写真は広島をどう記憶してきたか―土門拳から藤岡亜弥へ
僕たちは、広島を訪れる前から「ヒロシマ」を知っています。
原爆ドーム、きのこ雲、焼け野原、傷ついた被爆者。教科書や新聞、テレビ、写真展で繰り返し見てきたイメージによって、広島という街を見る前から、頭の中にはすでに一つの風景ができあがっています。
それらの写真がなければ、僕たちは1945年8月6日に起きたことを、今ほど具体的には想像できなかったはずです。しかし、同じイメージが長く繰り返されると、写真は出来事を伝える証拠であると同時に、「戦争」「原爆」「平和」を表す記号にもなっていきます。
知っている写真を見ることで、もう分かったような気持ちになってしまう。原爆ドームを見て「広島らしい」と感じた瞬間、その場所で起きたことを改めて考える前に、理解を終えてしまうこともあります。
だから広島をどう撮るかという問題は、単に新しい写真を作れるかという話ではありません。
誰の苦しみを見せ、何を見えないままにするのか。過去と現在をどのように結び、見る人をその歴史の前にどのように立たせるのか。写真の形式が変われば、記憶の残り方も変わります。
広島を撮る写真の形式は、時代とともに変化してきました。しかし、それは写真家たちが新奇な表現を競ったからではありません。原爆からの時間が離れるにつれて、目の前に見えるものが変わり、以前と同じ方法では過去へ近づけなくなったからです。
写真を撮ることのできなかった場所から
1945年8月6日、中国新聞社の写真記者だった松重美人は、自身も被爆しながら広島市内を歩き、御幸橋の臨時救護所などを撮影しました。被爆当日に松重が残した写真は5枚です。【1】
写真は、目の前にあるものを自動的に保存してくれる装置ではありません。
撮る人は、どこでカメラを構え、誰に向けてシャッターを切るのかを決めなければなりません。傷ついた人を撮ることは歴史の記録になりますが、同時に、その人の苦痛を他者が見るためのイメージにすることでもあります。
広島をどう撮るのかという問いは、戦争が過去になってから生まれたものではありません。被爆当日からすでに、記録しなければならないという責任と、苦しむ人へカメラを向けることへのためらいの間に存在していました。
写真は何を写せるのかという問題の前に、写真家はまず、何を写してよいのかという問題に直面していたのです。
現実を社会の前へ置く―土門拳とリアリズム
土門拳が広島を訪れたのは1957年です。
原爆投下から12年が過ぎていましたが、被爆者の身体には傷が残り、原爆症や後遺症に苦しむ人々がいました。土門は病院、手術、家族、被爆者の日常を撮影し、翌1958年に写真集『ヒロシマ』を刊行しました。【2】
土門の写真では、原爆は抽象的な歴史ではありません。
顔や手に残った傷、病院のベッド、手術を受ける身体として、現在にも続いている出来事です。見る人は、原爆を「昔起きた大きな事件」として遠くから眺めることができません。傷ついた一人ひとりの身体と向き合わされます。
この撮り方は、土門が戦後に唱えたリアリズム写真と深く結びついています。
写真は19世紀末から20世紀にかけて、貧困、労働、都市生活を可視化し、社会に訴えるための手段として使われてきました。1930年代のアメリカでは、FSAの写真家たちが農村の貧困や移民労働者の生活を大規模に記録しました。【3】
ただし、土門のリアリズムを、海外の社会的ドキュメンタリーをそのまま日本に移したものと考えることはできません。
土門は戦後日本の写真界で「カメラとモチーフの直結」や「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げました。ここでいう非演出とは、写真家の主観を完全になくすことではありません。写真家が先に物語を作り、それに現実を従わせるのではなく、自分自身をカメラによって社会へ直接つなごうとする態度でした。【3】
つまり、土門のリアリズムは中立的な記録ではありません。
何を社会が見るべき現実として差し出すのかを選び、その現実から逃げずに写真を撮るという、強い意志を持った表現でした。『ヒロシマ』では、被爆者の苦痛を私的なもののままにせず、社会全体が向き合うべき問題として目の前へ置いたのです。
その一方で、傷ついた身体を強く見せる形式は、見る側の視線を傷や後遺症へ集中させます。被写体が生きている日常や個人性よりも、「被爆者」という属性が先に見える危険もあります。
これは土門の写真の意義を否定する話ではありません。被爆の傷が現実に残っていた時代には、その傷を社会へ見せること自体が必要でした。ただ、被爆者の身体が次第に画面から不在になっていくと、写真家たちは別の方法を探さなければならなくなります。
