障害者雇用は制度として破綻していないか――資本と権威に偏った制度が当事者を置き去りにする
はじめに
障害者雇用をめぐる報道を見た。
障害者雇用ビジネスを介して企業に雇用された障害者が、在宅勤務とされながら、実際には十分な仕事を与えられず、企業との関わりも乏しいまま放置されていたという内容である。
見出しには、
「置き去り」
「寂しい」
「給料に罪悪感」
といった言葉が並んでいた。
これは、かなり深刻な問題である。
単に、一部企業の運用が悪かったという話ではない。
障害者雇用制度そのものが、実質よりも数字を満たすための制度になっている。
そして、その破綻した運用を行政が十分に取り締まれていない。
そう見える。
本来、障害者雇用とは、障害のある人に働く機会を保障し、社会参加を支えるための制度であるはずだ。
しかし現実には、企業が法定雇用率を満たすための数字になっている。
外部業者が、その数字合わせを支援するビジネスを展開している。
行政は、形式上の雇用や雇用率を確認する。
その一方で、障害者本人が本当に仕事をしているのか、孤立していないのか、役割を持てているのかという実態が置き去りにされる。
これを制度の破綻と言わずに何と言うのか。
1.障害者雇用が「人数合わせ」になっている
障害者雇用とは、本来、障害のある人を単に企業の名簿に載せることではない。
その人の状態、能力、希望、特性を踏まえ、働ける環境を整える。
業務を設計する。
必要な配慮を行う。
職場との関係をつくる。
働くことを通じて、社会参加や職業生活を支える。
それが本来の趣旨であるはずだ。
しかし現実には、企業にとって障害者雇用は、法定雇用率を満たすための数字になりやすい。
何人雇ったか。
雇用率を満たしているか。
納付金を回避できるか。
企業イメージを保てるか。
行政上の義務を処理できるか。
そこばかりが重視される。
その結果、実際にどのような仕事をしているのか。
職場との関係があるのか。
本人が孤立していないか。
成長や役割につながっているのか。
本人の尊厳が守られているのか。
そうした本質的な部分が置き去りにされる。
雇用契約がある。
給与を払っている。
法定雇用率を満たしている。
だから問題ない。
そんな理屈が通るなら、障害者雇用制度はすでに形骸化している。
制度はある。
数字もある。
義務もある。
しかし、実態が伴っていない。
それならば、その制度は人を守る制度ではない。
企業が義務を処理したことにするための制度になってしまっている。
2.仕事を与えない雇用は、雇用ではない
仕事を与えない。
企業側が関与しない。
業務設計もしない。
本人との関係性も作らない。
外部業者に丸投げする。
それで「雇用している」と言うのは、あまりにも欺瞞的である。
給与を払えばよいという話ではない。
雇用とは、労働者に役割を与え、業務を管理し、必要な配慮をしながら、職場の一員として扱うことである。
もちろん、障害特性によって業務量や働き方に配慮が必要な場合はある。
短時間勤務が必要な人もいる。
在宅勤務が適している人もいる。
定型的な業務の方が働きやすい人もいる。
体調に応じた柔軟な運用が必要な人もいる。
それ自体は問題ではない。
問題は、配慮と放置を混同することである。
負担をかけすぎないことと、仕事を与えないことは違う。
無理をさせないことと、存在を無視することは違う。
合理的配慮と、業務から排除することは違う。
仕事を与えず、ただ在宅で待機させる。
チャットで形式的なやり取りだけをさせる。
本人に「給料をもらっていていいのか」と罪悪感を抱かせる。
これは配慮ではない。
放置である。
隔離である。
制度を使った人数合わせである。
障害者を雇用しているのではない。
実態のある業務も関係性もなく、数字だけを満たしているのであれば、それは障害者雇用率を買っているだけである。
3.「給与を払っているからよい」は通用しない
企業側は、こう言うかもしれない。
給与は払っている。
契約はある。
本人も雇用されている。
外部業者が支援している。
法定雇用率も満たしている。
だから問題ない。
しかし、それは通用しない。
仕事を与えない雇用は、雇用の実態を欠いている。
関与しない雇用は、責任を果たしていない。
外部業者に任せきりの雇用は、企業が雇用主としての責任を放棄している。
給与を払っていることは、免罪符ではない。
むしろ、本人に仕事も役割も与えず、罪悪感だけを抱かせているのであれば、かなり残酷である。
過重労働が人を壊すように、仕事を与えないことも人を壊す。
