日聖氏と来訪者の対談…宗教改革、教とつけるのは浄化薬として、仏教について他 (1967年10月号より)
日聖氏の執筆物を広めるシリーズ第3弾。
来訪者(山岸会という会の関係者)との対話より。
宗教とはなにか、宗教の境目などないこと、あえて宗教法人として出ていく心境などについて語られている部分があったので、貼ってみることにしました。
仏教についても一部語られています。
各人の大倭と縁のあった経緯、ほぐされる
編集部 お忙しいところをわざわざお越しいただいてすみません。堅くるしい話ではなしに、ただ、興ののるままに、やわらかくお話し願えたらとおもいます。はじめに、大倭へ来られた時のことなぞお話いただけましたら。
西辻
そうですなあ、大倭へきたのはやっぱり山岸会の関係です。ダんちゃん(大倭編集者柴地の愛称)ですわ、わしをここへ連れてきてくれたのは。あれは、春やったかな、三月やったかな。花見に行こうかと思ってヒョウタんさげてな。
#山岸会について
柴地 僕が(法主のもとに)入る前です。
編集部 その時に、合田さんもご一緒でしたか。
西辻
いや、始めは、わしと家内とだけです。
編集部 その時の感じなんですけれど、法主さんにお逢いになった時のことなぞ、思い出してお話し下さったらと思います。
西辻
はっきりとは覚えてはないが、ええ感じでした(笑)
とにかく、ほんわりとした感じで、その感じは今だに少しも変らヘんですな。やっぱりここへくると、キュウとなってるのがほぐされるという感じが、いつまでたっても変りませんね。大倭どうや、と聞かれたら、人にも云うのやが、”大倭へ行きなはれ”とな。”そんなら、どうよろしいのや”といわれたら、 一言で言えば肩のこりがとれます。
そう、ストレス解消できてよろしいで、まあ、そういうことですな。そうかというて、法主さんにお会いして神道のこと、詳しゅうに聞いたというのでもなし、わしの云いたいことを大分熱あげて云うとりましたな。それでいい気分になって帰ってしもうた。まあ、そんなとこです。
法主 そうやったな。
編集部 合田さんは、どのくらいあとからこられましたか。それでここのことどうお感じになられましたでしょう。
合田
1ヶ月か2ヶ月あとになりますかな、見れば法主さんはひげをはやしておられるので、こわいように見えました(笑) しかし、だんだん話しているうちに気楽になりました。それに邑全体をみると、山岸会の一体生活の理論が、部分的にここで実施されているように思いましたね。実際に、そういう楽しい社会があると思いました。細こうにと云われたら、どう云っていいか。
戸田
まあ、未知の人とでも一つの生活をしながら、労働に従事しつつ、人間的なつがりをもって行く、普通の場合なら、すぐに争いの起るところが、どうにかスムースに行っている。そんなところが魅力だったわけですな。最初……。勿論、内容的にどこまでということはわからんですがね。
しかし、感じではうまくいってるんだなという感じはうけました。その点、山岸会の方は事実的にそこまでいっていませんでした。
合田
それにもう一つ、一番感銘をうけたのは。法主さんが「教える」という形でなしに、自ら率先してやっておられるというその愛情というか、そういうところですな。加えて、誰とでも気楽に話せるところなんかも。手取屋さんなんかは、ほんとにいいとこ見つけたいうてよろこんでいた。
西辻
ああ、喜んでたな。あの人はここへ来て成仏できたんやと思う。
編集部 今日も来ておられるかも知れませんね。
法主 そりゃあ、来ていられるよ、あれは通達無碍やからね(笑)すぐ来るよ。
あえて宗教として出る、教とつけるのは浄化薬として
西辻
それはな、わしも最初はどうかなあと思うて来たところもあるんやで。まあ、我々として一番思うのは世間の宗教というと、大抵、宗教企業家が多いですわ。それやないかなあくらいに思うて来たんです。
しかし、来てみたら、ここはプレスとブロックをやっておられたなあ。事業をやっておられる宗教家やったら、ええわと思ってな。
合田 それに信者つくらんいうこともね(笑)
西辻
そう、そう。それでここへきたら、いつも深いことは何も聞かんと、たど、法主さんといい気で話してホーとなって帰ってしまう。なんということなしにそういうところが好きですなあ。すっきりしてて。
なんというか信者の顔色ばかりみて、銭の沢山あげたものを直に位を上にあげてな、あんなことするのきらいやあ!(笑)それやから、よそからなんやかんや云うて、ひっぱりにこられてもよういかん。最後はどこでもそれや、金や権力や口のうまいこと立つものがうまいことをするそういうのはいやですわ。本質から外れているように思いますな。そんな点で清純なものがあるなあと、最初に感じました。
