ここ最近の方向転換。これまでの人生、ここから歩み直し。
ここ最近、突然執筆の手が止まっている。
書くことがしんどいとか、そういうわけではない。
何か、こころが大きく方向転換、
或いは次のステージへ踏み込んでいて、
それまで書こうとしていたことを書けなくなってしまって過ごしている。
決して、これまで知ってきたことが間違っていたとか、そういうことではない。
これまで知ってきたことについては、70%ほどは最後のときまで真実として残り続ける、真理そのものと確信するところである。
そうではなく、それを本当に伝えることが正解なのか、わたしの使命はそこにあるのかが分からなくなってきている、というだけのことである。
元から、29歳に至れば何かしら脱皮があり、34歳になる頃に何かが生まれてくるというような感覚があって来たが、来年2/16で29歳になるのが近付いてきているからなのか、内面の方向転換が起こっている。
全くもって、どこに向かっているか分からない。
法そのものや、カミそのものは終生確信するものであるが、自分自身が具体的にどのように歩むかという知はそれとは別次元の問題である。
これまでの人生
これまでの人生については、こちらの記事でも一部記した。
わたしは、それが真実であれ妄想であれ、こうした変な人生を送ってきたことは間違いのないことであり、本当にそのように生きてきた。
その中で、本当に悩ましく生きてきたものである。
そこで最も悩ましかったことの一つが、わたしはポンコツ愚劣でもあってきたということである。
この時代に生きてきて、多くの過ちをも成してきた。
簡単に自覚しているものもあれば、最近禊をするなかで思い出したり、自覚したりする罪も膨大に発見する始末である。
良いことをするには、失敗も同じ大きさのものがリスクとしてつきまとうが、そのような感じで、ある意味では多くの人より重い罪をも沢山成しているとわたしは思っている。
これについて、わたしは人々に寄り添う使命の一部と思ってみたり、或いはこのおかしくなりきった時代環境で生きていくには仕方のないことと思ってきた。
そして、その中から、マフィアに生まれた中からそれを打破して飛び出し、またマフィアをも更生させる人のように、出ていくのだ!と意気込んできた。
最近、方向転換。
ところが、最近はそうではなかったのではないかと思い始めているのである。
実はここまでの歩みはここまでの歩みとして必要なものであったが、
法華経化城喩品に説かれるような神仏に与えられた方便であって、ここで違う新たな景色を、道を、見せられているのではないかと感じているのである。
例…仏教ではなく宗教自体を。
例えを出せば、これまでは「仏教をどうにかせねば」と思っていたが、そうではなくて宗教自体を伝える存在にならなくてはならないような気がしてきている。
仏教を伝えることが使命ではなく、宗教自体を伝えることが使命なような気がしている。
それは並行して、僧侶としてではなく活動していくのではないか、などと感じ始めている。
むしろこの、僧侶とか仏教とか、いうことを終わらせることが向かう先なのかも知れないと思いはじめている。在家菩薩道こそが末法においては主たる道であって、もっといえばそれは一般に認知される範囲の仏教という狭いものではなく、もっと広い宗教そのもの(これこそが真の仏教とわたしは言いたい)という道が示されるべきタイミングなのではないかと思っている。
そのためには、かえって衆生によって凝り固まった仏教の方が取り除かれ、転化されていくべきかもしれない。衆生によって凝り固まった仏教こそが、宗教の本当の道を阻害しているのではないかと、ほとんど確信するようになった。
そう考えてみると、僧侶としてあること自体が実はもう違っていて、新たな形で歩んでいった方がよいのかもしれないなどと思い始めている。僧侶のままでは、凝り固まった仏教内のものであり続けてしまうように感じる。宗教を超えたような、先頭者でありたい。
修行しなおす
そして、もう一つ重要なことが、
これまでの人生を全く改めたいということである。
既に述べたが、わたしは天啓のようなものはそれはそれとして、現代のわたしとしては過ちも実に多く、多くと言うよりも大きく成してきた人生であった。そしてこれを、寄り添う使命の一部だとか、マフィア内でなんとか育ちきるには一定歩調を合わせたりこじれたりするしかない部分だとか思って歩んできたが、これは間違いであったように感じている。
これらは、わたしの中にはじめからあった隙や種が、この宗教的に厳しい時代環境において発現、発芽しただけのものだと感じはじめている。言い訳は無用、しかしまた反面ではそれに気付かせてもらいつつ、そうしたことも含めて一つの見本材料として世に知らせていくための役割にもなっていて、カミの神業によって仕組まれたもののようにも思っている。
釈迦のあまりに優れた足跡も人を勇気づけるが、愚かな弟子の成長も人を勇気づけるであろうように。自分の克服と、人々への見本という二つを上手く繋げられて、わたしはこの厳しい時代環境に生み出されたように感じはじめている。
わたしは、本当に過ちも大きいこれまでの人生であった。それなりに良い僧侶などの過去世も半面有しながら、現代のわたしとしては過ちも大きく成してきた。
仏教教団が全く機能していない、衆生が反宗教的な過酷な時代環境にあって、どうにもならないと感じながら生きてきた。
この28歳までの人生は、この歪みきった仏教環境や社会環境において、それを味わいながら、自分の至らぬところを発現しながら、乗り越えるべき、過去の遺物となるべき自己と社会の腐敗を味わいながら生かされてきたのではないか。
29歳以後にようやく、本当の生き方に目覚めきって、これまでのものを乗り越えていくように仕組まれているのが自分の人生ではないかと、ここに来て視野が変更されたのである。
釈尊も29歳で出家しているが、それは偶然としても、そのように自己の内部で強く感じているここ最近である。
これまでの終結、ここからの開始
ここからが本当の人生。
ここまでは、自己や社会が乗り越えるべきものとして一旦味わわせていただいたもの。
そのように感じている。
そこで、今月初め頃から、新たに歩み始めているのである。突然の方向転換、或いは脱皮である。見える景色が大きく変貌した。
これまでのわたしは、
乗り越えるべきものとして味わったものであった。
ここから、脱皮を繰り返して、見本となっていく。
そのための人生だと思う。
わたしは、ようやく、
本当の人生を歩み始めた。
かしこみ、かしこみ。
天に感謝である。
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