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ソファーの人は、書いている。#8|少し壊れる日

第8話|少し壊れる日

来た。
それだけで、少しだけ安心した。


その時点で、
もうだいぶ駄目だと思った。

勝手口から入ってきたその人を見た瞬間、胸の奥のどこかが勝手にほどけた。
ほどけたあとで、自分でそれに気づいて、すぐにまた嫌になる。

昨日はいなかった。
来ないだけで、あんなに静かになるなら、もう少しまずいところまで来ているのかもしれない。
そう思ったばかりだった。

なのに今日は、来た。
それだけで、
少しだけ店の中の形が戻った気がした。

ほんとに、少しだけ。

その日はスーツだった。

書く日ではなさそうで、ちゃんと打つ日でもなさそうな顔をしていた。
黒い手帳は見えない。
でも、いつもの荒い台に座るまでは少し間があって、島を一度見てから、結局そっちへ行った。

来た。
座った。
それだけで、昨日まで空いていた場所に輪郭が戻る。

そういうのが、もう面倒だった。

でも、そのあとが少し違った。

今日はやけに、目が合わない。

目が合わない、
なんて言うと、最初から合っていたみたいで嫌だけど。
でも、
少なくとも、ここ数日はあった。

カウンター越しとか。
喫煙所のベンチとか。
煙の向こうとか。
“たまたま”と言い張れるくらいの
一瞬なら、何度か。

今日はそれが、ない。

見られていないのか。
見られているけど、
向けられていないのか。
その違いはよくわからない。

ただ、
こっちばかりが見ている感じだけが、少し戻っていた。

戻っていた、というか。
前より痛い形で戻っていた。

その人は座ってから、
しばらく打たなかった。

液晶を見ているようで、
見ていないみたいな顔。
でも書く日の静けさとも少し違う。
落ち着いているようにも見えるし、
ただ機嫌がよくないだけにも見える。

島の音はいつも通りうるさい。
無線も飛ぶ。
客は客の顔をしている。
当たる人は当たり、
飲まれる人は沈む。

その中で、あの人だけが、
今日は少し輪郭が固い。

なんか、声を掛けづらかった。

いや、
いつも掛けやすいわけじゃない。
でも、今日のこれは、また別だった。

店の中を回る。
補充をする。
呼び出しに返事をする。
景品を渡す。
いつも通りのことをしながら、
何度かその人のいる島の近くを通る。

そのたびに思う。

今日は、違う。

その違いが、
昨日の不在より厄介だった。

いなければ、いないだけだ。
いないことに困るだけで済む。

でも、
いるのに届かない日は、
困り方の種類が変わる。

それが嫌だった。

昼を少し過ぎたあたりで、
その人はようやく少しだけ当てた。

大きく伸びる感じじゃない。
かといって、
完全に死んでる感じでもない。
台と距離を測ってるみたいな打ち方だった。

いつもの、勝ってるのか負けてるのかわからない顔。
でも、今日はそこに、
少しだけ“早く帰りたい”みたいなものが混じって見えた。

たぶん気のせいだ。
そう思いたかった。

そのあと、
その人が珍しく早い時間に立った。

喫煙所へ行くんだろうと思った。
実際、足はそっちへ向いた。
でも、途中で一度だけ立ち止まって、スマホを見ていた。

画面の光が顔の下半分を白くする。
それだけのことなのに、急に店の外の人みたいに見えた。

当たり前だ。
もともと外の人だ。

こっちのほうが勝手に、ソファーとか喫煙所とか、景品カウンターとか、そういう店の中の断片だけで組み上げていただけだ。

スマホを見ている横顔は、
その全部の外にあった。

そこで初めて、少しだけ怖くなった。

知らないんだ、と思う。
やっぱり、全然。

タバコの銘柄が同じでも。
書く日と打つ日が見分けられても。
着物で来る日を知っていても。
この人の外側は、
ほとんど何も知らない。

それが急に、ちゃんと見えてしまった。

その人は画面を閉じて、
喫煙所のほうへ歩いていった。
でも今日は、わたしは出なかった。

出られなかった、のほうが近い。

昨日はいないことを確認しに行って、今日はいるのに行けない。
そういう自分のほうが、
ほんとはいちばん面倒だった。

午後、
もう一度だけカウンターに来た。

今度は飲み物だった。
ホットじゃなくて、冷たいペットボトル。

「これ、お願いしていい?」

それだけだった。

声はいつも通りだった。
静かで、少しだけ力が抜けていて、
