見出し画像

楊貴妃はムカツクに逃れたのか?――山口・二尊院「楊貴妃の墓」をめぐる考証

はじめに

 山口県長門市油谷、向津具半島の突端に近い久津の丘に、「楊貴妃の墓」と呼ばれる五輪塔がある。二尊院の境内に静かに立つこの石塔は、山口県指定有形文化財であり、安産・縁結びのご利益があるとして今も参拝者が絶えない。
 「南無楊貴妃」と書かれたのぼり旗が風にはためく境内の光景は、なかなか圧巻である。
 筆者は勝手に「山口三大郷土伝説」として、この楊貴妃の墓、阿東徳佐の静御前の墓、田布施の山口原人を挙げているのだが、今回は楊貴妃について少し真面目に考証してみた。小ネタのつもりが、思いのほか大部になってしまったことをお断りしておく。
 なお本稿は現存する二尊院および関係する方々を批判する意図はなく、伝説の形成過程を歴史的に考証することを目的としている。楊貴妃伝説が地域に根付いた文化遺産として価値を持つことは言うまでもない。


一、伝説の概要

 二尊院には、明和三年(1766年)に当時の住職・恵学和尚(福林坊五十五世)が地元の古老から聞き取って書き留めたとされる二冊の古文書が残されている。一冊は寺の由緒を記した「二尊院由来書」、もう一冊は楊貴妃の漂着を記した「楊貴妃伝」であり、両者は密接に関連した一組の文書として理解される。昭和六十一年に二尊院文化財保存会が翻刻・公刊した『二尊院由来書 楊貴妃伝』(注1)によれば、その内容は概ね以下の通りである。なお以下、『二尊院由来書』を「由来書」、「楊貴妃伝」をそのまま「楊貴妃伝」と略称する。
 唐の天宝十五年(756年)七月、安禄山の乱で追い詰められた玄宗皇帝は楊貴妃とともに都を脱出する。馬嵬坡で将兵が反乱を起こし、楊貴妃の処刑を要求。しかし禁軍の将・陳元礼(楊貴妃伝表記。正史では陳玄礼)(注2)は玄宗の悲嘆を見るに忍びず、仏堂で縊殺したと見せかけて実は楊貴妃を空廬舟(うつろぶね)に乗せ、数日分の糧とともに海に流した。漂流の末、楊貴妃は長門国向津具の唐渡口に漂着したが、長旅で衰弱しており、里人の手厚い看護も空しく間もなく息を引き取った。里人は西の海が見える久津の丘に丁重に葬った。それが現在の五輪塔である。
 夢でこの消息を知った玄宗皇帝は追善供養のため唐の秘蔵の霊仏(阿弥陀如来・釈迦如来の二尊)と十三重の大宝塔を日本へ送った。一旦京都の清涼寺に預けられたが、朝廷の命により二尊院へ移され、寺名も「二尊院」となった――。
 なかなか壮大な話である。しかし以下に述べる通り、この伝説には検討すべき問題が複数存在する。

二、仏像の年代が合わない――物証による検証

 伝説の核心は「玄宗皇帝が唐から送った霊仏」という主張である。しかし現在二尊院に安置されている木造釈迦如来立像・阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)は、昭和二十七年の解体修理の際に阿弥陀像の右耳内部から「文永五年八月日」「文永三年月日」という墨書が発見された。文永五年は1268年、鎌倉時代中期である。
 つまりこの仏像は、楊貴妃が亡くなったとされる唐代(756年)から実に五百年以上後に、日本で作られたものである。もっとも、これは直ちに漂着伝説そのものの発生時期を示すものではない。しかし少なくとも、現存する仏像・石塔を「玄宗皇帝から送られた唐代の遺物」とする説明は成り立たない。
 『二尊院由来書』の注釈には、編者・村田菊雄氏自身がこの事実を明記している。
 また「楊貴妃の墓」とされる五輪塔についても、山口県の文化財指定記録は「鎌倉時代後期の作」と明記している。楊貴妃が亡くなったとされる八世紀から約五百年後の石塔である。
 仏像・石塔ともに、伝説が主張する年代とは合わない。

三、記録の欠如――論理的検証

 仮に唐の皇帝が追善供養のため将軍を日本に派遣し、霊仏と十三重の大宝塔を贈ったとすれば、これは重大な外交的事件である。当然、唐側の正史(旧唐書・新唐書・資治通鑑)に記録が残るはずである。しかし少なくともこれらの史料には確認できない。
 日本側も同様である。当時の日唐間の外交は遣唐使ルートを通じて行われており、唐の将軍が単独で日本に入国することは外交慣行上考えられない。朝廷が関与したなら必ず記録に残るはずだが、日本側の公的記録にも、大宰府の記録にも、確認できない。
 少なくとも筆者が確認した限り、清涼寺側の寺伝・関係資料にも該当する記録を見いだせない。「清涼寺と朝廷が真贋を争った」という伝説のエピソードも、清涼寺の寺伝には存在しない。
 こうした記録の欠如は、伝説の主張する出来事が史実として起きたとは考えにくいことを示している。

