グリット(GRIT)理論の成立過程
アンジェラ・リー・ダックワース氏は、アメリカの心理学者であり、ペンシルベニア大学の教授(Rosa Lee and Egbert Chang Professor)。氏は、成功を左右する鍵として注目される「やり抜く力(GRIT)」と「自己コントロール(セルフコントロール)」研究の第一人者として、世界的に知られてる。
以下に氏が教室での直観からウエストポイントでの実証をへてグリット理論(GRIT:やり抜く力)を成立させた過程を研究備忘録としてまとめる。
はじめに
アンジェラ・ダックワースのグリット(GRIT)理論は、しばしばウエストポイント陸軍士官学校における研究から「発見」されたものとして語られる。ダックワース自身のTEDトーク(2013年)や著書『Grit: The Power of Passion and Perseverance』(2016年)における叙述がその印象を強めている。しかし、研究の時系列を精査すれば、グリットという構成概念はウエストポイントにおいて帰納的に導出されたのではなく、それ以前の段階で形成された理論的仮説が、ウエストポイントという高インパクトなフィールドにおいて演繹的に検証されたものであることが明らかになる。本稿では、一次資料に基づき、グリット理論の成立過程を五つの段階に分けて再構成する。
第一段階:教室における問いの萌芽(1997年頃から2002年)
グリット理論の起源は、ダックワースがニューヨーク市の公立中学校で数学を教えた経験にある。TEDトークにおいて彼女は次のように述べている。「成績の良い生徒と悪い生徒の違いは、IQだけではなかったのです。最も優秀な成績を収めた生徒の中には、IQがそれほど高くない子もいました。逆に、とても頭の良い子が思うような結果を出せないこともありました」。
この観察は、教育現場における素朴な経験的疑問として出発した。比率、小数、平行四辺形の面積といった中学1年生の数学は、概念的に理解不可能なものではない。にもかかわらず、十分な時間と努力を投じることのできる生徒とそうでない生徒の間に、明確な学習成果の差異が生じていた。ダックワースはこの差異の源泉をIQに求めることに懐疑的であり、「素早く簡単に学ぶ能力」以外の何かが成功を規定しているのではないかという仮説を抱くに至った。
この段階で重要なのは、後にグリットと名づけられる構成概念の核心、すなわち「長期目標に対する情熱と粘り強さが、認知能力以上に成果を規定する」という命題が、学術的に操作化される以前に、教育実践の中で直観的に形成されていた点である。ダックワース自身も「数年間教壇に立った後、ある結論に達しました。教育において本当に必要なのは、モチベーションの観点から、心理学の観点から、生徒と学びについてもっと深く理解することではないか」と回顧している。この転換点が、教員から研究者へのキャリア移行を動機づけた。
第二段階:大学院進学と構成概念の操作化(2002年から2004年)
2002年、ダックワースは教職を離れ、ペンシルベニア大学の心理学博士課程に進学した。指導教員はポジティブ心理学運動の創始者であり1998年にアメリカ心理学会会長を務めたマーティン・セリグマンであった。
博士課程において、ダックワースは教室で抱いた直観を心理学的構成概念として精緻化する作業に着手した。2007年の画期的論文(Duckworth, Peterson, Matthews, & Kelly, 2007)のStudy 1として報告されているように、グリット尺度(Grit-O、12項目)はまずセリグマンが運営するauthentichappiness.orgウェブサイトを通じて募集された1,545名の一般成人を対象に開発された。この尺度は二つの下位因子から構成されていた。第一は「興味の一貫性(Consistency of Interest)」であり、長期的な目標に対する関心の持続性を測定する。第二は「努力の粘り強さ(Perseverance of Effort)」であり、困難や挫折に直面した際の忍耐力を捉えるものである。
この段階は理論形成史における決定的な局面である。なぜなら、グリットという構成概念の定義、操作化、および初期の心理測定学的妥当性検証が、ウエストポイントとの接点を持つ以前に完了していたからである。グリットの「発見の場」は、ウエストポイントでもスペリング・ビーでもなく、教員経験に根ざした理論的仮説を一般成人集団に対して体系的に測定可能にした、この操作化の段階にこそ存在する。
第三段階:ウエストポイントへのアクセス獲得(2003年から2004年)