人を組織の中に置きながら、役割を与えない。
存在だけを数え、実態としては関与しない。
それは人の尊厳を傷つける。
働きすぎも問題である。
しかし、働く機会を与えられないことも問題である。
人は、仕事を通じて自分の役割を確認する。
誰かの役に立っている感覚を得る。
組織の一員である感覚を持つ。
自分の存在が、社会の中に置かれていることを確認する。
もちろん、労働だけが人間の価値ではない。
仕事をしていなければ価値がない、という話ではまったくない。
しかし、雇用契約を結んでいる以上、企業には業務を与え、管理し、支え、関与する責任がある。
雇った以上、放置してよいわけがない。
給与だけを支払って、仕事を与えず、関係も作らず、役割も設計しない。
それは、雇用責任を果たしているとは言えない。
4.障害者本人が罪悪感を抱く必要はない
ここで、もう一つ明確にしておきたいことがある。
仕事を与えられず、それでも給与を受け取っている障害者本人が、罪悪感を抱く必要など本来ない。
「働いていないのに給与をもらってよいのか」
「自分は役に立っていないのではないか」
「会社に申し訳ないのではないか」
そう感じてしまう人もいるかもしれない。
しかし、その責任は本人にはない。
雇用契約を結んだのは企業である。
業務を設計すべきなのも企業である。
仕事を与えるべきなのも企業である。
本人と関わり、必要な配慮をし、就労環境を整えるべきなのも企業である。
にもかかわらず、企業が仕事を与えない。
業務を設計しない。
外部業者に丸投げする。
本人との関係を作らない。
その結果、本人が働けない状態に置かれているのであれば、責任を感じるべきなのは本人ではない。
企業である。
外部業者である。
そして、そのような実態のない雇用を十分に取り締まらない行政である。
働かずに給与を受け取っているように見えるとしても、それは本人が勝手に作った状況ではない。
企業がそういう雇用状態を作っている。
業者がそういう仕組みを仲介している。
行政がそれを十分に取り締まれていない。
それなら、本人が罪悪感を抱く必要はない。
むしろ問われるべきなのは、なぜ仕事を与えられていないのかである。
なぜ企業は関与していないのかである。
なぜ業務設計がされていないのかである。
なぜ制度上は雇用として処理されているのかである。
障害者本人に責任を押しつける内容ではない。
「働いていないのに給与をもらっている」と本人を責めるのは筋違いである。
働ける形を作らず、仕事を与えず、制度上は雇用したことにしている側こそ問われるべきである。
働かずに給与を受け取れるなら、人によっては得に見えるかもしれない。
そういう状態を喜ばしいと感じる人もいるかもしれない。
しかし、罪悪感を感じるか得と捉えるかは個人差がある。
もし、罪悪感や責任を感じるのであれば、そのような状態に追い込み、仕事を与えず、実態のない雇用を成立させ、それを取り締まらない社会の方が問題なのである。
本人が罪悪感を抱く必要はない。
仮に責任を感じるのであればその必要もない。
責任を負うべきなのは、雇用した側である。
制度を利用した側である。
制度を監督する側である。
5.外部業者への丸投げは責任逃れである
障害者雇用支援の業者がすべて悪いわけではない。
企業にノウハウがない場合、外部の支援機関や専門業者が関わることには意味がある。
障害特性への理解、定着支援、業務の切り出し、相談対応、環境整備など、専門性が必要な領域もある。
しかし、支援と丸投げは違う。
支援とは、企業が自ら障害者雇用を実質的に行えるよう補助することである。
丸投げとは、企業が自分たちの責任を外部に移し、数字だけを得ることである。
今回問題になっている構図は、まさに後者に近い。
企業は雇用率を満たしたい。
業者はそのニーズを商品化する。
障害者は制度上の人数として組み込まれる。
しかし、実際の仕事はない。
企業との関係も薄い。
本人だけが孤立する。
これは制度の悪用に近い。
企業が本気で障害者雇用をする気がないなら、最初から雇用したふりをするべきではない。
外部業者に支援を依頼することはできる。
しかし、雇用責任そのものを外部化することはできない。
雇用主は企業である。
障害者を直接雇用している以上、業務を与える責任も、就労状況を確認する責任も、本人とコミュニケーションを取る責任も、健康状態や職場環境に配慮する責任も、本来は企業側にある。
ここを履き違えると、障害者雇用は一気に空洞化する。
企業は数字だけを得る。
業者は収益を得る。
行政は処理したことにする。