身体から物へ―東松照明が撮った被爆後の時間
1961年、土門拳と東松照明は『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』を共同で制作しました。土門が広島を、東松が長崎を担当しています。【4】
東松が長崎で撮ったのは、被爆者の身体だけではありません。
原爆が炸裂した11時2分で止まった腕時計、熱によって変形した瓶、破壊された教会、傷の残る身体、そして復興していく街。東松は、1945年8月9日の一瞬と、その後も続いている時間を同じ作品の中に置きました。【4】
ここでは、物が証言者になります。
変形した瓶は、原爆が炸裂した瞬間を直接写した写真ではありません。しかし、熱によって変えられた物質の表面には、過去の出来事が痕跡として残っています。
土門のリアリズムが、被爆者の身体を通して原爆被害を社会の前へ置いたのに対し、東松は人間、物、都市、時間を横断しながら、原爆が戦後社会の中にどのように残っているのかを探しました。
東松の写真は、報道写真の材料を使いながらも、出来事を順序立てて説明することから離れていきます。MoMAは後に、東松がフォトジャーナリズムの素材を、個人的で直感的な表現へ変えた写真家だと位置づけています。【4】
同じ時期、世界のドキュメンタリー写真でも変化が起きていました。
戦前から続く社会的ドキュメンタリーは、貧困や不正を可視化し、社会へ訴えることを目的としていました。しかし1950年代以降、ロバート・フランクやウィリアム・クラインらは、傾いた画面、粒子、ぶれ、偶然の人物配置を使い、社会を整然と説明するのではなく、自分がその社会をどう経験したのかを写真に持ち込みます。
写真は、社会の事実を並べるだけではなく、世界に対する写真家自身の不安や違和感を表すものへ変わり始めました。
東松もまた、写真を客観的な報告に戻すのではなく、被爆後の時間を自分の身体と感覚を通して見る方向へ進んでいました。
一枚の証拠から、写真集の構造へ―川田喜久治『地図』
川田喜久治の写真集『地図』では、記録から主観への変化がさらに進みます。
川田は、原爆ドームの壁や天井に残る染み、ひび割れ、剥落を接写しました。『地図』の中心となったのは、原爆ドーム内部の天井や壁に残された、黒い染みや崩れた表面です。【5】
そこでは、壁は建築物の一部であると同時に、過去の出来事が読み取れるかどうかも分からない、暗い像になっています。
『地図』が重要なのは、一枚の写真だけで戦争を説明しようとしなかった点です。
壁の染み、顔、建築、廃品、都市の断片が写真集の中で繰り返され、ぶつかり合います。一枚ずつの写真に明確な答えはありません。見る人は、断片同士を結びつけながら、自分で戦争と敗戦後の日本の関係を考えなければなりません。
土門の写真では、一枚の画面が「この現実を見てほしい」と訴えていました。川田の『地図』では、写真集全体の順序と反復が、見る人の記憶を揺さぶります。
なぜ一枚の証拠写真では足りなくなったのでしょうか。
原爆から時間が経ち、街が復興していくと、出来事を直接示す対象は減っていきます。また、戦争の記憶は、被害の事実だけで説明できるものでもありません。敗戦、占領、復興、忘却が複雑に絡み合い、一つの意味にまとめることが難しくなっていました。
その複雑さに向き合うため、川田は写真を単独の記録としてではなく、断片を組み合わせる写真集の形式として使いました。
戦争を理解しやすい物語へ整えるのではなく、理解しきれないものとして読者へ渡す。そのこと自体が、『地図』の方法だったのだと思います。
記録から演技へ―細江英公と身体の表現
同じ1960年前後には、写真や映像を現実の記録ではなく、演技や身体を通して作る動きも現れます。
細江英公は、戦後のリアリズム写真が強い影響を持つ中で、写真は被写体との関係によって作り出されるものだと考え、演出、舞踏、物語を積極的に取り入れました。【6】
1960年の映像作品《へそと原爆》では、土方巽や大野慶人、海辺の子どもたちの身体を通して、原爆が寓話的に表現されています。海岸の強い光、ハイコントラストのモノクローム、土方の振付による身体の動きが、破壊と生命をめぐる奇妙な世界を作ります。【6】
細江は、被爆した広島や長崎を記録したわけではありません。
それでも《へそと原爆》は、原爆を表現する形式が、報道写真や社会的ドキュメンタリーだけではなくなったことを示しています。