法主 そこが今日の本論やなあ (笑)
柴地 その場合にですね、 法主さん、これについてお聞きしたいのですが。この場合、いわゆる「宗教」という名を出しますと、かえって、誤解をまねく面が多くありますね、宗教に理解をもっていられる人は、あい、 そうですか、宗教に関心をおもちですかということになるのですが、宗教に無理解な人には宗教とりわけ新興宗教を云いますと、何か、イカサマ師の仲間の一人みたいに思われることがあるんでね。 外へ出た時に、「それでも、あえて宗教として」、別の名を出さずに、大倭教としていかれるその名の出し方、それについてお聞きしたいのですが。
法主
それでいいのとちがいますか。宗教という言葉をきいただけでいやがる人がある、それだからといって、こちらも世間の宗教屋と一緒に誤解されたら困るから、そこから逃げようとするのは卑怯やからね。一般の人がそうだから自分もそこから逃げるという、弱気やとらわれがあった場合ほんとの宗教はやっていけないと思う。世間がいかさまでも、こちらがその”いかさま”と同じ恰好をしていて、いかさまでない事実を出して行くことが、かえって、宗教改革になるのとちがうかと思ってね。まあ大倭という名称は、霊界からの指示で、「教」をつけたのはこちらの勝手なんで、だから、大倭だけでもいいわけですがね。(…漢字にも意味はないと何度も語っている)
しかし、世間は天理教だの何々教だのと、神道関係は「教」をつけておるんで、その同じ恰好で出ていって、仲間の内から浄化して行く。それも一つの方法ですね。これは人間の考えた方法だけれど、だから自分はそこから、逃げようとはしないんです。
ところが、おもしろいのですよ。この間もここへきた人が大倭はもっと信者をつくるべきだと言うんです。しかし私は「信者は一人もいらん」といったところ、「信者が一人もいらんでは宗教団体は成り立たん」といわれたんです。それじゃ、一体、何でやっておられるのか、とね。そこで、信者というと、一方に大先生とか師匠とか、教祖さんとかの一つの対象があって、その人達についてゆく側の方を信者と云っているわけですね、いわば、相対的になりますね。信者ははいつくばって手を合せ、そこでその教祖さんとか先生から、何かの力を借りて、いわゆる神さん仏さんの仲介者になってもらって、我が自身が利益を得ようとする。そういう形の信者でしたら一人もなくてもよいというのです。わしがいうのは、信者というんじゃなしに、自分たちと同じ仲間、つまり先生や信者というものでなしに、平たくいえば、先輩とか、後輩とか、そういう身近かな仲間、いわゆる同胞なんです。
泣くときは一緒に泣き、喜ぶときは一緒によろこぶという苦楽を共にすることのできるもの、まあ、仏教でいえば一蓮托生ですわね。そういう仲間であれば、何十万人おろうが、何百万おっても結構です。ところが、信者が何十万もおって、それをひきづりまわそうと思ったら、こっちがえらいし、 しんどいし、逃げよったらかなわんし(笑)それで、わしは信者なんか一人もいらんと、言うわけでね。
自分もこれまで、三十何年この道一本できていますが、宗祖の釈尊であるとかキリストであるとか、それらの人の説かれたものを、そのまま受けつぐのが帰依する人の態度であるべき筈ですが、時代の流れによって、 その中間に一つの組織ができてくる、宗派ができてくる、教会ができるお寺ができる。そうなってくるうちに、最初の仏さんの根本精神というものが非常にゆがめられてきたんですね。
今のお寺とか坊さんをみてそれが正しい仏教だと思ったら大間違いで、それじゃ、なぜ、それが歪められてきたかということになると、大抵、お寺であろうが、坊さんであろうが、お宮さんの神主であろうが、職業として生活がかってきているんですね。そういうように生活がかかってくると、意志があろうとなかろうと、やはり生活の方が重点的に考えられるからどうしてもゆがめられてくるのかも知れません。
しかし、自分の場合は宗教に生活がかかっていません。が、寄ってくる人は何かの形で救いを求めてくるのだからたとえばお祭りひとつにせよ、できるだけ相手の人に負担をかけぬよう、まあ、祭典行事にしても安くあがるようにね。(笑)向うはみな生活がかかっているのだからね。それだけに、自分としては、自分の思っている範囲においては、「正直に宗教的な行き方」ができると思っているんです。それで、こうして周囲に”事業をもつ”ということになるわけですが、 宗教でもって「めし」を食うということになれば、おっしゃるように金を持ってきてくれるものは位でもあげるとか、寄附をよけいにしてくれるものは奥座敷へ通して絹の座ぶとんでもだすとか、持ってこんものは玄関で話をして帰らすとか、しなくてはならない。世間でみるようなそうしたことは、生活がかかればこそでしょうな。
