【コルミノ私的昇華】これは、「あなた」の人生だよ。
はじめに
ついに最終回を迎えた、ドラマ『コールミー・バイ・ノーネーム』(通称:コルミノ)。
はァァぁぁああああーーー・・・・
Xでみなさんの感想を読む手が止まらない。首がもげそう。抱き合いたい。その肩で涙を拭きたい。
第八夜の感想(思考停止Ver.)は、以下に書いております。感情に任せた言葉の羅列にご興味があれば、飛んでください。
そのうえで、今の気持ち。
「散っ々に振り回された」
沼男にハマって精魂尽き果てたあの子の気持ちが、やっと分かった。
「楽しい」とか「面白い」とか「落ち着く」とか、そんな一辺倒な感情を抱かせてもらえない2ヶ月だった。しがみつくのに必死だった。
そして、2人は未来に進む。
私だけが、取り残される。
だから、「全体の感想」も兼ねて、私が4話あたりからずっと考え抜いてきたことをこの場所に残しておきたい。
琴葉の「宿命」と、私の「宿命」の重なりについて。そして、2人の「エンド」から私の「スタート」を。
これほど脳を圧迫する作品はしばらく出てこないと思う。だから、物語を「自分事として昇華」しておきたい。別れたくない。
ラストは、私視点で書きたい。
※このnoteは「トラウマの昇華」を目的としています。「長さ」はコルミノ1話分相当、「暗さ」はコルミノ第六夜相当です(当note比)。
合わない人はいつでも閉じて!
TVerでコルミノぶんまわして!!
(※2025/04/23追記)
TVerがもうぶんまわせないので(泣)、優秀なタクアンウオの友だちがまとめたコルミノメモ見て!
OP主題歌Ver.予告
公式HP↓
※本noteに貼り付けているドラマの「場面写真」は全て、上記の公式HP「あらすじ」から拝借しております。
【起】私の「宿命」
産まれた瞬間から決定づけられていた宿命
産まれた瞬間から決定づけられていた宿命
第二夜で、琴葉が口にしたこの台詞。
私の胸に、我が事のように染み入ってきた台詞。
琴葉と私が、重なった瞬間。

・・・
私の人生は、
家族や友人には打ち明けられない「特殊な性的嗜好」のもとに成り立っている。
性欲の対象は「人間」ではない。
「動物」でも、「モノ」でもない。
「それ」は大勢にとっては道端の小石のようにさりげないものだが、「私」というフィルターを通すと、何物にも代えがたい価値をもつ。
当てはまる言葉を、私は未だに持っていない。
「人間」を定義づけるのに手こずるように、「それ」をうまく言い表すことは、当の私でも難しい。
原因も理由も、わからない。
おそらく、存在しない。
生まれつきプログラムされていたとしか言いようのない、しかし私自身も未だに空を掴むような感触の「それ」の上に積み上がっていく人生。
毎日、誰(何)かと触れ合う度に重なる「わからない」をごまかすのに必死で、社会で自分を晴れやかに表現出来ず、居心地の悪さと隣り合わせで生きてきた。
ただ、この全身に満ちる「もどかしさ」を「宿命」と呼んだ時、それらが重みをもって沈み、空気の通り道ができた。
そして、ある「問い」が生まれた。
・・・
私は、自分の中に漂う「もどかしさ」に触れたい時、Uru の『振り子』を聴く。
(この歌は琴葉そのもの。お耳が寂しければ本noteのBGMにぜひ。)
冒頭の歌詞はいつも、私の埃をかぶった痛みに風をあててくれる。その「温かい痛み」で、息をついてきた。
薄汚れた網戸が ずっと目の奥にはまってて
青い空が見てみたくて 誰かに開けて欲しかった
この「薄汚れた網戸」は、つまるところの「宿命」であり、打ち明けられない「嗜好」であり、「呪い」である。
朝の浄化された空気に、天高くひらく青空に、胸が押しつぶされる呪い。
私は、この「呪い」から解放されたい。
痛みで息をすることを終わりにしたい。
愛に包まれた、琴葉のように。

