亡くなった側は、正しくご供養さえすれば「亡くなったことを理解し」、また「自身の罪障・修行や今世のシナリオを理解し」、案外すっきりした心地となって、ただ遺族のことだけが心残りとなって心配するという状態になるのであろうか…といった感であった。
こうなると私も御霊とこころを同じくして、ご遺族の方のせめてもの安穏を念じるところであった。
翌年も、当日はひっそり現地へ赴いて供養した。

実はまたさらにその次の年は、もう良かろうと思って別のところへ遊びに行っていたのであるが、不思議と結局事件現場の駅で乗り換えの為に下車する運びとなって、来てくださいという事かと認識し、やはりまたひっそり現地まで歩いて行ってご供養することとなった。
(今年2024年は致しませんでした。この執筆中にしました。)


まとめ


いかがでしたでしょうか。

その前の事故から、たった三か月後の出来事でしたが、今思えば同じ年にあのような凄惨なことが続いて起こったような状況だったのですね。

その三カ月前の事故のご供養で、供養というものを完全に合っているかはわからないながらも、体感として何か理解するところであったので、このご供養においては戸惑いが少ないものでした。

このご供養で学んだことは、供養においては「形は柔軟」なものであり、「亡者が望んでいることをすること」が大切であるということ。供え物などは、亡者の心中に浮かぶようなものであるということ。亡者は人の縁などをつたうことができるということでした。

この二件が、わたしのご供養における最初の経験でした。
わたしにとっては非常に学びとなり、それ以降素直に心を開いて、ご供養やたましいの領域について本格的に理解しようとしはじめ、ご供養なるものがあるならば正しく成されなければならないと思い、探求していくことになり今に至っているものです。

御霊方のご冥福を改めてお祈りいたします。
南無妙法蓮華経
南無阿弥陀仏
なもたかまのはら



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