目の前にある傷を写せなくなったとき、あるいは現実の写真だけでは届かない恐怖を表そうとしたとき、写真家は演技、舞踏、フィクションを使うことができます。
それは現実から逃げるためではありません。
直接見ることのできない破壊や記憶を、身体によって現在に呼び戻すための方法でした。
不在の身体を、遺された衣服から見る―石内都「ひろしま」
石内都の「ひろしま」では、被爆者の身体そのものではなく、広島平和記念資料館に残された衣服や持ち物が撮影されています。
ワンピース、ブラウス、靴、布地。そこには破れや染みがありますが、同時に模様や色彩、縫い目、布の質感も残っています。
石内は、それまでモノクロ写真で見ることの多かった被爆遺品に、実際には色が残っていることに驚いたと語っています。服の色や素材をカラーで撮影することから、「ひろしま」は始まりました。【7】
土門の写真では、被爆した人がカメラの前にいました。
石内の写真では、その人はもういません。画面に残っているのは、かつて身体に触れていた物です。
しかし、人が不在だからこそ、見る側はその身体を想像します。この服を着ていたのはどのような人だったのか。なぜこの色や模様を選んだのか。8月6日の朝、その人はどのような生活を送っていたのか。
石内は遺品を、悲惨な証拠だけとして見せませんでした。
色や布の美しさを残すことで、持ち主を「原爆の犠牲者」という言葉だけに閉じ込めず、原爆以前にも好みや生活を持っていた、一人の人間として想像させます。
戦争の記憶を受け継ぐとは、悲惨さをより強く見せることだけではありません。
失われた人の生活を、もう一度個人の大きさまで戻して考えることでもあります。
過去が見えなくなった街で―笹岡啓子「PARK CITY」
2000年代になると、広島を撮る問題は、残された傷をどう見せるかだけでなく、過去がほとんど見えなくなった現在の都市をどう写すかへ移っていきます。
広島で生まれ育った笹岡啓子は、2001年から平和記念公園とその周辺を撮影し、「PARK CITY」として発表してきました。【8】
笹岡の初期作品では、公園の木々、遊歩道、川辺、建築が、深い暗部を持つモノクロームで写されています。そこには被爆者も、遺品も、焼け跡もほとんど現れません。
写っているのは、整備され、人々の日常に組み込まれた現在の公園です。
しかし、何も見えないように思える暗さそのものが、この作品の中心にあります。
写真は、シャッターを切った現在の光景を写すことはできても、同じ場所で過去に起きた出来事を直接写すことはできません。笹岡は、暗部を明るくし、過去を分かりやすい「ヒロシマ」のイメージへ変えるのではなく、過去が見えないという事実を、そのまま画面に残しました。
「PARK CITY」には、現在の光景しか写せない写真によって、過去の見えづらさをどう凝視できるのかという問いがあります。また、広島という場所を、分かりやすい悲劇のイメージとして利用してしまうことへの葛藤もあります。【8】
土門拳は、社会から見えにくかった被爆者の傷を可視化しました。
笹岡は、その傷が現在の都市から見えなくなったことを受け入れたうえで、それでも同じ場所を見続けます。
写真に過去を出現させるのではなく、過去が写らない画面の前で、見る人を立ち止まらせる。暗いモノクロームと長期間の反復撮影は、そのために選ばれた形式でした。
広島を撮れなかった写真家―藤岡亜弥
藤岡亜弥は、ニューヨークでの滞在を終え、2012年に日本へ戻った後、広島で制作を始めました。【9】
しかし、広島は簡単には撮れませんでした。
すでに土門拳、東松照明、川田喜久治をはじめ、多くの写真家が原爆と広島を撮っていました。写真を見る側の中にも、「ヒロシマとはこのような場所だ」というイメージができあがっています。
藤岡は、最初からヒロシマを撮ろうとすると、「悲劇の街」というイメージを自分で作り、それに合うものを探してしまうため、あまり考えすぎると撮れなくなったと話しています。【9】
そこで藤岡は、完成した考えに合う被写体を探すのではなく、街を歩きながら写真を撮りました。
写真集『川はゆく』に写っているのは、被爆者や遺品だけではありません。
川辺に立つ人、修学旅行生、観光客、子ども、原爆ドーム、木々、明るい服、街を行き交う人々。色彩と偶然の身振りが、カラーのスナップショットとして並んでいます。
一枚ずつを見れば、戦争とは関係のない日常写真に見えるものもあります。
けれど、それらが広島という場所で並ぶと、現在の光景の奥から過去が断続的に浮かび上がります。原爆ドームの前を歩く観光客や修学旅行生の姿は、現在の生活を示すと同時に、背景に残された廃墟との距離を見せます。
