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フェルメール・ブルー(ヨハネス・フェルメール)

 ヨハネス・フェルメール(本名:ヤン・フェルメール・ファン・デルフト)は1632年、オランダのデルフトに生まれました。父親は絹織物職人であると同時に画商でもあり、自宅で織物や絵画を売り、酒場・宿屋も営むという一風変わった商売をしていたと伝えられています。
 幼い頃から芸術と商売の両方に囲まれて育ったフェルメールですが、当時のデルフトは「オランダ黄金時代」と呼ばれる繁栄期で、市民階層が台頭し絵画を自宅に飾る文化が根付いていきました。その結果、絵画の主流は劇的な表現のバロック様式から、日常をありのままに描く写実的な様式へと移行していきます。フェルメールはまさにそうした時代の空気を吸って成長し、15歳頃から画家の徒弟修業に入りました。師匠は明らかではないものの、レンブラントの一番弟子であった、カレル・ファブリティウスであった可能性が指摘されています。
 1653年、フェルメールは21歳のときに、裕福なカトリック教徒の娘カタリーナ・ボルネスと結婚します。しかし、新婚当初は生活が安定せず、フェルメールには画家としての十分な収入がありませんでした。若いフェルメールは妻の実家に身を寄せて暮らしながら、父親から継いだ宿屋「メヘレン」を経営し、絵を描き続けました。
 1657年、歴史画や宗教画を描くなど画家として模索の時期を過ごしていたフェルメールに強力な後ろ盾が現れました。この年、デルフトの裕福な醸造業者であったピーテル・ファン・ライフェンがフェルメールのパトロンとなってくれたのです。ファン・ライフェンからの手厚い支援のおかげで、フェルメールは年間わずか2~3点の寡作ペースでも生活に困らずに済むようになりました。
 この恵まれた環境の中で、フェルメールは風俗画家に転身し、より緻密で品質の高い作品を次々と生み出すことになります。
 1657年に描かれた「牛乳を注ぐ女」は、台所仕事に励む使用人の女性が慎重に牛乳を壺から器へ注ぐ一瞬を描いています。

牛乳を注ぐ女 ポワンティエ(点せつ法)という、コントラストの弱い部分に同系色のコントラストの強い点をのせて光の反射を印象づける技法が使われている 構図は牛乳を注ぐ線が真下に落ち、重力を感じさせる垂直線。その方向性に補強されて女性の「立位」がより強く感じられ、女性と牛乳の位置が中心点にもなっていて絶妙なバランスを構成している アムステルダム国立美術館所蔵(オランダ・アムステルダム)

 この絵画は、それまで裕福な市民の優雅な姿を描くことの多かったオランダ風俗画において、庶民的な女中にスポットを当てたユニークな作品です。窓から差し込む穏やかな光、静止した室内空間、滴る牛乳さえも静寂の中に捉えたかのような描写から、フェルメール特有の静謐な美が感じられます。この作品では、フェルメールが愛用した高価な顔料ウルトラマリンによる鮮やかな青色のエプロンがひときわ目を引きます。当時、ウルトラマリンは金と同等の価値があるほど高価でしたが、裕福な義母やパトロンのおかげで惜しみなく使用することができました。
 1660年代に入ると、フェルメールは画家として円熟期を迎え、多くの傑作を生み出します。1660年頃に描かれた「デルフトの眺望」は故郷デルフトの市街地を遠景から見渡した風景画で、フェルメールの作品中、最大のスケールを持つ風景描写です。

デルフトの眺望 穏やかな光に満ちた空と雲、水面に映る建物のシルエットなど、静かな中にも詩情豊かな都市景観は、「風景画の詩」と称えられ、後世の文学者マルセル・プルーストは小説「失われた時を求めて」でこの作品について言及するほど心酔していた マウリッツハイス美術館所蔵(オランダ・デン・ハーグ)

 この絵は、ファン・ライフェンのコレクションの中でも特に高値で取引された記録があり、当時から評価の高い作品でした。専門家の分析によれば、フェルメールはこの作品の制作に当たりカメラ・オブスクーラ(暗箱)という光学装置を用いた可能性が指摘されています。ピンぼけした描写や独特の遠近感はレンズを通した映像を模しており、フェルメールが最新の科学技術に関心を持ち、取り入れていたことを示唆しています。
 1665年、フェルメールは「真珠の耳飾りの少女」(通称「青いターバンの少女」)を描きました。この作品は、異国風の青いターバンを巻いた少女が鑑賞者の方に振り向きざまにこちらを見るというシンプルな構図です。

真珠の耳飾りの少女 唇の右端の一粒の白い点は光の描写 マウリッツハイス美術館所蔵(オランダ・デン・ハーグ)

 漆黒の背景に浮かび上がる少女の表情は謎めいており、濡れたような大きな瞳とぽってりとした赤い唇、光を受けて輝く真珠のイヤリングが印象的です。この青いターバンにも、フェルメール・ブルーとも称されるウルトラマリンが贅沢に使われています。彼がこの絵で表現したかったのは特定の人物の肖像というよりも、「光の魔術師」と呼ばれるゆえんである光沢と色彩の調和そのものだったのかもしれません。誰をモデルに、何のために描かれたのか記録が一切残っておらず、その神秘性が長年にわたり人々を惹きつけています。
 1666〜68年にかけて描かれた「絵画芸術」(通称「画家のアトリエ」)はフェルメールが30代半ばに手がけ、終生手放すことのなかった作品です。

絵画芸術 ロウソクの明かりのないシャンデリアはカトリック信仰の象徴か?徐々に衰えていくスペインの象徴か?そこにはハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」が描かれている 美術史美術館所蔵(オーストリア・ウィーン)

