人殺しでありながら紙幣の肖像画に採用されたイタリアの至宝(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ)
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオは1571年、ミラノ近郊の小都市カラヴァッジオに生まれました。カラヴァッジオの人生はわずか40年足らずでしたが、画家になるまでは自分ではどうにもできない不幸と、画家になってからは自ら招き入れた不幸によって彩られることになります。
1576年、カラヴァッジオはペストの流行によりわずか5歳で父と祖父を失いました。その後、すぐに母とミラノに移り住みましたが、家計は困窮していました。この時期に、父性・保護・秩序を一度に喪失したことが、後の彼の暴力性や不安定な人間関係に影響を与えたと見られています。
それでも、13歳になると、カラヴァッジオは母の計らいでティツィアーノの弟子だったシモーネ・ペテルツァーノの工房に入りました。ここでは、基本的なスフマートなどの油彩技法や宗教画の構成、主題の扱いといったことを学びました。
しかし、1589年、カラヴァッジオは18歳のときに母まで亡くしてしまいます。そして、この喪失感の中、画家としてもミラノの古典的美への積もり積もった違和感が重なり、カラヴァッジオはミラノを離れ、ローマで画家として生きていくことに決めました。
1592年、ローマ到着直後は、無名画家の工房に日雇いで入り、背景や果物だけを描くような下働きをしました。生活の困窮は変わらず、パンを買う金もなく果物を盗むことが何度もありました。さらにカラヴァッジオは窃盗だけでなく、喧嘩・剣術・暴言の常習者としても知られるようになっていきました。 複数の警察記録に「武器不携帯命令違反」や「侮辱罪」で名前が載っています。 植木鉢や果物を投げつけるなどの軽微な暴力沙汰も日常茶飯事でした。彼は画家より先にローマの厄介者として名を広めていきました。
ただ、そんな中でも彼は、街路で見かけた人物や自然光の観察を重ねながら、写実的で革新的なスタイルを築いていきます。
1594年頃、画商コンスタンツィオに見出され、「果物籠を持つ少年」「病めるバッカス」などを発表します。

「果物籠を持つ少年」では、果物の瑞々しい質感とともに、すでに腐敗が始まったリンゴや葡萄をも写実的に描き、生命のはかなさを暗示しています。カラヴァッジオは果実に「命ある崩れ」を与え、「低級な題材」とされるはずの枯れた現実を強烈に映し出しました。また、娼婦や浮浪者、カード賭博師をモデルとした「女占い師」や「カード遊びをする少年たち」などを描き、市井の人間を登場させています。カラヴァッジョはモデルに実際の衣装を着せ、アトリエの窓から入る自然光を利用して観察・描写することもしました。自らの体験と観察を第一にする姿勢は、当時としては非常に異端でした。
そして、この頃から彼の作品には、ミラノ時代に培われたティツィアーノ(色彩表現)とダ・ヴィンチ(陰影表現)からの影響が、独自の光と影の劇的な対比(キアロスクーロ)として現れるようになりました。
カラヴァッジョにとって「絵を描くこと」とは、 生き残ることであり、救いを探すことでした。 だからこそ彼は、ただ美しいだけの聖人や天使を描くのではなく、 傷つき、彷徨い、許しを求める人間を描いたのです。
1595年、ローマの有力枢機卿フランチェスコ・デル・モンテに才能を認められると、ようやく生活が安定し始めました。
1599年から1600年にかけて、カラヴァッジョはサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の聖マタイ礼拝堂に「聖マタイ三部作」を描くことで一躍名を馳せました。この時期の作品では、彼自身の罪と救いの葛藤が赤裸々に反映されています。



この「聖マタイ三部作」の成功により、カラヴァッジオの元には宗教画の依頼が次々に舞い込むようになりました。
カラヴァッジオの宗教画は、依頼主であるカトリック教会、制作者であるカラヴァッジオ、鑑賞者である民衆の三者にとっても完璧な関係でした。
カトリック教会は、カトリック改革(対抗宗教改革)の真っ只中でもあったことから、絵画に「誰にでもわかる、感情に訴える宗教美術」を求めていました。この点、カラヴァッジオの写実的でドラマティックな宗教画は、この要請にまさに合致していました。
また、ルネサンス後のカトリック世界において、宗教画は「神と人間の関係性」を問うものでした。 罪と贖い、堕落と救済、裏切りと赦しなどは、まさにカラヴァッジオの人生と同じテーマを内包していました。
カラヴァッジオにとっての宗教画は、貧困と暴力と後悔に満ちた自分自身の現実感と内面を投影できる舞台でした。彼が描いたマグダラのマリア、聖ペテロ、使徒たちは、皆どこか疲れ、汚れ、迷い、苦しんでいます。 それは現実の苦しみを知るカラヴァッジオだからこそ、聖なる痛みを描けたとも言えます。カラヴァッジオは「神にすがるとはこういうことだ」ということを心身で知っていました。
カラヴァッジオが街の下層階級からモデルを選んだのは、「真実の人間」を描くためでもありました。神の光は闇の中にこそ届くという信念のもと、光の中に突き出された手、闇の中に沈む顔に、人々が救いを求める姿を見ました。そして、その姿勢こそが「バロック」の出発点となり、美術史を変えました。
民衆にとっても、カラヴァッジオの斬新なリアリズムと光による劇的効果のある絵画は、単に目を引くだけのものではありませんでした。貧しい人々や娼婦がモデルに用いられていたことで、聖書の物語を「身近な現実」として感じることができました。さらに、カラヴァッジオの描く人物は美しくありませんでした。ですが、痛みを知っていました。そして、それが見る者にとっては「これは自分の話だ」と感じさせるものがありました。
しかし、画家として成功してからも、カラヴァッジオの暴力性は収まることはありませんでした。「キリストの埋葬」や「聖母の死」といったさらなる代表作を描いたこの間も、コートジボワール人の芸人と喧嘩し、顔を殴って流血させたり、画家のジョヴァンニ・バッリオーネと激しい誹謗中傷合戦を繰り広げることもありました。