しかし、障害者本人は、実質的な仕事も、経験も、関係性も得られない。
これでは誰のための制度なのか分からない。
6.障害者雇用ビジネスは厳しく検証されるべきである
障害者雇用ビジネスについても、厳しく検証されるべきである。
支援の名を借りて、企業の責任逃れを手助けしていないか。
雇用率達成を商品化していないか。
実態のない在宅雇用を量産していないか。
障害者本人の職業経験や社会参加につながっているのか。
企業が直接関与しない仕組みになっていないか。
ここを見なければならない。
障害者雇用支援という看板を掲げていても、実態が数字合わせの代行であれば、それは支援ではない。
制度の理念よりも、雇用率達成を商品化するビジネスである。
企業の法定雇用率達成を売り物にし、障害者本人には実質的な仕事も役割も与えない。
そんな仕組みが広がっているなら、行政は直ちに調査すべきである。
問題は、障害者雇用を支援することではない。
問題は、企業が自分たちで担うべき雇用責任を外部業者に移し、障害者本人を制度上の人数として扱うことである。
そのような仕組みが成立しているなら、制度が抜け穴化しているということである。
そして、その抜け穴がビジネスになっているなら、さらに深刻である。
本来、障害者雇用支援は、本人の就労と定着を支えるためにあるべきだ。
企業の数字合わせを支えるためにあるべきではない。
本人が働けるようになる。
本人が孤立しないようにする。
企業が適切に業務を設計できるようにする。
職場との関係性を作る。
必要な配慮を継続する。
そうした方向に機能しているなら、支援には意味がある。
しかし、企業が雇用率を満たすための形式を整え、本人には実質的な仕事も役割も与えられないのであれば、それは支援ではない。
制度の隙間を利用した仕組みである。
7.行政の取締りが緩すぎる
さらに問題なのは、こうした運用が成立してしまうことである。
なぜ成立するのか。
行政の確認が甘いからである。
制度の監視が実態に届いていないからである。
雇用率や書類上の形式ばかりを見て、実際に仕事があるのか、本人が孤立していないか、企業が雇用責任を果たしているのかを十分に見ていないからである。
雇用契約がある。
給与が支払われている。
数字上は雇用率を満たしている。
それだけで済ませるなら、行政は制度の番人ではない。
数字確認係でしかない。
本来なら、行政はもっと厳しく見るべきである。
実際の業務内容は何か。
企業側の担当者は誰か。
日常的な指揮命令は誰がしているのか。
業務量は適切か。
本人との面談は行われているのか。
外部業者に丸投げしていないか。
障害者本人が孤立していないか。
雇用率達成のためだけの形式的雇用になっていないか。
ここまで確認しなければ、制度は簡単に抜け穴化する。
そして現実に、その抜け穴がビジネスになっているように見える。
行政が形式だけを確認し、企業が数字だけを満たし、業者がその隙間で利益を得る。
その結果、当事者が置き去りにされる。
この構図を放置している時点で、取締りが緩すぎる。
そのような実態を見逃しているのであれば、行政の監督責任も問われるべきである。
制度を作っただけでは足りない。
企業に義務を課しただけでも足りない。
雇用率を設定しただけでも足りない。
実態を確認しなければ、制度は簡単に形骸化する。
企業は数字を整える。
業者は数字を満たすための商品を作る。
行政は形式を確認する。
そして本人が置き去りにされる。
この流れを止めるのが、行政の役割ではないのか。
8.制度が破綻している
この問題は、もはや個別企業の倫理だけで語るべきではない。
制度が破綻している。
少なくとも、制度の運用は深刻に破綻しているように見える。
障害者雇用制度は、企業に雇用義務を課している。
しかし、その実態確認が弱い。
企業は数字だけを満たそうとする。
業者はその数字合わせを支援する商品を作る。
行政は形式的な確認にとどまる。
その結果、障害者本人が置き去りにされる。
この構造自体が破綻している。
制度の目的は、障害者を働く場につなげることだったはずである。
しかし現実には、障害者本人ではなく、企業の法定雇用率達成が中心になっている。
主役がすり替わっている。
障害者のための制度が、企業の免罪符になっている。
社会参加のための制度が、数字合わせの道具になっている。
雇用促進の制度が、実態のない雇用を生んでいる。
これを破綻と言わずに何と言うのか。
制度はある。
雇用率もある。
企業への義務もある。
行政の監督もある。
支援業者もいる。
