「過飽和社会2 燃やされた御殿」(5)これは現代におけるピカレスクロマンであり、ハードボイルド小説である。
第5話 観察の輪郭
スマホは、まだ起動音を立てたまま、俺の手元にある。
電源も切らず、SIMも抜かず、ただ慎重に扱っている。
指紋を残さないよう、ラテックス手袋を使い、内部を静かに覗き込んだ。
動画アプリには、ロックもパスコードもなかった。
撮影されたファイルは全部で7本。
そのうち3本が、“あの夜”の記録だった。
遠くで笑い声。
次の瞬間、火が走り、シートがめくれ、赤く燃え上がる。
風の音。
何かが焦げる音。
罵声。そして逃げていく足音。
ただ声と姿があるだけだ。
その方が、現実に近かった。
その方が、記録としては強かった。
俺は、それらの映像をコピーし、編集用の外部SDカードに保存した。
元データには一切手を加えない。
削除も加工もしない。
映像は、あくまで“このスマホに宿ったまま”にしておく。
◆
数日後。
俺は、小さな茶封筒に、SDカードを入れた。
そして、近所の郵便ポストに向かう。
差出人はなし。
便箋にはこうだけ書いた。
「このカードには、ある事件の映像が含まれています。
事件性の判断は、受け取った方に委ねます。」
封筒の紙質は安いクラフト紙。
コンビニで購入した新品を使用し、手袋越しに封をした。
文字は全て、コピー機で印字。
筆跡も、指紋も、DNAも、香りさえも残さない。
送付先は、都内某署の代表住所。
宛名にはただ「刑事課御中」。
投函は、深夜2時。
防犯カメラのない、古い郵便ポスト。
駅から少し離れた住宅街の外れにある、目立たない場所だ。
それでよかった。
俺は“届けた”ことになる。
だが、スマホ本体は渡していない。
語るべき記録は、まだこの手の中にある。
◆
俺は、加害者たちの動きを観察しはじめた。
日比野は、いつも自転車で住宅地を抜けていく。
制服のままピザ屋のデリバリー。
ヘルメットは後頭部にひっかけたままだった。
宮下は、駅ビルのドラッグストアでバイトしていた。
名札には「Miyashita」のアルファベット表記。
レジでは無表情だが、休憩時間になるとスマホで動画を漁っている。
佐伯は、カラオケのあるビルの裏口で、よく煙草を吸っていた。
未成年なのに、誰も注意しない。
吐き出された煙が、真冬の空気を曇らせる。
俺はそれらを撮った。
スマホのカメラではない。
ズーム付きの小型デジカメを使い、音は別録りした。
距離を取り、絶対に気づかれないように。
写真も動画も、日時と位置情報を記録してある。
でも、それを公にする気はなかった。
誰も裁かないのなら、記録する。
ただ、それだけだった。
◆
夜、帰り道の地下通路。
若いカップルがすれ違いざまにこちらを見て、笑った気がした。
俺の勘違いかもしれない。
でも、笑われる理由をひとつ思い出した。
牛丼屋で、生姜を山盛りにしていたからだ。
どんぶりが見えなくなるほど、紅い丘をつくった。
その上に、唐辛子を容赦なく振りかけた。
湯気の向こう、怒りが湧いてくる。
もう、何に怒ってるのかさえ分からない。
牛肉が硬いのか、紅生姜が辛すぎたのか。
それとも、誰も知らないまま笑っていられるこの街にか。
その夜は、何も撮らなかった。
撮る気になれなかった。
ただ、口の中だけが、熱かった。
