般若心経を素直に読んだら、唱えるだけでよくないか?ぎゃーてい宗は成立するか、サンスクリット原文から考える。
一、問い——法事で気づいたこと
父の法事で般若心経を唱えていて、ふと気づいたことがある。
うちは曹洞宗だから、法事のたびに般若心経を唱える。何度も唱えてきたはずなのに、ある日後半の一節が急に引っかかった。
故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚
「一切の苦を除く、真実不虚」——これほど明確に「一切の苦を除く真実不虚のマントラだ」と宣言されているのに、なぜそれを額面通りに受け取らなかったのか。だからこそ素朴には、唱えれば苦しみから解放されると読みたくなる。そしてすぐ後に、その呪文の具体的内容が示される。
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶
いわゆる「ぎゃーてい」である。
南無阿弥陀仏は「称えれば極楽往生できる」という阿弥陀仏の誓願を根拠に、浄土宗・浄土真宗という大きな宗派を生んだ。では般若心経はこれだけ読まれているにもかかわらず、この一節は、なぜ同じような展開を見せなかったのか。
この問いを入口に、少し原文を丁寧に読んでみたい。
二、なぜ精緻な哲学論考から、とたんに呪文になるのか
般若心経の前半は、「空の思想」の説明に費やされている。
「色即是空、空即是色」——あらゆる現象には実体がなく、実体がないことがあらゆる現象の本質である。受・想・行・識のいずれも空である。生もなく滅もなく、増えることも減ることもない。
これは、きわめて凝縮された哲学的テキストである。仏教思想の核心を、できる限り簡潔に圧縮したものだ。
ところが後半に入ると、突然様相が変わる。「大神呪」「大明呪」という言葉が並び、最後は「ぎゃーてい ぎゃーてい……」という呪文で締めくくられる。
この断絶は、読んでいて誰でも感じるはずだ。哲学の言葉から、呪文へ。なぜこうなっているのか。
この問いが、論考の本当の核心である。
三、原文を読んでみる
サンスクリット原文の該当部分(注1)を見ると、興味深い構造になっている。
後半の核心部分では、「般若波羅蜜多」と「マントラ(呪文)」が等号で結ばれている。般若波羅蜜多——智慧の完成——それ自体がマントラである、と経典は宣言しているのだ。
続けて「般若波羅蜜多の中で、このマントラは述べられている。すなわちこうだ」と示され、直後に具体的なマントラが置かれる。
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
これが「ぎゃーてい ぎゃーてい はらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじーそわかー」の原音である。
整理すると、原文は次の構造になっている。
般若波羅蜜多(智慧の完成)=マントラ=gate gate……
智慧の完成そのものがマントラであり、そのマントラの具体的な内容が「ぎゃーてい」である——これが、原文を構造的に読んだときに自然に浮かび上がる一つの結論だ。
なお一点だけ付記しておく。日本の読誦本でマントラの後に「般若心経」と記されているのは、経典末尾を示す編集上の慣習であって、玄奘訳の原文にはない(注2)。
四、なぜ実践がマントラでなければならないのか
ここまでで、経典の構造について一つの読みが見えてきた。
前半は「空の思想」を言語で説明している。後半はマントラを提示している。テキストの分量と順序を素直に受け取れば、前半は思想についての一応の理解のための説明であり、後半はその理解を踏まえた実践の手段、という二段階構造として読める。
つまり経典は「まず頭で理解せよ、そしてマントラを唱えよ」という順序を、テキストの構成そのものによって示しているのではないか。
ではなぜ、実践の手段がマントラでなければならないのか。
ここに、印象に残っている解釈がある。学生時代の講義で聞いた話だ。
空の思想を言語で説明すること自体に、ある種の矛盾が潜んでいる。「すべては実体がない」という命題を言葉で固定化した瞬間に、その言葉自体が実体を持つような錯覚が生まれる。言語による説明は、空の理解を助けると同時に、その理解を妨げる危険も孕んでいる。
