第25講 功利主義と進化論:政治経済学、社会学、心理学:19世紀
25.01. 生物の統一:18C後半
25.02. 環境による改善:1789-1812
25.03. 社会実験:1813-30
25.04. 進化論仮説:1830-40
25.05. 民間活力か国家主導か:1840-48
25.06. 経済政策:19C半ば
25.07. 心理学と社会学における進化論
25.08. 社会における唯名論と実在論:19C後半
25.09. 機能主義とプラグマティズム:19C末
「18世紀には、哲学から生まれた物理学や化学がすごい進歩を遂げ、さらには産業革命に火をつけましたね」
その大発展の理由は、これらが主観的な思弁より、客観的な実験と数学に基づいていたことでしょう。
「一方、主流の哲学は、あいかわらず奇妙な思想と独断の指針ばかり。結局、それって役に立たないし、研究しても意味がない」
おいおい、十九世紀の人々も、客観的で実践的な哲学を模索していましたよ。彼らは、自然誌の観察から始め、進化論に気づきました。それを応用して、かれらは、経済政治学や社会学、心理学のような人間科学を発展させました。
25.01. 生物の統一:18世紀後半
博物学は、当初、皇帝ルドルフ二世(1552-76=1612)や、アイルランドの准男爵スローン(1660-1753)のような、裕福な好事家たちの雑多なコレクションにすぎませんでした。しかし、大航海と植民化の時代とともに、スウェーデンの騎爵リンネ(1707-78)やフランスの伯爵ビュフォン(1707-88)は、植物と動物の学術的な体系化に取り組みました。
「啓蒙思想家ビュフォンの国立博物館は、革命の秘密本部だったと聞いたよ」
同時期に、自然科学の好事家だったウィーン市の医師メスマー(1734-1815)は、世界がエーテルのようなもので満たされており、それが磁気物質だ、と考えました。さらに彼は、人体にも磁気物質があり、そのバランスの崩れが精神疾患を引き起こす、と想像しました。そこで彼は、患者が手を繋いで輪になる集団療法「バンケット(宴会)」を試み、大きな成功を収めました。彼は、患者たちが「動物磁気」によって一体化する、と考えたのです。彼は、裕福になると、教会や貴族に反乱を起こしたモーツァルト(1756-91)を支援しました。
「彼の仮説はうさんくさいけど、集団療法ってちゃんと効いたんから、それでそれでよかったんじゃないかな」
一方、イギリスの二度の革命の後、ロック(1632-1704)やヒューム(1711-76)、アダム・スミス(1723-90)は、理想的な市民社会の道徳を形成する方法を模索しました。かれらは、人間はみずから徳を追求するだろう、と素朴に考えていました。しかし、ロンドン市の富豪ベンサム(1748-1832)は、すべての人間は本質的に利己的だ、と思いました。彼はアメリカ独立革命の時代(1775-83)に生き、弁護士資格は取得したものの、開業はしませんでした。というのも、複雑で奇妙な英国慣習法の下では、みんな好き勝手に都合よく過去の判例を引用し、解釈していたからです。
「彼はホッブズ(1588-1679)の後継者で、ショーペンハウアー(1788-1860)やキルケゴール(1813-55)の先駆者だな。デカルトは、人間を理性的だと思ったけれど、彼らは、野獣のようなものだと考えた」
しかし、彼は、ペシミストでもニヒリストでもありませんでした。むしろ、人間が利己的だという事実に基づき、法を改革すべきだ、と考えました。人々は各自の幸福を追求するために行動する。しかし、幸福は、ただ一時的な快楽ではなく、積算されたものである。快楽は、強度、持続、確実性、近接性、豊穣性、純粋性、そして他の要素との関連性という七つの次元から測られるべきだ、と彼は考えました。幸福は、これらの結果の快楽計算で推定されます。
「ヒュームの衝動的な人間とは異なり、私たちは驚くほど計算高いようだ」
