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「過飽和社会2 燃やされた御殿」(5)これは現代におけるピカレスクロマンであり、ハードボイルド小説である。

第5話 観察の輪郭

スマホは、まだ起動音を立てたまま、俺の手元にある。
電源も切らず、SIMも抜かず、ただ慎重に扱っている。
指紋を残さないよう、ラテックス手袋を使い、内部を静かに覗き込んだ。

動画アプリには、ロックもパスコードもなかった。
撮影されたファイルは全部で7本。
そのうち3本が、“あの夜”の記録だった。

遠くで笑い声。
次の瞬間、火が走り、シートがめくれ、赤く燃え上がる。
風の音。
何かが焦げる音。
罵声。そして逃げていく足音。

ただ声と姿があるだけだ。
その方が、現実に近かった。
その方が、記録としては強かった。

俺は、それらの映像をコピーし、編集用の外部SDカードに保存した。

元データには一切手を加えない。
削除も加工もしない。
映像は、あくまで“このスマホに宿ったまま”にしておく。

数日後。
俺は、小さな茶封筒に、SDカードを入れた。
そして、近所の郵便ポストに向かう。

差出人はなし。
便箋にはこうだけ書いた。

「このカードには、ある事件の映像が含まれています。
事件性の判断は、受け取った方に委ねます。」

封筒の紙質は安いクラフト紙。
コンビニで購入した新品を使用し、手袋越しに封をした。
文字は全て、コピー機で印字。
筆跡も、指紋も、DNAも、香りさえも残さない。

送付先は、都内某署の代表住所。
宛名にはただ「刑事課御中」。

投函は、深夜2時。
防犯カメラのない、古い郵便ポスト。
駅から少し離れた住宅街の外れにある、目立たない場所だ。

それでよかった。
俺は“届けた”ことになる。
だが、スマホ本体は渡していない。
語るべき記録は、まだこの手の中にある。

俺は、加害者たちの動きを観察しはじめた。

日比野は、いつも自転車で住宅地を抜けていく。
制服のままピザ屋のデリバリー。
ヘルメットは後頭部にひっかけたままだった。

宮下は、駅ビルのドラッグストアでバイトしていた。
名札には「Miyashita」のアルファベット表記。
レジでは無表情だが、休憩時間になるとスマホで動画を漁っている。

佐伯は、カラオケのあるビルの裏口で、よく煙草を吸っていた。
未成年なのに、誰も注意しない。
吐き出された煙が、真冬の空気を曇らせる。

俺はそれらを撮った。
スマホのカメラではない。
ズーム付きの小型デジカメを使い、音は別録りした。
距離を取り、絶対に気づかれないように。

写真も動画も、日時と位置情報を記録してある。
でも、それを公にする気はなかった。

誰も裁かないのなら、記録する。
ただ、それだけだった。

夜、帰り道の地下通路。
若いカップルがすれ違いざまにこちらを見て、笑った気がした。
俺の勘違いかもしれない。
でも、笑われる理由をひとつ思い出した。

牛丼屋で、生姜を山盛りにしていたからだ。
どんぶりが見えなくなるほど、紅い丘をつくった。
その上に、唐辛子を容赦なく振りかけた。

湯気の向こう、怒りが湧いてくる。
もう、何に怒ってるのかさえ分からない。
牛肉が硬いのか、紅生姜が辛すぎたのか。
それとも、誰も知らないまま笑っていられるこの街にか。

その夜は、何も撮らなかった。
撮る気になれなかった。

ただ、口の中だけが、熱かった。

➡第6話 透明な街