西辻 そりゃ、そうです。
法主 と、いうことだと思うんですがね。
柴地 で、西辻さんはですね、 いろんな宗教を知っておられますし、最近、新興宗教なぞも、 のびてきておりますが、そういう全体的な状態を眺められて、宗教にかけられる期待みたいなものをお聞かせ願いたいと思います。
西辻 あまり、期待かけてしません(笑)
柴地 今の姿をどういうように感じていられますか。
西辻
あれは、あれでやっぱり何んぼかの人が救われているかどうかは、その人にきいてみんとわからんが、それでも、なんぼかの人があれによって、一応安心(あんじん)らしきものを得てやっておられたら、それでよいと思います。
法主 それは、そうです。
西辻
そこから、どうなって行くかということは我々にはわからんが。
柴地 宗教という響に対してはどうですか。
西辻
宗教という言葉ですが、 そうですな、宗教というたかって、いいように思いますな。
柴地 そういう言葉お好きですか。
西辻
宗教という言葉は、好きでもきらいでもないですな。
柴地 仏教といった方がよろしいですか。西辻さんの場合は。
仏教について
西辻
そりゃ、あのー、仏教的なものは好きですわ(笑) 好きや。そうかといって、宗教がきらいかというと、宗教的なことは、どっちかというときらいよりも好ましいわな。それでも宗教というと、若い人はすぐにあれは古い考え方やと言うし、それに仏教信者やというと、あいつは大分時代おくれな奴やと思われるわな。しかし、わしはそれはかまへんと思ってるそれは、そう思う方が勉強がたらんのやと、こう思っている。しかし、説明がいるわな、宗教といったら。
それはな、仏教やいうたら、古くさい、陰気な感じがするところがあるけれど、原始仏教というものを読んでいると、非常に明快な感じがするのや。現実的な感じがするのや。日常ありきたりのいろいろな問題に対するお釈迦さんの答が、実にこう明快な感じでな、これは国柄かな、まあ、いろんな受けとり方やと思うが。
それが、仏教が、印度から中国、朝鮮を通って日本へくるその間にいろんな夾雑物がはいり、日本という湿気の多い国にくると”祇園倩舎の鐘・・・”、祇園精舎には鐘はなかったそうやが、”祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり”と如何にも陰気くそうになってくる(笑)
ほんとか、うそか知らんけれどそれが原典といわれるものをこの頃読んでみると、実に明快なんやな。釈尊という人はみようによったら大変に現実的な人なんです、どんなところが現実的かというと、霊魂の問題、死後の問題、それから世界の問題、この世界は限りあるものか限りないものかということに対する弟子たちの話について、あまり触れんと直ぐに話を現実の問題にもどしてこられるんや。
”毒矢のたとえ”というのがありますわな、今お前さんの胸に毒矢がささったら、お前さんは毒矢を先にぬくか、それとも、その毒矢がどこから飛んできて、どんな毒がぬってあるか、誰がその毒矢を放ったかとかいって、詮索するか、と、たづねるんです。弟子は、そりや、毒矢を先に抜かんといかんと答えると、その通りである、お前さん方も三毒という毒におわれているのだから、それを先にぬきとらんといかんというようなことを再々いうておられるんです。
そういう明快な答えを出しているものが、他にもあるわけです。それに原始仏教というのは、教団にはいらないと仏教徒やないというのではなしに、三帰といって仏・法・僧の三宝に帰依することによって、仏教徒やというわけです、それから、本来は仏教では葬式というものをきらってたということらしいんです。そういうものは、寺の外でさしたということらしいんです。
理智を超えたものと理智的なもの、霊界と現界
柴地 ところで、あえて西辻さんの話に異論があるわけですけれどヒンズー教のことはよく知らないのですが、インドの土俗的な霊魂の不滅とか、輪廻転生とか、そういったものを信じるものの中にあって、釈尊の理智的な教えというものが、どれだけの生命力をもって民衆の生活に根づいたかということなんですが、現在、インドの仏教徒は20万位という非常に少ない数なんですが、そういうところから考えましても、僕はやっぱり宗教というものは、理智的な哲学的な匂いだけでなしに、潜在意識の世界にまでも侵透するようなものでないと、これには勿論、危険がふくまれていますが…、でないと生命力の薄い、教祖の死後において、分裂をひき起しやすいものになってしまうのではないか、というように考えるんです。