ベンサムは、同じ快楽計算を、さらに政治にも適用しました。彼は「最大多数の最大幸福」を目指す政策を採用すべきだ、と主張しました。しかし、個人は幸福に対する利己的な利益のみに基づいて行動する。したがって、政治は快楽と苦痛を報酬と罰によって調整し、これを実定法として国民に周知させるべきだ。彼は(41)この考えを1789年に『道徳及び立法の原理』で公表しました。
「これは古代中国の法家による実定法改革に似ている。でも、頑迷な英国人が、こんな大胆な改革を受け入れるはずがない」
たしかに彼は、ほとんど無視されました。ところが、まさにその年、フランス革命が起こります。彼は、穏健な立憲君主制を提唱していたミラボー(1749-91)と文通しており、新フランス政府の顧問として名誉市民の称号を授与されました。しかし、ミラボーは1791年に病死し、革命はロベスピエール(1758-94)によるジャコバン派の恐怖政治(1793-94)へと転落。ロベスピエールは刑罰のみで民衆を支配し、ベンサムのアイディアは実現されませんでした。
「ジャコバン派、ナポレオン、そして復古的ウィーン体制は、自分たちをも拘束する実定法を望まなかっただろうな」
25.02. 環境による改善:1789-1812
1784年、ウィーン精神病院「狂気の塔」が建設されました。ガル(1758-1828)は、医師ながら、狂気じみた解剖マニアでした。彼は、人間の能力は脳の各部位の大きさに比例し、頭の形を測ることで性格、精神状態、さらには犯罪性まで診断できる、と素朴に信じていました。こうして彼は俗悪な骨相学を創始し、自宅で講義を行い、多くの聴衆を集めました。しかし、オーストリア政府は、彼を無神論的唯物論者として追放しました。
「こんな安直な理論が心理学の始まりと言えるだろうか?」
フランスの貴族、サン=シモン(1760-1825)は、米国独立戦争(1779-83)に志願して参戦しました。彼はフランス革命を支持しましたが、貴族だというだけで、ジャコバン派の恐怖政治(1793-94)で投獄されました。その後、アダム・スミスの『国富論』(1776)の影響を受け、新設されたエコール・ポリテクニーク(1794-)に、産業社会の到来を感じていました。彼は、アダム・スミスと同様、政府統制を否定しましたが、無政府主義者(アナーキストー)でもなく、むしろ、社会を支配していた寄生的な貴族や政治家に代わって、実業家や技術者が社会を担うべきだ、と主張しました。
「ナポレオンは、対外戦争に巻き込まれながらも、武器や食料、金融といった新たな産業の創出に積極的に取り組んだよね」
マンチェスターのオーウェン(1771-1858)は、庶民の出ながら、ミュール紡績機(1779)を導入し、さらに蒸気機関も使って、500人の労働者とともに、もっとも成功した経営者となりました。彼は、だれよりも懸命に長時間、働きましたが、教育を受けていない子どもたちでさえ一日16時間もの労働を強いられ、つぎつぎと病に倒れていく現実に心を痛めていました。1794年、彼は、マンチェスター保健委員会委員として、他の工場の経営者たちに、工場の衛生状態の改善、労働時間の制限、そして児童労働者への教育こそが生産性向上にもつながる、と説得しました。
「オーウェンは民間企業を通して社会を改善する第三の道を模索したのか。しかし、若い雇われ経営者の言うことなんか、だれも聞く耳を持たなかっただろうな」
1798年、オーウェン(27)は独立し、天才発明家アークライト(1732-1792)が1786年に建設した、ニューラナークにある2000人の労働者を抱える水力紡績工場の経営に携わり、合理的かつ人道的な「経営」による工場の改善に着手しました。彼は、人間は環境によって形作られ、自力ではどうすることもできない、と考え、教育をとても重視し、児童労働者のための世界初の幼児学校を設立しました。彼はまた、工場内に売店を設け、労働者たちに生活必需品を無償で提供しました。
「彼は、工場に綿花を供給していた黒人奴隷や、抑圧されたインド人についてどう考えていたのだろう?」
