ふりかけ主食化論――ライトノベル文化におけるストーリーと萌え要素
一、ふりかけとご飯
ごはんにふりかけをかけて食べていたら、ふりかけの方がおいしいと気づいて、ご飯を食べずにふりかけだけ食べるようになった。
これが、私がライトノベル文化の変質を語るときに使う比喩である。
ここでいうふりかけとは、いわゆる萌え要素のことだ。ヒロインの属性、キャラクターの記号的な魅力、読者の感情を直撃する設定の断片。それ自体は、もともとご飯――ストーリー、人物の形成過程、世界観の論理――に添えられるものとして存在していた。
ここで一つ、区別しておきたいことがある。サプリメント論との違いだ。名著のエッセンスだけ、ハウツー本で要点だけ、という消費形態も似たように見える。しかしサプリメントは「省略」であり、必要な要素が落ちているかもしれない問題はあっても、依存性はさほどない。ふりかけはそうではない。単体では栄養がなく、しかも依存性がある。食べ続けると、ご飯そのものが食べられなくなるおそれがある。〔注1〕
二、転換点の目撃――ハルヒの小説とアニメ
私が文化的な変質として意識したのは、二〇〇〇年代中盤のことだ。
それ以前、一九九〇年代から二〇〇〇年代初頭のライトノベルを読んでいた私には、当時の作品に「物語」や「人間」がいる感覚があった。
庄司卓『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』(一九九三年〜)がその代表だ。自己主張が強く教師からは厄介者扱いされる女子高生・山本洋子が、宇宙規模の戦争に接続されるという構造を持つ。ヨーコは怒り、間違え、感情の出所が見える。学園ものが男子向け記号的ヒロイン全盛の時代に、生身の女子を主人公の中心に据えた点で、当時としては異質な作品だった。そして、その人間が物語の中で描かれている。
私の読書感の中では、その系譜の延長上に、谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(二〇〇三年)があった。思春期の女子の閉塞感が世界に接続されるという構造は継承されている。しかしハルヒを読んだとき、ヨーコとの距離を感じた。何かが足りない。ハルヒは最初から「世界の中心」という属性として完成した状態で登場する。人間的な形成過程が見えない。天才という設定でありながら、その行動原理が人間として腑に落ちない。発想の面白さは認めながらも、ご都合すぎてキツいという感想を持った。〔注2〕
ところがアニメ化(二〇〇六年)が大ヒットした。そのヒットの理由が、小説を読んで感じたものとまったく異なっていた。アニメのハルヒは、萌え要素の見本市として消費されていた。キャラクターの記号的魅力が前面に出て、ストーリーの構造はその背景に退いていた。その象徴が、EDダンス「ハレ晴レユカイ」の爆発的な流行だった。物語ではなく、キャラクターの身体と記号が消費の中心になったことを示す現象として記憶している。
ここで私は、何かが転換したと感じた。ふりかけだけを目当てに食べる人々が、主流になりつつあるのではないか。〔注3〕
三、作り手の三つの対応
ふりかけ主食化の圧力に対して、作り手はいくつかの方法で対応してきた。
(一)おつまみ分離戦略
神坂一『スレイヤーズ』と秋田禎信『魔術士オーフェン』は、いずれも長編本編と短編系統を並行して発表するという手法を確立した作品だ。『スレイヤーズ』の場合、シリアスな本編と、ギャグ・キャラクター中心の『すぺしゃる』が同時進行し、両者は明確に性格を異にしていた。本編が二〇〇〇年に一旦完結した後も、『すぺしゃる』は長期間継続した。
本編(ご飯)とキャラクター消費用の短編(おつまみ)を意図的に分離して提供するという戦略だ。スレイヤーズ後編が重厚なストーリーを展開した結果、ふりかけを求めていた読者の一部が離れていったとすれば、「ご飯だけ出したら客が減った」という現象として読める。
これは一つの誠実な解決策だった。ご飯を食べたい人にはご飯を、ふりかけだけ欲しい人にはおつまみを、同じ皿に乗せずに出す。
(二)メタ的反撃
ふりかけのフリをして、ご飯を食べさせる。
『School Days』(ゲーム二〇〇五年、アニメ二〇〇七年)がその典型だ。ギャルゲー・ハーレムアニメという「どれだけ不誠実でも主人公なら許される」というジャンルの約束事に、冷徹な現実の重力を叩き込んだ。二股をかけたら刺された。プロット単体で見れば、男の身勝手と女の情念という古今東西いくらでもある話だ。しかしそれを、ふりかけのフリをして届けたことに価値があった。
『魔法少女まどか☆マギカ』(二〇一一年)も同じ系譜に属する。魔法少女という長年の記号を入口として、契約と絶望という冷厳な構造を叩きつけた。ただ懸念もある。一部の受容においては、背景の深さがふりかけのおいしさの引き立て役としか機能していないのではないかという傾向があった。それはメタ的反撃の限界を示している。〔注4〕