でもちゃんと届く声。

その普通さが、逆に困る。

来ない日があって。
来たと思ったら遠くて。
勝手にこっちがざわついているだけで、向こうは普通かもしれない。

そう思うと、
少しだけ恥ずかしくなる。

カウンター越しに、
何か言おうか迷った。

昨日いなかったですね。
今日は早いですね。
喫煙所、行かないんですか。
どれも違う気がした。

結局、何も言わなかった。

あの人も、何も足さなかった。

「ありがとうございます」

「はい」

それだけで終わる。

その短さが、今日はいちばん効いた。

短い、というより。
こっちに残るところだけ置いていく人みたいで、少しだけ腹が立った。

夕方の店は、
少しずつ帰る顔が増えていく。

勝った人の顔。
負けた人の顔。
今日はもういいか、の顔。
今日はまだ帰れない、の顔。

その人の顔は、そのどれにもぴったり当てはまらなかった。

ただ、いて。
少しだけ遠い。

それだけだった。

わたしは何度かソファーを見た。
今日は座らないみたいだった。
黒い手帳も出ていない。
喫煙所のベンチも、
一度見たけど空いていた。

来た。
でも、いつもの場所にはいない。

それが、また少しだけおかしかった。

人って勝手だと思う。
来なかったら困る。
来たら来たで、前と違うことに困る。

結局、何をしても面倒なのはこっちのほうだ。

そのくせ、向こうには何も伝わっていない顔をしている。
しているつもりだ。
たぶん、している。

上がりが近づくころ、
その人は景品も交換せずに立った。

そのまま帰るのかと思った。
でも出口の手前で一度だけ振り返って、島のほうを見た。

台を見るみたいな顔だった。
人を見る顔じゃなくて。
ちゃんと終わったかどうか確認するみたいな顔。

そのあと、目が合った。

合った、と思った。
たぶん。

でも、それだけだった。

こっちが何かを受け取る前に、
その人はそのまま出ていった。

自動ドアが開いて、閉まる。
いつもの音。
いつもの風。
それだけのことだ。

なのに、その日は、
出ていく後ろ姿だけが少しだけ残った。

来たのに、遠かった。

それを言葉にすると、
少しだけ惨めで嫌だった。
でも、
たぶん今日はそれが全部だった。

帰り道、喫煙所の前を通る。
ベンチは空いている。
昨日と同じように空いているのに、昨日とは違って見えた。

いないから静かなんじゃなくて、
いたのに遠かったぶん、
余計に静かだった。

その違いは、たぶん、
前より少しだけよくない。

ポケットの中のセブンスターを指で押す。
箱の角が、いつもより硬く感じる。

少し前までは、
ただのセブンスターだった。
今は、それに少しだけ、
あの人が混じる。

それだけでも十分面倒なのに、
今日はその上に、遠さまで乗った。

そんなの、
どうしたらいいんだろうと思う。

どうもしなくていいのかもしれない。
気のせいで済ませれば、それまでだ。
理由はいくらでもある。

でも、
理由があることと、
こっちが少し壊れることは、
たぶん別だ。

来ない日は静かだった。
来た日のほうが、
もっと困ることもある。

そういうことまで、覚えてしまった。

それはたぶん、あんまりよくない。

家に帰ってからもしばらく、
あの人の顔を思い出そうとした。
でも、思い出せるのは顔じゃなくて、距離のほうだった。

カウンター越しの短さ。
スマホの光。
喫煙所へ行けなかったこと。
自動ドアの向こうへそのまま出ていった背中。

そういう断片だけが、変に残る。

見つけるとか。
同じだったことに困るとか。
来るか来ないかを気にするとか。
そういうのより、
たぶんもう少しだけ先だ。

そこまで来てるのに、
名前はまだ知らない。
知らないまま、勝手に壊れている。

その順番も、少し嫌だった。

ベランダで一本だけ火をつける。
煙はいつも通りに上がる。
味もたぶん同じだ。
同じはずなのに、
今日は少しだけ苦い。

そんなの、ただの気分だ。
たぶんそうだ。

でも、
そうやって片づけるには、今日の遠さは少しだけちゃんとしていた。

気のせいで済ませれば、
それまでの話だ。

でも、
来たのに遠い日のことまで残るなら、
たぶん、それで済ませるには、
もう少しだけ遅かった。



つづきはこちら
第9話|こっちに、声の方から


前作はこちら
第7話|来ない日


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