ケンブリッジ大学研究員、マルサス(1766-1834)は、『人口論』(1798)を出版しました。彼は、この著作の中で、人口は幾何級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しないため、貧困が生じる、と論じました。それゆえ、彼は、経済政策による貧困層の出生抑制を提唱した。彼は、官僚を養成するためにロンドン郊外に新設された東インド会社大学の教授に任命されました。
「当時、経済政策においては、自由主義と政府統制の間で対立していた」
騎爵ラマルク(1744-1829)は、ビュフォンの国立博物館を引き継ぎ、革命の混乱の中で博物館を発展させました。しかし、博物館のキュヴィエ教授(1769-1832)は化石に困惑していました。彼は異なる種における相同器官を体系化するために比較解剖学を創始しました。ラマルク教授もまた、リンネの分類体系の欠落部分、例えば無脊椎動物などを研究し、生物学という分野を確立しました。こうして彼は生物の継続的な進化を信じ、その進化は環境への適応、複雑性の増大、器官の有用性の選択、そして獲得形質の遺伝によるものだと仮説を立てました。
「これは、神が摂理によってあらゆる種を一気に創造した、という伝統的な考え方と衝突する。進化論は、革命の時代になって初めて出てこられた」
25.03. 社会実験:1813-30
ナポレオン敗北の後、ヨーロッパはウィーン復古体制へと回帰しました。ニューラナークのオーウェン(34)は順調な利益を上げ、十分な配当金を支払っていたにもかかわらず、貪欲な株主たちは労働者の福利厚生を削減し、配当金を増やそおうと、彼の工場を競売にかけました。オーウェンの窮状を知ったベンサム(65)をはじめとする篤志家たちは、彼を支援するために奔走し、新たな取締役会を組織して工場を救いました。多くの人々が彼の工場を訪れ、産業経営と都市計画の理想的なモデルとして評価しました。
「そういうところが、大陸のウィーン復古時代なんだろうな」
サン=シモン(54)は1816年に啓蒙雑誌『産業のための雑誌』を創刊しましたが、信仰も友愛もない連中が利害衝突に明け暮れる、厳しい時代でした。サン=シモンは、友愛に基づく新たな合理的キリスト教を夢見たものの、時代が不合理で、顧みられることなく貧困に陥り、ついには自殺を余儀なくされました。
「それは、ユゴーが『レ・ミゼラブル』(1862)で描いた時代であり、ショーペンハウアーが人々の利己的な意志の葛藤を批判した時代でもあった」
サン=シモンの秘書だった若きコント(23, 1798-1857)は、1822年に『社会再編の展望』を出版し、秩序と進歩の両方を達成するためには、上からの改革が必要である、と強調しました。しかし、師のサン=シモンと同様、彼もまた顧みられることなく、私講師の職さえ得られませんでした。やむなく自宅で講義を開くと、プロシアの博物学者、アレクサンダー・フォン=フンボルト(1769-1859、ヴィルヘルムの弟)をはじめとする多くの学者が彼の講義への出席を希望しました。しかし、貧困と結婚が彼を精神的に追い詰め、彼の科学体系はなかなか形になりませんでした。
「彼も時代を先取りしすぎた天才だった」
1813年、米国は先住民を攻撃し、インディアナ州を略奪しました。ドイツ系ルター派の人々は、その西端に「ハーモニー」という村を建設しました。しかし、800人の移民はみな、生活に苦しみ、貧困に陥っていたため、1824年に村の設立者たちは、オーウェン(53)に村を売却しました。オーウェンは、人々がたがいに助け合う理想的な共同体を築くことを夢見て、多くの支持者を集めました。しかし、移住者たちは口先ばかりで、村で働く者は、だれもいませんでした。オーウェンはニューラナークの工場を売り払い、村に全力を注ぎました、わずか数年で村は荒廃してしまいました。
「その村には、サン=シモンが重視した産業の原動力が欠けていた」
25.04. 進化論仮説:1830-40
