ソファーの人は、書いている。#9|こっちに、声のほうから
第9話|こっちに、声のほうから
顔より先に、声を覚えることがある。
この店では、よくある。
当たった人の声。
負けた人の舌打ち。
補充を飛ばす無線。
景品の数を読み上げる声。
帰る前の「じゃあね」と、
帰れない人の沈黙。
人の顔はすぐ変わる。
でも、声はわりと残る。
だからたぶん、あの子のことも、
最初は声のほうから知っていた。
カウンターのほうから飛んでくる短い返事。
無線に返す時の、少しだけ乾いた声。
忙しい時ほど余分な語尾を捨てる感じ。
それが、どこか耳に残った。
見たのは、そのあとだ。
ソファーに座って書いていると、
視界の端を人が横切る。
台を打つ手。
メダルを流す背中。
島を回る店員の足。
その中に、同じ声の持ち主がいた。
最初はそれだけだった。
店員だな、と思った。
よく働く子だな、と思った。
そのくらいのことだ。
でも、何度か見ているうちに、
声と顔がちゃんと重なった。
無線を持つ手が小さい。
カーディガンを着ている日が多い。
忙しい時ほど、顔に出さない。
でも、出てないわけじゃない。
そういうのは、見ていればわかる。
わかるようになった頃には、
向こうもたまにこっちを見ていた。
書く日。
打つ日。
喫煙所のベンチ。
カウンターの前。
同じタバコ。
断片だけなら、もう十分あった。
でも、断片が増えるほど、
触り方は難しくなる。
少し間違えるだけで、
ただの馴れ馴れしさになる。
近づかなすぎると、なにも残らない。
そういう距離の測り方は、
昔からあまりうまくない。
だからあの日、喫煙所で「あと五分。ベンチでタバコ吸ってるよ」と言ったあと、自分で少しだけ笑いそうになった。
誘っているみたいで。
でも、独り言みたいにも聞こえる言い方だった。
あのくらいでちょうどよかった。
来るかどうかは、向こうに残せる。
来なくても、こっちが勝手に言っただけで済む。
来たら、その時はその時だと思っていた。
来たけど。
来たからといって、
なにか大きく変わるわけでもなかった。
ヤダ、と返して二本渡したことと、
名乗らなかったことだけが、
変に残った。
それでも、あの五分は少し長かった。
それだけだ。
向こうが来たから長くなったのか。
こっちが待っていたから長くなったのか。
そのへんは、今でもよくわからない。
ただ、
ちゃんと来たんだ、とは思った。
そのことだけは残った。
こういう時、人は勝手に意味を足す。
こっちもそうだ。
だから近づくなら、近づき方を間違えたくなかった。
なのに、あの日は、
間違えたというより、止めた。
店に来る前から、少しだけ店の外の時間を引きずっていた。
スマホを見ていたのも、そのせいだ。
画面の向こうにある現実は、いつもそうだ。
店の中の熱とは関係なく、勝手に生活の顔をして割り込んでくる。
その時、
こっちを見ている気配がした。
でも、あえて向けなかった。
向けたら、たぶん少しだけいつもの続きになる。
続けていい日と、
少し止めたほうがいい日がある。
あの日は、たぶん後者だった。
こっちも硬かった。
そう見えてもおかしくなかったと思う。
でも、
冷たくしたかったわけじゃない。
ただ、店の外を一回だけ見たあとで、また同じ調子でベンチに座ったり、同じ顔で話したりするのが、
少しだけできなかった。
勝手な話だ。
遠ざけるなら、
ちゃんと遠ざけたほうが親切だ。
でも、
そこまできっぱりできるなら、
たぶん最初からあの子の声なんて覚えていない。
だから結局、中途半端な距離になる。
飲み物だけ買いに行ったのも、
たぶんよくなかった。
何か話したかったわけじゃない。
でも、顔は見たかった。
そういう半端が、いちばんよくない。
「これ、お願いしていい?」
あの短さで足りると思った。
短くしておけば、向こうも困らないだろうと思った。
でも、
たぶんああいう短さのほうが残る。