ドラマを見進めていくうちに、
宿命に葛藤する琴葉は私自身であり、それを丸ごと包み込む愛(めぐみ/あい)もまた、私の人生に迎え入れることができると気づいた。
(私の中で「メグち」はもう人ではない。自分の人生に寄り添ってくれる〝母性のような温もり〟の擬人化。)
ずっと、宿命を「忌避したい」、いやいっそ「呑み込まれてしまいたい」、そんな相対する感情を振り子のように揺らし続け、瞬間的に均衡を保ち、自分をだましながら日々を流してきた。
自分に呪いをかけてきた。

でもそろそろ、決着をつけないといけない。
私にとっての「愛」を見つける努力をしなければならない。宿命に呑み込まれるのではなく、宿命を包み込む方へと舵を取らなければならない。
だからここで、コルミノの結末と私の行先を重ね合わせ、人生の「問い」をほどいていこうと思う。
・・・
コルミノの私的昇華と言いつつ、その材料(これまでの私の思考)には『正欲』という作品が切っても切り離せない。
『正欲』は、特殊な性的嗜好を持つ当事者を真正面から扱い、未熟な私に「呪い」をかけた、革命的な作品である。
私の呪いは『正欲』に沿って、
私の展望は『コルミノ』に沿って述べる。
加えて、私が何を性的対象にしているのかはこのnote内では明記せず、必要であれば「——」で表したい。(本当に、言葉を持ち合わせていない。)
何にせよ、私の嗜好は私だけが分かっていればよいことで、あなたにはあなたの対象があるはずだから。
(※ただ、私の「立ち位置」は以下の動画で紹介されているこの方に近い。私の嗜好もこの方と同じく現実世界には持ち込めず、人間への加害性もない。)
初恋のように曖昧で強制的な「それ」
「初恋はいつ?」
この質問に、どれくらいの人がすぐに答えられるのだろう。幼い頃は、震え立つ感情に「恋」と命名する思考回路はないので、思い出せない人も大勢いるはずだ。
もちろん、恋愛感情を持つことがない人もいる。
私も、人間に恋愛感情を抱いたことはない。
だが、「初恋はいつ?」には答えられなくもない。
おそらく「小学校5年らへん」だろうか。低学年ではない、中学生でもない、たぶん小学校4~5年あたり。
きっかけはない。
多くの人がわけもなくクラスの男子に、女子に惹かれていくように、私の場合はその対象が「——」だったというだけ。
恋と呼べるかは分からないが、それ以外を愛する選択肢をはじめから神様に奪われていた。
ある瞬間から、私の脳みそは夜な夜なそのことに費やされ、退屈な授業も専らその延長線上で暇をつぶした。
「——」が好き。
その一点を除いて、私は「みんな」と何も変わらない生活を送った。
ちょっとやんちゃだった。
中学生までは、自分が人と違うとか、そんな悩みはほとんど顔を出さなかった。戸惑いはあれど、葛藤には結びつかなかった。
おバカないじられキャラ。
「——」が好き。
それだけだった。
・・・
だが年齢を重ねるにつれ、真綿で首を絞められるように息がしにくくなっていく。
どんなに親しい相手にも自分の「根」を見せることができない歯がゆさ。大勢が立つスタートラインに呼ばれもしない「存在」の透明さ。
人間と繋がれないという孤独。
人生を1人で結ぶことが決まっている虚しさ。
そんなものに、ゆっくりと押しつぶされていった。
ひとりで、ひっそりと、深海に溺れていく人生。
共通言語がないから、誰にも感情移入ができない。
誰にも踏み込めない。踏み込ませない。
「好き」に、「好き」と返せない。
だって、その人のことが、「わからない」。
私の大切なものを語ろうとすれば、最終的に「——」に帰着する。だから上辺をなぞる。取り繕う。嘘をつく。口を開くことが、怖くなる。
からっぽな人間として、捨てられる。
「飽き性だよね」
よく、そう言われる。