しかし、その結果として本人に仕事がなく、企業との関係もなく、役割もなく、罪悪感だけが残るのであれば、その制度は機能していない。
制度が存在することと、制度が機能していることは違う。
この国では、その違いがあまりにも軽視されている。
問題は、制度が存在しないことではない。
制度が存在しているにもかかわらず、実態確認が弱く、企業の数字合わせを許していることである。
その意味で、障害者雇用制度は、少なくとも運用面において深刻に破綻している。
9.資本と権威に偏った制度の末路
資本と権威に偏ると、制度はこうなる。
企業は守られる。
業者は儲かる。
行政は処理したことにできる。
しかし、当事者は置き去りにされる。
障害者雇用制度も、まさにその構図に見える。
企業は、障害者を雇用したという数字を得る。
障害者雇用ビジネスは、企業の法定雇用率達成を商品化する。
行政は、雇用率や契約の有無といった形式を確認する。
その一方で、障害者本人が本当に働けているのか、孤立していないのか、仕事を通じて役割を持てているのかという実態は、後回しにされる。
これが制度の破綻である。
本来、制度は弱い立場に置かれやすい人を守るためにある。
しかし、現実には、制度を運用する側、制度を利用する企業、制度で利益を得る業者の方が守られている。
その結果、当事者は「置き去り」にされる。
仕事を与えられず、役割も与えられず、それでも給与だけは支払われる。
そして本人が「給料をもらっていていいのか」と罪悪感を抱く。
本来、罪悪感を持つべきなのは本人ではない。
仕事を設計しなかった企業である。
雇用率達成を商品化した業者である。
実態確認を怠った行政である。
制度が資本と権威に寄りすぎると、責任を負うべき側は守られ、守られるべき側が傷つく。
今回の報道は、その典型に見える。
資本の側に立てば、法定雇用率を満たすことが優先される。
権威の側に立てば、制度が存在し、形式が整っていることが優先される。
しかし、当事者の側に立てば、問うべきことはまったく違う。
本当に仕事があるのか。
本当に職場との関係があるのか。
本当に社会参加につながっているのか。
本当に本人の尊厳が守られているのか。
そこを見ない制度は、当事者のための制度ではない。
10.「置き去り」にされているのは障害者本人である
記事の見出しにある「置き去り」「寂しい」「給料に罪悪感」という言葉は重い。
仕事を与えられないまま給与を受け取ることに、本人が罪悪感を抱く。
それは、本人の問題ではない。
企業と制度運用の問題である。
本来なら、罪悪感を抱くべきなのは、仕事を設計せず、関与せず、制度上の人数として扱った側である。
それにもかかわらず、実際には、放置された本人が苦しむ。
自分は何のために雇われているのか。
自分は役に立っていないのではないか。
自分はただ給料を受け取っているだけではないか。
そう思わされる。
これは非常に残酷である。
障害者雇用の制度は、障害のある人を社会から切り離さないためにあるはずである。
しかし、運用を誤れば、制度の名を借りて、より深い孤立を生む。
企業が数字を得るために雇用し、業者が収益を得るために仲介し、行政が形式だけを確認する。
その結果、本人が孤立する。
これでは制度の意味が反転している。
働くための制度が、働けない状態を温存する。
社会参加のための制度が、孤立を生む。
尊厳を守るための制度が、罪悪感を生む。
これが本当に障害者雇用なのか。
そう問われるべきである。
11.本当に見るべきなのは「雇用率」ではなく「実態」である
障害者雇用で本当に見るべきなのは、雇用率だけではない。
その人がどのような業務をしているのか。
どのような支援を受けているのか。
企業とどのような関係を持っているのか。
孤立していないか。
仕事を通じて役割を持てているか。
本人の尊厳が守られているか。
そこを見なければならない。
雇用率を満たしていても、実態がなければ意味がない。
契約があっても、仕事がなければ意味がない。
給与が支払われていても、本人が置き去りにされているなら意味がない。
制度は数字のためにあるのではない。
人のためにある。
その当たり前のことが、完全に抜け落ちている。
雇用率は重要である。
しかし、雇用率は目的ではない。
雇用率は、障害者雇用を進めるための手段である。
本来の目的は、障害のある人が働ける場を得ること。
その人に合った形で業務に関わること。
職場や社会とのつながりを持つこと。
尊厳を損なわれずに働けること。
そこが失われているなら、雇用率だけを満たしても意味がない。
数字は整っている。