ガルの骨相学はフランスでも禁書となったものの、彼の助手シュプルツハイム(1776-1832)が英国に広めました。シュプルツハイムは、実際に人間の脳を解剖するパフォーマンス形式の講義を行い、人気を博しました。シュプルツハイムに感銘を受けたスコットランドの弁護士コム(1788-1858)は、1828年に『人間の構成』を著します。この著作によれば、自然法則は動物の憲法であり、自然と調和することで動物は幸福になる。人間、とくに白人は、あらゆる動物の中でもっとも優れており、その知性と道徳を発達させることで、人間はより幸福になれる、と骨相学は教えてくれる。この本は、とくに自然の中で暮らす米国人の間で大ヒットしました。コムは、エディンバラ大学の論理学教授に就任し、公教育の確立にも尽力しました。
「素人哲学者コムにおいては、ヒュームやアダム・スミスの道徳主義が功利主義や骨相学、進化論と融合していた」
コントは、歴史を振り返りながら、進化の三段階法則、すなわち想像神学、論理哲学、実証科学を区分し、これらは軍事社会、法治社会、産業社会に対応する、としました。こうして彼は科学を、数学、天文学、物理学、化学、生物学、そして新たな社会学という順序で体系化しました。「予見すべく観察し、予防すべく予見する」と彼は言いました。株屋の王、ルイ・フィリップが煽った好景気のさなかにもかかわらず、彼は1830年から1842年までの12年間をかけて『実証哲学講義』において、この思想を著述し、その間、彼は補習教師などを務めながら、かろうじて生計を立てていました。
「これってヘーゲル哲学の亜流? なんにしても、彼は社会を研究した最初だった」
南米はスペインの植民地でしたが、19世紀に入ると、次々と独立国が誕生しました。英国はこれらの国々を支援しましたが、結果的に、これらは大英帝国の事実上の植民地となってしまいました。英国は1820年に測量帆船ビーグル号を造り、この地域の探検に送り出し出しました(1826-30)。二度目の航海では、ビーグル号は1831年から36年にかけて世界一周を達成しました。このとき、若きダーウィン(22, 1809-82)も、若き船長(26歳)の友人として乗船しており、船の航行に従って動植物が絶え間なく変化していくことから、彼は種の連続性についての洞察を得ました。
「でも、彼が進化論を発表するのって、ずっと後のことですよね?」
ええ、彼は、帰国後、資料や収集物の整理に追われていました。さらに悪いことに、病に倒れてしまったのです。そして1838年以降、ダーウィンは他の研究者たちとともに、航海日誌、動物学、ビーグル号の調査結果に基づく地質学など、数々の著作を出版しました。これらの著作の中には、化石に関する記述も含まれていました。これらによって彼は高く評価されたものの、ラマルクの進化論を実証するには知識がまだ不十分だ、と感じ、彼は精力的に研究を続けました。
「その仮説は、実証するにはあまりにも大きすぎた」
25.05. 民間活力か国家主導か:1840-48
ラフォンテーヌ(1803-92)はフランスの役者でしたが、オカルトへの関心からメスマーの動物磁気術の演者となり、大きな成功を収めました。彼はヨーロッパ各地を巡業し、1741年には、その術でロンドン動物園のライオンを手懐けてしまいました。ラフォンテーヌの演技を見たスコットランドの外科医ブレイド(1795-1860)は、それは磁気ではないが、偽物でもない、と考えました。ラフォンテーヌもブレイドの科学的研究を歓迎しました。最終的にブレイドは、意識の集中を誘導することでラフォンテーヌの術を再現することに成功し、それを「催眠術」と名づけました。
「おもしろいけど、反発も大きいだろうな」
学者の息子、ミル(1806-73)は、ベンサム家やサン=シモンと繋がりがあったものの、東インド会社で植民地行政官として働き、経済政策、文学、哲学に関する論文をいくつか発表したにすぎませんでした。しかし、ミルは、じつは過労による精神疾患を患っていました。彼の東インド会社は、インド諸民族の支配と中国からの輸入品不足に苦しんでいたからです。そのため、会社は、インド産アヘンを中国に輸出し、1840年のアヘン戦争を引き起こしました。英国は中国には勝ちましたが、インドで反乱がつぎつぎと起こりました。
