理系なのに九九を言えないと気づいた日[リライト版]
*自由研究についての記事を続けて書いてみたところで、是非振り返ってリライト版を差し込みたいと考え、本日はこちらの記事としました。
たまたま入った飲食店のテレビに、8×4の答えが言えない“おバカタレント”が映っていた。
本当にわからなかったのかどうかは分からない。
その場での僕と友人(文系高学歴)の会話。
友「こういうの見ると、学校教育の敗北を感じるな」
僕「掛け算九九って、まだスラスラ言える?」
友「当たり前だろ。口が勝手に動くよ」
僕「……俺、多分無理」
友「え、理系のくせに? 嘘だろ?!」
僕は、自他ともに認める理系側の人間だ。
そして、性格が悪い。
その性格の悪い僕は、こう考えた(もちろん口には出さない)。
「掛け算九九を全部まだ言えるなんて、逆に大丈夫か?」
もちろん、これは九九を言えないことの言い訳である。
ただ、よく考えてみると、僕は昔から「覚えられない」のではなく、必要性に納得できないものを覚えたがらないところがあった。
今回は、九九をきっかけに、その妙な記憶の仕方を振り返ってみる。
「九九を言えない」は、暗記が苦手という話なのか
小2の頃、算数が好きだった僕は、クラスで一番に九九の暗唱テストに合格した。
ところが、小4の頃には、もう九九をスラスラ言えなくなっていたと思う。
ここだけを見ると、「九九を忘れた人」の話で終わる。
でも、僕の場合は少し違った。
8×4を聞かれても、4×8に置き換えて計算すればいい。
九九は対称だから、半分覚えておけば日常で困ることはない。
そして実際、僕は九九を忘れた一方で、二桁の素数同士の掛け算など、必要性を感じた数字は今でもかなり覚えている。
では僕は、暗記が苦手だったのだろうか。
それとも、「覚える必要がある」と自分が納得したものだけを覚える、面倒な人間だったのだろうか。
◼️僕の記憶は「暗記能力」より「必要性」で決まっていた
① 概念定義
暗記が苦手
情報を記憶・保持すること自体が難しい状態。
必要性による記憶
「覚えておいたほうが便利」「覚えないと困る」と自分で判断した情報を優先して記憶すること。
導き直す
公式や答えを丸暗記する代わりに、必要になった時点で元の関係から再び計算・推論すること。
僕の場合、少なくとも自分の経験を振り返る限り、後者の傾向が強かった。
② 事実整理
小2の頃
算数が好きだった。
クラスで一番に九九の暗唱テストに合格した。
小4頃
九九をスラスラ言えなくなっていたと思う。
特に8×4などは、4×8に置き換えて計算していた。
九九は対称なので、半分覚えていれば日常生活では困らないと考えていた。
中三の頃
数字を見ると素因数分解したくなる癖があった。
買い物の釣り銭やデジタル時計の数字など、目に入った数字を片っ端から分解していた。
因数に二桁の素数が含まれていると厄介だった。
そのため、二桁の素数同士の掛け算を自然と覚えていった。
学校での学習
必要性に納得できないものを覚えることを嫌っていた。
忘れても導き直せる公式は、その都度導き直していた。
三角関数の加法定理などでは、最後には「覚えたほうが速い」と折れた。
ただし現在は、公式もその導き方も忘れている。
現在
20年以上経っても九九を身体で保持している友人に驚いた。
一方、自分は九九を全部スラスラ言うことができない。
それでも、二桁の素数の掛け算などは今でもかなり覚えている。
③ 因果構造
系統1:九九を覚えなくなった理由
九九の対称性に気づく
→ 8×4を4×8に置き換えれば計算できると判断する
→ 「8×4を直接覚えておく必要性」が低くなる
→ 九九の一部を使わなくなる
→ 結果として、九九をスラスラ言えなくなる
つまり、単純に「忘れた」というより、使わなくなったため保持する必要がなくなったと考えられる。
系統2:二桁の素数の掛け算を覚えた理由
数字を見ると素因数分解したくなる
→ 二桁の素数が因数に含まれると分解しにくい
→ 二桁の素数同士の掛け算を覚えておくと便利になる
→ 実際に数字を分解するたび、その知識を使う
→ 必要性と使用頻度が重なる
→ 掛け算が自然と記憶に残る
こちらは九九とは逆に、自分の中で必要性が発生したため覚えたと考えられる。
系統3:「覚えたくない」という心理
必要性に納得できない
→ 「なぜ覚えなければならないのか」という抵抗が生まれる
→ 丸暗記より、その場で導き直す方法を選ぶ
→ 覚えることを避ける癖がつく
→ 「覚えられない」のではなく、「覚えない」ものが増える
④ 対立軸
ここには、少なくとも次の対立がある。
「必要なものを全部覚えておく」
vs.
「必要になったら導き直せばいい」
前者なら、九九のように使用頻度の高いものは身体に染み込ませておくほうが圧倒的に楽になる。
後者なら、「使わないものまで覚える必要があるのか」という疑問が先に立つ。
学校教育では、基本的な計算を自動化するために九九を覚えることには意味がある。
一方で、僕個人の学習方法としては、「覚えることそのもの」より、「なぜ覚える必要があるのか」に納得できるかどうかが重要だった。
⑤ 例外・未検証
僕が九九を忘れた時期については、正確な記録があるわけではない。
「半分覚えておけば困らない」という判断が、当時から明確に意識されていたのか、後から振り返ってそう解釈しているのかは分からない。
二桁の素数の掛け算を今でも覚えていることも、すべてが当時の意識的な記憶によるものとは限らない。
三角関数の加法定理についても、「納得できなかったから覚えなかった」という一つの理由だけで説明できるわけではない。
そもそも、僕のような記憶の仕方が理系の人間に一般的なのかどうかも分からない。
⑥ 暫定仮説
僕の場合、記憶は「得意か苦手か」だけではなく、その情報を自分が必要だと思っているかどうかにかなり左右されていた可能性がある。九九は、対称性を利用すれば導き直せると判断したため、覚える優先順位が下がった。一方で、素因数分解のように自分の興味や行動と結びついた知識は、必要性が生まれたことで自然に残った。つまり僕は、暗記が苦手というより、納得したものしか覚えたがらないタイプだった可能性がある。
◼️今回の整理──そして、友人との会話に戻る
そんなひねくれた僕の目から見ると、友人はとても素直だと感じた。
九九を完全に保持している人を見ると、
「これは学校教育の勝利だ……!」
と思ったのだ。
結局、計算ができれば日常生活に支障はない。
なのに、こうやって自分の中の奇妙な思考癖を思い出してみると、少しゾッとする。
小学生の頃から、こんなことを考えて生きてきたのだから。
そして、色々と書き起こしてみたが、掛け算九九は素直に全部覚えたほうが圧倒的に楽だと思う。
なぜなら、僕のような捻くれた覚え方をしている人に出会ったことが一度もないからだ。
とはいえ——
多分、僕が九九を覚え直すことは、これからもない。
今回見えてきたのは、九九の話というより、「自分は何を覚えるのか」をどう判断してきたのかという話だった。
こういう身近な出来事から、自分の思考癖を掘り返していくのも、これまで続けてきた記事の一つのやり方なのだと思う。
電卓使った方が早い、とかそんなつまらないことは言わない。
けど、電卓も進化してるんだな。
→この記事は、下記の記事のリライトになります。
よろしければ、どちらが読みやすいか比較してみていただければありがたいです。
→振り返りのきっかけとなった自由研究についての記事はこちら。
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