藤岡は、戦争の痕跡だけを探していたのではありません。
現在の生活と、すでに知っている「ヒロシマ」のイメージが、街の中でどのように出会い、離れていくのかを撮っていたのです。
なぜスナップショットだったのか
スナップショットは、最初から芸術写真の形式として生まれたわけではありません。
1888年にコダックの手持ちカメラが登場すると、専門的な技術を持たない人々も、家族、旅行、子ども、日常生活を撮るようになりました。傾いた水平線、画面の端で切れた身体、偶然入り込んだ物は、当初は未熟な撮影による失敗とも見なされました。【10】
しかし、小型カメラと高感度フィルムが普及し、写真家が街を歩きながら撮影するようになると、その偶然性は別の意味を持ち始めます。
1950年代にはロバート・フランクやウィリアム・クラインが、粒子、ぶれ、傾き、不安定な構図を使い、都市の混乱や社会の違和感を写真に取り込みました。1967年のMoMA展「New Documents」では、ダイアン・アーバス、リー・フリードランダー、ゲイリー・ウィノグランドが、社会を客観的に説明するよりも、それぞれの個人的な視線によって日常を記録する写真家としてまとめられました。【10】
藤岡が彼らから直接形式を受け継いだということではありません。
ただ、あらかじめ意味を決めずに街を歩き、偶然の配置や身振りを受け入れる方法は、スナップショットやストリート写真が育ててきた写真の考え方と重なっています。
藤岡が最初から「戦争とはこのようなものだ」と決めていたなら、写真はその答えに合う被写体を確認するだけになっていたかもしれません。
スナップショットには、写真家自身が意識していなかった関係が写り込む可能性があります。
原爆ドームと明るい服。慰霊の場所と観光客。過去を学ぶ修学旅行生と、その横で続いている日常。現在と過去は、計画された象徴としてではなく、一瞬の偶然として同じ画面に現れます。
藤岡がスナップショットを必要としたのは、広島を軽やかに見せるためではありません。
自分の中にすでにある「ヒロシマ」のイメージを一度脇へ置き、写真の中で、まだ意味の決まっていない広島と出会うためでした。
笹岡啓子と藤岡亜弥―同じ街に対する二つの形式
笹岡啓子と藤岡亜弥は、どちらも被爆の瞬間や傷が直接見えない現在の広島を撮っています。
しかし、選んだ形式は大きく異なります。
笹岡は、暗く静かなモノクロームによって、過去が見えないことを画面に残します。人の少ない風景と深い暗部は、簡単に理解できるイメージを拒み、見る人に時間を要求します。
藤岡は、色彩、人の動き、観光、偶然の身振りを受け入れます。過去を静かな場所へ隔離するのではなく、現在の日常の中で不意に過去が浮かび上がる瞬間を探します。
笹岡の画面では、過去は見えないものとして沈んでいます。
藤岡の画面では、過去は現在の光景の間から、ときどき戻ってきます。
どちらが新しいという話ではありません。同じ問題に対する、異なる応答です。
形式とは、写真の外見を飾るスタイルではありません。
写真家が何に困り、何を簡単に理解したくなかったのか。その問題に対して、どのように写真を使ったのかという答えです。
土門は、傷を社会に見せるためにリアリズムを必要としました。
川田は、戦争の記憶を一つの説明に閉じないために、断片と写真集の構造を必要としました。
細江は、記録だけでは届かない破壊や恐怖を身体で表すために、演技とフィクションを必要としました。
石内は、不在となった人を一人の生活者として想像させるために、遺品の色と物質性を必要としました。
笹岡は、過去が写らないことをごまかさないために、暗さと反復を必要としました。
藤岡は、すでに知っている「ヒロシマ」に写真を従わせないために、スナップショットの偶然性を必要としました。
なぜ広島を「どう撮るか」を考えなければならないのか
写真の形式が変わってきたのは、写真家が新しい見た目を求めたからだけではありません。
戦争からの時間が変わるたびに、写すことのできる対象と、写真家が取ることのできる距離が変わってきたからです。
傷ついた身体が目の前にあった時代。傷が物や建物に残る時代。被爆者本人が不在になり、遺品が身体に代わって語る時代。街が整備され、原爆ドームが観光地となり、「平和」という言葉が日常の風景へ組み込まれた時代。
同じ方法を繰り返しても、同じ記憶は残せません。
見慣れた悲惨な写真をさらに強く見せようとすれば、苦しみを消費することにつながるかもしれません。反対に、現在の日常だけを明るく写せば、その土地の下にある歴史を見えなくしてしまう可能性があります。
