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アリー・ハーメネイー師の生涯

本稿は、政治的意図は無く、中東の代表的メディアであるアル・ジャジーラがの英語メディア原稿を、日本の大学で学ぶ学生に向けた教材目的として日本語に翻訳したものである。上記YouTube視聴の一助として活用頂きたい。

聖職者の家系に生まれたアリー・ハーメネイーは、コムの宗教神学校において、後にイラン革命を指導するルーホッラー・ホメイニー師をはじめ、当代最高峰のシーア派学者たちのもとで研鑽を積んだ。ホメイニー師の革命思想に感化されたハーメネイーは、1963年以降、反王制抗議運動に積極的に参加した。

1979年にパフラヴィー朝が崩壊すると、彼はイラン・イスラーム共和国の建設における中心的指導者の一人となった。1980年にイラン・イラク戦争が勃発した時、新生イスラーム共和国は国内外において深刻な不安定状態にあった。1981年、ホメイニー師の熱烈な支持者として知られ、雄弁な演説家でもあったハーメネイーは大統領選挙に勝利した。その後8年間にわたる対イラク戦争を通じて、彼は幾度も前線を訪問し、革命防衛隊の強固な信頼を獲得した。

ホメイニー師が1989年に逝去した時、イランは国際的孤立と経済的疲弊の中に置かれていた。イスラーム共和国建国の父の一人であるアクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニーは、専門家会議に対しハメネイーを最高指導者に任命するよう強く働きかけた。

「私はラフサンジャーニー氏に、受け入れるつもりはないと告げた。私はこの職に値する人間ではないと自覚している。おそらく、あなたも私もそのことを承知しているはずだ。これは象徴的指導者の地位に過ぎず、真の指導者とはなり得ない。」

しかしながら、その後のハーメネイー師の指導者としての歩みは、決して象徴的なものにとどまらなかった。

1990年代初頭、ハーメネイー師はイラン経済の再建に注力した。1991年のアメリカ軍によるイラク介入がイランの宿敵サッダーム・フセイン政権を大幅に弱体化させると、イランは地域大国としての役割を回復すべく積極的な外交を展開し始めた。さらに2003年、米国がイラクに再び軍事侵攻してフセイン政権を打倒すると、イランはイラク国内における親イラン勢力の組織化という戦略的好機を得た。

2010年にアラブの春が勃発すると、イランはシリアのバッシャール・アル=アサド大統領による反体制派への軍事的弾圧を支援し、シリア、イラク、レバノン、イエメンへとその影響力を拡大した。イランはこれらの勢力をまとめて「抵抗の枢軸」と称している。

国内政治においては、ハーメネイー師は一貫して保守派の大統領を支持してきた。しかしながら、権力構造をめぐる対立から、歴代大統領との間に摩擦が生じることも少なくなかった。ハーメネイー師の指導体制が最も深刻な試練に直面したのは、2009年の大統領選挙においてであった。選挙結果の不正を主張する多くの市民が数ヶ月にわたって街頭に繰り出し、深刻な社会政治的緊張が生じた。さらに西側諸国による制裁措置が経済を直撃し、国民の困窮は一層深刻化した。

バラク・オバマ政権の誕生は、米イラン関係改善への期待を高めた。2015年、ハーメネイー師はハサン・ローハーニー大統領に対し、アメリカを筆頭とする世界の主要国との核合意に署名する権限を付与した。この合意の下、イランはウラン濃縮活動の制限を受け入れる代わりに、西側諸国による経済制裁の解除を取り付けた。しかし2018年、トランプ大統領政権下においてアメリカは合意からの一方的離脱を表明した。これを受けてハーメネイー師は、弾道ミサイル開発および核プログラムの加速を当局に指示した。

2020年、アメリカはハーメネイー師の有力な側近であり、イラン革命防衛隊クッズ部隊の司令官であったガーセム・ソレイマーニーを暗殺した。この事件は米イラン関係を一層悪化させた。経済危機が深刻化するなかで国民の不満は高まり続け、2022年にはスカーフ着用義務の違反を理由に拘束されたマフサー・アミーニーが警察の身柄拘束中に死亡した事件を契機として、全国規模の抗議運動が噴出した。これはハーメネイー師が直面した最も深刻な国内危機のひとつとなった。

2023年10月7日のハマースによる攻撃の後、イスラエルはイラン当局者を標的とし、2024年4月にはダマスカスのイラン大使館を攻撃した。イランはこれに対し、数百機のドローンをイスラエル領内に発射することで報復した。その後の数ヶ月間において、イスラエルはハーマースの政治部門最高責任者イスマーイール・ハニーヤをテヘランで暗殺し、さらにヒズブッラーの書記長であり、イランにとって最重要の地域同盟者であったハサン・ナスルッラーを殺害した。イランは約200発の弾道ミサイルをイスラエルに向けて発射することで応戦した。12日間の戦闘の後、停戦が成立した。ハーメネイー師はイスラエルに対抗するための地域的連帯を呼びかけた。

「敵が採用している政策は、分裂と不和の種を播き、すべてのムスリムの間に楔を打ち込むことにある。彼らはパレスチナ人の敵であり、レバノン人の敵であり、エジプト人、イエメン人、シリア人、そしてイラク人すべての敵なのだ。」

2025年12月、イランで再び抗議運動が勃発し、緊張はさらに高まった。当初は通貨価値の急落に対する経済的不満から始まったデモは、やがて政権全体に対する批判へと発展し、全国的な広がりを見せた。トランプ大統領は、イランが数百人の抗議者を処刑するならば軍事行動も辞さないと警告を発した。アメリカは地域への急速かつ大規模な軍事力増強を開始し、ハーメネイー師はいかなる軍事的衝突も「イランの国境内に封じ込めることはできない」と強く警告した。

「攻撃を企てるいかなる者に対しても、イラン国民は強烈な打撃を与えるであろう。」 「アメリカ人はこのことを知るべきだ。今回彼らが戦争を始めれば、それは地域全体を巻き込む戦争となる。」

事態の沈静化に向けた外交的努力が数週間にわたって展開され、オマーンの仲介のもとで米国とイランの間に三度にわたる間接交渉が行われた。ハーメネイー師の承認を得た形でイランは和平案を提示したが、さらなる交渉の前夜、イスラエルとアメリカはイランへの攻撃に踏み切った。

アーヤトッラー・ハーメネイー師の死により、イランは今まさに歴史的岐路に立たされている。数十年にわたって激動の時代を国家と共に歩んできた指導者を失ったイランは、未知なる未来へと踏み出さなければならない。



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