四、文献考証――形成過程の分析

 楊貴妃伝の本文を分析すると、これが後代の日本の文献を参照して形成されたものである可能性が高いことがわかる(詳細は別稿)。
 一例を挙げると、楊国忠が吐蕃との戦いで大敗した際、疲弊した自軍の兵士一万人の首を切って吐蕃の首として偽り、都に持ち帰ったというエピソードがある。これは太平記巻三十七「畠山入道道誓謀叛事付楊国忠事」(注3)の記述の影響を受けたものと考えられる。正史では楊国忠が南詔(現在の雲南省付近)との戦いで敗戦を隠蔽したとあるのみで、このような記述は見られない。吐蕃(チベット方面)という敵国の名称も太平記と一致しており、正史とは異なる。
 また楊貴妃の容姿を「頭を廻らして一度笑えば百の媚となる。六宮の粉黛顔色なし」と描写する箇所は、白居易『長恨歌』の直訳である(注4)。
 こうした分析から、楊貴妃伝は楊貴妃が生きた八世紀の同時代的口伝ではなく、後代に日本で成立・流通した文献を素材として形成されたものと考えられる。
 一方で、楊貴妃が向津具に漂着したという核心部分、すなわち「玄宗の悲嘆を見た陳元礼が密かに空廬舟を作って逃がした」という生存説については、現時点で対応する先行文献が見つかっていない。この点については後述する。

五、なぜこの伝説は生まれたのか

 史実性は疑わしいとしても、なぜこのような伝説が向津具という地に生まれたのか。そこには複数の要因が重なっていたと考えられる(注5)。
 地理的条件 向津具半島は対馬海流により大陸からの漂着が実際に繰り返し起きていた場所である。『油谷町史』(注6)の記録によれば、江戸時代を通じて朝鮮船を中心とした漂着が頻繁に確認されている。「大陸から人や物 が流れ着く」という経験が地域に蓄積されていた。
 氏族的条件 この地域には「八木」という旧家があった。八木氏はかつて好字として「楊貴」という漢字表記を用いていたことが指摘されており、楊貴妃が連想される土壌がこの地にあったと考えられる。
 文化的条件 江戸時代の出版文化の発達により、太平記・白居易の長恨歌・その和訳・抄録が広く流通し、楊貴妃の悲恋は当時の「共通知識」となっていた。長恨歌では楊貴妃の魂が「蓬莱」という海上の仙山に宿るとされるが、楊貴妃伝は「本朝をさして蓬莱といい仙境という事、唐文に残るも更なり」と述べ、日本こそが蓬莱であると論じている。
 宗教的条件 二尊院には鎌倉時代に作られた立派な二尊仏があった。由来書には「寺領も残らず召し上げられ」という記述があり、当時の寺院が置かれた厳しい状況がうかがえる。清涼寺式釈迦像の流行という鎌倉時代の文化的文脈の中で作られたと考えられる仏像に、より深い由緒を求める動きが生まれたとしても不思議ではない。
 これらの条件が重なった場所で、1766年に恵学和尚がこの伝説を文書として固定した。この古文書は仏像の由緒を説明するために必要とされた文書であり、『二尊院由来書』と「楊貴妃伝」が二枚構成になっている理由もここにあると考えられる。

六、江戸時代から続く文献批判の系譜――山口の知的遺産

 こうした伝説の疑問点に気づいていた人々が、江戸時代から存在していた。
 文政元年(1818年)、江戸の考証学者・狩谷棭斎は『古京遺文』(注7)の注記において、奈良で発見された楊貴氏の墓誌を分析し、「ヤギとて八木氏」と訓むべき姓であると指摘した。さらに熱田(現名古屋市)にも同様の楊貴妃伝説があることに触れ、これらを八木氏の古墳に由来するものと論じている。楊貴氏と楊貴妃の混同という問題を、江戸時代の学者がすでに看破していたのである。
 この知的系譜は、やがて山口の地にまで及んでいた。
 防長風土注進案は、天保十二年(1841年)に毛利藩が各村へ明細書の提出を命じたことに始まる藩政期の地誌資料であり、山口県文書館が刊行本として整理・出版したものである(注8)。いわば長州藩の公式な地域記録集である。
 筆者が山口県立図書館で確認した同書第十八巻(先大津宰判)の向津具村の項には、好古小録に収録された楊貴氏の墓誌を引用しつつ、「ヤキ姓なと訓へ思はる、文字を変て書くは姓名に例あることとなり」と記されている。
 つまり江戸の考証学者たちが積み上げた「楊貴氏=八木氏」という文献批判の議論が、地方の公式記録を編纂した担当者にまで届いていたのである。中央の知的動向が地方の行政記録にも参照されていたことは、当時の知識の伝播という点でも興味深い。
 昭和四十年(1965年)、近江昌司は『日本歴史』第二百十一号に「楊貴氏墓誌の研究」(注9)を発表した。論文の主題は奈良で発見された楊貴氏墓誌の真偽検証であるが、その傍論として長門・向津具の楊貴妃伝説にも言及し、「八木氏の起源をその漂流譚に附会させたものと思われる」と指摘している。
 狩谷棭斎・防長風土注進案・近江昌司という文献批判の知的系譜。楊貴妃の墓は観光資源として今も人々を引き寄せているが、同時にこの伝説をめぐって江戸時代から批判的に考証し続けた知の系譜が山口に存在したことも、誇りとして記憶されてよいのではないだろうか。