切ったつもりでも、切れていない。
切れていないから、中途半端なまま残る。
あの子は、そういう中途半端に気づくほうだと思う。
書く日には、
少し見られている気がした。
打つ日にも、
視線が残ることがあった。
そういうことに気づかないふりをするほうが、だんだん難しくなった。
書く場所なんて、
ほんとはどこでもいいわけじゃない。
静かすぎると書けない、
というのは本当だ。
人の顔が変わる、
というのも嘘じゃない。
でも、それだけじゃない。
同じ店に同じ声があると、
言葉の置き場所が少しだけ変わる。
無線の向こうから飛んでくる返事。
カウンター越しの短いやりとり。
忙しい日の足音。
そういうものが、
書いている時にまぎれる。
邪魔というほどではない。
むしろ、少し残る。
毎日あんだけ声聞いてたら。
あれは、
思っていたよりずっと本音だった。
声はわりと残る。
顔より先に残ることもある。
だから、いない日は少し静かだった。
来た日は、来た日で、また違う残り方をした。
その日の上がり際、
勝手口の外で一本だけ吸って、帰ろうとした。
ベンチは空いていた。
灰皿の金属は少し冷えていた。
店の中の音だけが、
ドアの向こうで遠く鳴っていた。
来ない日も。
来たのに遠い日も。
どっちも少し残る。
だったらもう、次はこっちから少しだけ動いたほうがいいのかもしれないと思った。
そう思った時点で、もうだいぶ遅い。
名前をまだ渡していないのは、
単なる意地だったのかもしれない。
あるいは、
名前を渡したら少しだけ本当になる気がしていたのかもしれない。
どっちでもいい。
どっちでもよくないけど、
今さら区別するほどでもない。
勝手口のドアが開く音がした。
振り返ると、あの子がいた。
仕事終わりの顔だった。
でも、完全に終わった顔ではない。
まだ少しだけ、店の中の温度を引きずっている顔だった。
そのまま帰るのかと思った。
思ったけど、
足はこっちへ来た。
また来るんだ、と思った。
近づいてきたその顔を見て、
こっちは少しだけ笑った。
こっちが何を考えているかなんて、
たぶん向こうにはわからない。
わからなくていい。
こっちだって、向こうのことを全部わかっているわけじゃない。
でも、毎日あんだけ声を聞いていて。
それでも、帰るほうじゃなく、こっちへ来る。
そこまで来るなら、もう少しくらいはいいだろうと思った。
「あの人」
そう呼ばれて、
少しだけ可笑しかった。
まだそう呼ぶんだ、と思う。
でも、その呼び方も嫌いじゃなかった。
「何」
「名前くらい、教えてよ」
それはたしかにそうだ、と思った。
少しだけ遅かったけど、
ちょうどいい気もした。
答える前に、一本だけ煙を吐く。
夜の空気は少し冷たくて、
ベンチの端はまだ空いている。
店の中じゃない。
ソファーでもない。
カウンターでもない。
勝手口の外だ。
こっち側なら、
少しだけ話しやすい気がした。
「来るか?」
そう言って、ベンチの空いたほうを軽く左手で示した。
指先で、端を一度だけ叩く。
「こっちに」
向こうは一瞬だけ黙って、
それからわずかに笑った。
それから、帰るほうじゃなく、
ベンチのほうへ来る。
隣に座る気配がして、
こっちは少しだけ息を抜いた。
「名前くらい、教えてよ」
もう一度そう言われて、
少しだけ笑った。
「名前、俺も聞いてなかった」
向こうが、
え、という顔でこっちを見る。
その顔が少しおかしくて、
今度はちゃんと笑った。
店の中では聞けなかったことが、
店の外なら少しだけ聞ける気がした。
名前は、そこからでよかった。
つづきはこちら
終章|名前のあと
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第8話|少し壊れる日
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