ですから、宗教には「理智を越えた世界のもの」と、「 人間の理智的なもの」とが組合わせられたものが必要ではないかと思うのですが。その点、僕のうかがうところでは、大倭は顕在意識と潜在意識が巧みにミツクスされていて、どちらにもかたよらないと思うのです。しかし、僕には、その潜在意識の世界はよくわからんのです。が、理智だけではない、何か奥深いものがあることは、感じていますが。
西辻
自分にもそれは魅力ですね。釈尊のその明快なところだけがすべてやないし、また、それだけでいいきれんものが沢山、あります。だから、その何というか、神秘の世界というものをワシらものぞきたい。しかし、 不幸にして、その幽霊に逢いたいけれど、逢うたことがない、(笑)と。これは、もち味があることやから、その人たちにそんなことは研究してもらったらよいと思う。
柴地 ところで、その一致した動きというものはどんなものですか。
法主 どういうような一致をいうんですか。
柴地
霊界というその神秘な世界とですね、僕が、法主さんの行き方をみていますと、霊界中心やないんですね。ものすごく理智的な面が多いんです。いうておられることは、また神秘的なことをいっておられて、無条件にそれを信じて動いておられる面もあります。その辺がどういうところからきまってくるのか。
法主
それは、やはり、自分も肉体をもって現界にいるのだから現界が中心ですよ。現界中心だけど、これは、自分の感覚でとらえている問題ですが、法話でもよくするんやが、うちの祭典なぞの時に、肉体をもっている人間と、肉体をもつとらん人間とがあるわけで、我々は現象界に生まれているから、こうして肉体をもっているが、かりにパタッと、我々からみて、死んだ、心臓がとまったということになるとね、今まで肉体にはいっておって、肉体をつかって生きてきた一つのエネルギーですがね、宇宙の生命体というもの、それは、この肉体がなかっても、同じ働きをもっているんですね。
ただ、自分の使うていた入れ物がなくなっただけであって、人間の心、本心はなくなることなしに生きとるわけです。だから我々肉体のもっている人間と、 死後、肉体をもっていない人間は目に見えなくとも同居していることになるんです。これは、 自分の感覚ではですよ。だから肉体のもっている人間と話しあって、自分がいろんなことを尋ねても答えてくれない人がありますわな、そんな時、肉体をもたない人間に話しかけてみるんですね。そうしたら、そんな人の方が、つまり肉体をもたん人間の方が案外い、知恵をだしてくれますね。
それを、その、みんなは神さんや仏さんやのといって、人間の世界から切り離した別の世界のものだというように扱ってしまうからおかしくなってくるのです。が、私の場合はね、それを神さんや仏さんとはいわないで、霊人とか霊魂とかいいます。我々が生活しているのは、自分一人でなしに、また、姿のある人間だけやなしに、外にまだ肉体のもたん人間も一緒に同居している。それがお互いに仲好くしていくということです。
ところで、世間でよくいわれる「さわり」とか邪霊とか先祖さん、うかばれてないとかいうことは、 みなこの肉体のもたん人間の迷いや苦しんでいる状態をさしてそういう風に云っているんですが、それで、そういう悩みがある時は、我々が霊界人のその悩みを逆にこちらから助けてやる、そのかわり我々が困っている時には、霊界人である肉体をもた心人が肉体をもっている我々に協力をしてくれるし、仲間にもなってくれる。霊界人に対して私はそういう感覚であつかっています。だから、私は生きている人にでもこうして合掌して挨拶をするのは 、お互いにもっている心、 本心に対して敬意をあらわすんです。
勿論、肉体をもたん人間に対しても同じことです。相手がえらいから拝むのではなしに、尊いわけですな、自分にも尊いものがあり、相手にもある。いわゆる仏教でいえば衆生仏性ありでね。そこで、我々現界にいるものが仲好くいこうと思えば、別に片方にいる霊界人が苦しんだり、仲悪くしておると、現界が仲好くいけないわけやな、裏から邪魔をされることになるわけですね。仲間外れにしたということで。だから、ダンチ(柴地)がいうように神秘的なものでもなんでもないわけですよ。 ただ、いつも、この姿のない人聞が我々に協力してくれている話をするだけです。死んでしまったから、相手が別な世界にいるというのではなしに、いつも身近にいる、そうであればこそ、ご飯を食べる時に生きている人間が食べるなら「姿のない人間も一緒に頂こうやないか」、また、「一緒に暮そうやないか」という、私のはそれなんでね。見る人によってはおかしいかも知れませんが。