おわりに――ありそうでなかった自然な生存説

 以上、山口の楊貴妃伝説を検討してきた。仏像の年代の不一致、あるべき記録の欠如、後代の日本文献を参照した形成過程――これらは伝説の史実性について疑問を呈するものである。
 しかし調べを進めるうちに、意外な発見があった。
 楊貴妃伝の核心部分、すなわち「玄宗の悲嘆を見た陳元礼が仏堂で縊殺したと見せかけて実は楊貴妃を空廬舟に乗せて逃がした」という生存説について、現時点で対応する先行文献が見つかっていないのである。太平記にもない。長恨歌にもない。正史はもちろんない。
 楊貴妃が難を逃れたという生存説は中国にも存在するが、「玄宗の悲嘆を哀れんだ将軍が身代わりを立てて逃がした」という具体的な構造を持つ話は、現時点では他に確認できていない。そして、言われてみれば、楊貴妃が生存したとすれば、この身代わり説しかないのではないかという納得の内容である。
 後代の日本文献を素材として形成されたと考えられる楊貴妃伝において、その核心部分だけは出典が見つからない。恵学和尚が各種文献を巧みに組み合わせて作った楊貴妃伝説のダイジェスト版、その唯一のオリジナル部分(暫定)について、すなおな称賛を捧げたい。

関連記事 静御前の墓はなぜ山口にあるのか

巻末注

(注1) 『二尊院由来書 楊貴妃伝(原文・二尊院所蔵)』村田菊雄編、山口県大津郡油谷町久津・二尊院文化財保存会、昭和六十一年十二月一日。
(注2) 正史(資治通鑑・旧唐書等)では陳玄礼と記される。なお由来書の原文では、陳玄礼・陳元礼の両表記が混在している。前半部分では正史表記に近い「陳玄礼」が用いられ、生存説が展開される後半部分から「陳元礼」に切り替わる。これは由来書が複数の異なるテキストを参照して形成されたことの傍証と考えられる。詳細は別稿にて論じる。
(注3) 太平記巻三十七「畠山入道道誓謀叛事付楊国忠事」の影響を受けたものと考えられる。同箇所の該当部分:「御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲たる兵を一万人首を刎て、各鋒に貫き、是皆吐蕃の徒の頚なりと号して、都へぞ帰参りける」。なお吐蕃・五十万騎・味方一万人の首の偽装・遺族の恨みという骨格は一致するが、太平記では一戦もせず逃走したとあるのに対し、由来書では一戦して敗れたとしており、細部に差異が見られる。正史では楊国忠が南詔(現雲南省付近)との戦いで敗戦を隠蔽したとあり、吐蕃(チベット)との戦いではない。地名の一致も由来書が太平記系の記述の影響を受けた可能性を示す一つの根拠である。なお太平記評判秘伝理尽鈔等の太平記系文献を経由した可能性もあるが、翻刻が確認できなかったため、本稿では太平記系文献からの参照として扱う。
(注4) 白居易『長恨歌』原文:「迴眸一笑百媚生、六宮粉黛無顔色」「三千寵愛在一身」。なお長恨歌については、一般向け注釈書とも言うべき長恨歌抄と呼ばれる抄物の系譜がある。これらは長恨歌の内容を和文で解説・翻案したものであり、江戸時代の知識人・一般読者への長恨歌普及に大きな役割を果たした。『やうきひ物語』(倉島節尚編、古典文庫、昭和六十一年八月二十日)が参照できる。由来書における長恨歌系の記述は、長恨歌原文の直接参照よりも、こうした抄物系テキストを経由した可能性がある。
(注5) 伊藤彰「楊貴妃の墓」『地域文化研究』第8号、梅光女学院大学地域文化研究所、1993年3月31日。向津具の楊貴妃伝説について民俗学・地域文化の観点から考察した先行研究として参照した。
(注6) 『油谷町史』油谷町、昭和六十三年。第六節「異国船の漂着」および表6‐1・6‐2参照。
(注7) 狩谷棭斎『古京遺文』(文政元年・1818年)。国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵(請求番号198‐0030)。楊貴氏墓誌に関する注記中に「楊貴妃の墓といひ伝ゆる……八木氏の女子の古墳なるべし」とある(原文は変体仮名交じりで判読困難な箇所を含む)。
(注8) 『防長風土注進案』第十八巻(先大津宰判)向津具村の項。天保十二年(1841年)に毛利藩が各村へ明細書の提出を命じたことに始まる藩政期の地誌資料。山口県文書館刊行本。
(注9) 近江昌司「楊貴氏墓誌の研究」『日本歴史』第二百十一号、日本歴史学会編、吉川弘文館、昭和四十年(1965年)。論文の主題は奈良で発見された楊貴氏墓誌の真偽検証であり、長門・向津具の楊貴妃伝説への言及はその傍論にとどまる。

いいなと思ったら応援しよう!