これらの作品はすべて、当時の教会が求めた「分かりやすい宗教美術」の枠を超えて、身近すぎる罪と救いの物語を、まるで自分の半生を写し取るかのように描きました。特に「聖母の死」は自身の母を亡くした経験が投影された作品と見る向きがあります。ただ、実際のモデルはティベレ川で水死体となっていた娼婦だとされています。そのせいか、当時は悲しみの描写が日常的すぎて宗教的ではないとの評価がありました。しかし、一方で「愛する人の死に打ちひしがれる普通の人間」を描いたからこそ、神への祈りが当時の民衆にとってはリアルに映りました。
1606年、ローマで行われたテニスの試合後、 不動産業者ラヌッチョ・トマソーニと乱闘になり、カラヴァッジオが剣で彼を刺殺する事件が起こりました。 動機には諸説ありましたが、結果的にはローマ追放刑が科されることになりました。これは、当時のローマ法で最も重い刑罰の一つで、「誰が彼を殺しても罪に問われない」という宣告でした。これにより、カラヴァッジオの首には懸賞金がかけられ、追手や刺客に狙われる状態となりました。
その逃亡生活はまずナポリから始まりました。カラヴァッジオはナポリで再び成功を収めましたが、酒場や路上での暴力が続き、夜道で複数人に襲われ重傷を負うこともありました。そこで、ナポリを離れ、マルタ騎士団に受け入れられたこともあり、マルタに移ることとなりました。マルタでは、カラヴァッジオの最高傑作と見られる「洗礼者聖ヨハネの斬首」を描くなど、画家としても充実の時を過ごしました。しかし、ここでも結果的には騎士団の幹部に暴行を加え、逮捕されます。さらに、そこから脱獄し、騎士団を追放されるというスキャンダルを起こしたため、シチリアに移ることになりました。

1609年、再びナポリに移ると、また酒場でのトラブルから顔を切り裂かれるほどの大怪我を負いながらも「ゴリアテの首を持つダヴィデ」を描きました。カラヴァッジオは以前にも同じ主題で絵を描きましたが、その時は自身をダヴィデに重ねました。しかし、2作目となるこの作品では自身をゴリアテに重ねています。ここでは、罪人として罰を求めている自身の心象を投影したとの見方が一般的です。
1610年、カラヴァッジオは恩赦を求めローマへ向かう途中で謎の死を遂げました。 病死説(鉛中毒)や暗殺説など諸説ありますが、確実な死因はわかっていません。

私は、カラヴァッジオからは、自ら不幸に身を投じているかのような印象を受けます。もちろん、単純な易怒性の問題もあると思いますが、私には「幸せな生活」や「安定した身分」が、芸術の源泉である「切実な救済への希求」を鈍らせるのではないか、という無意識的な恐れがカラヴァッジオにあったように感じられるのです。だからこそ、「ようやく安定した」と思った途端、壊す。その成功を台無しにするようなパターンを繰り返します。それは、まるで「苦悩の中にしか自分の真実はない」と確かめているかのようです。
また、カラヴァッジオは信心深いというより、神に問い続ける人でした。 彼にとっての救いは「天国」や「赦し」ではなく、この世での痛みの中に光が射す「一瞬の真実」でした。 その真実を描くためには、自分自身が常に痛みの側にいなければならないと感じていたのではないでしょうか。もし彼が「安定」や「幸福」を得ていたら、絵を描く理由そのものが失われたかもしれません。 だからこそ彼は、無意識のうちに自分を「救いを求める場所」にとどめ続けました。暴力は成功に向かう自分を不幸に引き戻す、巻き戻し装置でもありました。彼の「救われたら描けなくなる、闇から出たら終わる」という思いは、光が常に「届きそうで届かない」、このせめぎ合いの只中にある「到達しない救い」を描くことを可能にしました。しかし、だからこそ、彼は祈り、彼の作品を通して、人々は祈り続けます。
ですが、救われたからと言って、絵を描けなくなる、なんてことがあるのでしょうか?救われたからこそ描ける絵もあります。私は、カラヴァッジオのそんな作品こそ観てみたいとも思ってしまいます。たとえば、こんなような。

