天災・戦争などが地球の禊として過度に起こる (矢追日聖、2011年6月号)
最近、天災・戦争があったり、今後も大きく心配されています。
矢追日聖さんの法話より、今回は1964.7.23のものを掲載します。
この5月の暮れ頃、天に一つの異変の相が現われました。それは、梅雨にこの地方の雨が少ない代わりに、降るとこは雨があり過ぎて水害が起こるというもので、その狂ったような形に現われてくるものを一つの異変の兆として、非常に案じて眺めておったんです。
あにはからんや、今月の16日に新潟の大震災というようなものが偶然にも出てまいりました。そういう天災というのは人間ではわかりませんし、私達の力ではどないにもならないことではございますけれども、霊の世界においてはわかっておったんですね。それでそうした一つの異変の相が天に出たんです。
宇宙の原理に反することで過度な天災が起こる
この世の中が段々と乱れてまいりますと、今後また何が起こってくるかわからないと思っています。
ということは、我々人間の心というものが、宇宙創成された一番最初の大自然の心、言い換えれば大御親様の心に添わなければならないんです。初めは添ったように出来たんだけれども、途中で段々と変化してきて今では添ってないものが沢山あるらしい。そこで親様から注意されることが、人間の世界に起こってくるいろいろな天災であるんです。
その場合、誰一人としてその天災に不平不満を言うていかれないんですね。人間がつくった災いであれば、責任者がどうだとかいう問題になるんですけれども、結局、我々人間自身の心に、そうした災いの原因があるんです。
本来は人間の心も天地自然の親様、つまり神 (加美)の心も、別々のものじゃなしに一つのものであるんです。それがために、人間の心が悪化していくということは、神の心に逆らっていくという意味なんです。そうなれば、神様の方でも人間を神の心に戻すようにいろいろな方法でもって訓練されるんです。
個人の禊について
これは随分大きな話しですけれども、今度これを人間個人のような小さい問題に持ってきても、宇宙の真理というものは大小選ばずして必ず当てはまるべきものなんです。
言葉では「禊」と申しておりましても、いわゆる「神ながら」の禊というものについては、今まで割合にわかっていないことが多かったんですね。
大倭の禊というものは、天地自然のほんとうの大御親様の心を自分の心とするためにやるんです。神様の心と人間の心が混然一体となって、いわゆる神人冥合の世界において神の心を我々人間が感じ取っていく。それによって我々の現象界における人間的な行動というものが、神の心、神意に添ったものになる。その一つの方法として、 禊というものが日本の古代から今日まで伝わってきてるんです。
自分の心の奥には本霊というものがあって、それは大御親様、宇宙創成の造化の神さんの「分け御霊」と言うんです。その清浄な美しい分け御霊が皆の心に入っておるはずなんです。
ところが現代の我々人間には、今日まで頭を通して入って来た社会的なややこしい経験とか、学問、学識、あるいはまた人間的な感情というものがあり、そういうようなものを枉罪と言うんです。それが人間の本霊、本心、すなわち「ミ」というものの上に被さって、本霊を包み隠しておる。特に一番ひどいのは物欲ですね。
そうなってくるとその個人の肉体が、本霊の意思のままに行動をとらなくなってくる。そこで禊を始めた場合に、そのいろいろな枉罪を突き破り、 本心、本霊というものが表に出て来て、直接肉体の五感を通して行動を始める。
例えば、現在の自分の頭での認識において「左に行こう」と思っておっても、神の心、即ち本心としては右に歩まなければならん場合にどちらが勝つか。必ず意識や観念が負けて、本霊の行くがままに行く。結局自分の観念が「左、左」と思っていながら、体は右へ曲がって行くんです。
禊をやる時に、十人が十人体が動くとは限ってませんけれども、大抵の人がそのような霊動を始めるんです。