博士課程2年目頃、ダックワースはセリグマンの個人的な紹介を通じてウエストポイントの上級幹部と面会する機会を得た。ダックワース自身の証言によれば、「おそらく博士課程2年目のとき、指導教員のマーティ・セリグマンの紹介で、ウエストポイントの将軍たちに引き合わせてもらいました。セリグマン自身もウエストポイントで研究を行っていました」とのことである。
この経路が学術的であり政府主導でなかった点は強調に値する。セリグマンはウエストポイントの行動科学・リーダーシップ学科に在籍する軍事心理学者マイケル・D・マシューズとの研究上の関係を既に有しており、その既存のネットワークがダックワースの研究参入を可能にした。2007年論文の資金源は全米科学財団(NSF)の大学院フェローシップとジョン・テンプルトン財団からの助成金であり、国防総省や陸軍からの資金は一切含まれていない。ウエストポイントの貢献は制度的アクセス、データ提供、および共著者としての参画という現物供与であった。
なお、セリグマンの広く知られる包括的兵士フィットネス(CSF)プログラム(2010年、陸軍から3,100万ドルの随意契約)は、ダックワースのグリット研究の後に始まったものであり、前ではない。グリット研究がセリグマンとウエストポイントの関係を強化し、後のCSF誕生を側面的に促進した可能性が高い。
ウエストポイントは、ダックワースの理論にとって理想的な検証の場であった。同校は毎年約14,000名の志願者から約1,200名を選抜し(合格率8から11%)、入学者の平均GPAは3.9、ほぼ全員が運動部経験者であった。全候補者スコア(Whole Candidate Score: WCS)という8,000点満点の精緻な総合評価指標が存在したが、この指標は入学後のビースト・バラックス(候補生基礎訓練、6から7週間の苛烈な初期訓練)における退学を予測できないという、半世紀にわたる未解決問題を抱えていた。1955年にジェローム・ケイガンが主題統覚検査を用いて最初の心理学的分析を試みて以来、いかなる既存の指標も、最も有望な候補生がなぜ訓練開始直後に退学するのかを確実に説明することができなかった。
第四段階:ウエストポイントにおける実証(2004年から2007年)
2004年6月、ダックワースは2008年卒業予定クラスの1,218名の新入候補生に対し、入校後2から3日の間にグリット尺度(Grit-O)を実施した。2006年6月には第二コホートとして2010年卒業予定クラスの1,308名にも同尺度を適用した。
2007年にJournal of Personality and Social Psychologyに発表された論文は、ウエストポイント候補生、アイビーリーグの大学生、全米スペリング・ビーのファイナリスト、および一般成人を対象とした6つの研究から構成された。ウエストポイントに関する知見は極めて鮮明であった。グリットはビースト・バラックスの完遂を予測する最も優れた単一の指標であり、SATスコア、高校成績順位、リーダーシップ経験、身体適性、そしてWCSの予測力をいずれも上回った。グリットのスコアはWCSのスコアと「全く無関係」であった。さらに、グリットはIQと正の関連を示さず、ペンシルベニア大学の学部生においてはグリットの高い学生のほうがSATスコアがやや低い傾向すら認められた。
TEDトークにおいてダックワースは、この段階を次のように凝縮して語っている。「これらの全く異なる環境において、成功を予測する重要な特性が一つ浮かび上がってきました。それは社会的知性ではありませんでした。容姿でも、身体的健康でもありませんでした。そしてIQでもなかったのです。それはグリットでした」。このナラティブ構造は、あたかも研究の過程で概念が「発見」されたかのような印象を聴衆に与えるが、実際には既に操作化されていた構成概念の予測妥当性が、複数のフィールドにおいて確認されたことの報告であった。
ウエストポイントという文脈が研究に与えた決定的な貢献は、二つの側面にある。第一に、WCSという精緻かつ多面的な既存の予測指標が存在したことにより、グリットがそれを超えた増分的予測妥当性を持つことを説得力をもって示すことが可能になった。第二に、ビースト・バラックスの完遂という明確かつ高リスクの二値的アウトカムが、グリットの実践的重要性を劇的に可視化した。ダックワースの理論にとってウエストポイントは、概念の生成源ではなく、その概念を学術的に権威づけ一般社会に浸透させるための、戦略的に卓越した実証の場であったと位置づけるべきである。
第五段階:理論の拡張、普及、および批判的検証(2007年以降)