「文化祭のポスター」みたいな清々しいまでの清潔さに出会うと、引き裂きたくなる。その太くて健全な根っこを、へし折りたくなる。絶望に目の奥が爆発し、その奔流を心臓に食い込ませながら「笑顔」をみせる。粗品のような、当たり障りのない言葉のストックだけが、増えていく。
どうってことない。まだ 、大丈夫 、
幸か不幸か、「傾聴」だけは上手い。
私は自分の話をする時、グジュグジュにぬかるんだ地面に足をからめ取られながら歩くような、そんな不安定さに襲われる。何かを話そうとした瞬間、言葉が泥のように重くなる。喉の奥に沈む、
だからつい、綺麗に固められた土の上を歩くことを選んでしまう。人の話の上で舞う。
培った「聞く体力」や「俯瞰スキル」は、マトモな人間に擬態するのに役立つ。一方で、自身の胸に手を当てる時間や勇気は、するすると萎んでいった。
だが確実に、私にももはや手を付けられない心の根幹部分で、呑み込まれた「言葉」は燻り続けている。たまに火花を散らすことはあれど、突然に火を噴くことはない。
そうやって静かに、私の中心を焦がしていく。
黒焦げになる前に、臓器をえぐり出すような醜いほど赤裸々な告白を、誰かに受け止めて欲しい。
私の「聴く力」は、他でもない自分自身に使いたい。
ファミレスの騒音を盾にコソコソとセックスの話をするような、そんな底抜けの無防備さが人生に欲しい。
ありえないと諦めながら、そんなことをずっと願ってきた人生だった。
【承】呪いとしての「正欲」
小説『正欲』(2021)に救われる
とにかく誰かと自分の嗜好の話をしたい。その一心で、大学生になったばかりの頃はTwitterで毎日のように発信をしていた。3000人のフォロワーがついた。何度も電話を繋いだ。
だが、その3000人の中には誰1人として私と同じ嗜好の人はいなかった。みんなちがって、みんなきもちわるかった。
それは当然のこと、好きなタイプが十人十色であるように、運命の人は得てして一人しかいないように、私の嗜好は私だけのものだった。
私も、そのきもちわるさを、抱きしめていた。
たとえ同じ嗜好の人と出会っても、その人とは真の意味では繋がれない。私が繋がれるのは「——」だけであり、人間ではない。その人と(精神的な)恥部を共有することはできるだろうが、そこどまりである。
そして、そんな「希望」を夢見ることさえも私には許されないのだと悟った。
だから、Twitterは消した。
・・・
コロナ禍で孤独を深めていた時、私は朝井リョウの『正欲』(2021)に出会い、のめり込んだ。
『正欲』に登場する主要人物のうち、3人は「水」を性的嗜好としており、私と同じく人間とは交われない体質である。
何の遠慮もなく水が飛沫をあげる映像。それを見ていると、夏月は、感情を表現するときに用いるすべての言葉と言葉の隙間が、粘っこい何かによって一気に埋め尽くされるような気持ちになる。
この小説の随所に、彼らの「人生をかけて熟成してきた思考」が散らばっている。
そして、彼らの人生は私の人生である。
その内なる心情を聴くことは、私にとって失った青春が手元に帰ってきたような、この上なく贅沢で、至極「ありふれた」時間だった。
それは成人式の帰り道、車の中で着物の帯を緩めた時のあの「解放感」に似ていた。肺へと空気が一直線に流れる、あの心地よい冷たさ。飾らなくてもいい安堵。
私はここにきてようやく、自分をさらけ出すための共通言語を得た。なんでも話せる、心の友を得た。
ページをめくるごとに、彼らの思考と自分の内面が限りなく重なり、まるで鏡を覗き込んでいるような感覚に陥る。
体全体を覆っていた霧が彼らの明瞭な言葉によって晴らされ、急速に視界が開ける。
寝かされ冷めきった「あの頃」に、熱がこもる。
私が憧れたファミレスでの本音トークが、まさにいま。
あなたは「水」がすきなのね
わたしは「——」がすき、それで…
言葉が沈まない。固い地べたに腰を下ろして「おしゃべり」ができる。彼らの仕草から何からすべてが共鳴し、モノクロで味気なかった「わたし」に色と温度がついていく。
ああ、言葉をもって感情に尽くすと、これほど救われるのか。私は自分の人生に初めて、手触りを感じた。
登場人物たちは、同じ嗜好を持つ人間同士で「コミュニティ」を作り、社会をサバイブしていこうと試みていく。そうやって「人間の繋がり」にまとまっていくストーリーにも、この頃は諦める余裕があった。
本は、常に手元に置いた。
紙がよれるほど、グレーのマーカーで大量に印をつけた。風呂の湿気で濡れては乾き、ページをめくる度にパリパリと音がした。カバーを外した表紙は手垢で光っていた。
いつでも話を聞いてくれる友ができた。
それが、たまらなく嬉しかった。
映画『正欲』(2023)で呪いを辿る
観る前の自分には戻れない