しかし、本人は置き去りにされている。
それなら、制度は成功していない。
12.これは障害者だけの問題ではない
この問題は、障害者雇用だけの問題ではない。
日本の労働現場では、形式だけを整え、実態を伴わせない運用が多すぎる。
ハラスメント相談窓口はある。
しかし機能しない。
コンプライアンス部門はある。
しかし不祥事を隠す。
人事評価制度はある。
しかし評価根拠は説明されない。
休職制度はある。
しかし運用は会社都合で変えられる。
相談制度はある。
しかし相談者が不利益を受ける。
障害者雇用も同じ構造に見える。
制度はある。
書類はある。
数字は満たしている。
外形は整っている。
しかし、実態がない。
この国では、制度が存在することと、制度が機能していることが、あまりにも簡単に混同される。
その結果、弱い立場に置かれた人ほど、制度の外側に押し出される。
制度の名前はある。
しかし守られない。
制度の窓口はある。
しかし実態は見ない。
制度の理念はある。
しかし運用は企業側に寄る。
これが、資本と権威に偏った社会の現実である。
企業に都合のよい制度運用は残る。
行政に都合のよい形式処理も残る。
業者に都合のよい収益構造も残る。
しかし、当事者の現実は見られない。
こうした構造は、障害者雇用に限らない。
労働問題、ハラスメント、過重労働、休職、労災、相談制度、内部通報、行政対応。
さまざまな場面で、制度はあるのに実態がないという問題が起きている。
制度があるから大丈夫。
窓口があるから大丈夫。
書類があるから大丈夫。
数字があるから大丈夫。
そういう社会では、当事者は守られない。
13.企業は障害者を「雇ったこと」にしてはいけない
企業が障害者を雇用するのであれば、最低限、考えるべきことがある。
どの業務を任せるのか。
その業務は本人にとって意味があるのか。
誰が日々の状況を確認するのか。
困ったときに誰へ相談できるのか。
業務量は適切か。
孤立していないか。
職場の一員として扱われているか。
本人の尊厳が守られているか。
これらを考えないまま、業者に任せて数字だけを満たすのであれば、それは障害者雇用とは言えない。
企業は、障害者を「雇ったこと」にしてはいけない。
実際に雇用しなければならない。
その違いは大きい。
雇ったことにするだけなら、企業は数字を得るだけで済む。
しかし、実際に雇用するなら、業務を作り、関係を作り、配慮し、責任を負わなければならない。
その責任を負う気がない企業が、障害者雇用を語るべきではない。
企業が障害者雇用を行うのであれば、単に人数を確保するのではなく、実際の働き方を設計しなければならない。
業務を切り出す。
本人の状態を確認する。
必要な配慮を行う。
定期的に関わる。
困りごとを聞く。
業務の意味を説明する。
職場との接点を作る。
本人が孤立しないようにする。
それができないなら、雇用責任を果たしているとは言えない。
おわりに
今回の報道から見えるのは、障害者雇用制度の深刻な形骸化である。
企業は数字を満たす。
業者はその数字合わせをビジネスにする。
行政は実態確認を十分にしない。
障害者本人は置き去りにされる。
この構造は異常である。
仕事を与えず、関与せず、外部業者に丸投げし、それで障害者雇用をしていると言う。
そんなものは雇用ではない。
制度の趣旨を壊している。
障害者本人の尊厳を傷つけている。
企業の責任逃れを許している。
そして、そのような実態を見逃しているのであれば、行政の監督責任も問われるべきである。
障害者雇用は、数字合わせのための制度ではない。
企業の免罪符でもない。
外部業者の収益源でもない。
人を雇うとは、その人の時間と尊厳に責任を持つことである。
その責任を果たせない企業が、障害者雇用を語るべきではない。
そして、そのような実態を見逃す制度であるなら、制度そのものを根本から見直すべきである。
資本と権威に偏ると、制度はこうなる。
企業は守られ、業者は儲かり、行政は処理したことにできる。
しかし、当事者は置き去りにされる。
障害者雇用制度が本当に人を守る制度であるなら、見るべきものは雇用率ではない。
契約書でもない。
企業の言い分でもない。
業者の説明でもない。
見るべきものは、実態である。
本人が本当に働けているのか。
孤立していないのか。
役割を持てているのか。
尊厳が守られているのか。
そこを見ない制度は、制度ではない。
ただの数字処理である。
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