広島をどう撮るかとは、その間でどのような距離を選ぶのかという問題です。
苦しみを自分の表現の材料として利用しないこと。しかし、語ることが難しいからといって、忘却に委ねないこと。被爆者の経験を理解したつもりにならないこと。それでも、現在を生きる自分と過去との関係を探し続けること。
写真は、戦争を完全に説明することはできません。
しかし、写真がどのような形式で作られるかによって、見る人が過去と結ぶ関係は変わります。
証拠として見るのか。傷として見るのか。不在の身体を想像するのか。現在の街の中で、見えない過去を探すのか。
だから僕たちは、広島の何を撮るかだけではなく、広島をどう撮るのかを考えなければなりません。
記憶は、川のように戻ってくる
広島には複数の川が流れています。
川は上流から下流へ一方向に進んでいるように見えますが、海に近い場所では潮の満ち引きによって流れが変わります。『川はゆく』の出版社紹介でも、時間は逆行し、渦を巻き、直線的ではない流れとして表されています。【11】
戦争の記憶も、過去から現在へまっすぐには伝わりません。
忘れられたり、記号になったり、観光や教育の中に組み込まれたりしながら、ときどき現在へ戻ってきます。
写真は、記憶を当時のまま保存することはできません。
写っていないものもあり、撮る人の判断によって形を変え、見る時代によって意味も変わります。写真を見るだけで、戦争を理解したことにはなりません。
けれど写真には、現在の中に小さな引っ掛かりを残すことができます。
見慣れた街の中で立ち止まり、ここには以前何があったのか、この服を着ていたのは誰だったのか、なぜこの公園は暗く写されているのか、なぜ原爆ドームの前で人々は笑い、歩き、写真を撮っているのかと考え直す。
藤岡亜弥の『川はゆく』が示しているのは、戦争を直接知らない世代には広島を撮れないということではありません。
直接知らないからこそ、知っているふりをせず、現在の風景の中から過去との関係を探さなければならないということです。
僕たちが後世に残せるのは、完成した一つの「ヒロシマ」ではないのかもしれません。
過去が現在へ戻ってくるたびに、もう一度考え始めるための場所です。
写真が残すのは、記憶そのものではありません。
記憶が再び戻ってくるための条件なのだと思います。
出典
【1】松重美人が被爆当日に残した5枚について、広島平和記念資料館の証言記録を参照。
【2】土門拳の1957年の撮影と1958年刊行の『ヒロシマ』について、土門拳写真美術館の解説を参照。
https://www.domonken-kinenkan.jp/domonken/hiroshima/?utm_source=chatgpt.com
【3】土門の「絶対非演出の絶対スナップ」と戦後リアリズム写真、およびFSAの社会的ドキュメンタリーについて。
【4】『Hiroshima-Nagasaki Document 1961』、東松照明の《11:02 Nagasaki》と、フォトジャーナリズムを個人的・直感的表現へ変えた位置づけについて。
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/854759?utm_source=chatgpt.com
【5】川田喜久治『地図』の原爆ドームの染みと、写真集の中心的構成について。
【6】細江英公が戦後リアリズムに対して、被写体との関係、演出、身体を重視したことと、《へそと原爆》について。
【7】石内都「ひろしま」と、遺品に残った色を発見した経緯について。
【8】笹岡啓子が2001年から「PARK CITY」を撮影していることと、「過去の見えづらさ」をめぐる批評について。
【9】藤岡亜弥が広島へ戻った時期、『川はゆく』の制作方法、最初から「悲劇の街」を狙わず歩いて撮影したことについて。
【10】1888年のコダック以降のアマチュア写真、1950年代のスナップショット美学、1967年の「New Documents」について。
https://www.metmuseum.org/essays/kodak-and-the-rise-of-amateur-photography?utm_source=chatgpt.com
【11】『川はゆく』における、逆行や渦を含む非直線的な川と時間の説明について。
https://www.shashasha.co/jp/book/here-goes-river-2?utm_source=chatgpt.com
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