(三)ふりかけ化による沈黙
ハルヒのようなケースは、その一例として想像されうる。テキストの変質として見ると、初期のシリーズと後期では何かが失われている。事実として、二〇〇七年以降、シリーズは長期の中断に入り、その後も断続的な沈黙が続いた。作者の内面には踏み込まない。しかしふりかけとして受容された結果、ご飯が書けなくなる、あるいは書く動機を失うという圧力が作り手にかかりうることは、想像として否定できない。
四、ふりかけ育ちの世代が作る側になるとき
反骨心を持った作り手は、これからも出てくると思う。ふりかけ多めで提供しながら、実は栄養あるご飯も一緒に食べさせるという工夫をする作り手は、これからも現れつづけるだろう。
心配なのは、ふりかけだけで育った世代が作り手の主流になったときだ。
ふりかけの味しか知らなければ、ご飯の味が設計できない。不快感をコストとして積み上げて後で回収するという構造を、そもそも経験として持っていなければ、それを書くことはできない。
ただ、ここで立ち止まって考える必要がある。なろう系の隆盛によって、文章を読む人口の絶対数は増えた。記号消費が目立つとしても、物語を読みたい層が消えたわけではない。市場が大きくなれば、その中にご飯を求める層も必ず残る。
そしてそもそも、この種の批判には前例がある。ライトノベルが登場したとき、同じことが言われた。さらに遡れば、赤川次郎に代表される軽い読み物を子供が読むことを嘆く声が、かつてあった。ライトノベルはその「赤川次郎」に対する批判の延長上で生まれたジャンルでもある。しかし今となっては、赤川次郎はご飯の側に見える。ふりかけとご飯の境界線は、世代とともに動く。
だとすれば、今のふりかけの中にも、次世代のご飯の萌芽があるかもしれない。私がヤマモトヨーコやオーフェンに「ご飯」を見たように、誰かが今のなろう系のどこかに、同じものを見出す日が来るかもしれない。その可能性を信じることが、書き続ける理由になる。ふりかけだけでは腹は膨れない。その認識が失われない限り、ご飯を炊く作り手は絶えない。
巻末注
〔注1〕 同様の現象は東浩紀『動物化するポストモダン』(二〇〇一年、講談社現代新書)において「データベース消費」として論じられている。キャラクターの萌え要素をデータベースから抽出して消費する形態であり、本論の問題意識と重なる。ただし東の議論は主に消費者・社会論の側から分析したものであり、本論は作り手の対応戦略と創造性への影響という別の角度から補完的に論じるものである。
〔注2〕 萌え要素が「主食化」したのは決して突然のことではない。一九九〇年代後半から二〇〇〇年代前半にかけては、まだ物語(ご飯)がしっかり守られる一方で、『Kanon』『AIR』などの美少女ゲームの影響、『灼眼のシャナ』(二〇〇二年)、『ゼロの使い魔』(二〇〇四年)などの作品のように、萌え要素が物語の重要な味付けとして徐々に盛り込まれていった時期だった。しかしこの頃は、物語が主で萌え要素が従という関係が基本的に維持されており、「ふりかけがおいしい」時代と言える。本論で指摘するハルヒアニメ(二〇〇六年)の大ヒットは、そうした移行期を経た上での象徴的な転換点であり、萌え要素の前面化という変化自体は九〇年代後半から漸進的に進行していたものである。
〔注3〕 筆者は小説『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)を、物語の発想という点では一定の評価をしている。しかし本論で指摘しているのは、小説とアニメ化後の大ヒットにおける「消費のされ方」の構造的な違いである。アニメ版ではキャラクターの記号的魅力(萌え要素)が前面に強く押し出され、物語の本筋が背景に退く傾向が顕著に見られた。なお、谷川流の作品については、『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズよりも『学校を出よう!』を個人的に愛読していたので、同作の長期中断は非常に惜しまれる。
〔注4〕 まどか☆マギカの脚本を担当した虚淵玄氏は、魔法少女という長年の「可愛らしい」記号をあえて入口に用い、契約と絶望の冷厳な構造を突きつける手法を取った。これは「ふりかけのフリをしてご飯を食べさせる」メタ的反撃の好例と言える。一方で作品は「絶望の萌え」として消費される側面も強く、背景の深さが「ふりかけのおいしさを引き立てるスパイス」としか機能しない受容のされ方も目立った。批評界では「悲劇の消費=トラジディ・ポルノ」との指摘もある。これはメタ的反撃の限界を象徴的に示している。
