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涙の懸橋をゆく(法主日聖、『おおやまと』S50.12より引用)

今日は12月8日。
釈尊の成道会(悟った日)でありながら、日本においては真珠湾攻撃すなわち開戦の日である。

わたしは、これまで語ったことはあまりないが実は第二次世界大戦については非常に思いがある。むしろ、これまでの人生を支えてきた使命感は、そのことが多くの源となっている。

幼児期に、第二次世界大戦の英霊たちの念波のようなものが押し寄せてきて、或いは自分の内側からも押し寄せてきて、「わたしたちのことを忘れるな!今の日本は許せない!よき日本を作れ!」というエネルギーが自分を突き抜けて、今日に至っている。

わたしはいつだって、彼等のことを忘れたことはない。
子孫を残せずに散っていった若者たちのことが、定期的にこの胸にやって来る。子孫を残すことができた者たちのために、子孫を残せなかった若者たちが無念に散っていったその礎があることが、もう言葉には表わしようのない無念さで押し寄せてくるのだ。

あちこちで騒いでいる人々、利己的に生きて自分の利害ばかり思っている衆生たちを見ていると、本当に情けない思いで一杯になるのである。無念の中に散っていった若者たちに、わたしは応えることを常に心の軸としている。

だから利己的には生きることができないのである。この思いを知らずにあれこれと無理解をぶつけられてきたことは、この人生で実に苦痛であり続けてきたが、無念に知っていった若者同胞のことを思えば、常に使命感に燃えてそれによって共に乗り越えてきたのだ。
ここにそのことを初めて告白する。

さて、今日は、日聖法主の執筆より。
『おおやまと』(S50.12月号)より、12月8日に記された文章を引用する。わたしの最も好きな文面の一つである。

一人でも多く、この現代の精神性のおかしさに気付いて、我が心を正しつつ、社会精神の改善に向かう人が育つことを願ってやまない。


自然との交流

木枯しの吹く晴れた日(1975/11/26) の昼さがり、二十余年前に植田善良さんが接いでくれた柿の木、すっかり散り失せた葉なしの技に、濃紅に輝く柿の実がいかにも重々しく鈴なりに垂れ下っている。晩秋の陽に映えた木々の間で、まさに宝石を散りばめたように、ひときわくっきりと浮び上って目を見はらせる。脳裏をかすめるものがあった。

錯覚だろうか、いや現実だ。

思いもよらぬ濡羽の鳥、一羽、何処からきたのか、ふんわり止って、あたりに気を配りながらコツコツと突つき始めた。 人が居るのに気付いたのだろう、急に飛び立った。

「悪かったなあ。」と秘かに詫びながら、春雪を思わせる白い庭いっぱいの山茶花の花ビラ、しずしずと踏みしめながら忍び足で近づいてみた。はっと立止った。ガクのあたりに嘴(くちばし)で突ついた深い傷あとがあり、滴るような甘味を漂わせ、細い折れた小枝にしがみつくような恰好で柿の実は無心に草葉の蔭に置かれてあった。

「有難とう!」鳥がメッコを入れる実は一番味のよいものに決まっている。唇をそっと紙めながら手にとった秋のみのりに、「山の加美さん、おおきに。」宝物でも拾った気持で撫でくり回していた。

その瞬間だった。二本しかと結びついた松の枯葉が、強い勢で首筋からもぐり込んだ。冷たく痛みさえ感じた。これにも神慮があると思い、「ああ、済まない、済まない。お前らの恩は片時も忘れたことはないよ。」と語りかけながら梢を見上げると、その古びた幹を庇うように斜光線を浴びた真赤な紅葉が隠かにゆれ動いて、まるで手招きしているように見えた。

自然は美しい。調和の姿が更に美しいものだ。
人はこの天然の心の中で生かされている。


戦後30年の流れ、終戦にて生まれ変わり

私達がこの須加の霊地に居を移したころ、私はその記念に手づから植樹した小さな松・桧・楠や桜・梅・槭(もみじ)などは、大倭の神地、五百年、一千年先の風景を夢に観ながら其の種別に応じ、其の最も適切な場所を選び吾が心情を感ろに言いふくめて入念に、一本また一本と農事の余暇を見ては定植したものだ。

大倭31年(昭和50年)も早や暮れに近づいた。庭に佇んであたりを見渡せば、見るもの触れるもの、其の総てに私の祈りがあり、託した私の心がある。今や四季の移り変りに随って、大倭の「加美ながら殿堂(もり)」は戦後三十年の流れを無言に示しながら年毎に其の壮厳さを加えつつある。嬉しいことだ。