https://eiga.com/movie/97872/
2023年11月10日、稲垣吾郎や新垣結衣、磯村勇斗らをキャストに迎え、岸善幸監督により映画化された『正欲』(上映時間134分)。
当時を思い返すと、浮き足立ちながらも、原作ファンおなじみの「実写化アラート」がけたたましく鳴り響いていた。そしてお気持ち整理に1週間を費やし、私は11月16日に鑑賞する。
結果として、私は映画が持つ「客観性」に牙を向かれ、おそらく宣伝文句も意図していなかった角度から「観る前」の自分に戻れなくなった。
・・・
私は映画館で、マジョリティがマイノリティの生態をガラス越しに覗いて描いたような、「観察記録」のようななにかを見、友が消費されていく様子を味わった。
それほど、(こと、この映画に関しては)映像によって零れ落ちるものは多かった。
彼らの海のように深い思考や得体の知れない神秘さは、鬱屈した視線や諦めの表情に落ち着いて観客に届く。
観客はそれを、「マイノリティ」として持ち帰る。
スクリーン越しに彼らの「切り取られた姿」を眺める観客は、動物園の「しなびたトラ」を見て、トラそのものを半ば無理やりに咀嚼する来園者のようだった。
ガラスの中でぐるぐると歩き回り、野性味や本能を失った(ようにみえる)トラ。
そこに覚える、一抹の虚しさ。
このトラをガラスの中に押し込めているのは自分たちだという罪悪感に、わずかに震える心。
だが、その胸のつかえをあえて掘り進めず、「トラを見た」という逞しい経験だけを携えて動物園をあとにするのが人間だ。体裁として、シャッターを切って。
私は、野に放たれた自由なトラを知っている。彼らの生き生きとした欲望や本能を知っている。
それが醜く、そして美しいことも。
でも、ガラスの内にいるトラは表現する場を持たない。そして、観客には伝わらない。

「観る前の自分には戻れない。」
私はずっと「観た後」の世界で生きてきた。だがついに、「観る前」の世界がとらえる自分を、その世界で自分が置かれた立場を、直視しなければならなかった。
フッと暗転したスマホの反射ではじめて自分の「存在」に気づくように、私は私自身の枯れた〝外面〟を、まざまざと、2時間、見せつけられた。
友と一緒に、しなびたトラとして、消費された。
・・・
呪いの理由は、それだけではない。
『正欲』では、
宿命を「社会的なつながり」で乗り越えていく。
主人公らは中学時代の同級生であり、同じ嗜好を持っている。そして、手を取り合って渡っていく。
私はこの設定を映像で見た時、
マラソンで「一緒に走ろうね」と約束した友が私を置いて先に行ってしまったような、この先何かへ「期待」することを無条件に吐き捨ててしまいたくなるような、薄暗い諦念感に包まれた。
私は、琴葉と愛の邂逅について非常に肯定的だ。

