紅椿
夢か、うつつか。
風に揺れる白いレースのカーテン。母の声。季節の匂い。
そんな何気ない日々の中で、私は不思議な夢を見る。
夢の中で出会ったその人は、やがて遠い記憶へと繋がっていく。
*加筆・修正を行った版です。
休日の昼下がり、明け放した窓からは心地よい風が入り、白いレースのカーテンが、ふわりと膨らんでいる。
外では遠くに子どもたちの声、
下では向かいのおばさんと母の声もする。
ふいに、うたた寝から目が覚めた。
微睡んだままレースのカーテンが揺れるのを眺めていた。
その夜、私は夢を見た。
昼間のうたた寝で見た景色が、目の前に広がった。
うたた寝の「夢」で出会ったその人は私の部屋にいた。
黒く長い髪を枕に乗せ、目を閉じ静かに横たわっている。
肌は雪のように白く、組まれた両手の指先は桜色だった。
口元からは微かな吐息を感じる。
私は彼女の横に座り、寝顔を見つめていた。
夜のほどろ、ふと目が覚め部屋を見渡す。いつもの和室に私一人、褥には彼女の姿はなく、夢だったのかと妙に淋しさだけが胸に残った。
*
青空広がる初夏の頃、
衣替えをしていると家の電話が鳴った。いつもならすぐに母が出てくれるのだが、今日は向かいのおばさんと買い物へ出かけている。
「はい、はい、今でます!」
階段を駆け下りて、慌てて受話器を取る。
「はい、もしもし」
「久しぶり」
この声…聞き覚えがある。学生の頃の記憶が一気に蘇る。
声の主は、大学のサークルで一緒だった先輩の杉山さんだった。
「杉山さん、ですよね?お久しぶりです」
「声だけでよく俺だってわかったね。」
何年ぶりだろう、受話器の向こうから聞こえてくる杉山さんの声は、学生の頃と変わらない。
「突然なんだけど、今日の夜とかって空いてる?」
コードにクルクルと絡めていた指が止まる。
「え? 今日、ですか?ずいぶんと急ですね。」
突然の電話、急な誘いに戸惑いつつも、なぜか不思議と断る気になれなかった。
「いいですよ、明日も休みだし。」
夜19時にサークルの皆でよく行っていた居酒屋で待ち合わせた。
店には私のほうが先に着き、一番奥の二人席に案内された。
置いてあるメニューを眺める。
「ここ、まだやってたんだ。」
ここはお刺身と焼き鳥の塩が、美味しい。
杉山さん、まだかな。
集合時間にはいつも遅刻してたっけ。遅刻グセまで学生の頃のままだ。
しばらくして杉山さんが店に入ってきた。一番奥の私に気づいて、足早にこちらに向かって来る。
「遅れてごめん!あと急に呼び出してごめんな。」
6年ぶりに目の前に座ってる杉山さんは、学生の頃と変わらない 。ただ前よりも肌が少し白かった。
「いえ、大丈夫です。杉山さんは相変わらずですね。」
「お前は、少し大人っぽくなったな、社会人って感じがする。」
とりあえずビールで乾杯し、焼き鳥の塩を注文する。
「やっぱりここの焼き鳥は塩だな、タレもいいんだけど、この店は塩だな!」
そう言って串に残っていた焼き鳥を、がぶりと一口で食べ、ビールを流し込む。
顔をクシャっとして笑う、長くて少しゴツゴツした指、学生の頃と重なった。
「ああ、そういえばさ、確か日本画、好きだったよな、緑色の目をした猫の…」
「班猫。」
「そう、それだ。」
「最近、日本画展のチケットを仕事先からもらってさ。
俺、美人画展って聞いたから見に行ってきたんだ。」
「どうでした?」
「いや、どの美人画もすごく繊細な筆使いで奥行きも感じられて…」
「それで、ある絵の前まで来たときなんだけど、
長い黒髪が目に飛び込んできてさ。本当にそこに佇んでいるんじゃないかと思うほどだったよ。」
「でさ……」
照れくさそうに茶色い手帳をポケットから取り出した。
「杉山さん、その手帳まだ使っていたんですね。」
学生の頃、杉山さんはその茶色い革の手帳を持ち歩いていたのを覚えている。
手帳を開いて私に見せてくれた。
「黒髪美人?」
そこには詩のような文が書かれている。
黒髪美人
靭やかで艷やか
長い黒髪に縁取られ、
透けるような肌、
景色を映す漆黒の瞳、
薄桃色に染まる頬、
優しく微笑み佇む姿は、
夢か、うつつか
「気づいたら書いていたんだよなぁ。」
「詩を書くなんて意外です。」
