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神君伊賀越えの謎──穴山梅雪は本当に『疑って遅れた』のか?家康の悪意でもなく、ただの山歩きあるあるだった説

 本能寺の変からわずか数日後、堺にいた徳川家康は命がけの逃亡を決意した。
 いわゆる「神君伊賀越え」である。
 家康一行は伊賀衆等の地侍や郷士の案内を頼り、落ち武者狩り(土一揆・野武士)の危険をくぐり抜けて三河へ生還した。一方、武田旧臣の穴山梅雪(信君)は同じ時期に家康と行動を共にしながら、宇治田原(京都府宇治田原町)付近で殺害された。
 この穴山の死をめぐっては、古くからさまざまな説が語られてきた。
 しかし、残された史料を丁寧に読むと、意外とシンプルな現実が浮かび上がってくる。ドラマチックな陰謀論も、通説の「意味不明な動機」も、実は必要なかったんじゃないか——というのが今回の小ネタです。


1. 通説の弱点:穴山の動機が意味不明すぎる

 通説ではこう書かれている。

『三河物語』(大久保彦左衛門)
「穴山梅雪は家康を疑って、後ろに離れていた時に物取りどもに打ち殺された」

『石川忠総留書』
「穴山梅雪は思う心があってか、家康の一里ほど後にいたところ、郷人によってひとり残らず打ち殺しされた」

 要するに、穴山が家康を疑って自ら1里(約4km)遅れて別行動を取った結果、孤立して落ち武者狩りに遭ったという話だ。
 でも、ここで素朴な疑問が湧く。
 「なぜ急に疑うのか?」「危機的状況で仲間割れ?」「家康の逃亡計画に不信感を抱くほどの根拠は?」
 正直、動機が薄すぎて理解に苦しむ。しかも家康は死後、穴山の遺児(勝千代=武田信治)を武田家当主として厚遇し、穴山衆も即座に取り込んでいる。
 「疑われて殺された相手の遺族にここまでする?」という矛盾も残る。

2. 暗殺説はもっと無理がある

 「家康が部下に命じて穴山を直接殺させた」という俗説もある(江戸時代の雑談集『老人雑話』などにゴシップとして登場)。
 しかし、この説は逃走の最中に味方同士で内部分裂を起こし、下手をしたら自分の側にも被害が出るし、何より無駄な時間をかけたり目立ったりするおそれのある自殺行為に等しい内容だ。
 家康自身が命がけで、供の人数も少なく、食料も金もギリギリの状況。そんなときに「後々邪魔になるから今のうちに殺しておこう」と部下に暗殺命令を出す必然性も余裕も、到底考えられない。
 しかもこの説の多くは、穴山死後の結果(穴山衆の掌握や江尻城・駿河所領の入手)を見てから逆算した陰謀論になっている。
 「家康にとって梅雪の死が都合が良すぎた」のは事実だが、それは死んだ後に起きた出来事。死後の好都合な結果を基に「絶対家康が殺したに違いない!」とドラマチックに解釈する後知恵が強く、史料的根拠は極めて薄い(一次史料には一切出てこない)。
 つまり、結果から逆算して「家康の冷徹な謀略だった」と後付けした俗説に過ぎない、というのが最大の弱点だ。

3. 井沢元彦氏のおとり説と新資料

 ここで登場するのが歴史作家・井沢元彦氏だ。
 井沢氏は特に1990年の著作『七つの迷路 井沢元彦ミステリーワールド』に収録された「神なる人の犯罪」で、家康が穴山を意図的に別行動を取らせ、囮・身代わりとして積極的に利用したと主張している(後に、逆説の日本史でも同旨)。ここでは「カルネアデスの舟板」(船が沈没したとき、1枚しかない板を奪い合って他者を犠牲にし自分だけ助かるという哲学的ジレンマ)のたとえを使って、家康の冷徹な計算高さを強調している。
 さらに2023年、彦根城博物館所蔵の未公開史料『木俣土佐守守勝武功紀年自記』(1610年)が注目された。家康を先導した木俣守勝本人の記録に「上様謀略」という言葉が出て、「家康と同じ道を距離を置いて逃げた梅雪に案内人を付けずに野武士らに殺害させた」とほのめかしている(上島秀友氏調査・産経新聞報道)。
 これで謀略説が再燃したわけだが、木俣自記も「上様謀略」とほのめかすだけで、動機までは書いていない。果たして、家康は本当にそこまで計算していたのだろうか。

4. 通説とおとり説の差は、誰の意図で遅れが発生したか

 ここで注目すべきなのは、家康と穴山は完全に別ルートではなく、同じ道筋を進みながら距離を置いて(遅れて)進んでいたということだ。

フロイスの『日本耶蘇会年報』(1582年、ほぼ同時代資料)
「家康は多数の兵と賄賂用の黄金を持っていたので何とか通行できた。穴山はやや出遅れたようであり、兵も少なかったため……」