その理由は、第一夜の感想で以下のように述べた。
学校で出会うとか職場で再会するとかそういうありふれた出会いは、マイノリティにはきついんです。そういうのに諦めをつけてきた人生だから。
それよりも、現世では望めないような、でもありえないことではないような、そういう出会いの方がもはや現実的で、なんというか、喜んで諦められるというものです。
運命の人が思ってもいないほど身近にいることは、もちろん有り得ないことではない。だが、私はその運命を、私が迎合してきた「社会」の中に見出したくなかった。
願うだけ無駄だと、これまでの人生をかけてやっと自分に落とし込んだのに。
この映画にも、諦めないといけないのか。
もちろん、小説と映画は全く変わらぬストーリーである。ただ、文字と映像ではあまりにも(私自身が)選別できる情報の範囲・質量が違った。
私は、小説を読みながら、自分の心情が丁寧に表された文章にマーカーをひき、何かあれば薬のようにその部分のみを読み返していた。
彼らの葛藤とのみ、対話していた。
そこに起承転結は必要なかった。
私は、彼らの歩みから、目を背けていた。
だから映画として、2時間強のまとまりのあるものとして主人公の人生を直視した時、何故か急に、突き放された気がしたのだ。
同じ山を登っていたのに、向こうにだけ命綱がついていることに今更気がついたような。
画面の向こうの友が眩しい。
根が、
きつく、きつく、締まっていく。
without you
誰かが手を差し伸べていたって
without you
眩しい光を眺めた目では見えない
私は2時間、映画館の暗闇に沈んで泣き通した。
体を貫いていたのは、丁寧に糊付けした手紙を赤の他人に無理やり破り開けられたような、乱暴な痛みだった。
決して映画を否定しているわけではない。小説の映画化としては、佳作なのだろう。
重力のない透き通ったシーンも存在した。
・・・そこには必ず、「人間」がいたが。
このまま人間と手を組めなければ?
…私は醜いままなのだろうか
人は人により生かされている?
黙れ
黙れ黙れ黙れだまれ
じゃあ
こっちにきてみろよ、
・・・
帰り道のバス、泣き疲れてぼんやりとした脳で誓った。
自分の内側で輝く純粋な「正欲」を、自分だけは守ってやる。誰にも踏み込ませない。
自分ではコントロールしようもない宿命が、これ以上汚れないように。
宝箱を用意する。
「——」は私を身体の芯から震わせる、その事実に唾を吐かれないように。
鍵をかける。
私は孤独に自ら飲み込まれることを選び、再び周りを拒絶する体制を整えていった。自分の中に沈むことを選んだ。
SNSがのたまう「令和の幸せ」に、スクロールの指を早めた。無数の手垢とマーカーに塗れた小説も捨てた。
あの物語に期待した自分ごと、捨てたかった。
宝箱と鍵さえ手中にあれば、それでよかった。
好きに喋ってよ
いくらでも聞くから

【転】呪いを解いた「コルミノ」
琴葉としての日々
私の一人暮らしの部屋には、異様なほどモノがない。
映画から一年。私は、私自身と「——」だけを残して、孤独の中に引きこもった。生活のために必要な最低限のモノだけを選別し、あとは全て捨てた。「——」と心中するつもりだった。
分厚い扉の中に、内側から鍵をかけて閉じこもった。誰かが手をかけるためのドアノブも、外してしまった。
ゴミに埋もれる琴葉は、からっぽな空間に1人たたずむ私と重なる。自分を守るために、この世のものすべてを拒絶する。
すべてを同等に不要なものとして扱えば、触れ合わなければ、期待しなければ、絶対に傷つかないから。

私は宿命に呑み込まれた。
心中する対象が生まれつき定められていることを、「幸福」だと必死に信じ込んだ。
物心ついたときから、自分を間違った生き物だと認識していた。この星の異物だと街じゅうから思い知らされてきた。そのおかげで、自身の迷いを誰かと確かめ合う必要がなかった。誰かにわかってもらうことも、誰かをわかることも、端から諦めていた。 それは実は、とても幸福なことだったのかもしれない。
この比較ばかりが強要される社会で、恋愛や趣味は個人のアイデンティティと密接に結びつく。「いいね」がつけばつくほど、その濃さは深まっていくように感じる。
そういう社会から、私は生まれつき弾かれている。
私の嗜好に「いいね」がつくことはない。
私のアイデンティティには誰にも手を出せない。
比較のしようがない。
誰の手垢もつかない。
この事実は、逆説的な意味で社会から私を守る盾になった。
・・・
2024/12/31 23:00
私は明かりを落とした部屋でNetflixを開き、『正欲』を再生した。
映画中盤、彼らは除夜の鐘を聞きながら、人生の虚しさを語る。自殺を試みるはずだったホテルの一室で。
私は、彼らの「諦念」に触れながら2025年を迎えた。
あれほど傷ついた物語を、手放せなかった。
温かい痛みに、自らすがった。
それは孤独に浮かぶ、一束の藁だった。
愛に出会って
コルミノED主題歌:yonige『Without you』
without you
癒えていない傷を優しく撫で、思う
without you
なかったことにしなくて良いって、思う
だが、
宿命にもがく琴葉をみて、
遅々として心を開かない琴葉をみて、
それでも寄り添い続ける愛をみて、
氷が溶けるような速度でほどける琴葉をみて、
ようやく気づいた。
私の固く絡まった宿命も、根気強くその結び目を見つけてほぐしていけば、いつかは1本の「釣り糸」のように私を引き上げてくれるかもしれない。
私を、すくってくれるかもしれない。
私は、琴葉が何度顔を背けようと、めげずに覗き込んでくる愛の目が好きだ。