「ミルは、きっと東インド会社大学でマルサスからトップダウン型の経済政策の必要性を学んだんだろう。でも、排他的な特許会社制度はとっくに時代遅れだ」
ブルゴーニュの貧しい樽職人の息子、プルードン(1809-65)は、教育を受けていませんでしたが、印刷所で働きながら独学で知識を身につけました。彼は、書籍校正を通して一流の知識人たちの信頼を得て、1840年に『財産とは何か?』を出版し、財産は強奪である、として、ブルジョワジーに宣戦布告しました。そして、無政府相互主義として人民銀行をつかった穏健な社会経済的改善を提唱しました。
「プルードンはアナーキスト(無政府主義者)だったけど、暴力的革命家バクーニンとはまったく違った」
ミルは文通でコントと親交し、1843年に『論理体系』を著しました。この中で、彼はコントの演繹法を逆転させ、一致、差異、間接差異、残余、付随変数という五つの実践的帰納法を提案しました。そして、彼は、これらの方法を用いて、社会を科学的に研究し、道徳を向上させることをめざしました。
「彼はインド統治に熱心だったものの、徒労だったんだろうな」
サン=シモンの影響を受けた野心家のナポレオン三世(1808-52=70-73)は、獄中で1844年に『貧困の根絶』というチラシを書きました。その中で彼は、教育と規律を備えた新たな集団居住地を建設することで貧困層を救済する、と宣言し、「彼らを所有者にせよ!」と訴えました。そして、1846年、死に瀕した父に会おうと、変装して大胆な脱獄劇を演じました。新聞はこの事件を大きく小説風に報じ、彼の人気は急上昇しました。
「彼はうさんくさいが、悪人でもなかったようだ」
25.06. 経済政策:19世紀半ば
東インド会社のミル(42)は、1848年に『経済学原理』をまとめました。彼は生産を論理的に分析し、それは自然と労働から始まる、としました。しかし、自然と労働の貢献度、そして誰かが発明または投資した器具や資本でも、さらに国際貿易の場合に、成果の分配という問題が生じます。ミルは、リカード(1772-1823)と同様に、これらの問題は需要と供給の原理によって解決される、としました。しかし、均衡に達するまでは、社会経済は不安定な状態になります。ミルは、政府はその間の一時的な再分配の役割を担うべきだ、と考えましたが、また、市場の自由を阻害してはならない、とも主張しました。
「これに比べると、マルクスの『共産党宣言』なんかポエムだ。とはいえ、ミルはあいかわらず経済への政治的介入を擁護した」
ジャガイモは庶民の主食でしたが、カビに侵されて腐敗し、飢饉を引き起こし、貿易制限がさらに事態を悪化させました。1848年、フランスで二月革命が起こり、それはヨーロッパ全土に波及しました。英国では、『エコノミスト』誌の編集者、スペンサー(1820-1903)も、東インド会社のような国家政策抜きの自由貿易を主張し、1851年に『社会静学』を出版しました。ここにおいて、彼はラマルクの進化論を引用して、自由競争による自然淘汰を提唱しました。
「スペンサーは、学者というより通俗的なもの書きだった」
フランスでは、1852年にナポレオン三世がクーデターで皇帝に即位しました。彼はプルードンに協力を求めましたが、プルードンはこれを拒否しました。ナポレオン三世は、道路や鉄道などの公共事業を拡大しました。このトップダウン型の改革は、フランスの産業革命を加速させ、さらに彼は、以前に約束していたとおり、すべての人が所有者となる新たな集団居住地の建設を推進しました。もっとも、これは国内ではなく、アフリカ(アルジェリア)、アジア(ベトナム)、ラテンアメリカ(メキシコ)といった侵略植民地において行われました。こうして彼は、ブルジョワジーと庶民の両方を富ませました。
「彼の経済政策は、とりあえず大成功だな」