地元郷土史・伝承
「一行の殿(しんがり)を務め、1日遅れで同じ道筋をたどっていた」

 つまり、出発時点では一緒(orすぐ後ろ)だったのに、1里ほど離れた、という状況ではないか。
 そして、この穴山が遅れた理由について、通説とおとり説では、誰の意思によるものかと言う点で分類し整理できる。
 つまり、穴山が遅れたのは、穴山の意図であったのか、家康の意図であったのか。

5. 自然分離説——これで全部説明がつく

 しかし、本当に穴山か家康か、どちらかの意図でこの遅れが発生したと考える必要があるのか?
 ここで、私が考える一番シンプルな解釈が「自然分離」だ。
 つまり、双方の積極的意思とは無関係に、自然と発生してしまった遅れなのではないか?行軍では隊列が自然に伸びる(straggling)のは軍事史の普遍的現象で、戦国期の逃亡行でも例外ではない。
 我々は、歴史上のできごとに対し、だれかの意図が介在して発生したと考えがちである。しかし、そのバイアスを外して観察すると、双方の積極的な意思が関与しない場合をまず検討すべきではないか?

 戦国時代の逃亡行で、徳川家臣団+穴山衆が一つの巨大な塊でピッタリくっついて移動するなんて、現代の登山グループだってしない。人数も性格も違う二つの家臣団は、前後2つの集団に分かれるのが自然だったはず。

家康組(前衛):案内人(伊賀・甲賀の郷士)+服部半蔵(地の利)+黄金(賄賂)+人数優勢 → 道を切り開き、村人や一揆に金や威圧で突破。
穴山組(後衛・しんがり):何もない(出遅れ+兵少なめ) → 追っ手や落ち武者狩りの注意を後方に引きつけ、時間稼ぎ・警戒を担う。

 前後2グループで移動する場合、穴山が自ら殿を買って出た、あるいは自然にそうなった可能性が高い。家康側から見ても「信頼できる後衛として後ろを任せた」だけ。でも実際は、案内人・ペース・準備の差で自然に引き離され、穴山組はポツンと孤立してしまった。

【家康組】案内人あり/黄金あり/人数多い/突破力あり
   ↓(自然にペースが速い)

【穴山組】案内人なし/兵少ない/警戒役
   ↓(自然に遅れる)

 「穴山はやや出遅れたようであり、兵も少なかった」(フロイス『日本耶蘇会年報』1582)。同時代の一次資料である、フロイスの記載では、穴山の遅れについて、特に意図的なものであるという記載ではなく、自然分離説で読んだ方が整合的に思える。

 そして、これなら通説の不自然な点が全部消える。

 通説の「疑って遅れた」という微妙な推量表現(「思う心があってか」)も、後世の書き手が「何か思うところがあったのかな?」と補っただけ。
家康側も「なんであいつら遅れてるんだ?」と単に実態を正確に把握できていなかっただけでは?
 遺児への厚遇も「信頼できる後衛として犠牲になった忠臣の遺族を遇する」という、むしろ自然な恩義になる。
 こう考えた方が、通説の動機等不自然な点について、無理な家康の謀略を想定しなくても、自然に説明できるのではないか。

 結果の観点からも補足できる。家康グループがある地域を通過すると、どんなに気をつけても噂は立つ。そこへ少し遅れて穴山グループが通りかかれば、格好の標的になる。積極的な意図がなくても、結果として囮として機能した可能性も考えられる。

 木俣自記の「上様謀略」も、「案内人を回せなかった(or優先しなかった)結果」として読めば、陰謀論抜きで理解できる。

結論:ドラマチックより、地味な現実が一番美しい

 穴山梅雪の死は、陰謀でも英雄的自己犠牲でもなく、ただの山歩きあるあるだったんじゃないか。つまり、前後2つのグループが移動していると思っていても、いつの間にか間が離れているあれである。
 戦国時代の命がけの逃走劇で、準備や人数の差が命運を分ける——そんな人間くさい現実が、史料を素直に読むと見えてくる。ただし「自然分離」はあくまで解釈の一つであり、証明できるものではない。
 しかし「自然分離」という視点を加えるだけで、家康の悪意や穴山の不審行動なんて消えてしまい、モヤモヤがスッキリする。
 歴史って結局、史料をどう読むかの解釈勝負だと思う。

 あなたはどう感じますか?
 この小ネタが少しでも歴史好きの「あるある!」に刺されば嬉しいです。

山田大介 note 全記事目次

【参考文献】
『三河物語』(大久保彦左衛門、1622年頃)
『石川忠総留書』(石川忠総、17世紀前半)
フロイス『日本耶蘇会年報』(1582年)
『老人雑話』(江村専斎述・伊藤宗恕記、成立年不詳)
『木俣土佐守守勝武功紀年自記』(1610年、彦根城博物館所蔵)
『神なる人の犯罪』(井沢元彦、1990年『七つの迷路 井沢元彦ミステリーワールド』収録)

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