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クローゼットの怨念と奇跡の一枚

ネット通販のブラキャミが私をヒトにした。

そう書くと、綺麗なお姉さんアイコンのアフィリエイト投稿か、あるいは主婦層向けの手書き漫画つきPR投稿か。
いずれにせよ、お金の匂いがする何かだと、あなたはコンマ1秒で判断して見事にスルーするだろう。現代社会は何かと時間がない。大正解である。

ところが。どうせアフィブログに繋がるんでしょう、とお思いのあなたも、ネットリテラシーがちゃんと育っている証拠である。喜ばしい。ここまで書いておいて結論に繋げないのはさすがにまだるっこしいので書いておこう、別にこれは宣伝でもなければ、美乳メイクの指南書でもない。どこにもリンクを持たない、ただの妖怪の小咄だ。



私は長年胃を悪くしていた。ガスが溜まったり、逆流性食道炎とかそういう類のものだ。
そうなると、どうしても胃を締め付けたくなくなる。ブラなんてもってのほかだ。いや、ブラは付けてます。出掛ける時は。

……出掛ける時は。

この件においては良かったのか悪かったのか、私はいわゆる在宅仕事というものに就いていた。コロナ禍の前からそうなので、なんかそういう仕事だと思っておいてほしい。
そんな折に胃炎と過敏性腸症候群がセットになって人の内臓でお祭り騒ぎを繰り広げた結果、跡地には逆流性食道炎だけが残っていた。ゴミを残すな。責任持って持ち帰れ。そう叫びたくとも病名は概念のようなものだ。手に取れるものならとっくに雑巾絞りにして可燃ごみに出している。
そうしてごみの日に出しそびれてしまったため、家の中ではノーブラの女性が爆誕した。どう考えても私は悪くない。

悪くはないが、臓器的にも心理的にも「ラク」な状態に慣れてしまった体は、あれよあれよと変化していく。わかりやすいところではこう……位置の変化と……下降……そうだね、垂れるよね。重力は誰にもどこにも平等だ。
こんなところに書きたくなくても胸は垂れる。少しずつ。在宅仕事の人間にどれだけ外出の機会があるか、週に数えるほどのブラ着用にどれほどの意味があるか。隅田川で砂金を探したほうがまだ可能性があるというものだ。

とはいえ、ラクな習慣は手放したくない。脳はそういう風にできている。いらぬ負担を抱え込むより、今の「ラク」を享受し、幸せっぽくあり続けたいのだ。幸せなのはブラを付け続けずに済む環境であって、支えのない胸にとっては不遇そのものでしかないが。誰も取りこぼさず幸せにするなんてことは政府の施策だって難しいというのに、一介の小市民に自分の胸を取りこぼさず拾い続ける生活なんてことができるわけがない。大多数の女性がそれをやり遂げている現実からは目を背けたいのが脳だ。私は臓器の幸せのためにあえてこれらの選択を続けているに過ぎない。

宅配便の受け取りに季節外れのキルトコートを羽織って出た結果「なんか家の中で露出狂プレイをしてる人」みたいになったある春の日、これはだめだと私の中のちっぽけな理性が、これまたちっぽけな勇気を振り絞って言った。

「ブラを付けている人になりたい」

脳が物凄く嫌そうな顔をする。今までどれほどあの締め付けに苦しい思いをさせられてきたか、お前は覚えていないというのか。この裏切り神経伝達物質。

「いや、逆流性食道炎なら昨年治ってたし」

そうだった。検診で特に異常なしと認められ、エビオスのおかげで最近はガスによる張りもだいぶ改善されてきた。処方薬でも難しかったのに、ビール酵母のエビオスはすごいなあ。リンクを貼っていないためこれは個人の感想である。

「何より最近、運動してるじゃん」

運動とはいうが、外ウォーキングも『日焼け……止め……?』と面倒くさがった結果、その場で足踏みしているだけだ。動画を見ながらだとあっという間に1時間は過ぎる。座りっぱなしの防止には貢献しているだろうが、これを運動と呼ぶには

「2.5METsの強度があるらしいよ。よかったね、ラクして消費カロリー稼げてるよ」
「腕も大きく振ってるから、少なからずクーパー靭帯への負担はあるよね」
「おばあちゃんみたいな胸を先取りしたいなら別にいいけど」

よし、つけ心地が良くて締め付けがなくて、ついでに高さをちょっと盛れて気分も上がるデザインのノンワイヤーブラを今すぐ探そう。いや、二重にインナーを着るのはこれからの季節暑いし、できればブラタンクトップかブラキャミソールがいいな。うん、洗濯がラクなパッド一体型のブラキャミにしよう。ワイヤーは……ゼロ、いやマイナスからのスタートにはちょっと痛いから今は勘弁して……。

「急に要求が多くなるじゃん」



こうして始まったブラキャミ探しは、大きめの体格による大きめの骨格、バストサイズこそ大きいものの広がり気味だった胸には難航を極めた。そもそもブラキャミ自体、数が少ないのだ。時に胸肉が潰れ、時に腕を上げた途端に布からボロリと落ち、アンダーかトップに合わせるとどちらかがユルユルなどという悲劇を繰り返しながら、スタッフは疲弊していった。もはやジャングルの奥地にヘリを飛ばすしかないのか。むしろそこまで行けばあるものなら喜んでアマゾンへ向かうが、小市民が行けるアマゾンはせいぜいAmazonである。
楽天、ユニクロ、誰も悪くはない。悪いのは私のなんか大きめの骨格と、垂れを放置したがゆえに四方八方へ広がり落ち着きのない胸ぐらいである。誰だ、ここまでこの胸を放置したのは!

