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昼下がりの二子玉川――暇の効用について

用事を済ませると、まだ午後1時を少し過ぎたばかりだった。次の約束まで二時間ほどある。どこかへ行くには足りないが、改札口でただ時計を眺めているのも芸がない。こういうとき、かつて勤め人であった者としては、体が勝手に歩き始めるのである。足に染みついた習慣というものは恐ろしいもので、退職してから七年が経つというのに、私の脚はいまだに用もないのに早足で進もうとする。

二子玉川という地名を耳にすると、昭和に育った人間は懐かしさと戸惑いのあいだで一瞬ためらう。私が横浜から田園都市線で通勤を始めたのは1992年のことで、当時この駅の北側には、六十五年の歴史を閉じたばかりの二子玉川園の跡地にナムコ・ワンダーエッグが開業したところだった。そのワンダーエッグも2000年末に閉じ、やがて東急グループが大規模な再開発に乗り出して、2011年に二子玉川ライズが誕生した。私が現役を退いた2013年には、沿線屈指のおしゃれ街として完成の域に達していた。つまり私は二十年以上、この街の変貌を通勤電車の窓越しに眺め続けた証人ということになる。

さて、緊急事態宣言が解除されてちょうど一週間が経っていた。世間はステップ2などと呼んでおり、飲食店が恐る恐る店を開け始めていた。人混みは御免だから、ライズのオークモールを回り込み、バーズモール脇を抜けて玉川税務署前を通る直線道路を辿ることにした。

駒沢通りとの交差点あたりから道はなだらかに上り始める。河岸段丘というやつで、多摩川が長い歳月をかけて削り出した地形の名残りだ。坂を意識しながら歩くと、東京が実は凹凸の激しい土地の上に成り立っていることが足の裏から伝わってくる。蔦の絡まった一軒家レストランがテイクアウトの看板を出していた。言葉は街と同じように変わる。しかし蔦は変わらない。去年も一昨年も同じように壁を這い上がり、今年もここに居座っている。

驚いたことに、ぶどう園があった。都内だというのに。夏にはぶどう狩りもできるという。そのすぐ先には「美味しそうな学校」という施設があったが、何を学ぶところなのか見当もつかないまま通り過ぎた。世の中には私の想像力の及ばぬ学校がまだたくさんあるらしい。


やがて小さな水路沿いの道に合流した。六郷用水と呼ばれ、江戸初期に掘られたものだという。用水路の傍らに鬱蒼とした森が続いており、その奥に広大な土地がひろがっていた。案内板を読んで、ああ、と思い当たった。田中角栄と刎頸の友と言われ、ロッキード事件でともに逮捕された昭和の政商・小佐野賢治の邸宅跡である。

実は友人の友人が小佐野家の末裔で、かつて何度かお目にかかったことがある。その人はひどく温和な人物で、少なくとも私が知る限り、政商の血統などという匂いは微塵もなかった。物腰は柔らかく、話は静かで、金で物事を動かすような雰囲気はまったく感じられなかった。もっとも、そういう人こそが何かを持っているものだという話を、後になってから聞いたこともある。昭和という時代は、その種の逆説に満ちていた。

第三京浜道路が隣を走っており、6車線の幅がいかにも壮大だ。この高架の橋脚の下に、シアトルのトロール像に倣って進撃の巨人像でも据え付けると観光名所になるのではないかと思ったが、そんな予算はどこにもないだろう。小さな橋を渡り、河岸段丘を上ると、玉川野毛町公園に出た。


公園の中に野毛大塚古墳がある。

東京人は古墳に冷淡である。奈良の大仏には行列を作り、仁徳天皇陵には感嘆するくせに、世田谷の古墳には見向きもしない。私も長らくその一人で、二子玉川を何百回と通り過ぎながら、この公園に古墳があるとは知らなかった。ところが歩いてみると意外に面白い。

5世紀初めに造られた前方後円墳で、頂上に立つと眼下に野球場とテニスコートが広がる。1,600年前の首長が今の景色を見たら何と思うか。いや、それより私が感心したのは、埴輪というものがこんな台地の上で今もきちんと後円部に列を成しているという、その律義さである。1,600年経っても人は同じ場所に埴輪を並べ、説明板を立て、「登れます」という案内を出す。これが日本人の几帳面さというものだろうか。

