わかるとは何か。〜写し取る/構造・体系を知る/小なる知と大なる知〜
今回は「わかるシリーズ」の続編です。
すでに「わかることが大切である」という記事を投稿しました。
今回はその次のステップとして、わかるが大切であることがわかったという上で、「わかるとは何か」ということを具体的に記していきます。

はじめに
「わかる」が大切であるということを既に説示した。
「わかる×する」という基本構造がある。「理×事」に対応している。といったことを説明してきた。
そこで、さらに深く掘り下げていこう。
そんな「わかる」であるが、より詳細には「わかるとは何」なのであろうか。それこそ、「“わかる”をわかる」ことが必要である。
わかるとは、は難しいテーマ
「わかるとは何か」ということは、実は非常に難しいテーマである。
古くは哲学から問われてきたり、近現代では心理学・脳科学などの学問から問われてきたりしてきたものであるが、未だに決着が着いているようなものではない。実に難しいテーマなのである。
例えば、近現代であれば心理学・脳科学といった方面から理解されてもよさそうであるが、「わかる/理解する」ということがどのように機能しているかと少し考えてみても、「記憶」「整理」「認識」「意識」様々なものが関係しているような様子があり、かなり複雑怪奇なことが予測される。
またそもそも、その「記憶」「認識」などのパーツがまたそれぞれに複雑怪奇で、ぼんやりとは捉えられて概念化することもできるが、詳細にはっきり規定しきる・分析しきるということは難しそうである。
そもそも脳の活動については、未だに解明されていないことが膨大にあって、科学がそれほど追い付いている範囲でもない。このようにして、心理学・脳科学といった分野からの解明はまだまだ果たされているようなところではない。
そして、何より「わかるをわかる」ということは、「自己言及になっている」ということが非常に大きいものと思う。
自己言及とは「これは文である」など、その指すところがそれ自体を指してループしてしまっているようなもののことを言う。
「わかるをわかる」ということは、そもそも自己言及的なテーマである。
わかるをわからないながら、わかるということをするということになり、またわかるをわかりつつありながらわかるということを経ることになる。そもそも構造的に奇妙なテーマなのである。
この指摘を他で見たことはないが、この問題もあると思っている。
そこで「わかるとは何か」ということは古来から問題に挙げられながら、完全な回答が与えられてきたものではない。
「わかることが大切である」と言っておきながら、「わかることがわからない」のでは何か嘘でもつかれたような気分であろう。
わたしもかつてノート5000枚を記していた頃、まさにこの問題に直面し、「わかることがわからない」「わけがわからない…!」と悶々としていたものである。
そして、それに一定の回答を得たものである(安心されたい)。
そこで、本稿では「わかることが大切である」というところから、「わかるをわかりましょう」というところから始めるものである。
1.わかるの基本=写像(のようなこと)
導入
わかるということを示すにおいても色んな角度が考えられる。
(そもそも理解するというときに色んな角度があるということも、理解とは何かというテーマのひとつである。)
ところが、わかるということを一定わかったからこそ言えることであるが、わかるには段階があったりして、そのときに必要な範囲と不必要な範囲というものがあったりする。
そういうことまでわかっているが故に、ここでは必要な範囲から示すものである。
そこで、まず必要なわかるについての理解は何か。
それは、「わかるの基本=写像」だということである。
わかるの基本=写像

例えば、目の前に「机の上にリンゴがある」という図のような状況があるとする。
「“この状況をわかる”ということはどのようなことを指すか」というと、「“机の上にリンゴがある”ということが脳内に再生されること」といったことを意味するものである。
正しいとは→わかるとは
ここで実はセットになる概念がある。
それは「正しい(正誤)」という概念である。
「正しいとは何か」ということも実は、この「わかるとは何か」ということと連動してあり、非常に難しいテーマとして、古来より哲学などで問われ続けてきたものである。
ここで簡単な意味合いに限定してその一部を言うと、「正しい」とは「“理解しようとしているもの”と“脳内に再生されるもの”が一致すること」を言う。

つまりここで言えば、「リンゴが机の上にあるという“理解しようとしていること”」と「脳内に再生されるもの」が一致していれば、
それを「正しい」といい、相違していれば「誤っている」という。
そして「わかる」とは、「“理解しようとしている対象”が(一致した状態で)“脳内に再現される”こと」を言うということなのである。
写像(という語句)

このように、あることについて、それを別の場所へ、その代わりに写し取ったようなもの(これを「像」という)を移すことを、「写像」と言ったりする。
まるで写真のようなものである。実際の情景はそのままに、その代わりのようなもの(=「像」)をフィルムに移したものが「写真」である。
(※西洋哲学では「写像理論」と言ったりもするようである。詳しくは各自調べられたい。)
これが「わかる」ということの第一パターンである。