この目を、私自身に向けることができれば。
何度も胸の中に落ちていく声にならない叫びを、諦めずに拾うことができれば。自分に沈むことなく、対等に触れ合うことができれば。自分を見つけてあげられれば。
私の「聴く力」を、自分に使うことができれば。
自分に浸る限り、人間は孤独を超えられない。
私は孤独を超えて、人生と対峙したい。
琴葉が愛に手を差し伸べた先に、
自らの人生を見つけたように。
足りないピースを探すのは
自分じゃないと意味が無いの
you know
愛のようにぶつかる
「コルミノ」と「琴葉」は似ている。
こちらから掴みにいかないと簡単にすり抜けてしまうところ。十分な説明もしてくれないし、近づいたと思ったら遠ざかるところ。強烈な魅力を放ちながら、どこか私たちを突き放すところ。「わからない」に塗れているところ。
覗けば覗くほど、新しい一面が見えてくるところ。
だからこそ、
全身全霊で愛したら、
私のトラウマを曝け出したら、
いつの間にか肯定されていた。
愛で宿命を包む生き方を授けてもらった。
自分の中に、手を伸ばす勇気をもらった。
その余白に、引きずり出された。


だから今、私はこの文章を書いている。
愛のような包容力を、自分に向けている。
孤独を超えていくために、
痛みで息をすることがないように、
自分の宿命にすがらなくてもいいように、
私は私の人生に初めて、手を伸ばしている。
孤独を飲み干し、愛を吹き込んでいる。

二人で痛い目を見よう、
あなたの孤独は僕が飲み干すから。
抱えてきた呪いの名前を、
全部教えて。
「原因」
「治し方」
「犯罪」
サジェストに連なる、向こう側の言葉。
「気のせい」
「歳をとったら」
「出会ってないだけ」
肩にぶつかる、私以外の言葉。
見る度に、聞く度に、揺れ動く。
私の人生を根もとから引き裂くその言葉たちに、自分が自分ではなくなるその言葉たちに、私は言い返すことができない。
歪んだ根を晒す時間も、勇気も、持ち合わせていないから。そして、そんな根っこの定義を、あろう事か私自身が知らないから。私も、私がわからないから。誰とも、確かめ合うことができないから。
あの瞬間に「原因」はあったか。
この数十年は「気のせい」の積み重ねか。
何回も辿った自分の人生を、与えられた言葉で再び辿り直すことしかできない。答えなんて、でるわけがない。
でも、積み重なる「痛み」だけは、確かにこの胸に刻まれていて。
それだけは、私の言葉で、語りたい。
これだけ文字を連ねても、「根」を見せることは出来ない。好きな「——」について語ることは出来ない。比喩でしか、この痛みを伝えられない。ありのままではいられない。
それでも、未熟な自分が感情のままに書き殴ったぐちゃぐちゃな手紙の封を優しく切って、丁寧に丁寧に読み込んだ。
これまでに溜まった澱をすべて吐き出した。
呑み込んできた怒りも、虚しさも、悲しみも、ぜんぶを肯定して。涙にして。
私は、語れない「痛み」を、語りたかった。
この「感情」を、抱きしめてほしかった。
見つけてほしかった。

