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二匹のリヴァイアサン ――自由なプラットフォームはいかにして「統制」を召喚するのか (パトリック・デニーンで読むXの構造的問題)

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 ある投稿がXで拡散した。旭川の女子高生殺害事件の判決を題材に、裁判長を実名と写真で晒し、「たった27年でシャバに解き放つ」と煽るものだった。リプライ欄には「求刑通りの判決で裁判長を批判するのは筋違いだ」「検察の判断を問え」という理性的な指摘が多数ついた。日本の刑事裁判では求刑を超える判決は極めて稀であり、裁判長としては妥当な判断をしているという事実を踏まえれば、批判の矛先がそもそも間違っている。しかし数字は残酷だった。理性的なコメントがいくら積み重なっても、感情的な元投稿のいいね数には遠く及ばない。これはXのアルゴリズムの問題だ、という批判はその通りだろう。だがそこで思考を止めると、より深い構造が見えなくなる。
 マスクによるTwitter買収は、旧Twitterが進歩的価値観に基づくと批判される運用を行い、特定の意見を排除してきたことへの反発として理解できる動きだった。しかしデニーン的に見れば、それはリベラリズムの第一波の論理を別の形で体現したに過ぎない。欲望の自己抑制をさらに弱体化させる方向で機能している点では、旧Twitterと本質的に連続している。この矛盾を読み解く補助線として、政治哲学者パトリック・デニーンが有効だ。デニーンは今年、初来日を果たし国際交流基金や同志社大学で講演を行った。日本でも注目が高まっている思想家だ。
 デニーンはノートルダム大学の政治学者で、その主著『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(原題 Why Liberalism Failed、2018年)の第1章「持続不可能なリベラリズム」において、こう論じる。リベラリズムは理想を実現できなかったから失敗したのではない。理想を実現したからこそ失敗したのだ、と。
 デニーンはリベラリズムを、人間の自由への希求を核に据えた政治思想と定義する。その展開は二つの波として現れた。第一波は個人の自由と市場を擁護する古典的リベラリズム、第二波は平等と包摂を掲げ国家や制度を通じて積極的に介入しようとする進歩的リベラリズムだ。両者は対立しているように見えて、欲望の自己抑制を支えてきた美徳・宗教・中間共同体といった伝統的な制御装置を解体するという共通の方向性を持つ。そしてデニーンが指摘する逆説がある。解体の結果として生まれる無秩序を収拾するために、今度はより強力な外部的統制が求められるようになる。リベラリズムは自由を掲げながら、その帰結として強制力への依存を深めるという自己矛盾を内包しているのだ。
 この枠組みをXに適用すると、旧Twitterと新Xの対立は見かけ上のものに過ぎないことがわかる。旧Twitterは第二波リベラルの論理で動いていた。進歩的価値観に基づいて言論を管理し、特定の意見を排除する。新Xのマスクはそれへの反動として登場したが、デニーン的に見れば第一波リベラルの立場に過ぎない。その現れ方は大きく異なる。しかし美徳・宗教・中間共同体といった伝統的な制御装置を弱体化させるという方向では、どちらも「欲望の自己抑制からの解放」というリベラルの共通前提の上に立っており、本質的に連続している。対立の激しさとは裏腹に、両者は同じ方向にリベラリズムを推し進める両輪なのだ。
 新Xが掲げる「価値中立」も実態は異なる。収益最大化のためのアルゴリズムは、滞在時間やエンゲージメントの最大化だけを目標に設計される。その結果として、怒り・恐怖・道徳的優位感といった感情を強く刺激する投稿が構造的に優遇される。「中立」を装いながら、実際には特定の感情反応を増幅するという価値を推進しているのだ。そのアルゴリズムを選択し運用しているのはプラットフォーム運営者だが、いったん動き出したアルゴリズムは運営者の意図をも超えて自己増殖する論理を持つ。その結果、自己抑制的な行動規範は徐々に消耗していく。理性的なコメントがいいね数で感情的な投稿に勝てない構造は、偶然ではなく設計の帰結だ。
 ここでホッブズを時間軸で読むと、さらに深い構造が見えてくる。ホッブズの論理では、自然状態における無秩序に耐えられなくなった人々が権利を委譲することで、リヴァイアサンに正統性が生まれる。Xでも同型の回路が走っている。アルゴリズムが感情を増幅し無秩序を生産する。その無秩序に人々が耐えられなくなると、「取り締まってくれ」という要請がプラットフォームに向かう。こうしてアルゴリズムは、自ら生産した無秩序を理由に統制者としての正統性を獲得する。問題の生産者が解決者として召喚されるという、倒錯した回路だ。
 これをプチ・リヴァイアサンと呼んでおこう。ただし国家のリヴァイアサンとは本質的に異なる点がある。プラットフォームは私企業であり、地理的拘束力も暴力装置も持たない。ユーザーは理論上、比較的容易に離脱できる。もっとも実際には、フォロワーや人脈・収益基盤といったネットワーク効果によるロックインが強く、離脱コストは決して低くない。それでも国家と比べれば、強権的に振る舞いすぎると死ぬという致命的な制約を抱えていることは変わらない。だからこそ、エンゲージメントを維持しながら不満を抑えるという不安定なバランスを強いられ続ける。
 そしてプチ・リヴァイアサンが管理しきれなくなったとき、国家という本物のリヴァイアサンが前面に出る正統性の根拠が生まれる。欧州のDSAはその典型だ。無秩序の最終的な回帰点は国家だ。「自由な言論空間」を目指したマスクの試みは、構造的により強力な統制への道を準備してしまった可能性がある。実際、そのように解釈し得る現象が各国で見られることは、この論理の現実的な帰結として読める。
 我々はすでに選択を迫られているのかもしれない。アルゴリズムというプチ・リヴァイアサンによる管理か。国家という本物のリヴァイアサンによる管理か。あるいは、自己抑制を支える文化や共同体を再建するという第三の道はまだ可能なのか。それとも、その問い自体がすでに間に合わないのか。


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