ですから私の心の世界は肉体をもっている人間の世界だけとちがいます。肉体をもたん人間の世界も皆んな仲間です。私の場合は、自分から切り離した別の世界にいる仏さん、神さんという気持はありません。氏神さんにいっても、ああ、うちの仲間ここにいるわい、という気持で遊びに行くんで、拝みにめったに行きません。手をたたくのは挨拶やからね。お寺へ行っても、ああここにも仲間がいるわいというのでポン、ポン手を叩く。どういうか、とにかく身近な感じでいきます。
今のヒンズー教徒なんか、どう、考えているか知らんが、おそらくお釈迦さんの場合でもね、似たような気持があったと思うんで。だから、どうしても現界を中心として物を考える、そこから、だんだんと奥へ行って、今いう、外に霊界人のいることがわかる人はわかればよいし、また、仲間になればよいんです。それで、仏教なんかでは、今おっしゃったようにね、隨宜説法というて、「相手に応じて、機根に応じて、釈尊が教えを説いた」といった面がありますね。
しかし、日本へ入ってきた大乗仏教なんかは、お経を読んでも、釈尊の説明できんようなことが沢山書いてありますわな。たとえば、甚深微妙の法やとか、唯佛与佛だとか、 お前が仏にならねばわからないんだからとか、そういうようなことが経典の中に出て来ますね、ほんとのことはいわれない、そうすると、今までいってきたことはある程度、相手に応じて教化してきたというようなね。
西辻
そこのところですなあ。そういうことを山岸さんにも、もう少し聞きたかったのやが、聞かれんじまいになってしまったが、そういう知恵を越えたもう一つ奥の世界の霊妙不可思議なものに対しては、お釈迦さんでも説明しようのないものをもってはったかも知れませんな。
そりあ、明快な割切った行き方もいいけれど、それだけでは、物足りんものがあるわけです、わしもどっちかというと、神秘体験が好きやから(笑)
法主
かりに霊動なんか起ってくる時にも、これは自分の意識ですることちがうし、まあ、自然発生ですわな。我が自身で何故こうなるのか、そうなろうとして、精神統一をするでもなし、神さんを拝むでもなし、滝にうたれるでもないのに、普通にしている中で、ああいうものが突然に起ってくるということに対しては、おそらく、いくら頭がよくても、勉強していても解明はできないだろうと思う。 自分の考えでどうにもならず、 自分の力でどうしようもないというものにぶつかってしまうんですからね。これを解明しようと思うても理智ではどうすることもできないものなのです。
もう一つ理智を越えた奥の潜在意識とか、奥の智恵ですね、まあ大自然の叡智とでもいうか、そういうものがさせる業です。催眠術みたいにある一つの約束があって、目をつぶらすとか、どうとか、いうのでなしに霊動のように自然発生に起るものをみていると、古いイんドにでもこうした自然発生的な方法によって、バラモンの僧侶や、ヒンズー教の僧侶たちの中に、人間の理智で及ばぬ何かがあるととった人がかなりあったのではないかと思うんです。
編集部 霊界というのは現界と重なっているものなのでしょうか。
法主
重なっているも、並んでいるもない切り離せん一つのもの、この現象界も霊界の中ということ、現界即霊界というわけです。
我々が、どう霊界に通じているかということを自分のこの身をみても、肉体はこれは現象界に属するも ものだが、肉体に入っている心というものは霊界に属していることになるわけですよ。ここからこっちが霊界とか現界とかいうようなうな区別は全然ないのだから、脳みそかそを通して考えるからおかしいんで、脳みそを通さぬ心の働きは純然たる霊界に住いしていることになるわけです。
編集部 その一つのところに住んでいて、なぜ、誰にも霊界がみえないのでしょうか。どうして霊界がみえるものと、みえないものとがあるのでしょう。
法主
それはね、神さんにいう苦情やな(笑)
神さんというのは宇宙創成の生命体を神さんというんやで、まあ、佛教でいえば久遠の本仏といっているけれど、そういうように個人差をつけてできてくるように根本(こんもと)が仕組まれているのや。
編集部 先程のお話にもありましたが、お釈迦さまが霊魂の問題に触れられなかったというのも、言っても通じないものが大部分だし、たとえば私なんかに言ってくれててもわからないですし、それだけでなしにそれを悪用して、今でもありますけれど、怪しげなことを言って人に不安をもたらすというようなことがないように、戒められたのとちがんでしようか。
法主
あの当時は、そんなのばかりだったのとちがうかな。たとえば山へ入って木の実ばかり食ったり、行をしていわゆる神通力を得るとか、そういうような超人間的な能力を自分に備えるというか、開発するというか、それがためにそんな行をした人が多かったと思う。