私は 文字を指でなぞり、この詩を何度も読み返した。
他愛もない話をしながら何杯かお酒を頂く。
「もうこんな時間か、今日は来てくれてありがとう。」
そう言って杉山さんは、どこか淋しそうに笑った。
「あの、杉山さんが書いた詩の美人画は、誰の作品ですか?」
「いや、それが覚えてないんだよ、誰の作品だったのか、作品名も。」
「そうですか…」
「思い出したら連絡する。」
展示会に行ってみようかとも思ったけど既に終わっていた。杉山さんが思い出してくれるのを待つしかない。
家に帰ると、帰りの遅かった私を母が心配して待っていた。
「こんな時間まで帰らないなんて珍しいじゃない」
「言っていなかったっけ?今日、久しぶりに連絡がきて、学生の頃の先輩だった杉山さん。」
「…え?」
母は、私に聞き返した。
「ほら、サークルの皆と何回か、家にも来ていた杉山さんよ、覚えてない?彼と会っていたの。」
母はしばし黙って聞いていたが、
一瞬、表情を曇らせた。
私はそれに気づくことなく、少し酔っていたため会話もそこそこに2階の自室へ向かう。
久しぶりに会った杉山さんは、相変わらずの笑顔と話し方…。
思い出してクスッと笑ってしまった。
その日の夜は、いつもよりもぐっすりと眠れた。
でもその日以降、私はあの夜と同じ夢を定期的に見るようになった。
いつも同じ、彼女が私のそばで静かに横たわっている。
まったく同じ夢だと思っていたが、ある日、夢の中でふと違和感に気づく。
髪が伸びているような…。
その後も定期的に見た夢の中で、私は注意深く彼女を観察するようになった。やっぱり髪が伸びている、指先の爪も少し伸びている。
彼女は眠ったまま起きることはなく、私も起こさなかった。
*
夏の終わりが近づく頃、
会社から帰宅するといつものように出迎えてくれた母の顔色が少し悪いことに気づいた。
心配して声をかけると、昨夜、久しぶりに昔の夢を見て、夜中に目が覚めてしまい、そのまま眠れず寝不足なだけだと、笑う母。
そんな母の背中を擦りながら、どんな夢を見たのかと尋ねると、ちゃぶ台で煎茶を入れながら、母が話し始めた。
母は5人兄弟の長女だった。裕福とは程遠い家庭環境で育った母は中学生の頃、、昼休みは一人、水を飲んで空腹を紛らわしていた。
学校を卒業してからは来る日も来る日も兄弟達のために必死で働いた。母の弟三人と妹は、無事に会社勤めをし、やがて家庭を持った。
叔父たちは母に頭が上がらない。
そんな家庭環境の中で、母がまだ小学生の頃、6人目の妹が生まれた。末っ子になる妹は、兄弟妹や両親に似ておらず、赤子ながら色が白くて、まつ毛が長く、とても綺麗な顔立ちをしていたという。
手のかからない子で、母はその末っ子の妹をとても可愛がっていたそうだ。
あるとき、風邪をこじらせて妹は呆気なく、亡くなってしまった。
木の蜜柑箱を棺の代わりにして家族だけで弔った。
母は皆から離れ、柱の陰で声を殺して泣いた。妹は、まるで眠っているように見えた。
穏やかで綺麗な死に顔を見ながら、母はその柔らかい頬を指先でつつけば、目を覚まして笑ってくれるんじゃないかと本気で思ったそうだ。
私は、その妹の名前を尋ねた。
「長子、9月に生まれたから長子にしようと父が言ったの。」
「長子が夢に出てきてね、私にお姉ちゃんって笑顔で話しかけてくるのよ、長子は1歳にもなれなかったのにね、夢の中のあの子はとても綺麗だった。」
そう話してくれた母は煎茶を一口飲み、湯飲みに両手を添えたまま俯いた。
「あらやだ、夕飯がすっかり冷めちゃったわね、温め直してくるから待ってらっしゃい。」
そう言って台所へ引っ込んでしまった。
私は湯呑みを見つめながら呟いた。
「長子…」
*
秋の気配が近づく頃、
空気が少し冷たくなり、空が高くなった。夏ももう終わりかな。
そういえば、居酒屋で会って以来、杉山さんから連絡はなかった。
焼き鳥を美味しそうに頬張る、あの顔をクシャっとする笑顔が懐かしい。
*
冬の気配が近づく頃、
空気が澄み、夕焼けの茜色に見惚れてしまう。
私はまだ夢を見ている。
ただ違ったのは、私が彼女にどうしても触れてみたくなったことだった。
起こしてしまったら?