私はこのドラマが8話完結だったからこそ、救われたと思っている。
4話から約1ヶ月、琴葉とともに宿命と向き合った。その間、コルミノは本当に良い塩梅で、私の思考に相槌を打ってくれた。いつもなら呑み込んでしまう話も、その余白と気持ちの良い相槌に引きずり出された。
これが映画なら2時間の体験に凝縮されてしまうし、8話以上だと琴葉を通しておそらく自分に絶望してしまうだろう。(身が持たない)
8話だからこそ、心を開けた。
寄りかかろうと思えた。
胸の奥深くに潜っていた燻りが、いまようやく手元にある。風通しがよすぎて火を噴くこともあるが(この1ヶ月、些細なことで泣いてしまう)、そんな弱さもアリかもしれないと、今は思う。
私はちゃんと、ここに在る。
存在の証明を、ここに残す。
わたしはここからは
弱いままで強くあるよ
without you
癒えていない傷を隠すのはもうやめた
【結】琴葉のように手を伸ばす
琴葉がゴミ捨て場で愛に差し出したあの「手」は、私にとってこの「言葉」。「書く」ということ。
ポーチに残された、最後のアイテム。
手を伸ばさなければ、誰にも届かないから。

「愛」は、ひとりの「人間」とは限らない。
こちらから手を伸ばした時に、その手をすくい取ってくれる「なにか」そのものだと思う。

人と繋がれないからといって、すべてを諦めて孤独にすがらなくてもいい。自分で自分に寄り添えばいい。こちらから手を伸ばせばいい。すくい取られた手は握り返せばいい。怖がらなくていい。飲み込まれなくてもいい。
「ふつう」なんてない。
「清潔」なんてない。
「正解」なんてない。
マトモにみえる私が、マトモに脅えるように。

私はまだ、私がわからない。
幸せの価値も、わからない。
貰った「好き」にも「嫌いじゃないよ」が精一杯。
でも、「自分」を生きるために。
本当の「名前」から逃げないために。
たくさんの「わからない」に、ぶつかって
自分を超えた先へ、手を伸ばす。
自分が「正解」の側にいないことのさみしさに、かわいい服を着せてあげられたら かち。
私は、私と、幸せになる。
死ぬまで、挑み続ける。
だから、痛みを手放して。
これは、「あなた」の人生だよ。

思っても、悔やんでも、
残り香が消えぬ夜
体が覚えた君を手放す時だ
今さら「会わなきゃ良かった」
なんて思わない
『コールミー・バイ・ノーネーム』ED主題歌ver.予告
その手を、掴めますように。
末筆ながら、
原作を書かれた斜線堂有紀先生をはじめとして、『コールミー・バイ・ノーネーム』に携わられたすべての方々に、心から感謝いたします。
この作品が「届いた」うちの一人として、与えられた愛と同じ質量の愛を、ここに残します。
暗闇にいるどこかの誰かの光になると信じて、皆で大切に向き合ったこの作品が、もしかしたら届いているのかもしれないと思わせてくれる日々です。感謝。 https://t.co/fw5rlcNxmx
— 枝優花 (@edmm32) February 23, 2025
ここまで読んでくださった方、私の自傷行為にも近い、無様で赤裸々な吐露を受け止めていただき、大切な時間を割いていただき、見つけていただき、本当にありがとうございます。
「愛」はあなたです。
いつかどこかで、巡りあえますように。
その手を、掴めますように。
<ちょっとだけ>
このnoteからは、不幸に縋り付くような、自己陶酔のような気持ち悪さを感じるかもしれません。可能な限り言葉を尽くしましたが、誰かを傷つけたり、不快にする可能性があるかもしれません。私も、そういった「主観」が持つ無自覚な暴力性に傷ついてきたので。
わからないことばかりです。
でもこのドラマを通して、
わからないものって、ほんとは美味しいんだよ。
の意味はわかりました。もっともっと、わからないことに出会いたい。もしご指摘等がありましたら、お気軽にコメント頂けますと幸いです。
枝監督ロスの野球部員の方は以下をぜひ。
孤独を孤独で包む「愛」が描かれています。
ショートフィルム「solitude ability - 過去と未来の間 - 」/ 枝優花 × 伊藤万理華 × Karin.
どんだけ足掻いても、
寂しいもんは寂しいですね。
でもコルミノに喰べられコルミノを喰べたので、私たちは、きっと、今日を越えられる。
#自分やれます ‼️

※2025/04/26追記
枝監督の過去コラムに救われたのでここに…
○自分と向き合う、ということ |枝優花(2022)