そして、この「わかるをわかる」ということも、まさにそれをメタ視点から<「“理解しようとしている対象”が(一致した状態で)“脳内に再現される”こと」がわかるであるということを、脳内に再現する(=わかる)>ということによって「わかるをわかる」という写像を自己言及的にしているのである。
つまり今、“わかるということを(写像して)わかった“のである。
補足:言語
これは補足であるが、言語はこれを介在するものである。

「“机の上にリンゴがある“という事態」が図のようにあって、それを「脳内に再現する」というために、実物を脳内に移し替えるわけにはいかないから、ちょうど写真で”代わりの像”をフィルムに移したように、“実際の事態の代わりとなるもの“を以て脳内に再現することになる。
その“実際の事態の代わりとなるもの“が言語である。
言い換えれば「世界の模型」のようなものである。
(或いは映像を一度電波に変換して、向こうのデバイスで再現するときに、「電波に変換したようなもの」である。)
「リンゴ」というコトバが、“実際のリンゴ“の模型となり、脳内にリンゴを再現させる。(実物ではないので、情報はかなり減ってしまい、全てのリンゴに共通した要素だけが写し取られて、それが脳内に再生されることになる。)
「机」「の上に」「ある」というコトバが全てこのように実物の模型となっていて、それらのコトバにより“代わりのもの”が写し取られて、脳内に組み立てられて再現される。
「“机の上にリンゴがある“という事態」は「“机の上にリンゴがある“というコトバ」に変換して写し取られ、それが「脳内に“机の上にリンゴがある“という状態を再現する=わかる」ということになっている。
これが言語/コトバというものの、基本的な型式である。

(※これもまた、コトバにより写像してコトバをわかるということをしている。今まさに、コトバを“わかった”のである。このように思考は常に、“わかる“ということが連動している。)
2.構造・関係について
そこで、もう一つ重要なことを説示する。
この写像というときに、
実は必然的に伴っていることの最も重要なことの一つに「構造・関係性」ということがあるということである。
また詳しくは後に説示するが、
そもそも「世界には“構造・関係性というもの”がある」ということが事実としてある。

世界は単に「“個々の存在”が沢山いろいろとただ無秩序にある」というだけのようなものではない。
「それら個々の存在が、関係しあって、もっと言えば構造というものをもって、存在している」ということがあるのである。

最もわかりやすい事例をもってくれば、「建物」がそうである。
「建物」は、「個々のそれぞれぞ部材がそれはそれとしてありながら」、「それらが関係性を持ち合って、もっと言えば構造をもって、独立しながらかつ一体・複合的に存在しているもの」である。
これを一般に「関係性」「構造」などと呼んだりする。
世界の事物は、まったく独立に存在するということは一切ないといってもよく、(視点の次元さえ調整すれば)どこかの視点から見たときには、「全ては何かの関係性・構造の中において存在するもの」とまで言ってもよいことになっている。
これは大分譲歩したが、そのような複雑なものはともかくとして、「非常に多くのものが、わかりやすく構造や関係性の中に存在する/或いは構造を内部にもって存在する」ものであり、「構造と共にある」ものである。

もう少し例をもって論を補強すると。
「自分自身」も、肉体を見れば明白に構造を持って存在するものである。或いはこの「執筆に使用しているPC」もそう、「机」もそうである。「そもそも文章自体」、単語同士がただバラバラに存在していては文章という意味のある塊りにならないものであって、「単語同士が関係・構造をもって文章がある」のである。
わかる(写像する)=構造まで写し取る
そこで、「世界・事物は関係性・構造を持っている」というようなことになっているのであるが、「わかるということは事態の写像すなわち写し取り」であるから、それはつまり「=その“構造”も写像されなくてはならない(もしくは事実に一致しない構造で写像すれば誤りとなる)」ということになる。

ただ単に、「リンゴ」「机」という存在だけを写像しても、“その事態をわかった”ということにはならない。「上に」という関係性・構造まで写し取られて、それがセットで脳内に再現されることで、「その事態がよりはっきり“わかられる”」ということになる。
このように、「世界・事物には関係・構造というものがある」。
そこで、わかるということにおいては、「関係・構造も含めて(写し取り)再現する」ということが必要であり、わかるに含まれるということである。言い換えれば、わかるとは単体の存在を認識する・脳内に再現することだけではなく、「“理解しようとしているものこと“について、その単位要素とその関係性・構造を適切に写像すること」を意味するということである。
わかる二段階:小なる知、大なる知
そこで、もう一つ重要なことを説示する。
(ここまでの内容に繋がる内容である。)
わかるには「小なる知」「大なる知」というべき、”二種の段階”があるということである。
土地勘の喩え
ここではわかりやすく「土地勘をつかむ=その土地を“わかる”」ということを比喩に説明しよう。
人が土地勘を得るとき、その知に二段階あるといえる。
ここでは話がややこしくなるので地図はないものとして進める。
①小なる知