お釈迦さんもその一人やったのが、六年か何年か、檀特山(だんどくせん)に入って、いろんな仙人たちにつかえていたのが、どうしたことか、フラフラになって山からでてこられた。だから、お釈迦さん自身もそういうことはわかっておられるはずや。といって山へ入って行力がでたからといって何になるかということだね、人間が成佛する上において。だから、まず観念のあやまりから直していかなければならない。
西辻 そうそう、そういうことをしても安心の道ではない。本当に人間が幸せに安心した生活をするためには、我、人、共に繁栄せんというような倫理性をもったゆき方をせんと、本当の安心はもてんという結論になったのやないかと思う。
法主
私も、そう思いますね。
話合いの場としての建物をいかして行く
編集部 西辻さんがおっしゃったように、「我、人、共に繁栄せん。」ということや、合田さんが「みんなと仲好くしていけばよいじゃないか」とおっしゃった、そういうことに関連しまして、今度大倭会館を建てるについて、 そういう”我、人、共に繁栄してゆく”ための話合いの場としての建物をいかして行くことができたらと思うのですが、それについて何か。
西辻
そうですなあ、そういう話し合いの場として進んで行けたら、いいなあと思っている。具体的にどうと思っているわけでないけれど、前に、一ぺん言っておられましたなあ、祭壇を作って必要な時は開け、必要のない時は閉めて、と。わしらも山岸会の行き方を、すべて、よいとは思うてない、物足らんところがありますわ。それで、いつでも言うことやが、納豆のねばりのないみたいなところがあって、あれだけでは物足りんものがある。だから何や、あれまでか。ということで、そんなものは道徳の話を聞いたようなものでなあ(笑)
「これまでか。」「はい、これまでや」ということで、もう一つ何やしらひっぱる魅力がないですね。だけど、また別な魅力というものもあるのですわ、山岸会、独特の雰囲気というものかな。わしは、大倭のことについては何も論ずる資格はないけれど、わしの感じたことをいうと、話し合いをすれば解決することでも、そういう話し合いがないためにあえないというものがありますね。だから、山岸会でしている研鑽といういき方をとり入れるということはいいことやとおもう。そして、理論的に行くところは、そうしていったらいいしいけん場合は、霊界で(笑)両方でいったらいいとおもいますね。何も、「こんなものが、こうや、これが、こうや。大倭教がこうで、山岸会がこれやなかったらいかん」ということは何もないのやから、いいか悪いか試しながらしていったらいいと思うな。そんなことで会館を建てることは大いに喜んでるわけやけど。神さん、まつらはったらええがな(笑)
大倭の神さんは、何ちゅう神さんか知らんが(笑)けれど、おそらく、密教でいう大日如来、 法華経でいう久遠の本佛、そういうものやと思うんです。そこで、佛教の話をしようが、キリスト教の話をしようが、それでいいと思う。佛教流でいえばキリストも観音という見かたです。いや、これは、わしの見方やで、あれは、あのユダヤという土地、そこにあらわれた宇宙の理の働きの結果に出てきたものでな、山岸会でいうたら、 観音というのは、正整作用やな。
(#大倭の神とは:上下の上のこと、自然の理・宇宙創成の源のこと。仏教でいう久遠本仏、大日如来、阿弥陀如来。神道で言う天之御中主。アブラハム宗教でいう唯一神のこと。)
合田
世の中にはね、神道、仏教、こうした宗教というものを理解できるものと、できんものとがあるようでね。 だから、理解できる人はなるべく理解したらよいと思いますな。そういう気持のある人は、どんどんこうした話し合いに加ってもいいわけですわな。
しかし、 考えてみると、宗教を理解できるものが日本の全人口の何パーセントあるかなあ。そういうこと時々思うんやが。一段下がって説教を聞くだけでなしに、たしかに研鑽するという行き方はいいことやと思います。それでみんなが幸せにいける道を求めていけばいいんじゃないか。
神議りとは話し合い、自分の分量をはかること、宗教の本質
法主
それがね、ほんとの意味での宗教の形体ですね。たとえばずっと後になってから形のできた神道においても、「祝詞」 一つをみても、神集いに集いたまい、神議(はか)りに議り給いと、人間一人一人を神とみるんですなあ、そして、みんながお互いに集って、神議りに議り給いということは、あれは研鑽のことですね。だから、山岸会でしていることは「神議り」 なんです。神道的なことばを使って、そこに、少し神秘を加味してくると、「みそぎ」になってしまいます。ですから、日本神道でもそれは昔から行われていたことですがね。
柴地