回顧するに昭和20年8月15日は、 戦前の私(隆家)は他界し、今の私(日聖)が生れた誕生日にも当る。

この新しい生命は、八百萬余の霊界人達が神集い神議りの結果、民族の故郷大倭のナガソネ(長曽根) 登美の地に生成し化育されたもののようである。一日は私にとって、戦後の社会の中で「自分は何をなすべきか」の神慮をはっきり自覚できた記念日ともなった。

それ以来の私は素直に「加美のまにまに」自分の意思と其れ以外の意思をうまく調和しつつ、地下水的行動を執ってきたつもりである。
斯うしたことを、口では 「無計画の計画とか無統制の統制」といった気障な言葉でお茶を濁してきた。実の所、私には、こうした内容の話を言語によって他人に伝える能力に欠けている事を知っているからである。


風流な貧乏生活

街頭宣布の影響もあったが、この須加宮(すがや)に入ると、求めずとも縁ある人々が集まってきた。誠に多種多様な人間像で賑かだった。

藤原安宿媛(あすかひめ)、後の光明皇后が女房役を受け持ってくれたので、今日の大倭紫陽花邑がある。だが、日常の些細なことにまで気配りをしてくれたのでうるさい事も屡々あったけれど、結果はいつも媛の言いなりに随った。

秋の夜は長い。薄暗い小油燈(ことばし)の光の中で山賊みたいに石組の炉を囲み、焚柴を折ってはくべながら夢のような大法螺を吹いたもんだ。門人達に、「今夜もまた、炉端談義が始まった。」と笑われたことも記憶に残る。だが今みる大倭の実態は其のころ退屈しのぎに吹いた大法螺の音色のようになった。実は、この大法螺のネタは殆んど光明皇后の入知恵だったことを自白しておこう。

壁や戸締りの無い堀立小屋の生活は寒かった。飯の上に雪が散る日もあった。 狸が近寄って吾等の食事を眺めていたこともある。門人が半長靴を振り上げ、理めがけて投げたところ、力が余って前の鏡池へドンブリコという喝采の一駒もあって、結構面白い貧乏生活だった。
松の梢を仰ぎ、水に浮ぶ月影を眺めながら露天風呂につかっていると、頭上はるかに鳴き渡る時鳥、五月(さつき)の声を残して何処かへ立去ってゆく。赤貧洗うが如き暮しの中にも斯うした風流さもあった。

その反面、経済的生活の基盤は農耕だけだったので、黒豆二つを浮べたようなお粥をすすって朝星夕星、体力の続くかぎりの重労働を敢てやらねばならなかった。
十一月の中旬、稲が頭を垂れ色づき始めたころ、霜柱を踏みながら焼(はだし)のまま、田の尻哇掘りも行った。泥足は感覚がなくなって鳩のように真赤に変っていた。此れもゴム靴を買う金が無かったからであった。

現金収入の大部分は、女達の肩と足にかかっていた。
野菜の苗は青物屋へ、草花は旅館などへ振り売り、野作物は大阪あたりへ担ぎ込むという方法をとってくれた。鉢巻きを締めゲートルを巻き、牛の尻を叩いて、一本梶の牛車に満載した大根を市場へ出荷したのも、この頃だった。

私には生涯、これが始めであり終りであるという貴重な得難い人生経験となった。


貧乏生活の中の子供達

大倭には子供が多かった。毎朝、集団で天王山の峠を越え、一キロ余りの野道を歩いて富雄南小学校へ通った。子供らは「黎明大倭」を合唱し歩調を合せていた。
学校が近づくと一斉に立ち止って手にした下駄や草履を履き始める。子供達は、家から此処まで跣で歩いてきたのである。下校のときは道端に落ちている枯枝など焚物になるものなら必ず拾って帰宅する。

斯うした子供達の自発的行為も子供なりに生活の中から経済的貧困のきびしさを肌で感じていたなればこそ。今もなお想うにつけて胸がつまり新たな涙がにじんでくる。当時、子供達の入浴までよく世話してくれた今は亡き金泉日紘が偲ばれる。子を持つ母となり、また大倭の重い経済を担って活躍している中堅層の中に、この時代の数人がいる。


来るもの拒まず、宗教人としての修行、過去世の罪を祓う、出火と妻の早世

その頃、着のみ着のままで飛び込んできた多くの人々の中で、宗教的なものを求めて入門した者はほんの数人に過ぎなかった。
ほかの者はその大部分が家庭的事情や対社会的な何か難題を抱えているため一般社会では自活しにくい立場に在るもののようだった。

