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伊能図はなぜ可能だったのか——堀田仁助・和算・天文方というミッシングリンク

堀田仁助(ほった にすけ、1745〜1829)。
和算・天文方・蝦夷地測量、そして静かな晩年。伊能忠敬の先駆者である津和野藩士の再評価が問いかけるもの
著者 山田實 遺稿をもとに 山田大介


一 父が荒れた境内で見つけた墓

 令和元年(2019年)夏、私の父・山田實は津和野の永明寺境内に踏み込んだ。倒木を跨いで道なき道を奥へ進むと、苔むした小さな石碑が現れた——「土口齋 堀田仁助 文政十二丑九月五日(1829年) 暉林院 文化十一戊正月十三日(1814年) 堀田仁助妻」とあった。
 忘れかけられていた津和野の偉人、伊能忠敬の先駆者、堀田仁助の墓であった。父はその後、倒木や藪、木の階段、通路の整備を実施し、関係者を案内した。
 父はその発見を手記『我がままに 津和野・廿日市市編』(令和元年)に残した。無学を自認しながら地元への愛だけを羅針盤に歩き続けた父が、190年の眠りについていた墓を見つけたのである。その後父は、堀田仁助の8代目子孫と面会し、墓石の拓本まで見せてもらった。
 父はこう書いている——「廿日市の御船屋敷をのぞいてみると、廿日市が生んだ、津和野藩の神童堀田仁助との出会いが、歴史のタイムスリップに私を引き込んでゆきます」。
 この記事は、その「タイムスリップ」を引き継ぐ試みである。堀田仁助(1745〜1829)は、単なる地元の偉人ではない。江戸時代の日本において、近代的測量が「なぜ可能だったのか」という問いへの、これまで十分に言語化されてこなかった答えの一部を体現した人物である。

堀田仁助墓所

二 問い——伊能図はなぜ可能だったのか

 伊能忠敬(1745〜1818)が作成した『大日本沿海輿地全図』は、現代の地図と比較しても驚異的な精度を誇る。明治以降も国家地図として使用され、2001年に米国議会図書館で発見された大図は改めて世界を驚かせた。
しかしここで問わなければならない。なぜ、鎖国下の江戸時代に、これほど精密な地図が作成できたのか。
 一般には「伊能の不屈の努力と才能」が強調される。それは確かである。しかし努力と才能だけでは、測量技術の存在を説明できない。伊能は49歳で隠居し、50歳から天文学を学び始めた。独学で測量術を習得したわけではない。彼が師事したのは幕府天文方の高橋至時であり、そこで関流和算の三角測量・比例計算・招差法を学んだ。
 つまり伊能図の精密さは、蘭学の直接的影響より前に、日本独自の数学技術——和算——が天文方という幕府機関で実用化されていたという基盤の上に立っている。
 渡辺敏夫『近世日本天文学史』(恒星社厚生閣、1986〜87年)は、天文方での和算の実用化を詳述する古典的研究である。和算は江戸時代に高度に発達したが、長らく「実用より芸術的発展」が中心だった。それが天文方という場で、暦作成・緯度計算・測量という実務に応用されていった。この転換こそが、伊能図を可能にした内生的な基盤である。
 そしてここに、堀田仁助が登場する。