法主さん、その神議りなんですがね、おもしろいことがあるんです。議るでしょう、これはどういうことか、これは法主さんの説明ですよ。今(説明から)ぬけましたから、僕がかわりにいうんですけれど(笑)
自分の分量をはかることなんです。枡で。だから、私はこれだけ、自分の分量はこれと、はかりながら持場をきめることなんです。そこで、集い集いて神議りして、一緒にやっていこうやないかということです。ですから、議るということは、話し合いということ、自分の分量を計るということなんです。
西辻 なるほど。自分の持味を知るということですね。はあ、さよか。
柴地 そこに譲るということの深さがあるわけです。
法主
それで、はかるとは「議る」という漢字をつかっておりますね、議という漢字をつかって、”はかる”と読ましているところに意味のちょっと深いころがあるのですが。
だから、自分の持味、自分の、つまり枡、大きさ、器をまず知って、それをお互いに出し合いする。いえば研鑽ですね、仏教的にいえば悟りですね。
西辻 自分を知るという事ね。
法主
そうですね、悟ったもんなら、千人よっても、めったに喧嘩にはならんわけですな、自分で、自分を知っているんだから。あいつが大きいとか、わしは小さいとかいう優越感や劣等感をもつ必要もないわけです。
そうしたものが、時代がさがるほど宗教も本質的なものから遠ざかってきたということになるでしょうか。
西辻
宗教が、宗教企業になりさがらんような宗教が望ましいですな。とにかく。宗教家が金や権力にタッチすると、まちがいを起し易うなるんでしようかね。
法主 まあ、いいことはないなあ。
西辻 大倭あたりでも、そこから離れておられるから、いったいこともいえるし、金を持ってくる信者はいらんのやから楽に行けるんやないかと思うな。
柴地 でも、まあ、大倭もいろんなことがありますから、そう一概にはいえません。
西辻
ほんとに、日常いいたいことをいおうと思えば、そうせねばいかんが、それではな、衆生済度をできん場合があるわな。そこにはいろんな、その時、その時に応じてやって行かんといかんこともあると思う。
法主
まあ、「これからの宗教というのは、また、昔にもどってお互いに自分で自分をはかるとか、悟るとか、いうようないき方をする。そういうところに方向づけたいものです。」そうなってくると、それをできる場がないといかんので。
西辻 そうです。
宗教の境目などない(宗教は一つ)、教派宗派がすでに宗教の本質から離れている
法主
宗教団体として、今、形のできているものは多分に本質的な宗教の道から外れているように思えます。いまの時代に宗派、教派を問題にすることがおかしいんで、そこから脱してこなければいけないんですがね。
だから、私は大倭へこられる人にも話すんですよ。キリスト教の信者であるとか、自分は仏教徒の何宗とかいわれても、それはちょうど、着ている着物と一緒で好き好きがあります。洋服の好きな人もおれば、和服の好きな人もおると、どんな形のものを身につけていたとしても、それは、その人の衣装ですね。けれど、むいてしまったら中身は同じ裸なんだから。ですからキリスト教であろうと、教派神道であろうと、仏教徒であっても、それにこだわらずに皆が話しあって宗教の本質的なものをつかんで行くように。結論は洋服を着ているものと、和服を着ているものとが仲好くして行くことですな。
西辻 そういうことですね。
法主 平たくいえばね。
西辻
まあ、仲好くするというようなこと一つについても、これは宗教の本質から外れてないことやと思うが。
法主
それが、宗教の本質ですよ。教派とか宗派とか、あの状態そのものが、すでに宗教の本質から離れているので、まあ、現在の宗教をみた場合に、いろんな宗旨があって、そこへ自分が所属している。たとえば、どこそこの信者です、となると、自分の所属している宗教が、唯一絶対のようになりがちです。
お互いにそう思っているんです。別に思うことはかまわないんですよ、信仰なんだから、それ位信頼できたら結構なんだけれど、しかし、度が過ぎると、それ以外の宗教に対して偏見ができたりして、何か自分のものをよくするため、それ以外のものを低く見るというような心が、一つの宗教にはいったがために出てくる場合があるんです。
それが、まあ、いわゆる宗教我というものでしょうね。仏教でも我をとれ、我をとれと教えながら、こうして一つの宗教団体に、はいることでその宗教我という垢をつけてしまうんです。
西辻 そうですなあ。
法主
