「湯船にたどり着けない私たちへ ロスジェネ世代が抱える“家族と風呂”の物語」
「今日は入れた?」
その言葉は、今の僕にとって、心のなかでひっそりと響く合言葉のようなものだ。
誰かに問われたわけでもない。ただ、自分の中で小さくつぶやくのだ。今日、自分は風呂に入れたのか。湯船に、浸かれたのか。
「風呂にゆっくり浸かりたい」
この欲求は、贅沢でもなければ怠惰でもない。ロスジェネ世代の僕たちにとって、それは“当たり前を取り戻したい”という、ごくささやかな願いにすぎない。
家族の風呂リレー、私はいつも最後尾
うちの風呂は追い焚き機能がない。湯を張ったら、それで終わりだ。
だから、家族で使う順番には、ちょっとした工夫が必要になる。いや、工夫というより“配慮”だろうか。
まず母親が入る。高齢なので、温かい時間に。
次は娘。思春期まっさかりの彼女にとって、順番は重要だ。
その次は妻。彼女も一日働いて疲れている。
そして最後に、私。
……と思いきや、実際の“最後”は父親だ。
いや、正確には、私が父を“シャワー”で洗う日が、週に一度ある。
父は要介助で、自力で風呂に入れない。
私が背中を支え、足湯で体を温め、顔や首をタオルで拭き、シャワーでさっと流す。
普段はタオルで拭いたり、足湯だけベッドの近くに持ってきてする。
トイレの介助もこの時間が多いのでそこも重なる。
そうなってくるとすでにかなりの時間が経っているのだ。
その頃には、風呂の湯も冷めきっている。
そもそも私が浸かる頃には、もうお湯自体が“機能”を失っている。
ロスジェネは、誰かの「最後」にいる
この構図って、実は風呂だけじゃない気がするんだ。
ロスジェネって、いつも何かの「最後尾」にいる。
就職氷河期、正社員になれなかった人も多いだろう。
私は幸いなれはしたが、結局は会社もなくなり今に至る。
バブルもゆとりも知らない。
上の世代のツケを背負い、下の世代を育てろと言われる。
年金もギリギリ。景気も回復せず、なのに自己責任論ばかり浴びせられる。
そして今、家庭の中でも「最後」だ。
それが、風呂であっても、何かを食べる順番であっても、休むタイミングであっても。
「お湯、沸かそうか」と言えない理由
たまに思う。もう一度湯を張り直せばいいじゃないか、と。
でも、無意識にブレーキを踏んでしまう。
「水道代、ガス代がもったいない」
「そこまでして自分が入るほどの価値があるのか?」
しかも家の湯船はムダに大きいので余計だ。
これも、ロスジェネ的な刷り込みだろうか。
「我慢は美徳」「自分は後回しで当然」
そんな価値観が、知らぬ間に骨の髄まで染み込んでいる。
スーパー銭湯への憧れ
そういえば、最近スーパー銭湯に行ってないな。
高くはない。でも、遠い存在になってしまった。
両親の介護があるから、もはや行っている暇はない。
たまには、手足を思いっきり伸ばしたい。
誰の世話でもなく、自分の体を自分のペースで洗いたい。
「自分のために湯を張る」ことが、夢になってしまうなんて
これが、ロスジェネのリアルだ。
たった20分の「湯の時間」で世界は変わる
けれども、私は諦めたくない。
風呂というのは、不思議なもので、ほんの20分でも、人生をリセットしてくれる。
体が温まり、頭の中のノイズが洗い流されて、眠りにつく準備ができる。
「自分に20分ぐらい、くれてやれよ」
そんな言葉を、未来の僕が今の僕に言っている気がする。
それはもしかしたら、同じように「最後尾」に並ぶ誰かへのメッセージでもある。
最後に あなたは、最後でいいのか?
風呂ひとつでここまで考えるなんて、と笑う人もいるかもしれない。
でも、僕たちは、風呂すら自由に使えない世代だった。
この国の中間層を支え、家族の背中を支え、それでも自分のケアは後回し。
だけど、もう一度問い直そう。
「あなたは、最後でいいのか?」
誰かのために生きることは、尊い。
でも、あなた自身が湯に浸かることも、きっと尊い。
たったひとつの湯船から、人生を見直してみる。
そんなNOTEが、今のあなたに届くことを、願って。
いいなと思ったら応援しよう!
応援が励みとなり、継続の力となります。
ロスジェネ氷河期第一世代に光と応援をお願い致します。