2007年論文を起点として、グリット研究は急速に拡張された。2009年にはダックワースとクインが8項目の短縮版尺度(Grit-S)を発表し、心理測定学的効率を向上させた。2011年にはK・アンダース・エリクソンとの共同研究により、グリットの高いスペリング・ビー出場者が意図的練習により多くの時間を費やすこと、そして意図的練習がグリットとパフォーマンスの関係を媒介することが示された。2014年にはウエストポイントにおけるグリットの4年間の縦断的予測力が確認され、さらに陸軍特殊部隊の選抜、営業職の定着率、公立学校の卒業率、婚姻の安定性へと適用範囲が拡大された。
2013年のTEDトーク(再生回数900万回超)と2016年のベストセラー書籍は、グリットを学術心理学から一般文化へと浸透させた。KIPPチャータースクール・ネットワークを含む学校がグリットをカリキュラムに組み込み、通知表にグリットの評価を記載するに至った。しかし、この急速な普及は同時に、構成概念としての脆弱性を露呈させる体系的批判を招いた。
2017年、クレデ、タイナン、ハームズによるメタ分析「Much Ado About Grit(グリットをめぐる空騒ぎ)」は、88の独立標本(66,807名)を統合し、グリットとビッグファイブの誠実性(conscientiousness)との相関がρ=.84という極めて高い値を示すことを報告した。これは「ジャングル錯誤」、すなわち異なる名称を持つだけで二つの構成概念が異なると誤認する心理測定学上の問題を強く示唆するものであった。さらに、誠実性を統制した場合にグリットの追加的説明力が消失すること、二因子のうち「努力の粘り強さ」のみが予測の大部分を担い「興味の一貫性」の貢献が限定的であること、自己報告測定に伴う社会的望ましさバイアスと参照バイアスの問題、およびレンジ制限された標本による一般化可能性の制約が指摘された。
2019年、ダックワースら自身がPNASに発表した大規模分析(9年度、11,258名)は、これらの批判に対する応答でもあった。結果は初期の主張を精緻化するものであった。グリットは依然としてビースト・バラックス完遂の唯一の有意な予測因子であった(オッズ比=1.54)が、学業GPAの最強の予測因子は認知能力(β=0.41)であり、身体的パフォーマンスの最良の予測因子は身体能力であった。ダックワース自身、「グリットが成功の唯一の決定因子ではない」と認めている。
TEDトークにおいてダックワースが示した知的誠実性、すなわち「グリットの育て方について、私たちはほとんど何も知らない」「正直にお答えします。わかりません」という率直な告白は、後の批判的検証を先取りするものであった。この自己限定の姿勢は、グリット概念の学術的寿命を延ばす上で逆説的に貢献したとも評価しうる。
結語:理論形成の時系列が示す含意
以上の時系列を整理すれば、グリット理論の成立過程は次のように再構成される。
第一に、教室における経験的観察が「認知能力以外の何かが成功を規定する」という問いを生んだ(1997年頃から2002年)。第二に、大学院進学後、この直観が「長期目標に対する情熱と粘り強さ」という構成概念として操作化され、一般成人を対象とした尺度開発により測定可能となった(2002年から2004年)。第三に、セリグマンの学術ネットワークを通じてウエストポイントへのアクセスが獲得された(2003年から2004年)。第四に、ウエストポイントを含む複数の文脈において、既に操作化されていた構成概念の予測妥当性が実証された(2004年から2007年)。第五に、学術論文、TEDトーク、書籍を通じて理論が広く普及するとともに、メタ分析的な批判的検証にさらされ、理論の射程と限界が明確化された(2007年以降)。
この時系列が示す最も重要な含意は、ウエストポイントはグリット概念の発見の場ではなく実証の場であったという点にある。グリットが構成概念として誕生したのは、教員経験に根ざした問いを心理学的に操作化した第二段階においてであり、ウエストポイントはその概念に学術的権威と社会的可視性を付与した第四段階に位置する。この区別は、グリット理論の学術的評価において見落とされがちであるが、理論の起源と正当化の論理を正確に記述するためには不可欠な認識である。
ダックワースのTEDトークが「個人的な旅路→謎の発見→研究方法論→発見→検証→正直な告白→行動への呼びかけ」という七段階のナラティブ構造を採用し、あたかも研究過程の中でグリットが「浮かび上がってきた」かのように語った点は、学術的内容を一般聴衆に伝えるレトリック戦略としては秀逸であったが、理論形成の実際の経路を正確に反映するものではなかった。このナラティブとリアリティの乖離を認識した上でグリット研究を参照することが、学術的引用の精度を高める上で肝要であると考えられる。
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