そうした時に、自分の現在観念と本霊の動きにかなり開きがあるということは、禊をやった人の経験上わかるはずです。すると第三者からは、「あれは気違いか悪魔が乗り移ったんかしらん」というような状態にしか見えないんです。 とにかく自分の枉罪というものが全部表に出て来るんですから。
個人の禊を通して見ると、それを地球のような形における現象界のいろいろのものとも比較して考えられるんです。
地球の禊として過度な天災などが起こる
ここでまた大きな話しに戻ります。個人の肉体を支配しておる本霊があるのと同じように、地球という一つの大きな物質にも、これを生かして動かしておる本霊、霊魂というものがあるんです。
これは科学でいろいろ説明出来るかも知れませんけれどもね。我々人類も犬も猫も地球のいろんな物質が変化して出来たものだから、地球の一部分なんです。そうした時に地球の本霊というものは土の中にあります。
ところが地球を生かしておる本霊と、その上に住まいしておる最高の動物である人類の本霊というものとの交流が、現在見ておると随分に食い違っているんです。人間の方が自然に逆らった動きをしてる。そこで人間個人個人の本霊が、その枉罪を打ち破って出て来ればいいんだけれども、現在は知識、科学に偏在しておるがために、なかなか表に出て来れないんです。
地球が太陽の恩恵によって万物一切を産み育て、私達が本当に楽しく一生暮らせるのが神の心であるんです。だから地球の本心というものは、 「地球の上に本当の現世楽土をつくっていこう」「現世楽土でなきゃならない」と叫んでおるんです。
けれども、その上に生活していて一番頼りにしておる肝心の人類の枉罪が余りにも多くなってきて、神の心と遠ざかり、現在まさに修羅であり悪魔的な存在になっておるんですから、地球の本霊はこれを承知しない。
それで、「これはもうたまらん」と禊を始めよる。
地球の本霊もやはり禊をするんです。地球の本霊が静かにしておれば、地上というのは実に弥勒の浄土のような世界が出来るんですけれども、それが禊をやって霊動を始めると、地球の表が狂ってしまうんです。そうすると現象界には何が起こってくるか。人間が霊動した時のあの姿を見た場合にそれがわかるはずなんです。
台風が来て人家を壊す人を殺す、あるいは鉄道の事故が起こる、あるいは交通事故が頻々として起こってくる。雨が降れば人が死ぬとか、あるいはまたあっちこっちで地震が起こるとか、とにかく天災というものが続発してくるんです。「地球とか月とかは人間とは別だ」「天災は自然現象だ」 というように解釈する人間が多いがために、余計にそんなもんが起こってくる。
もし今言うように、地球や自然と人間というもの、あるいは天体全体がほんとうに一つのものであるんだということを皆が悟る日があれば、この地球の上に草木の宿る時、あるいはまた田植えする時季には丁度いい具合の雨が降って来るし、冬でも寒かったかて異変的な寒さも来ない。
とにかく四季の変化が穏やかな現世楽土、地上天国というか、神様の世の中が現界に出現することは決まっておるんです。けれども、まだここしばらく百年とか千年ではそうはならんと思います。
正しい宗教が出ていくときは天災/戦争期となる
大東亜戦争から始まって世界人類の最も修羅道の現出しておるただ中、昭和20年8月15日終戦の時に大倭教が発足したんですけれども、その時に私個人に対して霊界からいろいろ霊示がありました。「宇宙の神ながらの道、神ながらの法というものを中心として、本当の正しき教えというものを立てなきゃいけない」と。
「正法」「正しき宗教」と言えるものを人間界に伝えていく時には、地球も霊動を起こして逆に禊がれていくんです。そのために天災とか地変とか、そうしたものが続出するということは決まりきっておるんです。地球と人類は一体なので、地球が禊がれる場合、人間も禊がれていくんです。
それまで人間対人間、お互いに別に何も遺恨も恨みもなかったと思う。ところが世界をあげて人類の大闘争が起こったんですから、これは大いなる自然現象で、決して人災ではありません。
