翻訳で英語を経由するということ(ピボット翻訳についてのメモ)
以前、私は「立ち読み」を英独仏伊西の五言語ではどう表現するのか、という記事を書きました。
その際試したのが次のような方法です。
1. まず、日本語の「立ち読み」に対応する英語を調べる。
2. 英語ではbrowse が概ね対応していることを確認できた。その後、和仏・和伊・和西辞典でも探したが、説明的な和訳しか見つからず解説も無かった。
3. そこで、browse をもとに英独・英仏・英伊・英西と調べていく方法を採った。
今回はこの3番目の方法について考えてみます。
「立ち読み」と意味の近い外国語を探す作業はかなり手探りでした。その過程で感じたのは日本語→(英語以外の)他言語という直接翻訳には限界があるのではないか、ということです。
ただ後から調べてみると、この方法は単なる思いつきではなく、翻訳実務でも比較的自然に用いられている手法だと分かってきました。
ピボット言語という考え方
英語を中継して他の言語へ翻訳する、という方法を調べるなかで最初に見つけたのが、フランスのリール大学翻訳専攻コミュニティブログ MasterTSM@Lille に掲載されている記事 L'anglais comme langue pivot(「ピボット言語としての英語」)です。
この記事では、隣国ベルギーで翻訳会社のインターンシップに参加した経験をもとに、翻訳する言語の間に英語を挟む「ピボット翻訳」の課題について論じられています。
記事によれば、筆者はベルギーの翻訳会社で、オランダ語から英語へ訳された文章を受け取り、その英訳をフランス語へ翻訳する工程を担当していたようです。オランダ語→英語→フランス語という一連の工程を一人で行っていたわけではありませんが、この流れは「立ち読み」という言葉を訳す際に試した方法ともよく似ています。
ピボット翻訳のリスク
しかし、英語をピボット言語にする翻訳を無条件に肯定しているわけではありません。
例えば、次のような箇所があります。
« Cependant, l'utilisation d'une langue pivot comporte certains risques. En utilisant une langue pivot, certaines nuances peuvent être omises lors du passage d'une langue à une autre. Il est également possible de copier des erreurs provenant de la première traduction. Une erreur ou une ambiguïté dans la traduction pivot peut ainsi être transmise aux traductions suivantes. »
しかし、ピボット言語による翻訳にはいくつかのリスクも生じる。ピボット言語を使うと、ある言語から他の言語へ変換する際に、ニュアンスが失われる可能性がある。また、最初の翻訳に含まれていた誤りを、そのまま引き継いでしまうこともあり得る。その結果、ピボット翻訳の過程で生じた誤りや曖昧さが、次の翻訳にも伝わってしまう可能性がある。
一方で、「だからこうした翻訳は避けるべきだ」という結論にはなっていません。記事では、言語的に「遠い」組み合わせでは、直接翻訳するよりもピボット言語を使ったほうが精度が上がった例にも触れつつ、可能であれば原文にもアクセスできる状態が望ましい、と比較的穏当な形でまとめています。
«Dans la plupart des cas, les désavantages liés à l’utilisation d’une langue pivot pourraient en partie être évités grâce à l’accès au texte source, que le/la traducteur/trice comprenne la langue en question ou non. »
多くの場合、ピボット言語を使用することによるデメリットは、翻訳者がその言語を理解しているかどうかに関わらず、原文にアクセスすることによってある程度回避できる。
動画の字幕制作における英語
別の例も見てみます。
ネットフリックスの字幕制作において、英語がピボット言語として利用されていることを扱った論文がありました。原文が韓国語なので本文までは読めていないのですが、abstract を読む限り、『テラスハウス』『キングダム』を事例に、ピボット翻訳を行った際の課題について論じた研究のようです。ネットフリックスでは原語を英語のテンプレートに翻訳し、そこから多言語の字幕へ展開するという工程が実際に採用されていますが、『テラスハウス』と『キングダム』の字幕ではピボット翻訳特有の弊害が生じている、ということが指摘されています。
重訳のこと
こうしたことを考えていると、海外文学における「重訳(relay translation)」を思い出します。
たとえば、スタニスワフ・レムの『ソラリス』は、日本では長らくロシア語版で読まれていました。その後、沼野充義によるポーランド語原典からの完全翻訳版が刊行されています。
もちろん、重訳には批判もあります。原文から離れるほど、意味のズレが入り込む余地も増えるからです。ただ、重訳が存在しなければその作品自体が読者へ届かなかった、という面もあります。
文学作品における重訳とピボット翻訳は、似ているようで前提が少し異なるかもしれません。重訳では、多くの場合原文を直接参照しないまま既存の訳文を原文として扱いますが、ピボット翻訳は原文を参照することが理想とされています。ただ、翻訳の過程でニュアンスの損失や解釈のズレが起こりうる、という問題は両者に共通しています。
まとめのようなもの
今回触れた「ピボット言語」「ピボット翻訳」という考え方は、翻訳実務・字幕翻訳・機械翻訳研究など、それぞれ異なる文脈で使われているようで、私自身まだ十分に理解できていない部分があります。
実際の翻訳の現場で、どの程度までピボット翻訳が行われているのか。どのような場面で直接翻訳ではなくピボット言語が選ばれるのか。今回調べながら、そうした点も気になりました。
また、英語圏では辞書・参考文献・対訳資料が非常に充実しているため、日本語話者が英語以外の言語へ向かう場合とは事情がかなり異なるようにも思えます。
最後に、この件を調べる際に使用したキーワードをコピペ用に置いておきます。
pivot language
pivot translation
relay translation
中間言語
補足:とても分かりやすいけど、たぶん生成AIに丸投げして作られた記事
今回参照した記事のひとつに、翻訳会社によるピボット翻訳の解説記事があります。内容は分かりやすかったのですが、以下の点から生成AIで作成されている可能性が極めて高いと考えています。
・トップ画像に写っている手、指が不自然で生成AIによる生成画像と断定できる。
・本文中にマークダウン記法によるアスタリスクが残っている。
・生成AI翻訳の活用を自ら謳っている。
翻訳会社が顧客に売り込むときは、生成AIによる翻訳ではどうしても不完全なので、そこはプロにお任せください、と言うのかと思っていたら、この会社は「生成AIをガンガン使います!」という立場なんですね。記事では生成AI翻訳によるデメリットの方が強調されていて、で、コスト削減は良いとして翻訳会社がどこにバリューを生み出せるのか? と正直疑問に思いました。読者をどこに誘導したいのか、生成AIの部分がいかにも唐突でよく分かりません。少なくとも、AI出力見え見えのアスタリスクも修正しないような翻訳を渡されたら、さすがにがっかりしそうですが……。
更に、非常によく似た内容の記事が先に公開されているのも見つけました。いずれもオウンドメディアによる宣伝記事という点で共通していますが、特に文章の構成が酷似しています。