三 堀田仁助の事績——何をした人か

廿日市で生まれた神童
 1745年(延享2年)正月5日、堀田仁助は廿日市にあった津和野藩の御船屋敷で生まれた。父は藩の船役人。幼名を兵之助といい、瀬戸内海の往来を間近に見ながら育った。15歳で御船手役所の筆役見習に採用されるほど数理的才能が早熟だった。その後津和野城下に移り、藩の勘定所で働きながら数学を磨き、やがて江戸へ出て関流和算を修めた。
幕府天文方への出仕
 1782年(天明2年)、37歳の仁助は幕府天文方に出仕する。公儀暦作御用として暦の編纂に従事しながら、渋川春海以来の天文方の蓄積——西洋天文学と和算の融合——を吸収していった。神氏の著書は、仁助が若年天文方として高橋至時のもとで蝦夷地測量の準備を進めていた様子を詳述している。(注1)
1799年の蝦夷地測量——伊能より一年早く
 1799年(寛政11年)、54歳の仁助は幕府天文方として江戸を発つ。目的は、江戸から蝦夷地・厚岸(現在の北海道厚岸町)までの外洋航路の開拓と、東蝦夷地の測量地図の作成である。神風丸に乗り品川を出発。太平洋沿岸を北上しながら天体観測と陸上測量を組み合わせ、日本初の西洋式実測海図「従江都至東海蝦夷地針路之図」を作成した。
 この地図の技術的水準は注目に値する。地図には北緯35度から43度までの緯度線と直交する経線が引かれ、下北半島沖には24方向に方位線が延びるコンパス・ローズ(方位羅針盤)が描かれている。これはヨーロッパの航海図に使われた技法そのものであり、仁助が淲天儀(イスタラビ)や象限儀といった西洋式天体観測器具を駆使して緯度を実測した成果が反映されている。(注2)
 緯度の測定精度は最大で2分程度。神氏が作成した比較表によれば、仁助と翌年の伊能の測量値は複数の地点で驚くほど近い値を示している。これほどの近似値が揃うことは偶然では説明できない。詳細な数値については神氏の著書を参照されたい。(注3)
 神氏は、伊能が出発前に松平忠明の屋敷で仁助の地図を実際に見ており、その内容を把握した上で蝦夷地に向かったことを明らかにしている。「仁助への対抗意識」を持ちながら、同時に仁助の測量データを参照した——伊能図は、仁助の蝦夷地測量の上に立って完成したのである。(注4)
天球儀・地球儀の制作
 1808年(文化5年)、仁助は天球儀と地球儀を制作し、津和野藩御船屋敷のあった廿日市市の佐方八幡宮に石灯籠とともに奉納した。この天球儀・地球儀は現在、津和野町太鼓谷稲成神社宝物殿に収蔵され、島根県指定の有形文化財となっている。地球儀には「堀田仁助の天球象」の銘が刻まれており、仁助が渋川春海以来の師系への敬意を示した作品である。(注5)

四 伊能図の見えない土台——天文方・和算・仁助

 冒頭の問いに戻る。伊能図はなぜ可能だったのか。
 その答えを探るには、天文方という機関が何をしてきたかを丁寧に辿る必要がある。渡辺敏夫『近世日本天文学史』が詳述するように、天文方は1685年(貞享元年)の渋川春海による設置以来、幕府が外部の専門家——とりわけ地方藩出身の和算家——を能力主義的に登用する機関として機能してきた。これは当時の幕府組織としては先駆的な形態であり、天文方以前、地方藩士を専門職として制度的に登用する仕組みは幕府にほとんど存在しなかった。
 天文方に登用された和算家たちがまず担ったのは、暦の作成である。渡辺の研究が明らかにするように、江戸時代の改暦——貞享暦(1685年)、宝暦改暦(1755年)、寛政改暦(1798年)——の各段階で、関流和算の三角法・比例計算・招差法が天体観測データの処理と暦の精度向上に直接応用された。和算はそれまで「芸術的・学術的発展」が中心だったが、天文方という場で初めて国家的実務に組み込まれ、反復的な実践の中で測定精度と計算手法が洗練されていった。
 この暦作成の実用化が、次の段階への橋渡しとなった。緯度の計算、天体高度の観測、地点間の距離と方位の算出——暦作成で蓄積されたこれらの技術は、測量術とほぼ同じ数学的基盤の上に立っている。天文方において暦作成と測量は分離した二つの仕事ではなく、同じ和算・天文学の知識体系から派生した連続した実践だった。18世紀後半から天文方が蝦夷地を含む海岸測量に関与するようになるのは、この技術的連続性があったからこそである。
 仁助(1782年出仕)は、この流れの中で小藩出身者として比較的早期に天文方に登用された代表例である。出仕後まず暦作成の実務を担い、天体観測の精度を磨いた。そして1799年(寛政11年)、その蓄積を携えて蝦夷地測量へ向かった。和算を測量に直接応用した最も早い実践例の一つがここに生まれた。
 翌1800年(寛政12年)、伊能忠敬が蝦夷地測量を開始する。彼は高橋至時から関流和算を学び、仁助の地図を松平忠明の屋敷で実際に目にし、仁助の測量値を参照しながら精度を高めていった。伊能図という「完成品」の背後には、仁助という「先行例」と、天文方という「場」と、和算の暦作成から測量への実用化という「技術の流れ」があった。
 伊能図の精密さは「一人の天才の努力」の産物ではない。和算という日本独自の数学技術が天文方において暦作成を通じて実用化され、その蓄積が測量術へと展開した——その連続的な流れの上に花開いたものである。堀田仁助は、暦から測量への技術転換の体現者であり、伊能図への見えない土台だった。
 なお、この論述の骨格は渡辺敏夫の天文方研究と神氏の仁助研究を組み合わせることで成立するが、「天文方における暦作成から測量への技術転換を仁助を通じて統合的に位置づける」という枠組み自体は既存研究では十分に展開されていない。本稿はその視点を提示するものであり、今後の研究による検証と深化を期待したい。(注6)