その中において大倭の宗教が出発してるんです。それがために、今仮に大倭が世に出て行くという時で、天災とか地変とかいうような災いが続発するのは理の当然なんです。

霊界の動きを現界に伝えるロボット
その大倭のいわゆる代表者として私が日本に生まれております。これはえらい自惚れたような話しですけれども、私自身はロボットですから何にも偉くないんです。こういう大きな中心的な役を仰せつからなかった方が、自分とすりゃ気が楽です。けれどもこれは自分の計らいにおいて出来てきたもんじゃなしに、霊界の神計りに計り賜いて大倭に生まれさしてくれたんだから、そういう宿命を持っておるんだろうと思います。
これは仏教的な匂いがしますけれども、大倭として出発する時に釈尊、お釈迦さんがお出ましになって、丁度泥沼の中に蓮の花が咲いておるところを示されましてん。それは結局、大倭教として出発するんだけれども、一宗一派を立てるんじゃなく、神ながらの道、神ながらの法というものを世界の人に示し、それに従ごうたような心構えで現世においての生活をしていけということなんでしょう。だから大倭教という宗教が伸びても伸びなくても問題ではないんです。私は一宗の宗教をつくり上げる教祖ではなく、ただ霊界と現界にまたがって、霊界の動きを現界に伝える橋渡しの役目を持っておるに過ぎない。
結局、現代社会の人はみな気違いのようになっとるんだから、その人達に正しき道、正しき法を伝えるのには、自分自らが泥沼の中に入って行かなければ相手には分からない。堤防の上からいかに声をかけても、相手を救うことはできないんです。救うと言うと随分おこがましいですけれども、 結局知らすということになるんですね。
(※教服について)
今日はこうした月次祭という祭典でございますから、私は霊界から示されたものによく似た形の教服を着ております。これは霊界に対しての礼儀として着ておりますけれども、人間対人間の場合にはこういうような服装はいらないんです。
私は霊界と現界が一体となった大倭というものを背負っており、それは霊界の方が主体であって現界の方が従たる立場になるんです。言い換えれば、霊界が本体であって我々の現象界はそれの影のような存在になっておるんです。
現界のお祭りは、みなこうして並んで手を合わせて、あるいは祝詞を唱えて拝む顕祭というものですけども、主体は幽界なんですから、その祈り、 いわゆる幽祭が肝心なんです。その霊界の人格霊はみな、一人一人がその時代として一番の正装でもって出て来ております。そうした人に対して我々がパンツ一枚とか浴衣一枚ではちょっと不敬になりますので、現界における大倭の代表者として、 私は教服を着けてお祈りしておるんです。
大倭教はただの看板、教祖などではない注意
今日までの自分の気持ちはそういうようなところにあるんですけれどもね、大倭として動き出せばそれを盲目的に狂信する、気違いじみて大倭教を信仰するというような人も必ず増えてくると思うんです。そうなってまいりますと、大倭教団という一つの宗教団体を中心として物を見る悪い癖が出ることになるんです。元々ここには、そういうような壁も囲いも色も何もないんです。「自分は大倭教である」「大倭教の教祖は矢追日聖である」というような感覚に皆がなってくると、これは神様の心、意思に反するんです。
私はここを自分の意思でつくっているんじゃなくて、大倭教というのは一つの名称に過ぎないんです。ところが、社会はどうしてもこれを宗教団体としか扱ってくれない。教団となれば教祖と言われたかてしょうがないんですけれども、そうするとその立場として絶対視してくる。「教祖様だから生き神さんである」というようにね。けど、 そんなものどっちでも構わないんです。
天皇(すめらみこと)について
戦時中に天皇陛下というものは、「現人神」あるいは「生き神さんである」と、軍人なんかは皆にやかましい言うておった。それで終戦後において、天皇の頭に「人間」付けたわね。「人間天皇」 と。憲法においては、「天皇は我々の象徴である」 と。そういうように文字をちょっと変えたり言葉を変えたりする。しかしね、「天皇は神さん」と言おうが「人間天皇」と言おうが、そんなことは問題やないんです。