公園を出て環八を越えると、ゴルフ橋がある。昭和の初め頃この辺りには東急電鉄が開発した約8ヘクタールのゴルフ場があり、この橋はその入り口だったという。今は修復工事の真っ最中で、脇の掲示板に渓谷内の気温が外より3度近く低いと表示されていた。3度の差は、夏には天と地の差だ。


等々力渓谷は不思議な場所で、谷を覗くと、東京の真ん中にいながらうっかり奥多摩へ紛れ込んだような気になる。渓谷へ降りるのは2度目で、現役の頃は仕事の合間にしばしば立ち寄った。当時は次の商談のことを考えながら空気を吸っていたから、景色など眺めていなかった。今日は逆で、商談のことは何も考えていないから、景色がよく見える。同じ場所が見る目によってまったく違う場所になる。これが定年退職の最大の恩恵かもしれない。

若い男女が思い思いの時間を過ごしていた。人気のデートコースだという。渓谷の東側の崖には横穴墓がいくつも掘られており、古墳時代末期から奈良時代にかけてのものだという。野毛台地の上には首長クラスの古墳が建ち、崖の横穴には庶民が葬られた。死んだ後も身分差があったわけで、これを怒るべきか笑うべきか難しいところだが、私は笑うことにした。

不動の滝という場所まで来た。名前は立派だが、水が二筋だけ細々と落ちているに過ぎない。「滝」と呼ぶには些か遠慮が要る。しかしこれほど控えめな滝に「不動」の名を与えたところに、江戸人のおおらかさを感じる。稲荷大明神もあり、お地蔵様もある。渓谷の短い区間にこれだけ多様な信仰が詰め込まれているのは、なかなか壮観だ。

急な階段を上ると等々力不動尊に出た。目黒通りを渡った向かいに御嶽山古墳がある。野毛大塚古墳の50年ほど後に造られたもので、鬱蒼とした林の中に静まり返っており、中に入ることもできない。知らなければ確実に通り過ぎる。東京の古墳というものは、だいたいがこういう処遇を受けている。


多摩堤通りに出た。この少し下流の河川敷に旧巨人軍の多摩川グラウンドがあり、田園調布にお住まいだった長嶋茂雄さんが散歩しているところをお見かけしたことがある。遠目でもあの体格はすぐわかった。そういえば、自由が丘の中華料理店で王貞治さんにお会いしたこともあった。ON砲と呼ばれた二人が、なぜか私の日常の半径に出没していた時期があって、それが多摩川沿いを歩くたびによみがえる。

二子玉川公園に戻ると、帰真園という名の日本庭園は閉鎖中だった。帰真、というのは本来の自然な姿に帰る、という意味だそうだ。タワーマンションとスターバックスに囲まれた日本庭園の名が「帰真」というのは、皮肉なのか真剣なのか。おそらく両方だろう。

駅の西側へ回ると、大井町線の車両が入線してきた。複々線を電車が絶え間なく行き交う。この路線に私はいったいどれだけの時間を費やしただろうか。吊り革につかまりながら本を読み、うとうとして乗り過ごし、雨の日も風の日も車内の人いきれに揉まれ続けた年月が、今は夢のように思われる。いや、夢というより、別の人間の記憶のようだ。

二子橋を渡りながら振り返ると、プラウドタワー二子玉川が夕方の光の中に立っていた。思えば二子玉川の変貌はこのマンションから始まった。ちょっとした変化が化学反応を起こして街全体を作り変えた。最初のドミノはたいてい小さい。

橋の下では子供たちが水遊びに興じていた。多摩川はここ数万年、ずっとこんなふうに流れてきた。古墳を造った人間も、ゴルフ場を作った人間も、再開発を成功させた人間も、コロナに振り回された人間も、みなこの川の傍らを歩いてきた。川だけが変わらない。

時計を見ると午後3時40分だった。歩数計は16,874歩、距離にして12.2キロメートル。二時間の暇つぶしのつもりが、存外な長旅になった。暇というものは、案外有効に使えるものらしい。


2020年6月2日、二子玉川にて

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