五 堀田仁助は、なぜ忘れられたのか

 これほどの業績を持つ仁助が、なぜ長く「忘れられた存在」であり続けたのか。神氏の著書と父の手記から、いくつかの構造的な理由が見えてくる。
 第一に、直系子孫の不在と資料の散逸である。仁助には実子がなく、妹の子・兵之助を養子とした。廃藩置県後に堀田家は飯浦に移り、家系は続いたものの、仁助の業績を積極的に顕彰する人物が地元に定着しなかった。さらに決定的だったのは1853年(嘉永6年)の津和野大火である。この火事で、堀田仁助の3代子孫にあたる堀田泉音が家に預けていた地図製作に関する資料を持ち出せなかった。物証が失われたことで、口頭伝承以外に仁助の業績を伝える手段が乏しくなった。(注7)
 第二に、伊能忠敬という「完成した英雄像」の陰に隠れたことである。明治以降、近代国家の地図作りという文脈で伊能の評価は急速に高まり、1904年(明治37年)には正四位の位階が贈られた。伊能図の偉業が「一人の人物の完結した物語」として語られるほど、その前史にあたる仁助の貢献は見えにくくなった。
 第三に、地元での記憶の矮小化である。津和野では仁助は長らく「和算家」として小さく記憶されるにとどまった。測量家・天文方としての業績は、地元の語りの中にほとんど入ってこなかった。
 第四に、幕府の仕事の機密性という構造的制約がある。地図は幕府への提出物であり、個人名が前面に出るものではなかった。仁助が津和野に帰郷した際も、自らの蝦夷地測量を誇示する行動はとっていない。

六 仁助が選んだ晩年——和算家・津和野人として

 1827年(文政10年)、81歳の仁助は幕府天文方を退き、津和野へ帰藩する。江戸を離れる際、彼は自ら天球儀と地球儀、そして伊能図の縮小図(小図)を制作し、藩主亀井茲尚に献上した。これらは後に藩校養老館に貸与され、幕末の若者たちの学びを支えた。
 帰藩後、仁助は藩校養老館で木村俊左衛門・桑本才次郎ら和算家を教え、関流数学の講義を行った。暇なときには囲碁を打ち、子どもたちに算術を教えながら過ごした。(注8)
 しかしここで注目すべきは、帰郷より以前——蝦夷地測量の最中——にすでに仁助の自己規定が明確に示されていた点である。1800年(寛政12年)、仁助は蝦夷地のニイカップ(様似)にあった義経社に算額を奉納している。その署名は「石見津和野 藤田貞資門人 堀田二介泉」とあった。(注9)
 これは決定的な証拠である。幕府天文方として国家的な蝦夷地測量を行っている真っ最中に、仁助は自らを「石見津和野の、関流和算家・藤田貞資の門人」として名乗った。測量家・天文方官吏としてではなく、和算の系譜に連なる一人の算学者として、遠い北の地の義経社に算額を捧げたのである。師・藤田貞資への敬意と、津和野という出自への帰属意識が、この署名に凝縮されている。
 幕府の仕事はあくまで「命じられた仕事」だった。仁助の内側にあったのは、和算家としての自己であり、津和野人としての矜持だった。
 1829年(文政12年)9月5日、仁助は85歳で生涯を閉じた。晩年の書として残した中国三国時代・劉備の詩「贈従弟」の一首には、測量家の矜持ではなく、静かな老境の詩心がある。水辺の浮草のように根なき世界にあっても、花と葉を丁寧に集め、廟に捧げる——そういう慎ましい人の営みへの共感である。(注10)
 外から評価される業績(測量・地図作成)と、本人の自己規定(和算家・津和野人)のずれ。これが仁助が忘れられた一因であり、同時に今日の再評価において最も豊かな問いを提供している。幕府に認められた仕事ではなく、師から受け継いだ和算の系譜と、生まれた土地への帰属こそが、仁助の生涯を貫く縦糸だったのである。