フランスがトップダウンを採ったのに対し、英国は自由主義へと転換しました。1858年、英国は東インド会社を解体し、インドを帝国に併合しました。くわえて、大陸で起きた二月革命を受けて、労働者と農民への選挙権拡大を検討する必要が生じました。ロンドンに戻り、政府の会計検査院長となったミル(52)は、ベンサムの「最大多数の最大幸福」の原理が、民主化を通じて多数派による専制政治というポピュリズムにつながるのではないか、と懸念し、 1859年の『自由論』で少数派の自由を擁護しました。ところが、卑しい欲望さえ容認する倫理的アナーキズム(無原理主義)として批判されました。そこで、彼は、1861年の『功利主義』では、公衆の承認可能性によって測られる快楽の質を導入しました。
「ベンサムのように幸福を量的に計算するのって、もともと不可能だったんだよ」
多くの博物学者がすでにラマルクの進化論に注目していましたが、ダーウィン(50)は、自然淘汰を自由主義的アナーキズムの自然根拠とするスペンサーのような通説に警戒しました。だから、形質の遺伝をまだ証明できていなかったにもかかわらず、彼は1859年に『種の起源』を出版しました。彼はマルサスの人口論からヒントを得て、環境的制約の下で競争が生じ、もっとも適した個体だけが生き残る、と考えました。当時の反応は、慎重なものでした。というのも、ダーウィンは気づいてなかったのかもしれませんが、それは、その仮説が神学に関連していただけでなく、当時の貧困、植民地化、人種差別といった重大な問題と直接結びついていたからでもあります。
「そう、彼の理論は、優生学、侵略、人種差別、さらには民族絶滅の科学的正当化になる危険性があった」
25.07. 心理学と社会学における進化論
1848年三月革命のドイツにおける失敗は、神の摂理と人間の意志を否定し、アナーキズム(無原理主義)を「科学的真理」として喧伝する通俗唯物論科学の台頭を招きました。俗物作家のスペンサー(35)は、実証研究をまったく行わずに、1855年、『心理学原理』を出版しました。その中で、彼は時代遅れのヒューム理論に似た連想理論で人間の精神と進化を「科学的に」解明しようと試みました。じつは、これで彼は骨相学と人種差別を説明しようとしていました。にもかかわらず、この本はよく売れ、彼の人気を高めました。
「ようするに、スペンサーは、白人とは頭の形が異なる連中は、みんなバカだって言いたかったんでしょ。一般庶民は、いわゆる「科学」にかんたんに騙されるから、差別主義者がいつも連中の間で人気になるんだよ」
実際、米国では、黒人奴隷制が深刻な問題でした。借金や敗戦による奴隷制は、古代からありましたが、黒人奴隷は、新大陸のプランテーションで、労働者にするために専門商人によって誘拐や購入されたアフリカ人の子孫たちでした。白人は、かれらを牛や馬と同じように家畜として扱いました。しかし、米国独立戦争、フランス革命、そしてヨーロッパの二月革命は、一般庶民が抑圧された黒人に同情するきっかけとなりました。また、通俗進化論によって、たとえ黒人は進化の段階が異なると主張するにしても、白人も、彼らを家畜ではなく、同じ人間として認識せざるをえなくなりました。
「人種差別の進化論が、逆に奴隷制を否定することになったのは、皮肉なことだ」
それでもなお、一部の白人は、進化的に劣っている黒人に対する保護と教育として奴隷制を擁護しました。くわえて、発展途上の北部工業州は、新大陸市場としての経済的独立を求めましたが、農業中心の南部諸州は、黒人奴隷制に依存し、綿花、タバコ、砂糖などの商品をヨーロッパ市場に輸出していたため、自由貿易を強く望んでいました。そして、1861年、奴隷制反対派のリンカーンが大統領に就任し、南北戦争(1861-65)が勃発しました。
「トップダウンか自由主義かという経済政策は、黒人問題と結びついた」
南北戦争は綿花の輸出を途絶えさせ、ヨーロッパに不況と失業を引き起こしました。さまざまな労働運動が起こり、1864年には国際労働者協会が結成されました。マルクス(1818-83)もこの運動に参加し、プルードン派やバクーニン派と主導権を争いまし。彼は1866年に『資本論』を出版し、その中で歴史的発展を考察に加え、「科学的」唯物論によって階級闘争の必然性を説きました。