ブラとは肌着である。肌に直接触れる衣類であるから、店舗で試着するなら薄手のキャミソールもしくはタンクトップの上から、あるいは下着専門店なんかだとそのまま素肌に試着できる所も多い。今回は一体型のブラキャミに限っているから後者の出番はほぼないし、だいたいがECサイトの頼りない「口コミ・サイズ見極めからの一発買い」が主になる。そうするとどうなるか。潰れたりボロリしたりの商品はそのまま買い取りとなる。自分には合わなくとも、そうなる。結果、クローゼットには「いつか万が一体型が変わった時のために」という名目で、合わないブラキャミが溜め込まれていく。万が一とは、極めて低い確率を指す言葉のことである。それぐらい、ワイヤーできちんとサイズ管理されていないブラを探すというのは難しいのだ。

こうなると、次の段階へ行くしかない。「サイズ交換・返品送料無料」と謳っている商品である。商品開発に時間をかけ、商品に自信を持ち、かつ消費者側の負担も減らしたいという奇特なメーカーはたまにある。そうではなく、単に薄利多売のメーカーも混ざっているから、難易度が高いと判断し手を出していなかった。アマゾン奥地と天秤にかけるぐらいなら試してみよう。もう期待できる余力も残っていない私の元に届いた「サイズ交換・返品送料無料」のブラキャミ。

なんだこれ。

なんだこれ、私、いま“着けた”よな。届いたブラキャミを着たはずだ。いつものアンダーゴムのキツさ、カップが胸を潰す感覚、肩紐が食い込む痛さ。それらが、ない。違和感がないのは良いことなのに、違和感がなくて混乱している。

深呼吸しても、みぞおちの嫌なズレがない。いつだって自由に家出していた胸の肉たちは、ここが実家ですと言わんばかりに、薄い布の中で大人しく眠っている。いやいや、まだ油断できない。思い出せ、クローゼットに控えている「合わなかった」ブラキャミとブラタンクの山を。ここがゴールだと思ってはいけない。

……高さがちょっと盛れてるのもいい感じだな。

部屋着を重ねても暑さは感じないし、外出用に買ったトップスとも相性がいい。やっぱり透けづらいベージュと見えてもいいブラックを選んだのは正解だったな。肩紐が調節しやすいのも高ポイントだ。腕を上げても……ズレない!胸がボロリどころかアンダーゴムがしっかり止まっている!こんな商品があったのか。これが返品送料無料……いや返品しないし、サイズも奇跡的に合っている。返せと言われても返さない自信がある。返品条件のタグは覚悟を決めて切った。

とりあえず、ちょっとこのまま夜まで着用し続けてみようか。どこかで肩紐が痛くなったり、胸の位置はズレるだろうから。念のため。

とりあえず、昨日は何事もなかったけれど。今日は外出の用事があるから、一日これで過ごしてみよう。外でも快適だったら……そこまで期待するのはやめておこう。これまでの試着行脚を思い出すんだ。クローゼットに怨念が眠っているぞ。

とりあえず、外出して何事もないどころか、こころなしか姿勢が良く過ごせたな。胸の位置が少し高くなったことで自信が持てたのかもしれない。背中や腹の汗まで吸い取ってくれて、いい奴だなお前。

とりあえず、胸が四散しないほうが落ち着くことに気付いたからには朝起きたらブラキャミを着るのが当たり前になってきたな。カップ一体型だから洗濯機で洗えるし、どれだけ優秀なんだ君は。

日中はブラキャミを着けるのが当たり前になって数週間、宅配便が来たときに胸部分をごまかす用の厚手の上着を片付けた。部屋着も季節にあった薄手のものが選択肢に入る。ごみを出しにちょっとそこまで、が準備ゼロ秒でできる。足りない食材を買い出しに、が財布を持つだけでいい。今着ている服を脱ぎ、ブラを着け、また服を着て、という他人が見たら「Youは何のためにブラをお持ちで?」と聞かれてしまいそうな行程がもういらないのだ。だって既に着用しているから。

人間の生活とはこれか。私はこれまで、ヒトのふりをしてヒトになりきれていなかった、妖怪胸隠しだった。胸の存在を隠して猫背になって、季節にそぐわない厚手の上着を着て、外出する時だけアーマーを装着するから姿勢が間に合わない。いつも装着していないアーマーは重くて痛い。

もちろん、肌が弱かったり、色んな理由でブラを着けられない人はいるだろう。私はそうでなく、理由のないところに理由をつけてこねくり回し、自ら妖怪になった。自認はヒトなのだから、見る人が見れば叫んで逃げ出していただろう。見る人って、例えば下着アドバイザーとか。そして下着アドバイザーはアポ無しで人の家には上がり込まないから、これまた存在しない理屈で、存在しない敵と戦っていたことになる。妖怪とは大体そんなものだ。見えない何かと話し、見えない敵と戦う。

「裏切り神経伝達物質って言われたの、忘れてないからね」

ほら、こうやって。






前回(段ボールの話)はこちら

泊エオ(TomariEo)です。日常のささいなバグを、イラストと2,000〜4,000字程度の読み物として言葉にしています。
次回はたぶん5月17日、日曜の夜に更新予定です。
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