七 再評価の現在と、これから

 長く放置されていた仁助研究が動き始めたのは2013年頃からである。神英雄氏(島根地理学会会長、安来市加納美術館)が仁助の8代目子孫・佐々木良子さんの依頼を受けて本格的な調査を開始した。10年にわたる現地踏査と資料分析の末、評伝『堀田仁助〜蝦夷地を測った津和野藩士〜』(山陰中央新報社、2023年)が刊行された。(注11)
 神氏は著書の末尾に老子の一節「大器晩成」を引き、こう記している——「仁助の業績を後世に伝える責務がある。かけた情けは水に流し、ご恩は石に刻め、という言葉を大事にする石見人にとって、仁助の業績を誰にも知られぬまま埋没させる訳にはいかない」。(注12)
 父・山田實が令和元年(2019年)に永明寺で墓を見つけ、子孫の佐々木さんと出会い、手記を残したのは、神氏の研究と並走するように起きた出来事だった。無学を自認した父が、地元への愛から動き、偶然にも同じ人物の軌跡に引き寄せられた。
 この記事は、父の手記と神氏の研究を橋渡しするものとして書いた。仁助の再評価は、単に「伊能より早かった」という事実の発掘ではない。和算という日本独自の技術が近代化の内生的基盤を形成したという、より大きな歴史的問いへの入口でもある。
 堀田仁助は測量家として幕府に仕え、和算家として津和野に帰り、津和野の教育者として生涯を閉じた。その多面的な人物像が、ようやく今、全貌を現しつつある。

津和野歴史再発見シリーズ

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歴史論考・津和野歴史再発見シリーズ・その他論考をまとめています。

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巻末注
注1 神英雄『堀田仁助〜蝦夷地を測った津和野藩士〜』(山陰中央新報社、2023年)第6章「堀田仁助と伊能忠敬」pp.148-150。伊能が天文方に入門し高橋至時に師事した経緯、および仁助との関係について詳述されている。
注2 神英雄、前掲書、pp.144-147。「従江都至東海蝦夷地針路之図」の凡例・識語および地図の構造についての分析。コンパス・ローズについては同書p.146の写真図版および解説を参照。淲天儀(イスタラビ)は中世イスラム世界で発達した天体観測器具で、緯度測定に用いられた。象限儀とともに仁助が蝦夷地測量に携行した西洋式器具の一つ(同書p.142)。
注3 神英雄、前掲書、p.152所収「堀田仁助と伊能忠敬の緯度測量値」比較表。①は「従江都至東海蝦夷地針路之図」、②は「幻空雑記」による値。伊能の数値は「白江戸至蝦夷西別小図」(1800年)、蝦夷地各所の緯度は会所・運上所の計測値による。詳細な数値については同書を参照されたい。
注4 神英雄、前掲書、pp.148-151。伊能が蝦夷地測量に先立って仁助の地図を参照した経緯、および伊能日記の記述の分析。神氏は「仁助への対抗意識が宿ったのではないか」と論じている。
注5 神英雄、前掲書、pp.158-160。天球儀・地球儀の奉納については同書所収の写真図版も参照。天球儀・地球儀は島根県指定有形文化財(津和野町太鼓谷稲成神社宝物殿蔵)。
注6 この枠組みに最も近い先行研究として渡辺敏夫『近世日本天文学史』(上・下巻、恒星社厚生閣、1986〜87年)があるが、同書は天文方全体の通史であり、仁助個人を「暦作成から測量への橋渡し役」として論じるものではない。神氏の著書も仁助の個人史に焦点を当てており、天文方における和算実用化の流れとの統合的な位置づけは本稿独自の視点である。
注7 神英雄、前掲書、p.173。1853年(嘉永6年)の津和野大火と資料散逸について。同書「遠藤利貞の調査」の節で詳しく論じられている。
注8 神英雄、前掲書、pp.170-171。「生涯を閉じる」の節。津和野郷土館の記録に基づく記述。木村俊左衛門・桑本才次郎への数学指導についても同節を参照。
注9 神英雄、前掲書、pp.156-157。「ニイカップ義経社の算額」の節。算額の署名「石見津和野 藤田貞資門人 堀田二介泉」は神氏が現地調査で確認した記録による。藤田貞資(1734〜1807年)は関流和算の第一人者で、仁助の師。
注10 神英雄、前掲書、p.171。「仁助晩年の書」として写真図版が収録されている。詩「贈従弟」は中国三国時代・劉備の作とされる漢詩。
注11 神英雄『堀田仁助〜蝦夷地を測った津和野藩士〜』(山陰中央新報社、2023年)。同書「あとがきにかえて——研究の経過」pp.200-207に2013年からの調査経緯が詳述されている。本書は山陰中央新報への連載(2021年4月〜2022年5月、全61回)を大幅に加筆修正して刊行されたもの。
注12 神英雄、前掲書、pp.178-179。「大器晩成」の節末尾。

参考文献
神英雄『堀田仁助〜蝦夷地を測った津和野藩士〜』山陰中央新報社、2023年(山陰中央新報連載2021〜2022年を大幅加筆修正)
神英雄「地理学者堀田仁助と西洋式地図」島根地理学会誌 第50号、2017年
渡辺敏夫『近世日本天文学史』上・下巻、恒星社厚生閣、1986〜87年
山田實『我がままに 津和野・廿日市市編 第一章』令和元年、私家版


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