「マルクスは当時、歴史的進化の観点を欠く通俗唯物論を批判したが、彼自身もそのブームに便乗していたのか」
25.08. 社会の唯名論と実在論:19C後半
ランゲ(1828-75)は、以前、ボン大学で哲学の私講師でしたが、このころ国際労働者協会の幹部も務めていました。しかし、マルクスのような通俗唯物論の浅薄な隆盛に飽き飽きしていました。そこで、カントを基盤とし、表面的な現象しか扱えない唯物論を批判する『唯物論史』を1866年に出版しました。彼はチューリッヒ大学の教授となり、新カント主義として多くの学者や学生に影響を与えました。
「労働者になったことおない連中が主導権を争うような労働者組合に、だれも尽力しようなんて思わないよ」
ベルリン大学のシュライアーマッハー(1768-1834)は、すでに、表現は背景の結果に過ぎない、と論じ、解釈学の必要性を主張していました。ベルリン大学のディルタイ(1833-1911)も、カントの影響を受け、部分と全体を循環させる解釈学を通して、それぞれの背景、すなわち文脈、さらには世界観さえも解釈しなければならない、と考えました。これは自然科学とは異なる精神科学です。どんな世界観も、自分の絶対的な普遍性を主張しますが、じつは、それも数ある世界観の一つにすぎません。超越論的な世界観を持たないかぎり、他者の精神の優劣を客観的に評価することはできず、ましてや、進化の順序で順位付けすることなど不可能です。
「カント以降のまともな哲学者なら、当然、そう考えるだろうね」
ウィーン大学の元司祭ブレンターノ(1838-1917)は、心理学を解釈的心理学と内在的心理学に分けました。前者はディルタイと同様の解釈学であり、ある人物の様々な客観的な出来事を集め、その人物の内的な世界観を再構築する三人称的なアプローチです。一方、後者は、人が経験したことの自己説明ですが、ここで彼は、どの認識も、なんらかの意味で一種の誤解である、と、あえて述べました。すべての認識は、対象だけでなく、つねに、その人の世界観に基づく意図としての主観的な判断や感情、欲望を伴っているからです。
「彼はカントの路線にも沿っている」
ストラスブール大学の若き新カント派教授、ヴィンデルバント(1848-1915)が指摘したように、解釈学を通じた精神科学は、必然的に、対象の独自性を描写する「個性記述」です。それは社会の「唯名論」と呼ばれました。しかし、普仏戦争やパリ・コミューンを目の当たりにし、北アフリカ、中東、さらにはインドまで旅した異色の素人思想家ル・ボン(1841-1931)は、モンテスキュー(1689-1755)やフィヒテ(1762-1814)、ワーグナー(1813-83)と同様に、社会、すなわち国民精神の実在を確信し、社会は個々人の総和以上のものだ、と彼は考え、骨相学、進化論、さらには物理学を用いて、それを説明しようと試みました。彼によれば、量はエネルギーだが、それはむしろ人々を退化させ、彼らの野蛮な集合意識を催眠状態として露呈させるのです。
「ル・ボンは、群衆の中の人々の狂気という現実を俎上に乗せた。かれらはむしろ野蛮人へと退化している」
25.09. 機能論とプラグマティズム:19C末
ライプツィヒ大学のヴント(1832-1920)は、厳格な唯名主義者で、個々の事実のみを肯定し、科学的な生理学的実験を行いました。彼は、心身並行論に基づいて心理学と生理学とを区別し、同じ刺激反応が理性意志とともに意識される、としました。この主観性を精神として把握し理解するために、彼はとく知覚と記憶における錯覚を研究しました。
「あ、人間の反応が単なる肉体反応以上ならば、そこに精神が働いているんだね」
アメリカでは、ハーバード大学教授の息子、天才パース(1839-1914)が、ハーバード大学で学び、ジョンズ・ホプキンス大学で論理学の講師となりました。客観的な哲学を確立するために、彼は、客観的な人間の行動から数学的な逆関数を用いて抽象概念を定義する、という革新的なアイデアを考案しました。しかし、ある三流学者は、パースに嫉妬し、彼の就職や出版を妨害し続けました。
