陰謀論についてのそもそも論1
世界に陰謀はあるか?
「陰謀論」という言葉について、そもそもの話をしたい。
最近、誰が決めたのかも曖昧なラベルで、人を笑いものにする風潮が強くなった気がする。
そのクラシックな代表格が、「陰謀論」だと思う。
もちろん、トンデモ系はたくさんある。
それは否定しようがない。
でも僕が気になるのは、「陰謀論」と、「実際に存在した陰謀」が、同じ箱に入れられてしまうことだ。
ちゃんと分けて考えられる人が、どれくらいいるんだろう。
正直、僕も自信はない。
世の中には確かなことなんて、ほとんどない。
だから自分なりに調べて、考えてきた。
陰謀とは何か。
たとえば、陰謀論として語られていた話が、のちに事実として確認された例がある。
CIAのMKウルトラ洗脳実験や、タスキギー梅毒事件。
名前だけでも胸が悪くなるような話だ。
陰謀という言葉を聞くと、僕らはつい「外部の敵」を想像する。
国対国。
宗教対宗教。
民族対民族。
つまり「向こう側が、こっちに悪意を持っている」という前提だ。
でも、さっきの例はどうだろう。
それは“敵国”がやった話じゃない。
政府機関が、自国民に対して行った非人道的な人体実験だ。
ここにいるのは、分かりやすい悪役じゃない。
むしろ正義が見えづらい。
だからこそ、陰謀性が強く感じられる。
敵はいるのか?
じゃあ世界に本当に敵はいるのか。
僕は「いる/いない」ではなく、もっと曖昧なものだと思っている。
帰属によって、敵が生まれる。
国家という枠で見れば、少なくとも非戦時下でも、国力を落とすための動きはある。
競争の中にいる限り、僕らは互いに“潜在的な敵”になる。
僕らは、望んだわけでもないカーペットの上に乗せられて、
そこに置かれた果実の取り合いを宿命づけられている。
この世界は、そういうふうにも出来ている。
さらに視点をずらすと、先住民的な生活をしていた人々からすれば、
この世界の仕組みそのものが「陰謀」に見えたかもしれない。
ここで言う先住民とは、大航海時代の拡大主義に飲み込まれた側。
アジアやアフリカの国々のことだ。
日本も本来、拡大主義というより鎖国をしていた国だ。
それなのに、なぜ“拡大主義”と見なされるようになったのか。
僕は、西側の拡大主義に対抗するための防衛的戦略として動いた結果だと理解している。
もちろん、日本の加害性がなかったとは言わない。
日本にひどい目に遭わされた人もいて、その人たちへの追悼の思いもある。
ただ、公式な謝罪と賠償という形で、「ひとつの決着」はついている。
でも世界は、そういうふうには整理されない。
問われなかった罪
一方で、原爆が正当化されたり、
七三一部隊が人体実験のデータ取引で罪に問われなかったり、
「本当に惨たらしいこと」が罪に問われない歴史もある。
混沌に乗じて、たくさんの思惑が交錯する。
軍の暴走も、時には仕向けられる。
誰が誰のために戦っているのかが分からないまま、人だけが減る。
世界戦争の主語は誰だったのか。
この問いが、ずっと引っかかっている。
日本人が戦争をしないと誓ったとしても、
世界には「まだ日本との戦争は終わっていない」と考える国があるらしい。
この事実がある以上、日本という国家にとっての陰謀は「ある」。
でも、それは相手国から見れば陰謀ではなく、栄光や計画かもしれない。
しかも、こういうものは国家単位だけで起こるとは限らない。
この宇宙はフラクタルだ。
「陰謀論」という言葉の機能
今日、「陰謀論者」という言葉には、
「ヤバい奴」「近寄ると危ない人」といったニュアンスがまとわりつく。
そして、ここが本題なのだけど、
そのラベルが力を持つようになった背景には、ケネディ暗殺がある。
事件後、不可解な点が多く、
世界中で「真相は別にあるのでは?」という声が上がった。
そこで出てきたのがウォーレン報告書。
犯人はオズワルドの単独犯――という整理。
でもそこに疑問を持つ人間は、たくさんいた。
そして批判を封じるために、
CIAの内部文書(Dispatch 1035-960)で「conspiracy theorist」という言葉を使い、
批判者の信用を落とす戦略が共有された。
この話は、「陰謀論っぽい話」ではなく、記録として残っている。
ここから先、僕らが扱うのは
“陰謀があったかどうか”というより、
「陰謀という言葉で、問いを潰す技術」
のほうかもしれない。
テレビでよく見る。
疑問を持つ人間が、笑いものにされる。
論点ではなく人格をいじられる。
過去の恋愛、病歴、孤独、SNS、家庭環境。
そうやって「考える人間」が「見苦しい人間」に変換される。
周囲はそれを見て、「ああはなりたくない」と思う。
そして沈黙する。
僕はこれを、現代の魔女狩りだと思っている。
たぶん陰謀の本質は、
秘密の会議室よりも、
「ああはなりたくない」
と思わせる空気のほうにある。
これが自己検閲を生む。
現代人は自分の選択を「理性的」と思いがちだけど、
実際は“非難されない側”を選んでいるだけじゃないか、とも思う。
最後に、余談。
オカルト好きの僕にも、「それはさすがに」というラインはある。
フラットアースとかマッドフラッドの類は匂いが強すぎて、正直きつい。
でも、幽霊やUFOは何度か見ているし、一般社会ではライン越え扱いされるかもしれないけれど、巨人はいたと思っている。
そう、オカルトや陰謀論好きにだって、多様性はある。
僕が好きなのは「信じること」じゃない。
問いを立てることだ。
そして問いは、ときどき真実よりも嫌われる。