人には必ず衣食住がついている。先に紹介した氷山の一角でも分るように、人間の認識ではとうてい明日はどうなるか、一寸先が闇だったドン底生活の状況の中で、「来る者は拒(こば)まず、去る者は追わず、去来するもの大小紅白、総てこれ縁者なり。」(奇稲田姫命)と霊人は語る。この言を信じこれを実行すれば必ず死ぬ、自殺行為に等しい。

だからといって恐れをなし、霊人に背を見せることは自分の本心が許さない。
私は利害、感情、自己擁護これら一切を血の出る思いで抑制しながら素直に実践を続けた。

私にとって其れは筆舌に盡し難き無間地獄の責そのものだった。
自分の余命はあともう幾ばくもないと思ったので、この心境を永き生命をもつ杉や桧に託して植樹し、自からを慰めたものだった。

夜が更けてあたりは静寂そのものだった。時折り落ちる松毬(まつかさ)の音がいやに大きくあたりの静けさを破る。 独り天王山に静座し、遙か西方に横たわる生駒の霊峰を拝して、

「自分が積み重ねた過去世のマガツミはこれだけのきびしい苦難を受けなければ祓い清める事ができないものか。此れが果して今世で消滅することができるものであろうか。
斯うした状況が、若し五ヶ年と続くならば、自分の肉体は極端な心身過労と栄養失調で恐らく此の世には実在しないのだ。
自分なりに悟ったつもりの天賦の大使命とは、一体何だったのだろうか。」

苦悶が体内をかけめぐる。

天を仰ぎ、 地にひれ伏し、思わず迸る「雄叫び」の声は、いつしか流星の如く光明子安宿媛と固く抱き合い、互に鳴咽する涙に転化していった。
今では此れが吾が魂の奥深く刻み込まれた過去の懐かしい力強い想出となって、永遠に吾が心から消え去らないものとなった。

これを契機に、私は明日を考えず自分自身が己れに課せられた苦難の道をどこまで事実耐え忍んで精進することができるだろうか、更に自分の信念と自分の肉体がこのドン底生活の中でどこまで持ち応える事ができるだろうか、試すことに踏切った。
若し気付かずに其の限界を越えた場合は、私に死が訪れる時である。その心境たるや、まさしく広大無辺なる花園に在って、生か、死か、加美の審判のもとで立合う真剣勝負そのものだった。

加美の御はからいか、己が享けた宿命のなせる業か、お蔭をもって此の泥沼生活は僅か三年足らずの短期間に過ぎなかったのである。
ここで私は宗教人としての第一関門だけは命を賭けて辛うじて通過することができた。

折しも昭和24年夏の出火は一物あますことなく其の悉くを灰燼にして綺麗さっぱり祓い清められた。名実ともなう裸の再出発を余儀無くさせられたのである。
さあ、これからという明くる年の夏、四人の子供を残し、37才を一期に吾が妻は、私より一歩先に他界(昭和25年9月6日)してしまった。故事にある「吾妻はや」と嘆かれた日本武尊の心情が強く胸を打つ。


大倭神宮での涙

12月6日、大倭神宮月次祭、本年最後の日に当る。静かに降り注ぐ秋雨の中で厳粛な祭典を執り行った。私は今年一年間のお蔭に感謝の祈りを捧げまつったその瞬間のことだった。何処から降って湧いたか、無数の霊人達がこちらを向いて群集し、一斉に両手を挙げて、
「やさか(弥栄)、やさか。」
と連続的に叫んでいる。その声は天地にどよめき渡った。

反射的に私の両眼からは小粒の涙が噴き出すように流れて足許に落ちる。吐く息は小さく、吸う息は大きく波打つ、声は全然でなくなった。

思えば敗戦の日、この土の上に額づいて流したあの涙、爾来星霜三十年、同じ土の上に、いま無心に流れたこの涙、涙と涙の掛橋は一体何を物語っているのだろうか、神慮のほどは深くて分らない。

後世のため茲に書き残したこの短文の中にも、涙の掛橋に使われた重要な素材が秘められていることを感じてほしい。

この一文は大倭の流れの中で一番人間的苦難のころを連想しながら書いたものだから、その間、何回か瞳を曇らせ、手をおいて顔を伏せた。当時の実像が止むことなく頭上を去来しているのでペンの運びが進まない。白々と夜が明けてきた。神地の社は小雨に煙って木々の梢はことのほかぼやけて美しい。

地震を思わせるような大音響を残して哀れ一羽の野鳥は軒下にその屍を横たえていた。一枚硝子の雨戸へ体当り、嘴は折れ、頭を割って無慙(むざん) な姿になり果てていた。この現象は?

真珠湾にとどろく爆音の響が遠くから聞えてきたような気がする。
やっぱり今朝まで引っぱられたなあ。

(昭和五十・十二・八・日聖記)

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