 画家のアトリエの一室を舞台に、背を向けてキャンバスに向かう画家と、モデルとしてポーズをとる若い女性が描かれています。モデルの女性は頭に月桂冠を戴き、書物とラッパを手にしていますが、これは歴史の女神クリオの寓意で、画面奥にはオランダの地図が掲げられています。すなわち本作は絵画の題材として「歴史」を象徴的に表しつつ、当時のオランダ社会やカトリック信仰の暗示も込められた複雑な寓意画なのです。重厚な緞帳が左端に描かれ手前に大きく開かれている様子は、観る者に舞台の幕が上がったかのような効果を与え、フェルメールが意識的に絵画空間を演出していることがわかります。
 彼はこの作品に特別な思い入れを持っていたようで、死の直前に借金整理のため妻がこの絵を手放さざるを得なくなった際には、義母の所有物であると偽装してまで手元に残そうとした記録があります。このエピソードからも「絵画芸術」がフェルメールにとって単なる商品以上の、自らの芸術観を凝縮した「魂の作品」だったことが窺われます。
 また、「絵画芸術」を描いた1668年は、他にも「天文学者」や「地理学者」を描きました。モデルは同郷で同年生まれの友人であり、後に顕微鏡で有名になるアントニ・ファン・レーウェンフックだとされています。

天文学者 ルーヴル美術館所蔵(フランス・パリ)
地理学者 シュテーデル美術館所蔵(ドイツ・フランクフルト)

 華々しい活躍を見せたフェルメールですが、1670年代に入ると状況は暗転します。いわゆる「災難の年」と呼ばれる1672年、第三次英蘭戦争(仏蘭戦争)が勃発し、これがフェルメール一家に深刻な影響を及ぼしました。
 長く続いたオランダの繁栄に陰りが生じ、戦火により国土経済が疲弊すると、美術市場も壊滅的な打撃を受けます。それまで市民に支持されてきた風俗画も売れなくなり、加えて新世代の画家たちが好まれる画風の変化もあって、フェルメールの作品はぱったり買い手がつかなくなりました。
 さらに、追い討ちをかけるように1674年には長年支え続けてくれたパトロンのファン・ライフェンが亡くなり、さらに裕福だった義母マーリアも戦争の混乱で資産を減らして以前ほどフェルメールを援助できなくなりました。絵が売れないどころか、画商業も立ち行かなくなり、オランダ全土で画家の数が激減する中、フェルメールはまさに「冬の時代」に直面することになりました。
 また、この頃、フェルメールには11人の子どもがいました。収入の途絶と大家族を養わなければいけない重圧により、フェルメールの心労は極限に達します。
 1675年の夏、彼は急場を凌ぐためアムステルダムへ赴き、義母マーリアの不動産を担保に金を借り入れる措置をとりました。しかし借金返済のあてもないまま月日が過ぎ、同年末、極度のストレスに侵されたフェルメールは突如として命を落とします。享年43歳、戦争が始まってからわずか3年の間の悲劇でした。
 死因は記録が残らず不明ですが、妻カタリーナは後に「戦争と経済破綻のせいで夫は狂気に陥り、昼夜の別なく錯乱しながら突然死んだ」と証言しています。家族を養えないことへの自責の念と将来への絶望が、心優しきフェルメールを追い詰めたのでしょう。その後、遺産管財人は「天文学者」「地理学者」のモデルでもあった友人、レーウェンフックが務めました。
 フェルメールの死後、遺された家族には莫大な負債が重くのしかかりました。妻カタリーナは夫の借金整理に奔走しましたが成す術なく、翌年には破産を申請しています。しかし、結果的に生活は救えず、貧困の中で過酷な余生を送ることになりました。
 フェルメールが心血を注いだ作品の多くも散逸し、一家は辛い運命に翻弄されました。それでも彼の妻子がフェルメールの名誉を汚すことなく耐え忍んだ姿からは、フェルメールという人物の誠実さと家族愛の深さが浮かび上がってきます。

 生前、フェルメールは一定の評価を得た画家でしたが、その知名度は同時代のレンブラントやフランス・ハルスといった巨匠と比べると限られたものでした。
 しかし、19世紀半ばになると、フランスを中心に、光の描写や日常の情景を重視した17世紀オランダ絵画が改めて評価され始めます。そして、フランス人美術研究家のエティエンヌ・トレ・ビュルガーの働きもあり、フェルメールは美術史における正当な地位を取り戻しました。
 中でも、サルバドール・ダリはフェルメールを偏愛しました。彼の歴史上の芸術家への採点表では、レオナルド・ダ・ヴィンチやピカソら名だたる天才たちを抑え、フェルメールに独創性の項目以外は全て満点という最高評価を与えています。
 このように、時代を超えて多様な分野の表現者がフェルメールに刺激を受け、その静謐な光の世界に敬意を表してきました。
 今日ではフェルメールは「光の画家」としてバロック期オランダ絵画を代表する巨匠の一人に数えられています。寡作であったがゆえの神秘性と、精緻な筆致が生み出す独特の空気感は、見る者の心を捉えて離しません。その人物像は伝記資料の乏しさもあり謎に包まれている部分も多いですが、残されたエピソードや作品から浮かび上がるのは、家族を大切にし、静かな情熱で美を追求した誠実な人柄です。経済的困窮や時代の波に翻弄されつつも、身近な生活の中に深い意味と美を見出したフェルメールの眼差しは、現代に生きる私たちにも共感と感動を与えてくれます。
 その苦悩と栄光の軌跡、そしてキャンバスに宿した静かな光は、永遠に美術史上に輝き続けることでしょう。

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