だから、宗派、教派を重んじることが、本当の宗教の姿でないということを、まず、認識する必要があるんですね。仏教が好きで、仏教によって、安心を得られる人はそれで結構なんだから。しかし、今の時代でお寺を通した仏教とか、坊さんを通した仏教では、少々、垢がつきすぎると思うんです、だから、それを一歩越えたもの、これは仏教だけでなしに、キリスト教であっても、神道であっても、同じことですよ。そういうお互いの宗教をもちながら、宗教の根源にさかのぼって、宗派教派という壁をとってしまって協力して仲好くいくというようないき方が必要ではないかと思うのです。
大倭に会館をこしらえるというのも、そういうところをねらっているわけですが。
西辻
私達の願いも、そういうような願いですね、会館ができるということについては。
法主
それをここで、大倭教という古くさい垢のついたような名前で、うち出しているんですが、そうしながら、いろんな人がくることで、大倭教は、名は名でも、あれは普通の宗教とちがうのだという認識をもってもらうことも、現代の人の宗教に対する固定観念を浄化させる方法だと思いますね。
これを、全然、名称をかえてしまって、「〇〇」などというようなことをしなくても、古くさい大倭教で出発して、「看板は看板でもあの中は現代的だ」といわれるように、 中から改造したいと思うわけでね。
仏教では、よく獅子身中の虫というけれど、それが、虫でなしに腹の中に入って、薬の役をして行く、それが必要ですね。人々の宗教に対する見方が、いやだから、逃げるというのではなしに、そこにとび込んで入って、内部から浄化して行く、まあ、そんなところです。
合田
最近のお寺の役といえば死んだ時にお経を唱えてもらうだけが役目でなあ、しかし、それだけでは残念だから、その場を、”つどい”の場にするとかね。
法主
これからは、各宗派のね大きな建物を、みんなが宗派、教派を超越して、人の寄る場にきりかえてくれたら。
西辻 そうです。
法主
宗教界全体に新風を入れることになるんだけれど。
合田 まあ、そういう意味で、 法主さんおっしゃったように、一つ毛色のかわった案がいいと思いますね。今さら、名をかえて、どうと、いうことはね(笑)
法主 二十年、この名で来てるんですから。
合田 私達も、そういうことにも魅力感じてきてるんです。
法主
しかし、大倭教と名前をきくだけで、いやがる人もあるよ。
西辻 そうですか。私は、もともと宗教臭いものが好きやから何教やいわれても別に、何ともないし、内容ちょっと、のぞいて気がむいたら直ぐ行く方やが。普通の人は、宗教といえば、古くさい、そういうものに思うんでしょうな。
柴地
それがね、西辻さん、古くさい宗教だったら、生命力がないから、まだ、そう怖いことはないんです。ところがね、新興宗教とかね、こういう目のつりあがった宗教があるんでね。
僕ら、最初”大倭教”ときいた時、これはえらいこっちゃ、えらいとこへきたなあと思いましたなあ。それでね、僕らは宗教嫌いでとか、宗教に理解がありますかとかね、聞きましてね。
西辻 あやまんなはれ(笑)
柴地 そんなんでしたからね、 新興宗教で大倭教ときいただけで、これは、目のつり上った人の集りやと、こら、肚をくくって、やらんと下手をしたらゃられるなあ、と思いました。
西辻 そう、わしらかて、新興宗教に行くときは、あんたと同じ気持や。宗教は好きやけど、 目のつり上った奴になあ、何やかや言うてやられたらかなんなあと思いますね。
柴地
それで、余計おもしろいのは、そういう固定観念があるので、それがほぐされた時は大きいわけですね。始めには、期待もなかったし、わからなかったし、こちらには逆の思いがありましたしね。
それがそうでないとわかったときには、おもしろい気持にもなりました。だから法主さんがいわれるように、 宗教という名で、バッと出て行くのも、いいなあと。
西辻
それで、まあ、山岸会みたいな入口があって、そこへもって、宗教研鑽というような一つの場をもって、事実に即して本当に好きな者同志が寄って、霊魂の問題というようなものも究明して行く「場」やね、そういうものがあってもいいわけですね。
法主 そう、そうです。
西辻
なにも、嫌いなものは来んでもいいんやから、好きなものは来たらいい。わしらかて、いたって幽霊の話や、そんなことは好きや。ほんまに、あんなこと話したり、聞いたりすることは好きやからな(笑)
合田
一週間、寝起きを共にして、霊なら霊の問題について考えたら、或る程度わかるんぢやないかと思いますが。
法主 まあ、一週間あればね。
合田 そこで、徹底的に話し合ってみたらね。
西辻
専門研鑽会をもったらいいわけやわな。そやけれど、 一番とっつき易いのは、山岸会のような入口や。誰にでも、あれならあてはまるんで、そこから、だんだん奥深いことをやられたらいいんやから。
編集部
今日はいろいろと、ありがとうございました。どうぞおくつろぎください。