「ある土地について知る」には、
まずは「自分の触れたところ(近いところ等)から」「一つずつ接触していき」「その一つ一つの知(=小なる知)を集めていく」ことから始まる。
いきなり「己が接触していないところについて知る」、「土地の全容を知る」というようなことは出来ないのである。
「身近なところから、一つずつ、知が蓄積していく」という知の在り方/段階が必然的にはじめにある。
これを「(全容などの大きなものに対して)小なる知」と呼ぶことにする。
②大なる知

そこで、そのうちこの「小なる知」が蓄積してくると、別な知の状態が開かれてくる。
「その“小なる知”の関係性を問いはじめ」「“小なる知”を体系的に整理しなおす」というようなことが起こってくる。
一つ一つの土地情報があり、それらは実は無関係なものではなく、全体で一つの土地を構成している。⇒ある範囲の土地について、そこに「関係性・構造」というものがある。
そこで、各地点情報の単体ではなく、その構造まで含んだ”全体体系”として「土地一帯を理解する」ということが起こってくる。
このように、「土地について“全体像を体系的に知る”」というような知の状態が開かれてくるのである。
これを「①小なる知」に対して、「②大なる知」と呼ぶことにする。
大なる知=いわゆる「わかる」

この知こそが、狭義での「わかる」を意味している。
①では土地勘を得たとは言えず、②をもって土地勘というであろう。
このことから、つまり「Aについてわかる」とは、「Aにおける要素を個々に知る(=小なる知)」ことを言うのではなく、その「(Aにおける)全体像を体系的に知る(=大なる知)」ことこそを言うということである。
そして、この知は「小なる知」から始まり、「大なる知」へ至るという二段階があるようなことになっていたりするということである。
【註】全体とはピントによる

ここでいう「全体」とは、そのときに知ろうとしている対象の“ピント”による。
例えば、P地点の情報を知りたければ、そこに行くための知だけで「わかる」となる。
これは「P地点に行くための行程」が知ろうとする対象の範囲(ピント)となっており、それがそのピントにおける「全体」となっているからである。
ところが、同じP地点までの行程という土地情報であっても、「P地点を含むA地域のことをわかる」というピントからすると、それは一部(=小なる知)となり、「わかったことにはならない」ということになるのである。
つまり「全体がわかる」とは、「ピントにおける全体がわかる」ことをい言う。
まとめ(より正確には)
そこで、より正確にはその構造・体系まで整理してわかることまで併せて、「(ピントにおける)全体像を体系的に知る(=写像する)」ことが「わかる」ことだと概ね言うことができる。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
「”わかるとは何か”ということがわからない」のに、わかることがよりよく出来るはずがないと思い(Aという料理を作るステップがわからないと、そのAという料理をよりよく作れないように)、16歳のころ特にもの思いに耽り、このことにずっと悩んでいた時期がありました。
そこであらゆることを当時思案しました。
その結果、まず基本としてはこのことがあるという結論に至ったものです。
いつ、こういうビジョンが見えたのかは覚えていませんが、坐禅をして静まりかえることを踏んでいく中で、ふと思い至ったことだけを覚えています。
まだ最も基本的な範囲ですが「わかるということがわかった」と思いますので、普段の皆さんの「理解する」という営みをする際に、そのように理解した上で取り組んでいただければ、より効率的・効果的に理解という営みが進むことがあるであろうと信じています。
長くなったので、ここで区切りましたが、次作ではさらに詳しい内容に進みます。
【ご喜捨のお願い】
社会の精神的な向上を願って、宗教者の道を歩んでいます。
本物の宗教を徹底して示すべく、厳しくともご喜捨のみで歩んでいます。
この時代の精神面を小さい頃から危惧してやってきて、宗教者として生きることを選択しました。社会や宗教界の流れをよい方向へ直すべく、それらに逆流して、目に見えぬ領域の原発処理班のような心地で、活動しています。
(25.2月現在は毎月数万圓のみで生活しています)
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ご功徳が廻り、社会の精神基盤に寄与しますように。
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