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ずっと隠していた「とある言語」の正体。あえて今、語学をやる理由

AIや精度の高い翻訳ツールがこれほど発達した現代において、「なぜあえて膨大な時間をかけて語学を学ぶのか?」

私は、言語を学ぶ過程で「言語以上のもの」に出会えるからだと思っている。今回は、私が長年学び続け、これまでの記事では「とある外国語」と伏せていた言語の正体と、その学びから得たものについて綴ってみたい。


隠していた「とある外国語」の正体

以前の記事で触れた「とある外国語」。実は、私が学んでいるのは「アラビア語」である。

「なぜアラビア語?」と驚かれるかもしれないが、私にとってアラビア語は、ライフワークでもある東洋医学(漢方・養生)と同等に、自分自身を形成する上で欠かせない要素になっている。今回、ここで思い切って告白することにした。

アラブ人の「健康観」と「未来の捉え方」

アラビア語を学ぶ過程で、私は単なる単語や文法だけでなく、アラブ世界の文化や宗教、そして彼らの根底にある価値観を学んできた。特に、アラブの人々との交流を通じて、私の「健康に対する価値観」や「未来の捉え方」は大きく揺さぶられることになった。

例えば、サウジアラビア人のある友人は、私に向かってあっけらかんとこう言った。「健康にはまったく興味ないよ。だって、インシャアッラーだから」。日々「養生」を意識し、食事や生活習慣を自ら整えている私にとって、この言葉はかなりの衝撃だった。

さらに先日のエジプト旅行で出会ったエジプト人も、こう笑い飛ばしていた。「コロナ禍もロックダウンなんてしてなかったよ。たとえウイルスにかかってしまっても、それはインシャアッラーだからね」

未来を委ねる言葉「インシャアッラー」

彼らが口にする「インシャアッラー」とは、「もしアッラー(神)が望むならば」という意味である。アラブの人々は、明日の予定から数年後の夢まで、未来のことを話す時には必ず最後にこの言葉を付け足す。

未来は自分ではなく、神が決めるもの。だから、たとえ病気になったとしても、それは神の御心なのだ。自分でコントロールしようと必死になるのではなく、大いなるものに委ねてしまうこの潔いスタンスは、ある意味で究極の「心の養生」なのかもしれないとすら思えてくる。

ちなみに、「イスラム教徒ではないのに『アッラー(神)』とつく言葉を発していいのか?」と疑問に思われるかもしれない。私も最初はそう思ったのだが、これまで私にアラビア語を教えてくれた先生方は皆「どんどん使って!」という寛容なスタンスだった。
そのため、私は異教徒でありながら、敬意を持ってこの言葉を使わせてもらっている。(とはいえ、アラブ人と会話する時か、アラビア語の学習仲間との間だけだが……たまに夫にも使ってしまうこともある)

だから私は、あえて語学を学ぶ

言語を学ぶということは、異なるレンズを通して世界を見るということだ。 自分の常識が覆され、新しい価値観が自分の中にインストールされる。言語を介してしか感じ取れないこの感覚の違いこそが、翻訳機を通した会話では決して得られない、語学学習の最大の醍醐味なのだと思う。

私と東洋医学が切り離せないのと同じように、アラブ世界との出会いもまた、私の人生において重要な役割をしている。今後は、私とアラブ世界とのこと、そしてアラブの人々から教わった素敵な考え方なども、少しずつご紹介していきたいと思う。

※サムネイルはジェッダの市場

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