天皇の資格という意味の「すめらみこと」という言葉があります。「みこと」は神の命、それに従って「すめら」していく、要するに神意を察して世の中に知らせ、世の中を治めていく者ということなんです。だから「すめらみこと」は、霊界と現界とに通じてなきゃいけないんだけど、現在の天皇の肉体は我々と同じで、その中に納まっておる霊魂というものが、日本民族の代表としてお生まれになった天皇の魂、「すめらみこと」なんです。
そういうような一つの霊格を持った者が民族の上におることにおいて、その一つの波長が国民全体の上に御稜威として流れて来るんです。だから、いわゆる五感を通した肉体上の天皇みたいなものは、頭悪かったかて片輪であったかて、木偶の坊であっても構わないんです。
ただ頭の位置にあるだけ、みんな平等
それと同じことで、大倭の宗教の立場になりますとね、この矢追日聖という人間の肉体というものは、あんた達とみな同じことなんです。ちょっと私が背が高いか低いかとか、細いか太いか、その程度です。あんた達のこいてる糞も臭いですけど、私の糞もやっぱり臭いんですよ。
私は、肉体で言えば頭の位置にあるだけのことです。足の裏も頭もいわゆる一体なんで、足が歩けば頭も歩く。頭が死ぬ時には足も死んでしまう。 その位置が違ってるというだけの問題なんです。
私は、世の中で私くらいアホな者はないと思ってます。決して自分は偉いと思っていない。
法主独自の使命・宿命
けれども、この肉体の中に入っておる宿命的な魂というものは、ちょっと皆と種類が違うんです。それは、神ながらの道において現世の人間改造、楽土建設のための使いという霊界から受け取って来た宿命です。その自覚を持つことにおいては、世界の誰が何と言っても一歩も譲らんとこがあるんです。
もし神ながらの法において、「自分は選ばれた人間である」「神ながらの法をもって立つんだ」 と言う人が他にもまたおってくれたら尚結構なんです。協力者がおればおるほどいいんですから。
けれども仮に、世界の中に二人としていないという場合であれば、これは今世においての自分のお役目なんだから、「神意に添った生き方をしなきゃいけない」という自覚もさらに強くなります。
教祖などではない、神輿にはのせてくれないように
これから続々と大倭のこの土地にいろいろな種類の人が来ると思う。何かの橋渡しがなければ人は来ないんで、どうせみなあんた達が声をかけて連れて来ることになるんですけども、その時、「唯一絶対者である」とか「教祖である」とか 「超人間的である」とかね、いわゆる御簾の内側に鎮座ましましておる御本尊のような偶像的な言い方は極力避けて欲しいと思う。そういうようなことを言って来られるとね、ほんとにこっちがくすぐったくなってくる。何にも自分は偉くないんやもん。「あれはアホだ」というような紹介の方がいいんです。
たまたまこういうようなお役目で現世に生を受けただけのことであって、自分が努力してこうなった訳でもないしね。あるいはまた荒行とか座禅とかいうような行法において霊界を知ったんでもなし、生まれながらにして持ってる一つのものがあるだけなんです。それは前の世からそういうような宿命で来ておるんですから、そういうような点を皆さん方もよく了解してほしい。
神輿にも乗せてくれないように。私は乗りません! そういうことをはたが努力するだけ無駄な労力がかかりますから、そういうようなくだらんことは皆さんお考えにならないでください。
身体から出てくる波長
そして、人間対人間の親しい中において、自分の体から出て来る霊界現界を通じた清い波長において、あんた達自身の本霊から出ておる波長を浄化して洗ってもらったら結構だと思うんです。どうか、それだけを認識して、今後大倭の信仰を続けて下さい。
終わります。
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