だからこそ後半では、意味内容をいったん手放し、音として唱えるマントラに切り替えることで、言語の固定化を相対化しようとした——そういう解釈だ。
この二つの読みは矛盾しない。前半で概念を理解し、後半のマントラでその概念への執着ごと手放す。「お勉強編」と「実践編」が、こういう形で接続されていると読むと、哲学論考から呪文への断絶が、むしろ必然として見えてくる。
五、とりあえず、やってみる
「ぎゃーてい宗は成立するか」という問いに対して、学術的な結論を出すのは難しい。
反対説もある。原文の文法を厳密に読むと、「智慧が完成した状態において、このマントラは述べられている」という構造になっており、マントラは智慧の完成という境地に至った者の言葉であって、凡夫がただ音を唱えることに本来的な意味はない、という解釈も成り立つ(注3)。
ただ、テキストの構成として考えると疑問が残る。短い心髄テキストの後半の大部分を、すでに悟りに至った者だけにしか意味を持たない言葉で占めるとしたら、いったい誰に向けて書かれた経典なのか。「能除一切苦、真実不虚」という宣言の重みはどこへ行くのか。
結論を出すより、実践してみる方が正直だと思う。
私自身のルーチンとして、こういう実験をしてみようと思っている。法事の読経のときや空き時間、前半を頭の中で思い起こして復習した上で、後半のマントラ部分だけを声に出して一心不乱に唱える。前段の理解を踏まえた上で、言語を手放す実践として。
「ぎゃーてい宗」が宗派として成立するかどうかはともかく、経典が「真実不虚」と断言したことを、まず素直に受け取ってみる。それが原文を読むということの、ひとつの誠実な態度だと思う。
多くの日本人が唱え続けてきたマントラだから、きっと、何か見えてくるものがあるかも知れない。
関連記事
高貴な嘘の夫婦論—『部屋とワイシャツと私』と『木綿のハンカチーフ』
過去記事目次はこちら
巻末注
注1 後半の核心部分のサンスクリット原文は以下の通り。tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitā mahāmantraḥ mahāvidyāmantraḥ anuttaramantraḥ asamasamamantraḥ sarvaduḥkhapraśamanaḥ satyam amithyatvāt 逐語的に読むと——「それゆえに、般若波羅蜜多は大いなる真言であり、大いなる明の真言であり、無上の真言であり、比類なき真言であり、一切の苦を除くものであり、真実であり、偽りでないものである、と知るべきである」。続く
prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ tad yathāは「般若波羅蜜多において、このマントラは述べられている。すなわちこうだ」。prajñāpāramitāyāmは場所・文脈を示す於格(ロカティヴ)、uktoは「述べられた」という過去受動分詞、tad yathāは「すなわちこうだ」という導入句である。玄奘訳「故知般若波羅蜜多是大神呪……故説般若波羅蜜多呪、即説咒曰」は、この構造を漢文として自然に捉えた訳といえる。「是」はBe動詞的な繋詞として玄奘が補ったもので、サンスクリット原文には相当する動詞は存在しない(名詞述語文)。
注2 サンスクリット小本心経の結語はiti prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam(かくして、般若波羅蜜多の心は完結した)であり、玄奘訳にはこの結語が訳出されていない。日本の読誦本でマントラの後に「般若心経」と記されているのは、経典の区切りを示す編集上の慣習である。
注3 prajñāpāramitāyām(於格)を厳密に読むと、「智慧が完成した境地において述べられるマントラ」という解釈が成り立つ。伝統的な仏教学の注釈書でもこの読みを採るものも少なくない。本稿はこの解釈を否定するものではなく、テキストの構成から別の読みも可能であることを示すものである。
注4 Wikipediaの「般若心経」(真言の諸解釈)の整理によれば、本稿の立場はいわゆる「マントラ核心説」と方向性を同じくする。ただし本稿は前半の説明部分を積極的に評価する点で、前半を単純に従属的とみる立場とは論拠が異なると思われる。引用される佐保田鶴治・福井文雅・宮坂宥洪の各著作は未確認である。