「敵がすぐ近くに潜んでいるって、驚くよね」
裕福なハーバード大学の心理学教授、ジェームズ(1842-1910)は、貧しいパースを親友として支えました。彼はパースの考えを「プラグマティズム」と名づけ、心理学に応用することで、心理学を客観科学へ高めました。彼によれば、意識は脳の数学的関数です。しかし、個人でさえ、与えられた刺激に対して自分がどのように反応するかを知りません。したがって、自己説明は、意識そのものではなく、実際には、自分の反応に対する後付けの解釈です。たとえば、なにかに泣いた後、彼は「悲しかった」と説明します。
「パースは客観的行動からの逆関数によって抽象対象を定義したが、ジェームズはヴントのように、意識を対象と反応の間の関数として定義しのか。両者は論理的にまったく別ものだ」
ボルドー大学の社会学教授のデュルケーム(1858-1917)は、ル・ボンの社会実在論を科学化しようと試み、彼も集合精神の実在を数学的関数として定義しました。自殺のように個人の行動が一様に歪められている場合、そこには何らかの集合精神が働いている。したがって、唯名論のように個人の心理をどれほど分析しても、いかなる個人からも独立した集合精神を把握することはできない。さらに、アノミー(無秩序)として集合精神を失ってしまうと、自由になるどころか、個人の行動も理解できないほど混乱してしまう、と彼は論じました。このように、彼は、社会的事実から集合精神を考察しようと試み、健全な集合精神のために道徳教育の重要性を強調しました。
「数学的関数理論は、心理学と社会学を科学として発展させる上で大きな進歩をもたらした」
一方、ベルリン大学の私講師、たジンメル(1858-1918)は、ディルタイ教授が頑迷な社会唯名論者であったため、苦労を強いられました。そこで彼は、社会の存在を前提とせず、むしろ社会がどのように形成されるか、を研究した。彼は、会話や取引など、個人間の相互作用過程に注目し、彼はこれを「社会化」と呼んで、支配、競争、専門化、模倣、交流などとして定式化して、そこに人間距離を考察しました。また、貨幣のような記号も、これらの定式の中で機能することを発見しました。
「彼の形式主義社会学は、構造主義の先駆けとなった」
ミード(1863-1931)は、ハーバード大学でジェームズに師事した後、ドイツに渡り、ライプツィヒ大学でヴントや最新動向を学びました。石油王ロックフェラー(1839-1937)は1890年にシカゴ大学を創設し、ミードはその社会学部の創設メンバーとして招聘されました。当時のシカゴ市は、アパラチア山脈の鉱山労働者や、大恐慌時代にミシガン湖沿いの新たな重工業で働くために移住してきたドイツからの移民によって、爆発的な成長を遂げていました。それで、シカゴ市は都市形成に関する社会学の現実的な実験場となりました。ここでミードは、素朴プラグマティズムの単純刺激反応モデルを洗練させ、相互作用論として社会学に応用しました。すなわち、現実の人間関係においては、行動に先立ってシンボルを提示することで、意味の合意を確立する必要があります。
「まさにシムシティの時代だ」
デューイ(1859-1952)はミードの友人で、新設シカゴ大学に哲学教授として招かれました。ミードの洗練されたプラグマティズムに影響を受けた彼は、素朴な心理学の単純刺激反応モデルを批判し、機能主義を提唱しました。人間はそれぞれあらかじめ、なんらかの意図を持ち、その状況において、反応すべき刺激をみずから定義する。それゆえ、デューイは、知識さえも絶対的な真理ではなく、人間が必要に応じて用いる単なる道具とみなしました。この考えに基づき、彼は子どもの発達段階に合わせた新しい学校教育制度を提唱し、民主主義社会における子どもの自己管理能力の育成を重視しました。しかし、彼の考えはシカゴ大学当局に受け入れられず、1904年にコロンビア大学に移籍しました。
「彼の教育思想は、当局にとってあまりにも先進的すぎた」