そんな葛藤の中、彼女のそのしなやかに伸びゆく黒髪に指を伸ばし、そっと撫でてみる。ふっと彼女の指先が微かに動いた。
黒髪は、艶やかで少し冷たかった。指にはその感触が残っている。
*
雪も降り出す睦月の頃、
朝、布団の中は春のような暖かさで、そこから抜け出すには少し時間がかかる。
「早く起きないと、遅刻するわよ〜。」
下から母の声が響く。仕方ない…起きるか。意を決して布団から離れる。
「うぅっ、寒い。」
顔を洗って身支度を整え、階段を下りてゆく。
「おはよう。」
「おはよう。ほら、早く朝ごはん食べなさい。」
そう言って母は寒さもなんのその、ちゃぶ台へ朝食を揃えてゆく。
「いただきます。」
大根のお味噌汁が身体の中から温めてくれる。やっと頭が起きてきた。母が煎茶を入れてくれた。
「今日は雪が降るかもしれないって、テレビでさっき言っていたわよ。」
「え、雪? 帰りに降らないといいんだけどな。」
朝食を早々に済ませ、玄関へ向かう。母から折り畳み傘、マフラー、手袋を次々と手渡される。
「お母さん、過保護!」
「だって、いつも持っていくの忘れるから。」
玄関を開けると冷たい空気が流れ込んできた。
外に出ると朝に似つかわしくない、灰色の空が広がっている。吐く息も白く、足早に駅へ向かう。
駅のホームへ滑り込んできた電車に乗りこんだ。暖房の暖かさにほっとする。
夢は変わらず、見ている。
窓の外の流れゆく灰色の景色を眺めながら、ぼんやりと昨夜見た夢を思い返していた。
ああ、また髪が少し伸びている。
部屋の隅にある鏡台の引き出しからそっと、つげ櫛を取り出す。つげ櫛には椿油が染み込んでおり飴色の艶を帯びている。見ただけで丁寧に手入れがされているのだとわかる。
私は、そっと彼女の髪を手にとり、つげ櫛を入れる。黒髪からは、仄かに椿油の香りがして一層、艶を増す。
髪を梳かしつけたあと、彼女は相変わらず小さな寝息を立てている。
ガタタン!
電車が止まり自動ドアが開くと皆、足早にドアへ向けて動き出す。私もその流れに乗って駅へ降り立った。
「帰り、雪が降らないといいけど。」
雪の降り出す夜、
「ただいま。」
玄関で傘の雪を払っていると奥から母が出てきた。
「お帰り、寒かったでしょう。」
「雪、このままだと多分、積もるんじゃないかしら。」
しんしんと音もたてずに雪は降り続いている。
私は、また夢の中にいた。
彼女は変わらず私の褥に横たわり、目を覚ますことはなく静かに眠っている。いつものように、和室の隅にある鏡台の引き出しから飴色のつげ櫛を手にとる。
ん?引き出しの奥に何かある?
「紅?」
今まで何度も引き出しを開けていたのに、紅には気づかなかった。
金箔の張られた貝殻の内側に深紅の紅が塗り込められていた。
この紅を、彼女の唇に差してあげたらどんなだろうか。
私はつげ櫛で髪を梳かしつけたあと、貝殻の紅を指先に取った。
そっと、彼女の唇に指が触れる。柔らかで少し冷たい。
すっと指を引いて紅を差した。
雪のように真っ白な肌、そこに一点だけ、紅の花が咲いているように見えた。
ふっと視界が真っ白になる。周りを見ても全てが真っ白だ。
足元を見ても真っ白で、見上げれば静かに雪が降っている。
私の頬についた雪は、冷たい感触の後すぐにとけてしまった。手のひらに、ひらひらと舞い降りた雪も一瞬で消えてしまう。
「え…? 外にいる?」
はっ、彼女は?私の部屋はどこ?
慌てて辺りを見渡しても、どこまでも真っ白な世界が広がっている。彼女は見当たらない。
かすかに赤いものが雪の陰から、ちらちら見える。
駆け寄るとそこには、紅い椿の花が雪の中から顔をだしている。
そっと拾い上げ、手のひらに乗せて、紅い椿の花弁を一片ずつ指でなぞってみる。
「冷たい…」
そう呟くのと同時に、紅椿はまるで手のひらに舞い降りた雪のように、跡形もなく消えてしまった。
指先に、触れた時の冷たさだけが残っている。
ただ静かに雪だけが降り続いている。
〈紅椿〉
〈夢か、うつつか〉へ続きます
